昨夕の朝日新聞に哲学者池田晶子の記事があった。
(青春時代,いかに生きるか,苦悶して哲学の扉を叩いたことがあったが,
扉を開けることなく,ときが過ぎたことを思い出す。)
こんなことが書いてあった。
「人間の属性の一つひとつを捨てていって何が残るのか・・・・
他者と自分を属性で比べることの空しさに気が付けばいい。」
「私はお金に価値を感じない。自らの魂が善いと感じることだけをすればいい。
人間,欲をかいてはだめ。
自分の欲が自分を不幸にする。」
「『舌切り雀』や『花咲じいさん』といった昔話。
欲張った人間は,最後はことごとく痛い目に逢ってしまう。」
「悩んでいないで,考えなさい。」
私達は,こどもにひたすら無条件に
属性を付けさせているのではないだろうか。
勉強の強要が教養をつけさせるためではなく,
経歴,肩書をつけるさせる
ためだけの受験になっているきらいある。
属性の前に,感性が大事ではないだろうか。
日銀の総裁が,村上ファンドに出資していたことが判明し
当人は,責任を感じていない様だ。
人の上に立つ人,
弁明するのは,情けない。
公正らしさを疑われるだけで,
失脚だ。
そんな人がいう言葉に重さはない。
堂々と子どもの宿題をやってあげている
お母さんがいる。
子どもも宿題をやっても喜んでいるという。
過去のことを懺悔して吐露したのではない。
現在そして,来年の2月まで,
これをつづけるようだ。
このことをプログで告白された。
今日も学校に当該子どもは
宿題を自分の成果物として出しているのだろうか。
宿題をやってこないものは,
先生に叱られ,あるいは怒られ,
休み時間にやらされている。
それを当該子どもは平然として見,
自分は他の友達を
遊んでいるのだろうか。
学校では先生から,級友から
当該子どもは,勉強もでき,習い事もこなし
宿題もやり終える。
優秀なまじめな生徒として評価されているだろう。
通知表もそのような評価となる。
そして,念願の中学にも合格するのだろう。
しかし何か,やるせない気がする。
毒樹の果実という話がある。
樹木の根っこに毒があると樹木が例え,りっぱな果実がなっても
その果実には,毒があるとういのだ。
無地の少年のこころが・・・・・・
遠い,遠い将来,
りっぱな社会人となった当該子どもにとって,
美談か,冗談か,醜聞か
これは,何になるのだろうか。
心配である。
属性の前に,感性,倫理観が大事ではないだろうか。
追伸
なぜ,恥部を告白されたのだろうか。
告白されているように悪くないというならば,
黙って,内緒にプログに告白せずにやって欲しいね。
どんな理由にせよ,
プログで告白すべきではないのでは?
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