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「素直な気持ちを持ちたい」そう願えば満たされない心が乾きを癒やして嫌な出来事を消しさってくれそうな気持が起こります。でも、礼儀正しく素直な気持ちが慣れからすべてを解き放ち粗暴な性格をブイやっても束の間の喜びが打ちひしがれて涙は枯れることなく心に染みてゆくのです。そして哀れな人生観が露わになる。 身勝手な言い訳をしても癒やしは戻っては来ないはずなのに、諦めきれない気持ちが何かで紛らわせて微かな望みを託します。そして、気持を繕って誤魔化しながら仕事に励みます。日銭を求めて。好きで働いている、そう思われています。本人もそう自覚して働きます。(本音は別として)日銭を求めて。この世はお金がすべてです。そして身体が資本。疲れ果てた脳みそは愛に埋もれています。貧困者の僻みは途方もなく膨れ上がり萎んでゆく。人の気持ちもお金で買えるご時世です。お金が無くなれば愚痴が施しを獲ようと、慈悲を垂れ流して哀れみを請えば束の間の優越感が味わえる。それで自身の尊厳が薄れてゆくのはどうしてでしょう。日銭を貯め込んでは使い果たす。その繰り替えしにうんざり感がゆがめない。 貧乏人は限りなく汗水たらして日銭を稼がなければいけないのです。世の中の仕組みがそのようになっているらしい。どうしてお銭(あし)が留まらないのでしょうか。お銭(あし)はオレを毛嫌いしている。オレは好きなのに、大好きなのに。あなたはオレを毛嫌いしている。オレはあなたを大好きなのに。迷える思考が身体を蔑ろにします。今日も仕事。明日も仕事。生きてその糧を得る為に言い訳として仕事をする。オレは仕事が嫌い。大嫌い。オレは自由が欲しい。その反動ゆえか、酒を求めます。お酒は好き大好き。そして寄り添う様に厄病神がお酒を持参してオレを誘惑する。その魔力にオレは負ける。負け続けてみれば愚痴の上乗せばかりが目立ちます。こうも度々、愚痴をこぼしては身体にもワルイ。 「あ~ 明日からお金を貯めよう」とりあえず競馬に有り金、全部つぎ込んで未来を明るくするのだ。「うん、そうしよう」 仕事には疎いが、勝負事には自信がない訳じゃない?希望は捨てずに望みは大きく膨らませて 「あ~神様。どうか、どうか、私をお見捨てにならずに慈悲ぶかきお恵みを」 通常の当たり馬券では、この深みから抜け出せず万馬券を当てるには、それ相当の運がなければいけません。そうです、わたしの予想なんてたかが知れています。だから、頼れるのは神様だけです、ハイ。(⌒-⌒)神様は依怙贔屓などされません。そうです。私と違って万能の神なのです。「どうか、私に万馬券が当たりますように」「あ~~ 神様!」身勝手な私にお恵み下さいませ。(´▽`*)// .
2024.06.23
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パソコン初心者講座インターネットの履歴を消すパソコン初心者講座からインターネット入門をクリック ブラウザからインターネットの経歴を消すをクリックすると各ブラウザのキャッシュを削除するやり方が掲載されています。 ブラウザには、インターネットでどのようなサイトを閲覧していたか履歴として残ります。主なものとして、Webサイトの閲覧履歴、クッキー、キャッシュがあります。閲覧履歴は、ブラウザにURLやタイトルが残ります。クッキーは、Webサイト側から付与されるファイルです。一度ブラウザを閉じたりログアウトしても、再訪問の際にブラウザ・パソコンを識別するために使われます。キャッシュは、インターネット一時ファイルともいい、Webサイトの情報をパソコンに保存し、閲覧速度を向上させるために使われています。これらのファイルはいずれも、ブラウザの機能によって削除することができます。キャッシュを削除すると何が消える?(サイトより)キャッシュを削除すると、ブラウザに一時的に保存されているWebページの画像やテキストが消えます。なお、ログイン情報(IDとパスワード)や、各Webページの設定などはキャッシュに含まれないため消えません。ログイン情報などはCookieで管理しています。そのため、Cookieを削除するとログイン情報などが消えます。気温が上昇して季節が移行する頃合いで、寒い時期はフ~、フーしながら食べていたのに季節が暑くなれば冷たいものが食べたくなります。豆腐(とうふ)呼び名が変わり冷ややっこ。この代物を夏は頻繁に召し上がって、身体の胃袋が正常値をほんのすこし上積みすれば拍手喝采で事なきを得た筈なのに、暑さが増して冷ややっこを食する機会が増えるはずなのに胃袋が興味をしめさないもんだから、豆腐を食する場面が遠ざかり途端に身体に異変が生じたのです。さもありなん、大豆の謙虚な色彩がオレの胃袋と似合っている筈もなく、溶け込む意味合いも不自然なままで酒の風味が齎す胃袋とは相性もへったくれも無いから、召し上がらないと身体の動きが微妙に偏った食物連鎖じゃないけれど、肉食連鎖の賜物で胃の具合も可笑しくなる、(文字誤りで)おかしくなる... ヾ(≧▽≦)ノ おかしくなる?文字変換が変!コショウ! 故障?オレのパソコンの文字変換機能がお粗末だからでしょうか。【可笑しい】【おかしい】簡単な書き取りなのに気になりだしたら横道にそれて脱線しても時間の経過とあやふやなシコリを嫌うオレのド頭が深堀しての納得行くまでは諦めない、いやらしい性分とアブノーマル的な危険思想が露わになる。「追って沙汰ある迄、辛抱しなはれ」「そんなんじゃ待てない」なんてね。素直じゃところがオレの持って生まれた気品ってもんで、直ぐに「お答えを出しなはれ」てな感じで忙し? 急がしては嫌がられる癖を直さなければいけないと常々、感じてはいるものですが。オレのド頭が可笑しい、あぁ~クドいとよく言われます。(わかっています)今迄書いていた事などブイやっても素直な気持じゃ気が済まなくなり、きめ細かな対応をもとめちゃう性格だから、おかしくなっちゃう。可笑しい、可怪しい、おかしい?【おかしい】言葉の発音は同じでも、意味は異なっています。それとは別物だけど、オレのド頭が引きずり出した引用を紐解けば... 熟字訓?熟字訓とは、日本語において漢字からなる単語に、単字単位ではなく熟字単位で訓読みを当てたものである。それ故に単字に分解してもそれぞれに熟字訓の要素は現れず、その読み方でも分節不可能なものが多い。(これ、サイトからの引用) これ以上探し求めては泥沼にはまり込んでしまいます。でもついでに、とうふ、元をただせば大豆(だいず)。おおきいまめと書いて大豆(だいず)。ちいさいまめと書いて小豆(あずき)。これも似たり寄ったりで頭が痛くなる。浅知識ゆえに深読みし過ぎてはド頭のボロが出過ぎて世間様に申し訳が立たなくなりすぎて、なるほどと思える勘違いの末、色合いは赤と茶色。だけじゃない。おはぎとぼた餅。違うようで同じ生き物じゃなく食べ物。季節によって呼び名が変わる大好きな食べ物。丸い形状のものが「ぼたもち」牡丹の花に見立てたといわれている。秋に作る細長い俵型の形状で粒あんのものは「おはぎ」秋の七草の萩に由来しているようです。何を書こうとしているのか!深夜に時間を持て余して、何を書いているのか本人さえも理解に苦しみます。吐き出す戯言にウンザリ感が漂う。それでも過ぎし出来事を思い出して考え込む。経験から来る予測的ヒラメキが迷いを誘う。生きる時間があるだけ余裕があり未来が見えたりもする。その未来は退廃的な現実を逃避するための時間稼ぎに過ぎない。言い訳なしで、それは自分が選んだ道。でも現実は変わらない。だから未来も、その過程をたどるだろう。今も、今までも過ぎた出来事は消し様がない。有りの侭で。ただ、今まで生きて来た証を誰が、どの様に判断するかだ。神か、それとも己の自己満足なやすらぎの果てに過去を懐かしむだけのマヤカシの評価なのか。未来は今に繋がり、過去の出来事が未来を予言する。その予言が過信なら。今は虚無の成れの果てに過ぎない。その今が此処にある。結果が何を、どう判断しょうとしているのか。突拍子な出来事は起こりはしない。平凡な出来事ならうんざりするほど飽きるほど経験する。どの物語が未来に繋がるのか物語はストーリーが無くては成り立たない。人生も意味ガ無ければ未来に繋がらない。生きる。その意味するものは。今を感じて未来は今にある。感じる勇気があれば、それだけでいい。当てにしないだけマシと、強気だけは人一倍強がりなのに心は萎えている。自信や不安が入り乱れて現実から逃避するひ弱な心が泣き叫ぶ。「もう、生きられない」それでも自由だけが有り余っている。生きる自由が、まだある。生きる事に意味を持たせて未来を垣間見ても時間の狭間に走馬灯の出来事が蘇り、生きて来た証が映し出されて消えて行く。立証される出来事は寡黙なものだ。時間は、まだ残されている。考える意味を掴むまでは、生き永らえるつもりだ。身体がポシャっても脳がマシならまだ行けると、本人が信じているから始末に負えない身勝手の極意が微かに萎えてはいるが。流れが大事だな~と、近頃、セツに感じます。表現の手ほどきは使い込んでいる品物で言う事なしの炊合せで見合わせても失敗は許されない筈なのに、流れはどちら向きに微笑んでくれるのでしょうか。橘香る風情豊かな今日の出来栄えは!手もみの加減を心得ていたはずなのに実現する可能性ほど待ち焦がれて見栄え良くしては嫌われすぎても困るし、風通しが良ければ気持ちも卒なく面白可笑しくすごせる美しい瞬間を愛でる気質のかけ合わせで潮時の間違いを情にほだされ過ぎも待ちくたびれ損じゃ物語も打ち止めで、十分すぎる興味もあるし、学べる人生はやりたいようにやる。その流れがいい。向きを整えて清水寺から飛び降りるココロネを大事に、今日を想いでに添えて煮る季節の旬を味わえればいい。 追記2024/06/18NHK BS PM 1:00 「モンタナの風に抱かれて」放送されます。昼間は仕事なので録画して帰ってから観ることにします。 .
2024.06.18
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賭け事をしない週末がこんなに暇なんて。( `―´)ノ近頃、色恋もそれなりに相手との調和と踏ん張る加減が必要なのですが、その気力が湧かない。近頃は何をするにも億劫になって溜息ばかりが出る始末。そんなこんなんじゃヤバいと感じ、仕事など精神的モヤモヤした気持ちをふき飛ばしていざ気持ちを切り替え、ウォーキングの手前勝手の粗筋を紐解いてご説明すれば少許、長い文章になりますけれどその戯言(たわごと)をお聴き下さいませ,mase ( ◠‿◠ )? 昨日の仕事がイマイチの出来具合に落ち込む自分を嫌らしく思いながら、仕事の都合で昨日のやり直しを苦に夜も寝られなかった小心者。それが、ドウシたことか!請け負った仕事が!それが、やり直しシナクテ済んだものですから。ましてや、その出来具合を褒められて小躍りしちゃてさ。情けなったらありゃしない。そんな愚か者ゆえに落ち込んでいた気持ちが消し去られ。仕事に苛まれた事などケロッと置き忘れたかのような急変ブリの態度。(ホント情けない、本人も呆れ返ります)仕事の手直しをやらなくて済んだ気持ちの安堵感からくるのでしょうか。依頼主さんとの話合いが無事終わったその時点で仕事の事など何処へやら、不謹慎者から笑みがこぼれます。(´▽`*)幸せは微笑みから。笑顔を絶やさずに(毎日を心掛けていますが)でも、笑顔ばかりじゃアホとしか映らないこの笑顔。(*^_^*)心を改める。気持を入れ替える。たくさんの感謝の気もちを込めて前向きな考えをモチたい。そうあるべきです。我家の猫さんも朝帰りを楽しんで毎日、必要とされないように存在価値を薄めています。(我が家に帰って来る日がだんだんと減って困ったものです)そして、酔っ払い(オレノコト)は日々禁酒の二文字を意識して呑むように心掛けてはいますが。その割には量が減らないのはそうした考えが、まだ意識の内部に染み付いていないからなのでしょうか。だから、その加減を運に任せてみる事も必要だったりします。人生には道草する場合だって必要なのですから。でも、その行動は愚かとしか映らないまでも、この季節だから出来る事かもしれません。初夏のホンワカ気分の病は気の陰りから来るものでしょうか。それともただの馬鹿だからでしょうか。何処でも、誰でも幸せを迎える週末の夜に。そんな日にアホな人がいるのも確かです。(⌒▽⌒)人生なんて浮かれてばかりじゃ身を滅ぼしかねません。独り身の寂しさを紛らわすために、燥(はしゃ)ぎ過ぎて、その勢いで後はどうにかなるでしょうの浅はかな考えが、ありのままの乱れた姿をさらけ出す結果になった事だけは確かです。独り身にとって華やいだ後のさびしさはいやなものでが、それを振り払うために無理を承知でやる行動は、ただ、ただアホとしか映りません。そして、自分を過信したのが間違いの元でした。幸せのハカリゴトは自分の力量を運勢という天秤に掛けてみれば、しらふと酒の勢いを上乗せした自分とではどう違うのか試みるのも、この病かもしれません。“ 馬鹿をやる ”生暖かい風が、それを後押しします。笑顔を絶やさずに。憂いのそばに笑顔を絶やさずに華やいだ夜風を身体にまとって優雅に歩くハズが!でも、それを後で悔やんでも詮無きことですが。「歩くしかないでしょう」そう決心してしまえば、後は酒で火照った身体を夜風に当てて楽しむだけの筈でした。呑む事が大好きなわたしです。たわしじゃありません。普段、呑む場所は家の近場を利用します。歩いて20分位の所に馴染みの居酒屋があります。そこで呑む。でも、そこもお金がある場合に限ります。ない時は角打ちの酒屋で用を足します。懐のお銭し(おあし)が裕福な場合には遠くの県外、久留米市の六ツ門に呑みに行きます。でも、その久留米で呑む場合は納期を終えて、たらふくお銭(あ)しが入った時であったり、世間一般の騒ぎを我が身と一緒にすべく騒いで呑む場合に限られます。その世間一般の人が幸せを分かち合う夜に(週末)、わたしも、その幸せをご相伴したくて呑み会が我が家まで歩く結果を招く羽目になったのも事実です。久留米の六ツ門から梅林寺、水天宮、筑後川に架かる豆津橋を渡り県境を通り過ぎてわが家までの道程を、うだうだ、ふらふら、酔いどれ歩きが本題ですが。まあ、結果は浮浪者みたいな格好に成り果ててのご帰還になるのですが。そのご帰還の言い訳として幸せの期待、旨味の質、人生の骨休め、ひと時の癒し、今を生きる為に馬鹿をやるのは生きている証だからと嘯いても詮無きことですが、それを言い訳の肥やしにするのも、たまにはいいものです。(*^。^*)その言い訳として、感情を淀みなく拡張して迷いを払拭して未来を抱き込むのも乙なものです。その意気込みが失われては、私そのものが無くなってしまいます。建前を披露するのか真実を求めるかで、その人の心の存在価値が問われます。人の感情は、その瞬間その時の情熱に左右される事が多々あるのも事実な訳で。その感情の駆け引きで実行性のある答えを導きだすのは、その瞬時のその場の雰囲気に適合しているかで判断されます。そして、その愚かな意志が継続されるべきは、酒の施しも必要だったりします。幾度となく繰り返される愚か者の軌跡における真実の探究心ほど、後振り返ってみれば後悔だらけの顛末になったりもするものです。そして、自然の営みはゆっくりと滯ることなく流れ移り過ぎてゆきます。自然は後を振り返らないから始末に負えないのです。人は後悔の積み重ねで生きています。そして、その行動(酔っぱらいのウォーキング)は自分を過信し過ぎて、出来ると信じる愚かな考えから始まった事なのです。幸せは微笑む笑顔と伴にやって来ます。しかめっ面じゃ、あなたのお側に疫病神だけが付きまとうのがオチです。だから常に笑顔を絶やさずに。その顔を人はアホとしか映らないでしょうが。その気持を大切にその日の糧を探し求めています。”馬鹿をやる ”人生は何があっても不思議じゃないのです。久留米の六ツ門で飲み食いした後に同伴者と機嫌よく別れ。さて、帰る支度で懐と時間を見れば、後先考えない男だから見えを張って食事代をすべて自分が払った挙げ句にバス代しか残っていないのに気付きます。けれども、時間を見れば終バスもない。タクシーで帰って自宅からお銭を払えばいいのだけれども。酔った勢いが残っていました。その時は。全ては、その勢いが間違いの元になるのですが!だから、カエル 帰る手段はいとも簡単に。「歩いて帰る」の行動に出たのです。そう、いつでも笑顔を絶やさずに酔にまかせて成り行き任せが私の人生。呑んでいるから大雑把(おおざっぱ)な気持ちと「なるようになるさ」のバカな考えを起こします。持っていたお銭はほとんど呑み代に使ってしまう。馬鹿な男は後先を考えないのです。酔っ払ってのウォーキング。酔いどれフラフラ酔っ払ってのウォーキング。わが家を目指してのウォーキング。初夏の夜風を楽しむつもりが。思い出す度に記憶にピンボケの辻褄が合わないフラッシュバックされた動画の様に、それは霞がかかって蘇ります。歩き始めは酔いも軽やかなものでした。でも、歩く距離が増すにつれて酔いが身体にまわりだし揺れがひどくなります。あっちこっちゃの蛇行ウォーキング。人通りがある所では人様にぶつかりそうで、それが不思議とぶつからない妙技を披露したり。鼻歌を奏でながら、夜風を心地よく感じる始末です。ビールをたらふく呑んだものだから、物言わぬ電信柱に抱きついて。電信柱と言い争うも、ふと気づけば人じゃないのに気付く有様です。“ ふうぅ ”男だから出来る。我慢していた緊張感が一気に溶けてゆきます。「あ~、幸せ」電信柱に用を足す。男だからナセル技。ごめんなさい、風紀を乱す馬鹿な男です。呑んでいるから何が起こるか分らない。それでも、通りすがりの他所様の花壇に無断で添い寝する。その甘ったるい香りにほだされながら吠えかかる犬に急き立てられても本人が動物好きなものだから抱きしめようとするが、犬も見知らぬ不法侵入者ゆえに役目柄吠えないわけにはゆかないのでしょう。吠えまくる。「ワォ~ ワォ~ WAWAWA ワン」酔っ払いも犬好きだから。「ウィ~ン ワン」笑顔を振りまいて吠え返します。番犬も負けまいと吠えかかります。バカな男の醜態が露見します。でも、本人は至って真面目に犬と向き合っているのです、が。犬の吠える声が辺りに響き、その家の明かりが灯り住人を起こすキッカケにもなるのです。「ごめんなさい」あの時は私がご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。追い立てられ。酔いどれが急き立てられて暫しの休息を公園のベンチや、筑後川の河原を歩き疲れて大の字になって夜空を見上げれば無数の星が輝いているのに感動を覚える始末です。でも、時間は限りなくルーズじゃないのが世間の常識。そして、夜が白々と空ける頃にようやく県境(佐賀と福岡)を越えるのです。時間は止まる事なく過ぎて行きます。傍(はた)から見れば衣服は汚れて髪はザンバラになり、ただの浮浪者そのもの格好に成り果てて、まだまだ先の長い道程を歩いて帰ります。そして家に帰り着いたのがお昼前。その途中で我が家の猫と遭遇するも。「あんた、こんな処まで縄張りがあるの!」家からだいぶ離れた場所での遭遇に酔いどれさんも驚きのご様子。(=^・・^=)ニャ~ン ~我が家の猫も、まさかこんな場所で飼い主と再会するとは思っていなかったらしく鳴き声がいつもと違っていました。 追記後悔という二文字が9時間のウオークキングなるとは考えもしなかったのです。アホな男の了見なんて。馬鹿をヤッてみなきゃわからないのです。(≧◇≦).
2024.06.16
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「あ~疲れました」明日も仕事です。仕事をしたくない気分が沸々と沸き起ります。身体が元気ならやる気も出ますが近頃、疲れがとれない。仕事を終えて帰宅すれば我が家のねこちゃんがお出迎え。珍しい。(ホンマ)いつもはお留守か、私が帰ってからお戻りになるのに。疲れて帰宅した時に、お出迎えがあれば気持がほぐれます。(=^・^=)ニャ~ン「ほう、珍しいね」相手がいれば、それなりに元気になれるものです。帰宅した時にポツンと一人じゃ、つまらない。汚れた身体を洗い流し、風呂上がりの一杯に活力を得て猫を相手に今日の出来事を事細かく話しかけながらの休息が私の生き甲斐です。疲れた身体は酒と猫の癒やしを受けて、にこやかに気持ちが回復します。独り身だから風呂上がりに酒の段取りをあれやこれやすると、深夜になるから手っ取り早いインスタントの肴と食事を取り夜の時間をのんびりします。わが家は一軒家。周りは田んぼばかりでお隣さんは遠くの先にポツンと。外灯も無い。わが家の灯りだけが闇夜に浮かび上がっています。この辺りは深夜になると不気味なくらい静かになる。昼間、騒がしかった生き物達も眠りに入る。野生の生き物達は眠りに入り夜行性動物が徘徊するが、そやつらは気配を消し去っています。人間の能力では気づかないにしても、猫は敏感に反応します。裏戸などは開け放しの状態です。縁側と部屋の間に網戸があるものの、我が家の猫は器用に開ける事が出来ます。ただし閉めがない。今迄、寝そべっていた猫が何かを感じたらしく瞬時に動き、網戸を開けて庭先に出る。何事かと、呆気にとられていると野生の生き物の鳴き声とわが家の猫の恫喝する唸り声が混在し入り乱れての物音が響き、その物音が次第に遠ざかって行く。庭先が静かになり闇の中から我家の猫の姿がボンヤリと浮かびあがり、こちらにやって来る。猫は夜行性動物でした。 我家の猫は、少し太り気味だけど野生の性格を備えているようです。呑むのをやめて成り行きを見ていたら、我家の猫は何事も無かったような仕草で戻り、いつものパターンでわたしの側にゴロンと寝そべって可愛らしい眼を向ける。こやつはやはり番犬じゃなく番猫だ。俺より優れている。私が仕事で家を空ける場合、裏戸は鍵を掛けていないのでタヌキなどがそれなりの知恵で入ってくる、らしい。でも、近頃はイタチの姿を多く見る。先程の出来事は、それらのたぐいの生き物との駆け引きだと思われます。わが家の猫は凶状持ちだから。飼い主の私もかなわない。深夜にのんびりと呑む。お相手は我が家の猫さん。酒の肴をチョイと千切って「ハイ、食べなはれ」私の傍に居るのもそれが目的だったりして。でも、お互い一人ぽっちじゃさびしいよね。「あんたが居るから、俺も、こうして呑んでいられるんだからね」「一人ぽっちじゃ、嫌だもんね」寝るのが勿体無いほど気持が潤っています。そして、深酒は今日の嫌なことをすべて忘れさせてくれるのです。そばに、あんたが居ればそれだけでいい。(*´▽`*).
2024.06.08
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なぜゆえに。なぜゆえに、人は生る事に苦行を強いられる。後生、愉しい事多かりし人生でありたいと願うは欲張りか。心の安らぎを求め、家族の幸せを求めて。心願う言葉を聞き入れてもらえないのか、あなたは。試されし我が精神の強度をか。それほどに我が心を憎むか、神は。あなたに跪く姿を見たいゆえか。ひれ伏す事無く生きてきた事への報いか。崇め尊ぶ事への戒めか。依存への乖離人は何を求めて生きる。探し求めて、何を得る。何を糧に生きる。心が満たされる喜びに、感動することは幾度あるだろうか。日々の空虚さが蔓延する。揺れる心が希望を見失う。足跡を見つめる心の優しさが無くなっていたの?急ぎ足で、今を生きている。なぜ?坂道を上れば、素敵な未来が拓けるの?心は、なぜ、今の瞬間を駆け抜けようとするのだろう。急いている心は、なぜ。後振り返らず、ただ、闇雲に走り続けるオレ。想い出も、消し飛んで。なんの夢も描けず、未来の構図は、ただの絵空事。描く未来は、遠い星の数も見えず。笑い声が木霊する心の安らぎは、片隅に追いやられてゴミ籠の屑となる。それで今を生きている。生きる事って、そんなもの!駆け抜ける日々の糧を求めて、日銭を賄う。何を想う、想わぬこそ今が在る。誰の許しも無い。己が生きている。幸せなんて、絵空事。夢を描くのは今を大切に生きている人のみが勝ち得る玉手箱。だから、一生、夢は描けない。信仰とは。時間の概念が消え荒ぶれた気持ちが癒やされ鎮静していく。歳とともに気難しさも薄れ穏やかな感性が気持ちを支配する。柔軟な駆け引きにも対応する姿勢が現れ自己の時間を精査する。改善されるべき日々の事案を思惟すれば必要は不必要を排除して必要とされ、不必要は必要の内部で不要の限りではない。自己の満足感が肥満化し満たされない必要の領域を模索しては除外される時間を必要とするも、その時間も更新され繰り返される日々の出来事なれば。慌てず騒がずに粛々と物事が進み運用され使い慣れた使用感がべったりと蓄積され何不自由なく戸惑うこともなく使用していたシステムが必要性を強化するゆえに滞る都合をいともあっさりと切り捨てて切り替える素早さを疎(うと)ましく感じるこの罪悪感は何なのか。利便性の必要を求めすぎる世の中で、あやふやに生きている私は不必要な生き物ゆえに寄り道を繰り返しては前に進む知恵がふやけている。 誰でも悩み迷い生きる為に答えを求めて模索する。その過程において気持ちの浮き沈みが心に歪を起こす。不自由でもなく不便でもない滞る日々の気持ちの歪が、何かを求め今を生きている理由を自分に問いかける。「どうすればいいのか!」模索する思考に物事は時に不合理を道理に導くことがある。自然の摂理は時として不可思議な事を導き出す。その稀なことを人は奇跡と呼ぶ。人は弱き者。その奇跡を神と重ね合う。神は人の心の内部に存在し時として心の扉を開ける。偶然は偶然には起こらない。この世は現実のみだけが映し出される。真実か否か、自己の概念を捨てて起る出来事を経験してみれば自ずと解ってくる筈なのだが。あり得ない出来事は、起りはしないのである。現実は今の瞬間を描き未来と繋がり、その未来も過去の出来事を経過して描かれ不合理な出来事は起こらない。けれど、人は弱き者。人は死を恐れ心を病み精神を狂わせて神に祈りその慈悲に縋る。人は弱き者。弱い精神は自分の弱さを棚に上げ力を失い、残されし心は己の力量の無さを痛感させられる。そして、卑屈になった精神にもう一方の自分が罵倒する。「そんなはずではなかった」哀れみと戸惑いが交差する。人は弱き者。愛を無くしそのすべてを失い涙が枯れるまで苦しみ足掻き傷つけてこの世の無情を知る。慈悲深き尊さが消える。神に手を合わせ祈る姿の愚かさに気づく。己を戒めては亡くなった者への愛情を重ね合わせ、祈る姿と乖離する自己の摂理が共存するのは精神の脆さ故か。 人は余す事、理に適わぬ事を願う生き物らしい。存在せぬものを恰もこの世に存在するがごときに願い願望すること余りにも甚だしい。私利私欲の累計は限度を知らぬ。その趣旨は多岐にあり。人それぞれ有り、人の思考もそれぞれの思惑がある。心が病み一人では背負いきれぬ苦痛が広がり何かに縋る気持ちが生れ、縋る先に神を見る。その神に己に出来ぬ望みを託す。人が創りし神も多岐にあり。その神同士が諍いを起こし人間の卑屈な行いに似た祖業が起こる。それは神の意図する真意なのか!憂いなのか!人は神という詞に平伏す生き物なればその響きが時にあやまちを犯す。 ” 神を信じ敬う事は卑怯なり ”他人本願で生きることは哀れなり。自己の行動を信じえなくして、なにが生きることか。偶像を求め崇拝し己の行動を抑止するのは愚かである。存在しないものを恰も存在するかのように想うのは哀れである。他の生き物を見れば解ることである。人以外の生き物は神という偶像など感じることなく生きる。偶然とか奇跡などというものは人が創りしものなれば、人以外の生き物は自分の力を信じて糧を得る。己を信じて行動する。時は後戻りなどしない。昨日の出来事が今日起こる事もない。明日起こる出来事を今日知る事もない。人以外の生き物は常に今日を見つめる。今、この瞬間を感じて生きる。生き物が一度は経験する死の足掻(あが)きは、二度目はない。生きる事も二度目は無い。すべては一度限りの時が流れる。その時間を逃げることは容易いが行動を起こし現実を直視し今を生きることは未来につながる。しかし、人はその瞬間その時を軽視して過ぎ去りし時を惜しむ。後悔すれど時は戻らず。それ故、信仰が生まれる。その信仰が神を産み出す。憂いかな。人は弱きもの。.
2024.06.05
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生きる事へ執着心が薄れ始めている時に、いつも見慣れている尻尾が微笑みかけている事に気づきます。その何気ない仕草が心に響きます。その仕草は何を語ろうとしているのか?その仕草に、とても安らぎを覚えます。不思議な暖かさが伝わって無垢な偽りの無い気持が伝わってきます。なにも求めず、なにをも執着せず。我が家の生き物は、その瞬間を感じて生きている。そして、揺れ動く尻尾の表情がとても面白くユーモラスであるのに気づきます。 共振、共有するその波動は受け止める側にやすらぎを与えます。幸せで元気な時は気づかなくて感じることのなかった心の感情が。今はあなたの尻尾が心に響きます。 時の悪戯はかけがえのない愛情をサラリと見せて微笑みを誘います。その仕草に勇気が湧いて来る。恐れず悔やまず自然に気心を研ぎ澄ませば、おのずと精神が穏やかになり心にゆとりが出来て、その人の生きる希望が湧いてくる。我が家の生き物を見て思います。生き物達は死を恐れず今を生きている事に。そのことに気づき心が穏やかになる。 若い時に耳にした言葉が軽んじられ、歳を重ねて同じ言葉を聴き心に響くのは言葉の真意が視得てなかったからなのか自己の錯覚か。それとも時の悪戯か。思いやりの言葉は心に響くが偽りの愛は心に残らない。話す言葉の真実は消え、言葉の真意は虚空に帰す。 共振することの難しさよ。共感できぬ苦渋よ。その交信の限界を感じ物質の概念を知ることによりなお解決出来ぬものがある。言葉は時として凶器に変貌する。感情を抑制出来ぬ物質(ひと)はコントロールを失い、失速し自分を見失う。憂いかな。毎日の会話で吐き出される言葉の響きの内部(なか)に幾つの真実があるのか。聴く手にその解読する力が備わっていなければ只の音が素通りしてゆき、通り過ぎる言葉が時として立ち止まり、話し掛けて汲みする瞬間に言葉の真意が判りあえる時がある。 それは祖の悪戯か気紛れでもあり、理解する加減が真意に比例して時を刻む。祖は時を生み出し、時は命あるものを育み進化させ無から有の存在を生み出し、肯定否定を繰り返しながら時を超えその容姿を整える。生きるものが擁する容姿は個々の進化に基づき、形付けられしものなれば、その容姿を借りて心をも伝えし逢える事に今を知る。祖が創りし尻尾は生き物の心を表し、その種属は言葉を失うことによりその真意が試されることになる。 人は言葉を巧みに操り、心の内部を尻尾に表現させることを拒んだ。それゆえに今尚、殺掠など殺生が絶えず。言葉とは相手に此方の気持が伝わらないと意味を成さない不便な交信手段。 我が愛すべき生き物には心を映し出す尻尾がある。その生き物の真の会話が出来る尻尾が存在する。心で交信出来る尻尾がある。心に響く尻尾が揺れ動き脅威を排除して、名も無い者達にもご加護が施され透き通る情熱が共振されて情愛が生まれます。人間にはその尻尾がなく、故に憎しみや争いが絶えない。進化は時として過ちを犯す。 .
2024.06.05
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庭の華やいだ花々がそれなりに散って質素な風景を映し出しています。その中で紫陽花の花が彩りを見せて、その隅にドクダミの白い花が可憐に咲き誇っています。その庭から土手を下りて河原には菖蒲の葉が生い茂り。先月までは大根の白い花が密集していたのに季節は滞ることなく移り変わります。我が家の猫さん近頃、朝早くから外出されて楽しい季節を満喫していらっしゃいます。もう、朝飯を食べ終わったら、そそくさとお出掛けになりました。我が家よりお外の方がいいみたいです。俺ときたら寝床の内部に埋もれて起きだす切っ掛けがなく。微睡むド頭の具合に比例して気持ちも「もうすこし眠い」と貧血気味(ド頭と懐具合)の時間が流れます。怠け者の気分が心の内部に宿り。思考が複雑に絡み合って煎り胡麻の風味が手頃な雰囲気を醸し出してぼんやり天井を眺めたら、現実離れした切り札が思い浮かぶものの、それと連動してお腹の虫さんが悲鳴に近いうなり声をあげます。.
2024.06.04
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昨日の夜に建設屋から電話が掛かってきた。「明日、手を貸してくれ」人に頼みごとをする口調じゃなく手を貸すのが当たり前のような口ぶりに「何の用だ」の返事が「10トンダンプの運転手が休むので代わり運転してくれないか」との事だった。建設屋もオレが毎晩、深酒するのを知っているから早めに電話を掛けてきたのだろう。別に用事もなかった。そして、午前中でダンプの運転済ませ建設屋の奥さんが用意していた昼飯を平らげ、自分のポンコツ自家用のオイル交換などをした。オイルは建設屋の倉庫から失敬して、リフトで車を持ち上げオイル交換をする。ついでにバッテリーの調子が悪いので建設屋の整備の奴に調べてもらったら、ダイナモ(オルタネーター)が悪いとの事。新品を買う金は無い。如何したものか!思い当たる処がない訳じゃない。昼飯もたらふく食べたので気持ちは俄然前向きな思考が働いて自動車解体屋の顔が浮かぶ。「あそこに、あるだろう」その思惑を頼りにポンコツ車で向かう。ヤツのことだ!解体屋の性格上、品物をタダでくれる訳はない。オレも伊達に歳をとっている訳じゃない。( ̄― ̄)ニヤリッ 解体屋に車を乗り入れ勝手知ったる処なので、解体屋の顔を見ずに部品が置いてある倉庫に行き、オレの車に合うダイナモを探していると案の定、解体屋が現れる。「よお、元気か」「あ、」「今日は何しに来た」「別に」「どうでもいいけど、品物を持って行くなよな~」「ん、聞き捨てならないお言葉ですが、いつ、おれが泥棒した!」「まあ、そう怒るな」「怒っちゃいないが、ところで物は相談だがダイナモあるよな!」「あるよ、大型から軽まで選り取り見取り品数は豊富だもんね」「おれの車のなんだけど!」「あ~、おまえんちのポンコツのダイナモもあるぞ」偉そうに踏ん反り返り過ぎてオレの腹よりデップリの腹が天を見上げそうな態度にも我慢する。「そのダイナモを見せてくれないか」車から外されたダイナモの部品をオレの目の前に解体屋が持って来た。「これなんか、お前の車に形式が合うと思うが」解体屋も商売を始めて長い。それなりに車に関しては知識がある。解体されたエンジンなど部品は外国に輸出している。オレが思っている以上に儲かっていた。けど、今のご時世コロナとウクライナ侵攻でロシア系の出荷が減ってしょげ返っている。商売がコロナ以前のような儲けになっていないらしいと思っていたけど、そうでもないらしい。抜け道はいろいろあるらしい。話は横道にそれたけど。「そのダイナモをくれないか」単刀直入に言う。「一万五千円なら売ってもいいぞ」オレの足元を見て相手もサルもの欲深きデブの野郎、吹っ掛けやがる。タダ同然で仕入れた車を解体しての、この強欲な態度に頭に血が上りそうでもジッと我慢のオレ。「五百円」「阿保!」「五百円しか持っていない」「五百円で売れる訳ないだろう」「何処を叩いても五百円しか出ない。だから、五百円」「帰れ、帰れ!」品物がオレの目の前にあるのをいいことに強欲な野郎が邪険にしやがる。「こんにちは」そこに野郎の息子が現れた。この子は親父に似ず強欲じゃない。根が素直でいい子だ。親父に似なくて良かったと思う。つくづく思う。「おじさん、元気にしていた」「ああ、元気じゃ」「今日は何?」「このダイナモを親父が売ってくれないんだよ」「なにを、この野郎、売らないとは言っていないぞ」オレと息子との会話に強欲の親父が割り込んでくる。「おまえが、安く買い叩くから...」強欲な解体屋の語尾が尻切れトンボみたいに口ごもりながらオレを睨みつける。「あ、この品物が欲しいの!」息子がダイナモを手に取りオレに見せる。「ああ、それ、それ」「だったら、持って行っていいよ」「えっ、いいのか」「うん、タダでいいよ」なんと、この素直な出来た息子だ。いい子に育ったもんだ。オレの息子にすればよかったと思う。この子が産まれる時に、オレと強欲な親父はスナックで飲んでいた。出産の予定は一週間後になっていた。だから、気兼ねなくもう一人の仲間、三人で飲んでいたところ、産気が早まって産まれそうとの電話が入るも産婦人科に駆け込んでみたが間に合わず、その事でオレの奥様に産婦人科の内部で、こっぴどく叱られ、どやされて産まれた赤子を見せられずに半泣きの顔がいまだに思い浮かぶ。その後、強欲なおやじの息子はすくすく育ち、子供の頃はうちのチビと仲良しでよく遊びに来たものだ。奥様がご健在だった頃は、それはそれは可愛がられたものです。だからオレにも一端の責任と日頃の、まあ何と言ったらいいのか「まあ、立派な大人になって」の気心知れた男の子になっています。強欲なおやじに似なくて良かった。強欲なおやじはぶつぶつ言いながらも、オレと息子との話には口出しせずに不貞腐れ気味に品物を渡してくれた。でも、オレの気持ちがタダでは申し訳なく思い。強欲なおやじに「ほい、三百円」硬貨三枚を渡して品物を頂く。別れ際に強欲のおやじの奥さんが顔を見せて家にあがれとシツコクオレをひっぱるので、しかたなく事務所兼御殿に上がり込み贅沢な果物をせしめて持ち帰る。途中、電気屋に寄り道して道具を借り、電気屋の小屋でダイナモを取り換える。此処の小屋にはオレに懐いている柴犬がいる。この犬が可愛いいのを通り越して尻尾を振り振り、腰をふりふりして、いつもじゃれ合う仲なので時間がいくらあっても足らない。この犬とオレは相思相愛じゃないかと思う。鳴き声からして親密さがうかがえるというものです。ハイ。それから家に帰り我が家の猫さん、頻りにオレの身体を嗅ぎまわる。柴犬の匂いがするのだろう。我が家の猫を見ながら「あんさんが時々、犬に変身すればいいのにね」なんて、シャキッとしない考えが浮かび「まあ、仕方ないよな」のアキラメ顔で柴犬のなつき方に思いを寄せての一日が終わります。今日は三百円で贅沢なご馳走をたらふく食べられた事に感謝して、酒をあおるのを控えて短めのシャワーを浴び寝床にもぐる。寝床の横で猫さん香箱座りしてオレを見ています。何か物足りなさそうな顔つきです。オレは大満足していい夢を見られそう。( ̄― ̄)ニヤリッ 追記解体屋の倉庫にオレのポンコツ車に乗せられるエンジンが有ったような気がしてならない「うむ、エンジンも交換すれば今よりマシに動くかも?」と、思い巡らすもあの強欲おやじが留守の時じゃないと交換出来ないな~~ .
2024.06.03
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近頃、寒いのか暑いのか気温が定かでない。朝は特にさぶい。着ていく服装に迷いがでる。長袖がいいのか、半袖の作業着がいいのか朝の忙しい時に気持ちと焦りが煮詰まって、「エエままヨ、素っ裸で出勤じゃー」なんて出来っこないのにズボラな性格が素直に出るから厄介です。そんな性格の身勝手さが際立って一貫性に乏しく、いい加減な気持ちが先走ります。綻びる理性の整合性などお構いなしにぶっちゃける自分に嫌気がさす。ブレる!信念が災いを撒き散らす。こちらがいいな~と思えばソチラになびく愚かで柔軟性に優れているとカン違いのツワモノゆえに、見境なしの建前を立て板に水の如く並びたてて相手を唆す。それで事が済めば良いのだが。世間様はそうは問屋が卸さない。理性に伴う意識の違いというなかれ、信念のない先人がよくご存知だから有りのままを言ったり口ごもったりするオレの薄っぺらな素性が丸裸になって嫌われ者となり果て、見境なくお世辞、おべっかを使って人脈を選り好みしては排除されても、しつこく食い下がり当て擦りみたいな言い訳でむちうち症の限度を遥かに超えた会釈は総理大臣賞ものなのに、その成果が得られない。労働者諸君、日雇い労働者諸君、信念を持って!頑張ろう。仕事がなんだ。雇い主がなんぼのもんじゃ!嫌なものは「イヤ」とハッキリ申しましょう、ね。でも、勇気がいりますけど。_(´▽`*)lo/ 追記「あ~休みたい」仕事の御駄賃が雇い主からまだ振込まれていない。この後2週間を2千円で、どう食つなぐか思案しなければいけない。食欲はおおいにあるのに、仕事の意欲は乏しく呑み代に事欠く。「缶ビールが1個、10円だったらいいのにな~~」(=゚ω゚)ノ .
2024.06.02
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