2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全2件 (2件中 1-2件目)
1

GoogleEarthの新ヴァージョンに、竹原小早川氏の居城である木村城周辺の衛星写真が加わりました。衛星写真のターゲットは広島空港ですが、おかげで竹原小早川氏の本拠地周辺や沼田小早川氏の本拠地周辺の地形が手にとるようにわかります(地形どころか、拡大すれば1軒ごとの家のかたちまですべてわかります)。さっそくGoogleEarthを使って、竹原小早川氏の本拠である木村城周辺を空からのぞいてみましょう。画面の東側に木村城、その北側に小早川氏の氏神である八幡社(僧侶〈そうず〉八幡宮)、さらにその北側、国道二号線沿いに氏寺の法浄寺跡があります。小早川氏の館跡は、はっきりしませんが、「谷から広がる中世」(『専修史学』32号・2001年)のなかで詳細に論じたように、城の西側にある手島屋敷とみてほぼ間違いないでしょう。木村城からみると、画面右から2本目の道路のつきあたり、右手側にみえる大きなお屋敷が手島屋敷になります。また、画面の左手にみえる谷が青田谷です。いま一度、衛星写真を見ると、木村城の北側にも、茶臼山〈ちゃうすやま〉という城跡があります。木村城ほどの規模ではありませんが(主郭は17メートル四方)、東西の道と南北の道を押さえる位置にあり、小早川一族か、重臣クラスの城ではないかと考えています。木村城の西側は、賀茂川が流れていますが、この川は、北から南へと流れ、やがて瀬戸内海に注ぎます。その源流は、画面左側の萬福寺跡の印がある西谷(にしたに)地区のさらに南側となり、西谷を蛇行しながら、やがて北側を東西に走る国道2号線を横切り、山につきあたると、いっきに東に流れをかえて、手島屋敷の背後の山(本城山)にそって流れ、茶臼山城の南側あたりで、大きくカーブを描きながら、木村城下と想定される東野(ひがしの)方面に流れてきます。このため、いまも、東野から西谷へむかうには、この賀茂川に沿って作られた道路を使い、大きくUの字を描くように迂回して行きます。しかし、賀茂川が西谷から山にぶつかって東に角度をかえるあたりは、むかしは川の氾濫源と推察され、足場も悪かったことでしょう。橋ができる前は、川には石が置かれて、それを渡って、東西に走る山陽道に出たそうです。事実、この近くにある簡保の宿の温泉を掘るためにボーリングをしたところ、一番下に岩盤があり、その上の地層には何度も洪水をうけた形跡がみられたといいます。したがって、道路が整備される以前は、たがいに山の道―つまり、城のある東野側からは、青田谷や、賀茂神社の南側にある柏野(かいの)の谷を通って、交流をもっていたようです。しかも、その関係は、深いものがありました。この土地は、中世、賀茂社の荘園「竹原荘」だったことから、賀茂神社が祀られていますが、いま東野にある賀茂神社の氏子は、西谷側にも広がっていました。また、賀茂神社の境内に祀られている八幡宮も、もとは、西谷にあったという伝承が『国郡志御用ニ付下しらべ書出帳 賀茂郡竹原東野村』(文政2年)に記載されています。「先年ハ、大明神ハ御山東ノ谷、八幡宮、西の谷ニ有之、然ルニ元和六申年五月廿日より廿一日、大洪水ニ山抜、両社共流失、依而再興、両社一宇ニ相成申候」これによると、元和6年(1620)5月21日から22日にかけての大雨で山が崩れ、東の谷(柏野の谷)の賀茂社と、西の谷の八幡宮が鎮座する山がともに崩れたため、八幡宮を東の谷に勧請して賀茂社といっしょに再興したというのです。この八幡宮があったと伝えられている場所は、画面からわかるように、賀茂社の南側にある谷をのぼって峠をこえ、西谷側に出た正面の山あたり、イモガザコとよばれる場所になります。その西谷の風景です。東野の柏野の谷から続く道は、画面右手にみえる山のむこうがわにおりてきます。その山すそと対置するようにみえる左手の山裾周辺が、むかし八幡社があった場所と伝えられています。このほか、『安楽寺旧記』(成立年未詳)によると、賀茂社は、「都之鴨より御勧請、当所へつきの時、芋カ之大石の上に御腰休、夫より東ノ谷へ御遷宮在候」という伝承もあったようです。これによると、賀茂社そのものも、西谷から勧請したということのようですが、このあたりはどこまで真実を伝えているのか、はっきりしません。ただ、こうした伝承がうまれるところに、両者の深い結びつきを想定できます。東の谷、西の谷という呼び方も、両方の谷が密接にむすびついていたことに由来するのでしょう。西谷に住む古老のかたによると、西谷の北側(賀茂川の氾濫源地域)の村との交流はあまりないが、東野との交流はあるといいます。いまならば、山の反対側どうしの村との交流は、考えにくいことですが、むかしは、山の道で結ばれた深いつながりがあったのです。そして、この西谷を通る道は、さらに画面の南方向に進むと、山越えをして、安芸国の中心地、西条に抜けました。西条は、戦国時代、山口の大内氏が安芸支配のために築いた鏡山城があり、大内氏の重要拠点でした。こうした点からすると、大内方として行動する小早川氏にとって、木村城から柏野の谷を抜けて西谷に出るこの道は、西条に通じる重要な道だったのではないでしょうか。
2007.01.15

謹賀新年本年も「中世武士団をあるく」 よろしくお願いいたします昨年は仕事に忙殺され、秋から更新がとまってしまいました。最大の理由がこの本の執筆です。『戦国争乱をいきる 大名・村、そして女たち』さまざまなアクシデントがありましたが、昨年末、なんとか無事に世に送り出すことができました。2005年に放送されたNHKカルチャーアワー「戦国争乱の群像」のために書き下ろしたガイドブックがベースです。このため、章立てをはじめ、基本的なところはかわっていませんが、大幅に内容を追加し、新たな研究成果もとりいれたため、ページ数にして、およそ1.5倍に増えています。おかげさまで販売状況も堅調に推移しており、ガイドブックよりもさらにわかりやすくなったという声も届いています。内容については、編集者のかたがうまくまとめてくださった本の紹介文を掲載しましょう。戦国時代は「力量」の時代でもあった。室町幕府を中心とした秩序が崩壊し、各地に割拠した群雄は、お互いに覇権をきそいあった。しかし、戦国時代の主役は英雄たちだけではなかった。崩れた中央政府のかわりに、地方が力を得て、新しい秩序を形成する時代でもあった。大名を支える家臣や村の人々や女たちもまた時代の主役であり、西国への幹線経路としての瀬戸内海を中心に活躍した海賊等も時代の担い手であった。第1章 戦国大名の実像 力量の時代 大名への道 君は船、臣は水にて候第2章 大名の戦場・村人の戦場 戦場の掠奪 生きるための戦場 雑兵に支えられた軍団 豊饒と平和を祈る 戦う村第3章 父の偉業・子の重圧 父の期待 重圧の日々 未来を托す「三本の矢」 隆元の願い第4章 素顔の戦国武将 愛しているのは源助だけだ―武田信玄 大酒を飲むな―毛利元就 聞きなさい、父の仕合せな物語を―吉川経家第5章 乱世を生きる女たち 夫を改める妻 妻の力・母の力 猛き女たち 第6章 海賊衆の世界 海の秩序を守る海賊 台頭する三島村上氏 潮に守られた海の城 能島の海第7章 秀吉襲来 大名の危機管理 村の危機管理内容は、大名の戦国、村の戦国、女たちの戦国、そして海賊衆の戦国と、多岐にわたりますが、飢饉・戦乱・疫病が毎年のように襲う戦国時代、その過酷な時代を人々はどう生きたのか、これがこの本をつらぬく視点です。戦国時代は大好きだけど研究者の書いた本は難しくて読まないというかた歴史小説は好きだが研究者の本はどうも…と思われているかたさらにはゲームで戦国時代にはまっているかたまた、手軽に戦国社会の実像を読み解きたいかたこうした方々を念頭に、できるだけわかりやすい記述を心がけました。小説やテレビとは異なる戦国社会の実像、一度、体験してみませんか。NHKライブラリー(NHK出版)の一冊定価は970円+税となりますなお286頁の7行目に誤植がひとつあります。ここは、「に達いなかった」ではなく、「に違いなかった」になります。お手数ですが、訂正のうえご一読ください。「中世武士団をあるく 安芸小早川領の復元」もまもなく再開します。
2007.01.07
全2件 (2件中 1-2件目)
1