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移動演劇桜隊平和祈念会(移動演劇桜隊原爆忌の会改め)碑前法要のお知らせ 昨年秋、皆様にお送りした「桜隊原爆忌の会 今後の活動についてのご挨拶」で当会は「移動演劇桜隊平和祈念会」として再出発する決意をお伝えし、今年の8月6日は以前の形での追悼会再開を準備しておりました。しかし新型コロナウイルスが未だ終息を見通せない状況下では、追悼会の再開も一年持ち越さざるを得なくなりました。事務局に新メンバーを加え資料整理など動き始めたところだったのに、残念なかぎりです。 今後の大きな目標として、桜隊に興味を持つ何人かの若手俳優を軸に現代版の移動演劇隊を結成し、各地で「桜隊」の悲劇を語り継ぐという新しい活動を目指しております。演劇人たちがあの戦時中と同様な状況に瀕している今日この頃ですので、新時代の目で桜隊を見つめ直したいと考えております。 私ども事務局は、本年度も羅漢寺様の「桜隊原爆忌慰霊法要」に参列させていただきます。 2020年7月10日※碑前への献花をご希望される場合にはお取り次ぎさせていただきます。ご参列いただく場合には、下記まで必ずお声かけいただけるよう、お願い申し上げます。桜隊HP URL:http://www.photo-make.jp/sakura.html E-mail:sakuratai01@yahoo.co.jp
2020年07月29日
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原作『戦禍に生きた演劇人たち―演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』堀川惠子/講談社「獅子の見た夢―戦禍に生きた演劇人たち」公演情報http://www.t-toen.com/play/157.htm チラシPDFhttps://1drv.ms/b/s!AnTPJCPNBGj4nlZo0fTaEkYZY6kH
2019年11月12日
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NHK 8月6日https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190806/k10012024311000.html≪テキスト≫ 広島に原爆が投下されて74年となる6日、広島を慰問に訪れた際、原爆で犠牲になった移動演劇隊「桜隊」の劇団員の法要が東京都内で行われました。移動演劇隊「桜隊」は、戦時中、国民の戦意高揚のため各地を慰問で回って公演を続けていた劇団で、広島を訪れた際に原爆が投下され、9人の劇団員が亡くなりました。桜隊の慰霊碑がある東京・目黒区の五百羅漢寺で営まれた法要には、演劇の関係者などおよそ50人が出席し、追悼の祈りをささげていました。桜隊をめぐっては、犠牲者の思いを語り継ごうと、毎年、原爆の日に演劇の関係者が朗読劇の披露などを行う追悼の催しを開いてきましたが、関係者の高齢化などもあり、去年から法要のみが行われるようになったということです。桜隊のリーダー丸山定夫さんの親戚の、渋谷真理子さん(61)は「70年以上たっても桜隊のために多くの人に集まってもらえて誇れる親戚を持ったと感じています。原爆投下は絶対に繰り返されてはならないことだと思っています」と話していました。追悼の催しを開いてきた桜隊原爆忌の会の近野十志夫さん(73)は「芝居を続けたかった劇団のメンバーの命が原爆で奪われたという事実があったことを伝えていかなければならない」と話していました。東京新聞 8月7日朝刊https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201908/CK2019080702000128.html≪テキスト≫ 公演のため滞在していた広島で被爆し、隊長の俳優丸山定夫さん(一九〇一~四五年)ら隊員全員が亡くなった移動演劇「桜隊」の九人を追悼する「桜隊原爆忌慰霊法要」が六日、目黒区の五百羅漢寺で営まれた。同寺には九人が分骨された「さくら隊原爆殉難碑」があり、毎年行われている。 (岩岡千景) 朝から気温が上がり、せみ時雨の中、法要には遺族や演劇関係者ら約五十人が参加。僧侶が読経し、原爆が投下された午前八時十五分を迎えると、参列者は起立して黙とうをささげた。同寺の日高秀敏代表役員が「二度とこのようなことを繰り返してはならないと訴え続けなければならない」とあいさつした。 続いて参列者は千羽鶴や供物の手向けられた殉難碑の前に移動し焼香。おばの森下彰子(あやこ)さん(一九二二~四五年)が犠牲になったという山本智子さん(87)は「当時私は十三歳でしたけれど、被爆の知らせが入った時に彰子さんの母親が一日中、泣いていたのを覚えています」と話した。 広島の被爆者を描いた井上ひさしさん作「少年口伝隊(くでんたい)一九四五」の九月の舞台公演に出演予定で「気持ちを寄せたい」と参加した劇団俳優座演劇研究所の若手俳優の一行も。その一人、萩原弥紗(みさ)さん(26)は「木魚の音と読経を聞きながら目をつぶっている時、どんな風に被爆されたのかや、志半ばで亡くなってしまったことなどを思い、簡単には言葉にできない気持ちになりました」と語った。 法要に合わせ「桜隊原爆忌の会」(東京)が毎年、講演や朗読劇などをする追悼会を催してきたが、「演劇人が減り、みんな忙しい」(会世話人事務局の近野十志夫(としお)さん)などの事情で昨年から休止に。会員は昨年に続き、寺の法要に参加する形で犠牲者を悼んだ。愛媛新聞 8月7日朝刊https://www.ehime-np.co.jp/article/news201908070013≪テキスト≫ 移動演劇桜隊として滞在していた広島市で被爆し亡くなった愛媛県松山市出身の俳優丸山定夫(1901~45年)ら9人の原爆忌慰霊法要が6日、東京都目黒区の五百羅漢寺で営まれ、遺族・演劇関係者ら約50人が冥福を祈った。 桜隊原爆忌の会によると、広島県内を巡演中だった桜隊は1945年8月6日、爆心地から750メートルの宿舎で被爆し、9人全員が死亡した。 6日は本堂で僧侶による読経後、原爆投下時刻に合わせて黙とう。同寺の日高秀敏代表役員が「遺族の心の傷は今も癒えない。事実を風化させず二度と繰り返してはならない」と述べた。参列者は境内の原爆殉難碑で焼香し、平和への思いを新にした。 会は毎年8月6日に追悼会を開催していたが、2018年から休止し、寺の法要に参加する形を取っている。事務局の青田いずみさん(57)は「高齢化が押し寄せ、会が消滅してしまうのではないかという感覚もあるが、形を変えて続く限り、活動をつなげていきたい」と話している。&
2019年08月07日
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移動演劇桜隊原爆忌 碑前法要のお知らせ 本年もまもなく八月六日原爆忌を迎え、東京目黒の五百羅漢寺では恒例の「桜隊原爆忌慰霊法要」を表面ご案内通り執り行われますので、皆様にご通知申し上げます。 昨年から「殉難者追悼会」の休止という形をとりましたが、私たちは桜隊の悲劇を碑前で祈るこの場を残したいと願っております。羅漢寺様のご協力を得て私たちの力の限り…そして後世に伝えるための組織作りをも目指しながら、本年の「慰霊法要」では、これまで追悼会にご参加いただいた皆様方とともに参列し平和を祈りたいと思います。ごいっしょにご参列いただける皆様のご参加をお待ち申し上げます。 2019年7月13日 ───────桜隊原爆忌慰霊法要─────── 日時 2019年8月6日(火)午前8時より 場所 羅漢寺「さくら隊原爆殉難碑」前 五百羅漢寺 東京都目黒区下目黒3 - 20 - 11 電話 03 - 3792 - 6751 ──────────────────────────
2019年08月05日
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「桜隊」の悲劇 風化させぬ2018年8月7日 愛媛新聞PDFはこちらでどうぞ → 短縮URL:https://goo.gl/fw2Na9
2018年08月12日
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被爆劇団「犠牲 後世に伝える」2018年8月7日 朝日新聞朝刊(東京版)こちらでPDFをどうぞ ↓短縮URL:https://goo.gl/65UkVE
2018年08月08日
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「桜隊」無念の記憶 高齢化…追悼会取りやめ2018年8月3日 朝日新聞夕刊こちらでPDFをどうぞ ↓短縮URL:https://goo.gl/YnzMXN
2018年08月04日
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朝日新聞の言論サイト|WEB RONZA|で採りあげていただきました。(スクリーンショット画面)原爆で全滅した桜隊 追悼会がこの夏、活動休止に≪記事リンクはここ≫リンクできない場合は、Googleドライブで → https://goo.gl/HR78Xk
2018年07月26日
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移動演劇桜隊原爆忌の会から本年の追悼会休止のお知らせ すでにマスコミで報道されましたように、本年1月、当会会長の神山寛が逝去されました。前会長の中村美代子の後を継ぎ、2012年から6年間会長を務めていただきました。ここで改めて哀悼の意を表したいと思います。 さて、私どもは数年来、原爆忌の会の今後の在り方について、桜隊の悲劇を永く後世に残すために永続性のある組織を確立する必要があることを提起し、訴え続けて参りました。その長期展望を実現するための過渡的な運営縮小も検討中であることも昨年お伝えしました。そうした議論の上で、本年の「桜隊原爆殉難者追悼会」を、誠に無念な思いで休止の決断をし、五百羅漢寺様主催の「平和祈念桜隊殉難法要」に参加する形で追悼を捧げてゆくことといたしました。毎年ご参加頂いている方々には深くお詫び申し上げます。 五百羅漢寺様の法要は、8月6日(月)午前8時より「さくら隊原爆殉難碑」前で開催されます。私ども事務局は、ご都合の付く皆様とも、ぜひごいっしょにお参りできればと願っております。 今後、桜隊原爆忌の新たな出発を目指してその環境が整うまでの間は、皆様からお預かりしているご篤志を羅漢寺様への法要料としてお納めし、皆様からの追悼とさせていただく所存でございます。 なお、今後も会の後継、移管先を模索してまいりますが、現在のところ展望は開けておりません。本会の果たしてきた役割を断絶させることなく後世に伝えるためとご理解いただきたく存じ、皆様のご助言、ご助力をお願い申し上げる次第です。 2018年7月7日桜隊原爆忌の会 世話人事務局 五百羅漢寺様主催平和祈念桜隊殉難法要8月6日(月)午前8時よりさくら隊原爆殉難碑前にて●五百羅漢寺様 東京都目黒区下目黒3-20-11 ☎ 03-3792-6751*五百羅漢寺へのアクセス ①JR目黒駅から徒歩15分。 ②目黒線・地下鉄南北線「不動前」から徒歩約10分。 ③目黒駅、中目黒駅からはタクシーで1区間。 ④東急バス「渋41」渋谷←→大井町(中目黒経由) 渋谷駅からは南口ロータリー33番乗り場。「不動尊参道前」下車1分。【お願い】当日は羅漢寺様より法要後の休憩場所をご準備いただいておりますので、ご参列いただけるご遺族様ならびにお出かけいただける方は左記までお声かけくだされば幸いです。090-4386-5193(事務局長山崎勢津子宛)【補記】「2017年桜隊原爆殉難者追悼会・報告集」につきましては、現在まだこのホームページにはアップできておりませんが、冊子として完成しておりますので、下記から閲覧およびダウンロードができます。「2017年桜隊原爆殉難者追悼会・報告集」(PDF)https://1drv.ms/b/s!AnTPJCPNBGj4mzYToi4avG5P3Vh-(Windows OneDrive)休会の経緯に関しては、当PDFの21ページに補足させていただいておりますので、詳しくは、お読みいただいたうえでご理解いただければ幸いです。◆お問い合わせ等につきましては、下記までご連絡ください。 桜隊原爆忌の会事務局 E-mail:sakuratai01@yahoo.co.jp URL:http://www.photo-make.jp/sakura.html
2018年07月12日
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《2017年 桜隊原爆忌》 桜隊の悲劇から72年目の8月6日がやってきます。広島・長崎の被爆者が長年にわたって世界に訴えてきた「核兵器禁止条約」を、国連本部での交渉会議で日本政府は不参加を表明。日本政府に交渉会議をリードしてもらいたいという被爆者の願いは踏みにじられました。しかし第2回交渉会議を前に、ホワイト議長は前文に「ヒバクシャ」という言葉を盛り込み、核兵器の使用や開発などを広く禁じる条約が採択されました。日本政府が交渉会議への参加を拒否しても、歴史の歯車は核なき世界への新しい扉を開いていくのです。いま大切なことは過去の歴史に学び、平和な未来を次の世代に手渡す努力を惜しまないことだと思います。 本年は、7月に刊行される『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』(堀川惠子著・講談社)を基調として、当時の桜隊とそれを取り囲む俳優、劇作家ら演劇人たちが戦禍の中をどのように生き抜いたのか、現在の社会と重ねて考えます。本書は、戦争が与える生活や文化の破壊について、現代の演劇人に考えていただきたいという思いでまとめあげられたものです。 今回も追悼会を通して、すべてを焼き尽くされた広島、長崎の町、そして演劇の先達たちである移動演劇桜隊の9名の悲劇を広く一般の方々に知らせ、過ちを二度と繰り返すことのないように、後世に伝えていくことができればと考えております。 本年の「桜隊原爆忌」にもぜひご参加くださいますようご案内申し上げます。《チラシPDF》 ←<Google drive右上の太矢印でダウンロードできます>被爆72年 桜隊原爆忌 原爆殉難者追悼会●日 時●2017年 8月6日(日) 10:00~14:30《本年度の内容》◎講演◎戦争と演劇 そのとき俳優たちは ─桜隊をめぐって 堀川惠子(ジャーナリスト) 戦争の足音が聞こえてくる頃、演劇界や映画界では何が起こったのか。若き俳優の生き方をたどり、戦争と演劇について考えます。桜隊の俳優たちと、それをとりまく劇作家、八田元夫、三好十郎らの戦禍の中での葛藤、その中から生まれた「無法松の一生」「獅子」の舞台。治安維持法、検閲などから、今を探ります。7月に刊行される『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』(講談社)を基調とした講演です。(当日会場にて販売します)移動演劇の野外舞台(伊藤熹朔『移動演劇の研究』1943年より)◎お話◎『残花 ─1945 さくら隊 園井恵子』を上演して 詩森ろば(作家・演出家 劇団「風琴工房」主催) 『残花』は、夢半ばにして原爆の犠牲となった若き演劇人たちを描いた群像劇として、昨2016年、岩手町を皮切りに、秋田、東京と巡演されました。その取り組みと、桜隊についての思いは・・・。「残花 ~1945 さくら隊 園井恵子~」(2016年) 提供:いわてアートサポートセンター 撮影:松本伸◎お話◎私は長崎の爆心地で死体処理にあたった 瓜生正美(劇作家・演出家 青年劇場) 8月9日、広島に続いて長崎に原爆が投下されたとき、島原半島の橘湾(千々石湾)に配属されていた瓜生さんは、救援隊の一員として爆心地での死体処理などにあたり、入市被爆者となりました。◎発言◎もし戦禍の中にわたしたちがいたら… 劉 毅(劇団俳優座)/庄崎真知子(劇団銅鑼 『残花』出演) 梅屋サム(劇作家・演出家)/辻村美奈(映像作家) 『戦禍に生きた演劇人たち』をどのように読んだか、戦争をどう捉えるか、現代の若手の演劇・映像関係者に発言していただきます。◎ゲスト演奏◎ 津軽三味線 山本竹勇(竹山流津軽三味線師範) 昔、津軽地方で坊様(ぼさま)と蔑まれた盲目の門付け芸人達が弾いていた津軽三味線ですが、戦争と無縁ではありませんでした。《スケジュール》10:00~ 碑前祭 (9:30~受付開始)10:40~ 追悼会 (12:00~昼食、歓談 12:50~懇親会)■講演 戦争と演劇 そのとき俳優たちは─桜隊をめぐって 堀川惠子■お話 『残花 ─1945 さくら隊 園井恵子』を上演して 詩森ろば■お話 私は長崎の爆心地で死体処理にあたった 瓜生正美■発言 もし戦禍の中にわたしたちがいたら… 劉 毅/床崎真知子/梅屋サム/辻村美奈■ゲスト演奏 津軽三味線 山本竹勇14:30 閉会予定 ●参加費● 3,000円(法要料・献花料・昼食代含) 高校生以下1,000円●会 場● 桜隊菩提寺 目黒 五百羅漢寺 東京都目黒区下目黒 3-20-11 ・03-3792-6751●主 催● 桜隊原爆忌の会 会長:神山 寛《追記》午前8時00分から五百羅漢寺主催「平和祈念桜隊殉難法要」が始まります。 ご都合のつく方はぜひご参加ください。※お問い合わせ・お申し込みは、桜隊原爆忌の会世話人事務局 TEL 03-3667-1890 FAX 03-3667-1891 URL:http://www.photo-make.jp/sakura.html E-mail:sakuratai01☆yahoo.co.jp (☆→@に変えてください)◆上記ホームページから、あるいはメールアドレス宛にお申し込みいただけます。◆会場準備のため、必ずお申し込みのうえご参加ください。当日ですと入場できない場合があります。
2017年07月13日
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《2016年移動演劇桜隊原爆忌のご案内》 本年5月、現職のアメリカ大統領として初めてオバマ氏が広島を訪問し、平和記念公園での演説で、「核兵器なき世界」を追求する重要性を訴えたことは大きなニュースでした。しかし、オバマ政権は核兵器禁止条約に後ろ向きのままの理想主義でしかなかったという声もあります。わたしたちは、その先のもう一歩を進める道を願っています。 さて、桜隊のことが全国的に知られるようになったことを考えると、新藤監督の映画『さくら隊散る』と、井上ひさし氏の『紙屋町さくらホテル』の力によるところが大きかったと言えるでしょう。『さくら隊散る』の映画完成から28年、今ではこの映画を見ていない、あるいはご存じない方も増えております。そこで本年は、この映画を上映し、改めて桜隊、原爆の悲惨さを見つめ直してみようと上映を決めました。かつての追悼会で聞くことのできた関係者の証言も、今ではこの映画でしか聞くことができない貴重な記録で、追悼会という場で鑑賞することは大きな意義があると思います。 本年の「桜隊原爆忌の会」にもぜひご参加いただけますようご案内申し上げます。被爆71年 桜隊原爆忌 原爆殉難者追悼会2016年8月6日(土)午前10:00〜 碑前祭(9:30受付開始) 10:40〜 映画『さくら隊散る』上映 《映画『さくら隊散る』について》──新藤兼人監督1988年作品──この映画は、29年前の桜隊原爆忌の会場から始まりました!かつてこの追悼会で聞くことのできた関係者の証言も、今ではこの映画でしか聞くことができない貴重な記録です。(下記証言者一覧参照)--------------------------------------------------------------------------新藤兼人監督「撮影日記」(『さくら隊散る』未来社刊より)1987年8月6日 6時15分出発。きょうから本格的な撮影。五百羅漢寺で原爆忌を撮る。3時終了。忌に参加の人たち、滝沢修、小澤栄太郎、河原崎国太郎、浜村純、多々良純、佐野浅夫、阿木翁助、槇村浩吉、池田生二、丸山由利亜、江津萩枝、他。--------------------------------------------------------------------------《スケジュール》 10時00分〜 碑前祭 10時40分〜 映画『さくら隊散る』上映 13時00分〜 懇親会 *参加者多数の場合は分散して食事後、13:30〜となります。 (14時30分 閉会予定)懇親会および上映にあたって、当映画に出演された岩倉高子さん(青年座、園井恵子が被爆後に駆けつけた中井夫人役)に、ご挨拶と撮影時の思い出をお話しいただく予定です。参加費:2,000円(法要料・献花料含む)懇親会参加の場合:3,000円(食事・飲み物付き)高校生以下:無料(懇親会参加の場合は 1,000円)●会 場 桜隊菩提寺 目黒 五百羅漢寺 東京都目黒区下目黒 3−20−11 TEL:03−3792−6751主催:桜隊原爆忌の会 会長:神山 寛《追記》午前8時00分から五百羅漢寺主催の「平和祈念桜隊殉難法要」が始まります。ご都合のつく方はぜひご参加ください。 《映画『さくら隊散る』詳細データ》 1988年 近代映画協会作品 脚本・監督:新藤兼人 原作:江津萩枝『櫻隊全滅』(未来社) 企画:能登節雄、池田生二 製作:日高宗敏、高島道吉 【出演者】ナレーター:乙羽信子丸山定夫:古田将士 園井恵子:未来貴子 仲みどり:八神康子 高山象三:川島聡互 島木つや子:竹井三恵森下彰子:水野なつみ羽原京子:元松功子 小室喜代:北川真由美笠絅子:坂上和子 槇村浩吉:及川以造 池田生二:川道信介 八田元夫:内堀和晴 赤星勝美:黒川博之 乃木年雄:大林隆介 沢道子:石川裕見子 藤堂:小坂井秀行 中井夫人:岩倉高子 羽原の父:江藤漢 羽原の母:上杉二美 散髪屋:広瀬昌助 太田怜:清水一男 清水善夫:内田正樹 【証言者】 千田是也・滝沢修・小澤栄太郎・宇野重吉・松本克平・嵯峨善兵・浜村純・倉田地三・殿山泰司・長門裕之・河原崎国太郎・山本安英・杉村春子・桑原経重・槇村浩吉(桜隊事務長)・池田生二(桜隊俳優)・利根はる恵(苦楽座女優)・赤星勝美(日本移動演劇連盟職員)・乃木年雄(珊瑚座座長)・葦原邦子(宝塚歌劇団)・桜緋紗子(宝塚歌劇団)・内海明子(宝塚歌劇団)・有馬智寿・日高宗敏(五百羅漢寺貫主)・丸山由利亜(丸山定夫の姪)・清水善夫(仲みどりを診断した東京帝大の医学生、当時は医師)・太田怜(同上)■プロデューサー:溝上潔、新藤次郎/撮影:三宅義行/美術:重田重盛/音楽:林光/録音:永峯康弘/照明:山下博/編集:近藤光雄/助監督:金高謙二※お問い合わせ・お申し込みは、桜隊原爆忌の会世話人事務局 TEL:03-3667-1890 FAX:03-3667-1891 URL:http://www.photo-make.jp/sakura.html E-mail:sakuratai01☆yahoo.co.jp (☆→@に変えてください) ◆上記ホームページから、あるいはメールアドレス宛にお申し込みいただけます。 ◆会場準備のため、必ずお申し込みのうえご参加ください。当日ですと入場できない場合があります。《チラシダウンロード用PDF 》 ←<Google driveの、左上「ファイル」下の太矢印でダウンロードできます>
2016年07月08日
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関心のある方には、下記をご覧いただければ幸いです。《 2015年 桜隊原爆殉難者追悼会・報告 》http://www.photo-make.jp/hm_4/sakura_52_1.htmlhttp://www.photo-make.jp/hm_4/sakura_52.html 紙版の報告集表紙桜隊原爆忌の会ホームページhttp://www.photo-make.jp/sakura.html
2015年12月24日
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YouTubeにて公開しました。お出でになれなかった方で、興味がございましたらご覧下さい。約35分です。 ◎朗読構成◎「桜隊の見上げた空 ─1945年8月6日広島」被爆70年 桜隊原爆忌 原爆殉難者追悼会 2015年 8月 6日(木) 於:東京目黒・五百羅漢寺《演出》神山 寛(劇団俳優座)《構成》桜隊原爆忌の会世話人事務局《出演》 有馬理恵(劇団俳優座):園井恵子 落合佑介(テアトルエコー放送映画部):高山象三・池田生二 佐藤哲也(劇団文化座):槙村浩吉・八田元夫 白井真木(プロダクションタンク):仲みどり 渡辺 聡(劇団俳優座):丸山定夫《音楽》堀ゆかり(キーボード)
2015年10月18日
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《2015年移動演劇桜隊原爆忌のご案内》 被爆70年の今年4月、核不拡散条約(NPT)再検討会議開催前に国連本部で原爆展が開かれ、ワシントンでは「原爆の図」6点が展示されています。ところが、「核禁止条約」についての合意は決裂、日本は、唯一の被爆国として核兵器の被害を訴えながら誓約文書に反対する立場をとり、「核の傘」のもとに、核を否定できないという二面性が露呈しました。「世界の政治指導者や若者らの被爆地・広島、長崎の訪問」の復活もならなかったことは、被爆地広島・長崎に失望ももたらしました。 原爆の災厄は、戦争を知らない政治家たちの中に曝されて風化がすすみ、憲法九条を無力化しようとする動きも止まりません。わたしたちは例年にも増して強く『桜隊原爆殉難碑』の前で核廃絶・戦争放棄を誓い、平和の大切さについて考えなければならないと思います。 本年の企画は、被爆死までの桜隊9名の思いを朗読劇で綴り、また、この「桜隊原爆忌」がどのように起こり継承されてきたか、70年の流れをまとめ、皆様にお届けすることにしました。 本年の「桜隊原爆忌の会」にもぜひご参加くださいますようご案内申し上げます。被爆70年 桜隊原爆忌 原爆殉難者追悼会2015年 8月 6日(木)午前10:30〜 碑前祭 12:00〜 追悼会《追悼会の主な内容》 ◎朗読構成◎「桜隊の見上げた空 ─1945年8月6日広島」(演出/神山寛) 1942年、「苦楽座」として創立された当時から、「移動演劇桜隊」と名を変えて広島に赴任し、被爆死までの9名の悲喜こもごもの想いを追います。8月6日をどのように迎えたのか? 被爆70年にあたり、2005年(被爆60年)に故北村和夫さん(文学座)と故南風洋子さん(民藝)に出演していただいた記念的公演を再構成しました。 出演/有馬理恵(劇団俳優座) 落合佑介(テアトルエコー放送映画部) 佐藤哲也(劇団文化座) 白井真木(プロダクションタンク) 渡辺 聡(劇団俳優座) 音楽/堀ゆかり2005年の上演シーン◎桜隊原爆忌の会の誕生までとその歴史 ─70年をふりかえる そもそもは1945年9月17日、築地本願寺での「桜隊合同葬」が端緒でした。弁士、漫談家、作家、俳優として活躍した元祖マルチタレントとも言える徳川夢声が開催にこぎつけたものです。夢声は「苦楽座」(桜隊の前身)創立同人であり、公演活動を共にし起居をも共にした同人たちの原爆死を悼み、「さくら隊殉難碑建立事務所」を起ち上げて東奔西走の結果、現在地の建立に至りました。その後の慰霊会から原爆忌の会の提唱・設立、そして現在までの70年間の流れを俯瞰します。《プログラム》2015年 8月 6日(木)10時30分〜15時----------------------------------------10時30分〜 碑前祭、記念撮影 <歓談、食事>12時00分〜 追悼会(司会/浦吉ゆか)◎会長挨拶/神山寛 ◎ご遺族・関係者紹介◎ご遺族・関係者紹介◎朗読構成 桜隊の見上げた空 ─1945年8月6日広島─◎桜隊原爆忌の会の誕生までとその歴史 ─70年をふりかえる─----------------------------------------●参加費 3,000円 高校生以下1,000円(献花料・記念写真・昼食代含)●会 場 桜隊菩提寺 目黒 五百羅漢寺 東京都目黒区下目黒 3−20−11 TEL 03−3792−6751《追記》午前8時00分から五百羅漢寺主催「平和祈念桜隊殉難法要」が始まります。ご都合のつく方はぜひご参加ください。 ※お問い合わせ・お申し込みは、桜隊原爆忌の会世話人事務局 TEL 03-3667-1890 FAX 03-3667-1891 URL:http://www.photo-make.jp/sakura.html E-mail:sakuratai01☆yahoo.co.jp (☆→@に変えてください) ◆上記ホームページから、あるいはメールアドレス宛にお申し込みいただけます。 ◆会場準備のため、必ずお申し込みのうえご参加ください。当日ですと入場できない場合があります。 《チラシダウンロード用PDF》 ←<Google driveの、左上「ファイル」下の太矢印でダウンロードできます>
2015年06月25日
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遅ればせながら、2014年桜隊原爆忌の追悼会報告をホームページにアップしました。内容が多く、4ページ分になりました。→ http://www.photo-make.jp/sakura.html報告集をお送りしていない方で興味のある方はホームページをご覧くださいませ。 ↓ 紙判の報告集表紙
2015年01月20日
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遅くなりましたが、当日のDVDが届きましたので、切り出し・編集のうえ、YouTubeにて公開しました。お出でになれなかった方で、興味がございましたらご覧下さい。約30分です。出演/武田光太郎(レオコーポレーション) 中島文世(劇団文化座) 福原美佳(青年劇場) 森尻斗南(劇団俳優座)構成・演出/桜隊原爆忌の会事務局2014年8月6日 於:東京・目黒 五百羅漢寺
2014年09月22日
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8月6日NHKの首都圏ニュース 午後8時45分〜苦肉の採録手法で、動きのスムーズでない動画になってしまいましたが・・・。
2014年08月10日
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相当暑い日でしたが、当日欠席が比較的少なく当日参加が上回ったので、参加者総数は109名。新聞取材が少なかったため、例年より10〜20名少なかったものの、会場は満員となりました。NHKテレビが取材に入り、8時45分の「首都圏ニュース」で放送されました。3人がかりで2時間半びっしり撮影&取材をしていったのだけれど、放送は1分10秒程度。取材って単価が高いと実感しますが、国営放送はそれでいいのだ、お馬鹿番組は民放に任せなさい!ビデオが撮れたので部分抽出編集してYouTubeにアップしたら、サポートファイルでなかったので失敗。改めて編集してからアップすることになるでしょう。今日はハイライトシーンの写真のみ。朗読構成「仲みどりの生涯と そのカルテの行方」左から、 武田光太郎(レオコーポレーション) 福原美佳(青年劇場) 中島文世(劇団文化座) 森尻斗南(劇団俳優座) 報告「仲みどりのカルテ発見まで」朝日新聞 大岩ゆり記者いやあ、取材のエピソードが面白かったです。まあ、こういうことを話してほしいと僕がお願いしたことなのですが、期待は裏切られませんでした。
2014年08月07日
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桜隊原爆忌までカウントダウン! 3・2・1・0となりました。朗読構成稽古の稽古はこれまで4回、ただし、全員揃っての稽古はまだ2回。残すは本日3日、そして5日と当日のみ。これから息の合わせ方、演出など厳しくなります。では、8月1日の稽古の一部を。(聞いたことがあるとお思いの方もいらっしゃるであろう部分ではありますが・・・左から、武田光太郎(レオコーポレーション) 福原美佳(青年劇場) 中島文世(劇団文化座) 森尻斗南(劇団俳優座)
2014年08月02日
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《2014年移動演劇桜隊原爆忌のご案内》 わたしたちが毎年『桜隊原爆殉難碑』の前で、核廃絶・戦争放棄を誓い、平和の大切さについて考えるなか、政財界ではそれと逆行するような動きが加速しているように見えます。69年間日本の守って来た平和の概念を崩すような“集団的自衛権”“武力行使の容認”などの言葉が奔り、日本の平和憲法を改ざんする方向に向かっていくような不安を覚えます。また、3・11から3年以上経った今も、福島県での農畜水産業をはじめ多くの生活不安を抱えた方々がいるにもかかわらず、急速な原発再稼働への動きがあるのも現実です。 さて、昨年8月4日の朝日新聞で、長年の謎になっていた仲みどりのカルテの原本が発見されたことが大きく報道されました。そこで本年度の企画では、世界で初めて「原子爆弾症」を名付けられた仲みどりの生涯を出来るかぎり掘り起こし、朗読構成としてお届けします。そして新たに「原子爆弾症」の恐ろしさに目を向け直し、本年も皆様とともに平和の大切さについて考えたいと思います。被爆69年 桜隊原爆忌 原爆殉難者追悼会2014年 8月 6日(水)午前10:30〜 碑前祭 12:00〜 追悼会《追悼会の主な内容》◎朗読構成◎「仲みどりの生涯と そのカルテの行方」 (構成・演出/桜隊原爆忌の会事務局) 仲みどりは、世界で初めて名付けられた「原子爆弾症」の第1号患者である。被爆後救助された仲は臨時収容所で一夜を過ごし、8月8日朝、軍隊天幕をまとって裸足のまま抜け出し、昼過ぎに運行された上り復旧列車で東京に戻る。大きなけがもなく、演劇への情熱を誓うが、体調がすぐれず東大病院に向かい、都築正男教授による手厚い治療を受けることになった。しかし、放射能に蝕まれた体は治療のすべもなく8月24日死亡。世界初となる原子爆弾症の貴重な記録が残されているはずであった。その生涯を追う。出演/武田光太郎(フリー) 中島文世(劇団文化座) 福原美佳(青年劇場) 森尻斗南(劇団俳優座)◎報告◎「仲みどりのカルテ発見まで」 朝日新聞社 専門記者(医療・被曝担当/福島駐在)大岩ゆり 東大病院に残されていたのは仲みどりの「剖検記録」と病理標本の一部のみで、当時は米占領軍に接収されたのではないかという見解が強かった。唯一、1973年に米国から返還された占領軍接収資料の中に英訳カルテが見つかったが、大半が機密解除されているにも関わらず、原本は米公文書館に存在しないことも判明。その後の医・科学者、報道陣による調査でも発見に至らず、2005年の毎日新聞では2つの可能性が示唆された。東大病院で秘密の場所に隠したか、米国が接収し報告書作成後に日本で廃棄したか…。そうして、昨年の原爆忌の前々日、朝日新聞に「カルテ発見」のタイトルが踊った。《スケジュール》2014年 8月 6日(水)10時30分〜15時 10時30分〜 碑前祭、記念撮影 <歓談、食事> 12時00分〜 追悼会(司会/浦吉ゆか)◎開会 ◎挨拶/神山 寛 ◎ご遺族・関係者紹介◎朗読構成 「仲みどりの生涯と そのカルテの行方」上演◎報告 「仲みどりのカルテ発見まで」 (15時終了予定)●参加費 3,000円 高校生以下1,000円(献花料・記念写真・昼食代含)●会 場 桜隊菩提寺 目黒 五百羅漢寺(地図と交通手段はチラシ裏面) 東京都目黒区下目黒 3−20−11 ☎03−3792−6751主催:桜隊原爆忌の会 会長:神山 寛《追記》午前8時00分から五百羅漢寺主催「平和祈念桜隊殉難法要」が始まります。ご都合のつく方はぜひご参加ください。※お問い合わせ・お申し込みは、桜隊原爆忌の会世話人事務局☎03-3667-1890 FAX03-3667-1891URL:http://www.photo-make.jp/sakura.htmlhttp://www.photo-make.jp/hm_4/sakura_46.htmlE-mail:sakuratai01☆yahoo.co.jp (☆→@に変えてください)◆上記ホームページから、あるいはメールアドレス宛にお申し込みいただけます。◆会場準備のため、必ずお申し込みのうえご参加ください。当日ですと入場できない場合があります。チラシ表面ダウンロード用PDFチラシ裏面ダウンロード用PDF<Google driveの、左上「ファイル」下の太矢印でダウンロードできます>
2014年07月10日
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吉田調書 - 特集・連載:朝日新聞デジタル「吉田調書」=福島原発事故─吉田昌郎所長が語ったもの 全28時間400ページ、5月20日から順次公開中。 http://www.asahi.com/special/yoshida_report/ 【プロローグ】 朝日新聞は、東日本大震災発生時の東京電力福島第一原子力発電所所長、吉田昌郎氏が政府事故調の調べに対して答えた「聴取結果書」を入手した。レベル7の大災害を起こした福島第一原発の最高責任者であり、事故収束作業の指揮官であった吉田氏の唯一無二の公式な調書である。吉田氏は事故について報道機関にほとんど語らないまま2013年7月に死去した。調書も非公開とされ、政府内にひっそり埋もれていた。 【28時間、400ページ】 吉田調書は全7編で構成されている。総文字数はおよそ50万字。A4判で四百数十ページに上る分量になる。吉田氏への聴き取りは13回中11回が福島第一原発から南へ20km離れたサッカー施設 J-VILLAGE JFAアカデミーのミーティングルームで、残る2回が吉田氏の仕事場である福島第一原発免震重要棟でおこなわれた。 政府事故調は772人から計1479時間にわたって聴き取りをおこなった。吉田調書はその一環で作成された。対象1人当たりの平均聴取時間は2時間弱。吉田氏への聴取時間は28時間あまりで、あの瞬間、どう行動し、何を考えていたかまで聴き取った。畑村洋太郎・政府事故調委員長は、ほかに吉田氏の公式の調書がないことから「貴重な歴史的資料」と呼んだ。 これを受けて、2014年5月23日の『日刊ゲンダイ』に安倍首相の対応が下記記事となりました。 安倍官邸が激怒! 福島原発「吉田調書」流出で“犯人捜し” 日刊ゲンダイHP → http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/150411
2014年05月23日
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Google+ での注目の投稿というソーシャルメールで知って、記録しておけば資料になると思い、関係個所に残しておくことにしました。 【翻訳:Google翻訳+Infoseekマルチ翻訳他】1945年以降あらゆる核爆発のコマ落しの地図-橋本勲による日本のアーティスト橋本勲は1945~1998年に起こった2053発の核爆発の美しく、しかし疑う余地なく恐ろしいコマ落しの地図を作成しました。これは、ロスアラモスの近くでマンハッタン計画の「三位一体」テストから始めて、1998年5月のパキスタンの核実験までをまとめたものです。この過去10年(100%明白でない両方の合法性)での北朝鮮の2つの嫌疑のかかる核実験は無視しています。彼らが実行して集計した核兵器は、画面の上部と下部のバーに置き、それぞれの国の爆発のたび、ドーンという音とともに地図上に点滅する点が表示されます。 2003年にプロジェクトを開始した橋本は「核兵器の恐ろしさとと愚かさ」を示すことを目的としてこれをつくったと言います。それは、本当にゆっくり始まります — しかし実際の動向を見るには、1962年頃にスキップしてください。圧倒的に増えていったことがわかります。
2014年01月13日
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遅ればせながら、8月6日上演の動画をYouTubeにアップしましたのでご紹介しておきます。ご来場いただけなかった方はぜひご覧ください。当日の参加者は約140名。報告集は現在作成中で11月末にアップ予定です。《案内記事はここ》【出演】丸山定夫:青木和宣(劇団文化座)三好十郎:鳥畑洋人(劇団昴)園井恵子&河崎なつ:堀江真理子(マーリエ企画)20代の盛田(盛内政志):落合佑介(テアトルエコー)40年後の盛田(盛内政志):神山 寛(劇団俳優座)
2013年11月01日
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たった今、連絡が入って、先日取材を受けた朝日新聞から、朗読劇のことを中心にした記事として、4日朝刊に掲載する予定だということです。ただし、東京地域版だろうと思いますが……。同時に、同じく朝日新聞4日朝刊で仲みどりについて別取材を受けた記者から、取材の結果をまとめた記事を、これも明日4日の朝刊に掲載予定とのこと。こちらは医療科学部の取材なので、全国版だと思います。続いて、近々毎日新聞にも記事が載るはずです。今年は久しぶりに、取材が多かった。さて、桜隊原爆忌の会の事務局としては、電話から離れられません!●8月6日は桜隊原爆忌
2013年08月03日
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Eテレセレクション・アーカイブス「原爆・終戦関連番組」 NHKオンライン 番組内容:原爆関連の番組をアンコール放送する。 2013年8月4日(日) 午前0:25〜午前1:57[=8月3日24;25〜25;57](92分) 新日曜美術館「イサム・ノグチ 幻の原爆慰霊碑」(2005年) 【出演】ドウス昌代,【司会】はな,山根基世 現代ジャーナル「原爆とは知らず 女優・園井恵子の戦争」(1991年) 【出演】小笠原英法,葦原邦子,池田生二,槙村浩吉 (午前1:10頃〜)「原爆とは知らず 女優・園井恵子の戦争」は、1991年8月5日PM20:00〜45 NHK教育テレビ「現代ジャーナル」で放送された番組で、僕も取材を受けて登場しています。友人の詩人にもご一緒願ったのですが、カットされていたというその詩人にとっては屈辱の記憶かと思いますが、22年ぶりの再放送ということで告知させていただきました。
2013年07月29日
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被爆68年 桜隊原爆忌 原爆殉難者追悼会 昨年の桜隊原爆忌での肥田舜太郎先生の講演ビデオの中、今も私たちの耳に残っているのは「内部被曝」についてです。「内部被曝」で括れば、原爆も原発事故も同じ視点で検証することができます。原発事故の被害は、これからもいっそう私たちの社会や、暮らしの中に現実の問題として現れてくるのではないでしょうか。“脱原発”の市民運動も拡がりを見せていますが、一方では3・11を風化させようとする動きも見られるように思えます。 私たちは、今年も新たな気持ちで、皆様とともに『桜隊原爆殉難碑』の前、核廃絶、戦争放棄を誓い、平和の大切さについてご一緒に考えたいと思います。2013年 8月 6日(火)午前10:30〜 碑前祭 12:00〜 追悼会《追悼会の主な内容》◎お話◎「築地小劇場」の誕生から焼失までの足跡を振り返る映像『築地小劇場─震災から戦災への軌跡』を制作して野口孝一(東京都中央区教育委員会) 築地小劇場は、日本初の新劇上演のための劇場であり、劇団名でもありました。1923(大正12)年にドイツから帰国した土方与志と小山内薫が中心となって同人組織を作り、劇場の建設と新しい演劇運動が始まったのです。演劇の実験室であることを掲げ、1929(昭和4)年3月まで膨大な舞台作品が上演し続けられました。 劇場は、1924(大正13)年6月13日に開場、建坪80坪、舞台間口6間、定員500名、クッペルホリゾントや舞台手前の天井部分に電気室という画期的な設備を備えていました。1930(昭和5)年の劇団解散後、1940(昭和15)年に「国民新劇場」へと改称、1945(昭和20)年3月10日、東京大空襲で焼失しました。◎朗読構成◎「桜隊前夜」 構成・演出/桜隊原爆忌の会事務局 移動演劇「桜隊」が“核兵器による悲劇の待つ広島”での活動を開始する前夜ともいうべき日々、彼らがいかに演劇に対する強い意志を持ち、燃える心で演劇について語り合っていたか、それらの資料を掘り起こし、朗読構成としてお届けいたします。《君は何故芝居をするのか!? 移動演劇参加前夜の苦悶》園井恵子「今、ここで芝居をやめてしまったら戦争に負けてしまうみたいでしょう。」三好十郎「お前たちのやっていることは、道楽だ。映画で生計を立て、その隙間に芝居? 茶番も休み休み言いたまえ。」丸山定夫「道楽だと言われてもいい。食えなければ演目に曇りが生まれ、よい仕事を永続的にやることができないのだ。」三好十郎「馬鹿を言うな! 道楽であっていいわけがない。」出演/青木和宣(劇団文化座) 落合佑介(テアトル・エコー) 神山 寛(劇団俳優座) 鳥畑洋人(劇団昴) 堀江真理子(マーリエ企画)《スケジュール》2013年 8月 6日(火)10時30分〜15時10時30分〜 碑前祭、記念撮影 <歓談、食事>12時00分〜 追悼会(司会/浦吉ゆか)◎開会 ◎挨拶/神山 寛 ◎ご遺族・関係者紹介◎お話 東京都中央区教育委員会 野口孝一◎朗読構成 「桜隊前夜」上演 (15時終了予定)●参加費 3,000円 高校生以下1,000円(献花料・記念写真・昼食代含)●会 場 桜隊菩提寺 目黒 五百羅漢寺(地図と交通手段はチラシ裏面) 東京都目黒区下目黒 3−20−11 ☎03−3792−6751主催:桜隊原爆忌の会 会長代行:神山 寛《追記》午前8時00分から五百羅漢寺主催「平和祈念桜隊殉難法要」が始まります。ご都合のつく方はぜひご参加ください。※お問い合わせ・お申し込みは、桜隊原爆忌の会世話人事務局☎03-3667-1890 FAX03-3667-1891URL:http://www.photo-make.jp/sakura.htmlhttp://www.photo-make.jp/hm_4/sakura_40.htmlE-mail:sakuratai01☆yahoo.co.jp (☆→@に変えてください)◆上記ホームページから、あるいはメールアドレス宛にお申し込みいただけます。◆会場準備のため、必ずお申し込みのうえご参加ください。当日ですと入場できない場合があります。チラシ表面ダウンロード用PDFチラシ裏面ダウンロード用PDF(acrobat.com:表示まで少し時間がかかります)
2013年07月09日
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ホームページに、2012年桜隊原爆忌の報告をアップしました。《ホームページへ》 なお、冊子判報告集(PDF)も用意してあります。また、当日の「発信する子どもたち」代表・浦田沙緒音さんの発言につきまして、ご本人の了解が取れましたので、切り出し動画をアップさせていただきました。
2013年01月14日
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下記動画から、上演作品を切り出しました。詩=朗読構成「仲みどりの被爆 ―原子爆弾症第一号のカルテを持つ女優の足跡」 (近野十志夫詩集 『人物史詩 櫻隊』 より)【朗読】 瀧澤まどか/文化座 劉毅(りゅうい)/俳優座 田崎紀子/創造集団池小【音楽】 富永正寿/ソプラノサックス2012年8月6日 桜隊原爆忌 : 原爆殉難者追悼会 (於・東京目黒 五百羅漢寺)
2012年10月03日
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2012年8月6日 於:東京目黒・五百羅漢寺 12:00~14:30
2012年08月19日
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被爆67年 桜隊原爆忌 ─原爆殉難者追悼会 <追悼会の主な内容>◎講演ビデオ上映◎被爆医師・肥田舜太郎先生 「ピカドンと“内部被曝”」を語る「発信する子どもたちの会」主催の講演より(2011年3月27日収録 撮影/本田孝義) 本年度の企画では、原爆被爆と放射線による影響を伝えるに最もふさわしいと思われる、自らが原爆被爆者であり、救援・治療活動から“内部被曝”を研究され続けた肥田俊太郎先生の講演に注目しました。しかし、8月6日には東京に居られない先生の状況に突き当たりましたが、様々な方や団体の協力を得て、福島原発事故直後に行われた貴重な講演ビデオを入手し、上映の許可を取ることが出来ました。肥田先生の貴重なお話に耳を傾けていただきたいと思います。肥田舜太郎(ひだしゅんたろう)■1917年広島市生まれ。1944年陸軍軍医学校を卒業、軍医少尉として広島陸軍病院に赴任、8月6日被爆。直後から被爆者救援・治療にあたり、戦後67年間、被爆者治療と核廃絶運動に献身している。全日本民医連理事、日本被団協原爆被害者中央相談所理事長などを歴任。2009年に医療活動から引退後も活動を続け、福島原発事故後に急増した取材・講演依頼に応えている。■著書『ヒロシマ・ナガサキを世界へ―被爆医師の反核語り部世界行脚』『広島の消えた日―被爆軍医の証言』『ヒロシマを生きのびて―被爆医師の戦後史』『内部被曝』ほか訳書も多数■映画『核の傷 肥田舜太郎医師と内部被爆』(2006年仏)◎朗読◎「仲みどりの被爆 ―原子爆弾症第一号のカルテを持つ女優の足跡」(作:近野十志夫) 瀧澤まどか/文化座 劉毅(りゅうい)/俳優座 田崎紀子/創造集団池小 音楽/富永正寿(ソプラノサックス)《スケジュール》2012年 8月 6日(月)午前10時30分~午後3時午前10時30分~ 碑前祭、記念撮影 <歓談、食事>12時00分~ 追悼会◎開会 ◎遺族・関係者紹介◎追悼 前・桜隊原爆忌の会会長 中村美代子さん1995年から会長を務められた中村美代子さんが2月28日に急逝されました。原爆忌の今後のあり方を考えるための会議を準備しているさなかでした。最後まで桜隊のことを気にかけた足掛け18年の就任、「丸山定夫を殺した原爆が憎い、事故を起こした原発が憎い」と、涙ながらに語った昨年の挨拶は忘れられません。◎講演ビデオ上映 ◎朗読 ◎閉会(15時終了予定)《追記》◆被曝時刻に合わせた午前8時00分からの五百羅漢寺主催「平和祈念桜隊殉難法要」が開催されます。ご都合のつく方はぜひご参加ください。●参加費 3,000円 高校生以下1,000円(献花料・記念写真・昼食代含)●会 場 桜隊菩提寺 目黒 五百羅漢寺 東京都目黒区下目黒 3-20-11 ・03-3792-6751主催:桜隊原爆忌の会 会長代行 神山 寛※お問い合わせ・お申し込みは、桜隊原爆忌の会世話人事務局URL:http://www.photo-make.jp/sakura.htmlE-mail:sakuratai01☆yahoo.co.jp (☆→@に変えてください)◆会場準備のため、お申し込みのうえご参加ください。当日ですと入場できない場合があります。リンク●桜隊チラシ_2012表:オリジナルサイズで表示できますリンク●桜隊チラシ_2012裏:オリジナルサイズで表示できます
2012年07月10日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/16(最終回) 核の愚かさ訴える殉難碑=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年5月29日 大阪朝刊) 広島に原爆が落とされた8月6日の午前8時15分、東京都目黒区の五百羅漢寺で毎年、平和の鐘が鳴り響く。原爆死した桜隊の丸山定夫ら9人の「原爆殉難者追悼会」はこうして始まる。 五百羅漢寺で最初に平和の鐘がつかれたのは1952(昭和27)年12月8日だった。遺族や演劇人が参列して桜隊の「原爆殉難碑」の除幕式が行われた。碑銘を書いた徳川夢声は、丸山と一緒に苦楽座を創立している。夢声は訴えた。 「非人道的な原爆を発明、使用した人類を憎み呪う。その最初の犠牲者を永遠に祈念し原爆を使う愚かさに抗議しよう」 桜隊を失った演劇人の怒りが集約されていた。75年には「桜隊原爆忌の会」が誕生する。事務方を担ったのが桜隊の生き残り男優、池田生二だった。原爆に見舞われる直前、空襲に遭った家族を静岡から長野に転居させるため広島を離れて難を免れた。戦後は映画やテレビドラマで活躍するかたわら、生き残った者の使命として「桜隊原爆忌」を根づかせようと奔走した。 この後、妻が丸山の姪(めい)にあたる加藤博務さんが事務局長に就く。加藤さんは常々話していた。「戦争を知る世代が少なくなる現在、そして国内外の核をめぐる事情を考えるとき、夢声の言葉がますます重く響いてくる」 加藤さんから「原爆忌の会」の世話人を手伝ってほしいと頼まれたのが、現在の事務局長で詩人の近野(こんの)十志夫さん(65)である。 「園井恵子の人物史詩を書きたいと思って調べているときに、加藤さんから誘われたのです。演劇でさえ自由でなかった時代に、桜隊を結成して移動演劇という形で芝居を続けた人たちがいた。しかも、原爆で死んでしまった。このことは語り継いでいかねばと引き受けました」 こうして99年から事務局体制になる。加藤さんは近野さんに託して04年に鬼籍に入った。08年の追悼会で、近野さんの詩集「櫻隊--人物史詩」(青磁社)の序章が朗読された。 <戦局おしせまった一九四五年一月 苦楽座移動隊として再出発、桜隊と改称 広島に就いた十四名のうち 九名があの閃光(せんこう)の下で死んでいった> 「桜隊原爆忌」の追悼会ではゲストの講演のほかに桜隊の親族や平和団体の近況報告があり、広島市長からのメッセージが披露される。被爆65年の追悼会には早坂暁さんが登壇した。「丸山さんの体を無残に焼き殺してしまった核がなくなるときがきたら、そのとき丸山さんは成仏してくれる」 近野さんは語る。「丸山定夫をみとった生き証人は諸岡千恵子さんだけになりました。桜隊の原爆殉難を風化させてはならないと思っています。若い俳優さんが桜隊のことを知れば、自由に芝居のできる時代がいかにすばらしいか、きっとわかってくれるはずです」 この夏、広島と長崎は被爆67年を迎える。「桜隊原爆忌」は、あの日を問い続ける。(この項おわり)
2012年05月29日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/15 名優の無念、郷土に伝える=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年5月22日 大阪朝刊) 原爆の非命に倒れた名優、丸山定夫は1901(明治34)年に松山市で生まれた。きりっとした顔立ちの胸像として、丸山が生誕の地に帰ってきたのは被爆65年の2010(平成22)年6月だった。胸像を建立したのは「丸山定夫を語る会」で、JR松山駅近くの市立総合コミュニティセンターに建っている。 丸山の舞台を郷土で見ることもできず、名前すら忘れ去られつつある実情を憂慮しての胸像建立だった。「語る会」の畑野稔会長(82)は補説する。 「郷土の誇りとして丸山定夫を顕彰する、それだけの建立運動ではありませんでした。戦争で苦しみ、原爆の悲惨な犠牲者として命を落とした名優の姿を形にとどめることは、静かな平和運動の一つだと捉えています」 松山市に「語る会」が誕生したのは01年12月だった。事務局長の寺岡信子さん(75)は明言する。「近代演劇史に名舞台を刻んだ丸山定夫を語る、さらには舞台に立てなくなった丸山の無念に思いを寄せて戦争と原爆を語る、この二つが語り継ぐ柱です」 脚本家で小説家の早坂暁さんが像名を揮毫(きごう)した台座に、丸山の「俳優論」が刻まれている。<俳優である前に人間でなければならぬ>を3度繰り返してこう結ぶ。<但(ただ)し人間であるだけでは俳優になれぬ> 畑野さんは言った。「丸山らしい一文です。戦時下にあって、真実の人間を表現することで、丸山は国策へのぎりぎりの抵抗を試みていた、つまり矜恃(きょうじ)を持って演じていたのです」 寺岡さんが引き取った。「演劇人はもとより若い人たちは、胸像から丸山の役者魂に触れてほしい」 一方、園井恵子像は岩手県の「岩手町働く婦人の家」の敷地に建っている。岩手山を望む立像は96年8月、園井が幼少期を過ごした、この地に完成した。働く婦人の家には園井恵子の資料室も併設されている。 立像の建立を推進した「園井恵子を偲(しの)ぶ会」の柴田和子会長(64)は語る。「園井さんは生まれたときから平和のメッセージを携えていたと思います。園井さんの遺志を継承しようと、没後65年には町をあげて追悼イベントをしました」 10年8月の企画「原爆に散った未完の大女優 園井恵子 今、語り継ぐあの瞬間」は大盛況だった。 生誕100年を迎えるにあたって、柴田さんは声を強めた。「これからも園井さんの平和への思いを継承していきます」 また被爆地・広島には「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」がある。毎年8月6日の朝、広島市民劇場は平和大通りに面した碑の前で「さくら隊を偲ぶ集い」を開催する。昨年の集いでは福島第1原発事故の報告があった。事務局長の井上邦枝さん(63)は述懐する。 「幼い子どもを抱え放射能におびえている若いお母さんの報告は、戦争体験のない参加者にも、広島から発信していく重要さを教えてくれました」 ゆかりの地で、被爆地で、桜隊は語り継がれている。(次回は29日に掲載)
2012年05月22日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/14 「憎んでいます、いまだに」=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年5月15日 大阪朝刊) 戦争と原爆をライフワークにしている映画監督の新藤兼人さんにインタビューしたことがある。1988年に封切られた「さくら隊散る」について、こう語った。 「無念の思いを残し、新劇の俳優はどのようにして死んでいったかを克明に描けば、放射能がどんなふうにして人間を殺したかがわかると思いました」 スクリーンの丸山定夫は激しいシャックリのたびに、体がびくんびくんとはねる。たたきつけられているようでもあった。うつろな目は一点を見つめ、ゆるゆるとあげた右手が何かをつかもうとしていた。園井恵子はブドウ粒の紫色の潰瘍が全身にでき、絶望に塗り込められた目を空に泳がせていた。 もちろん丸山も園井も俳優の演技なのだが、2人はこうして死んでいったのだと、息をのんで映像に重ねた。新藤監督は「さくら隊散る」(未来社)の「あとがき」に書いている。 <放射能が人間の体にしのびこんで、内部臓器を食いちらす状況は、丸山定夫、園井恵子、高山象三、仲みどり、がたどった死のプロセスが如実に物語っている。ピカッと光った瞬間に即死した以外の人はみな、こんな経過をふんでたおれたのだと思う。いったん助かって、ほっとさせ、あとからじわじわと殺すのだから、怖ろしい正体の怪物である。(略)おそらく今後、人類が放射能にさらされることがあるとすれば、丸山定夫たちのようにして死んで行くだろう> あれから67年の歳月をへて、84歳を迎えた元珊瑚(さんご)座女優の諸岡千恵子さんの脳裏から、最期をみとった丸山定夫の姿が消えることはない。「何十万もの人々が、丸山さんや園井さんと同じように苦しんで死んでいったかと思うと、今でも体が震えてなりません。人間の尊厳を奪って殺すのが核兵器なのです」 元タカラジェンヌの内海明子さんは園井恵子の最後の脈を取っている。「原爆をどう思いますか?」と聞くと、内海さんは両手を顔の前にあげて「×」をつくった。91歳の白い手の指先まで力がこもっていた。 俳優の佐野浅夫さん(86)は桜隊の前身である苦楽座で丸山らと過ごし、亡くなる直前の仲みどりを東大病院に訪ねた。「たった一つの原爆で、家族同然にしてきた桜隊を皆殺しにされた。原爆は造ってはならなかった、使ってはならなかった。戦争ほど嫌なものはない、原爆ほど嫌なものはありません」 桜隊の演出家で今は亡き八田元夫は著書「ガンマ線の臨終」(未来社、65年7月)で<あとがきの最後に、もう一度>として特記した。<アメリカよ、お前たちは、ほんとうに許すことの出来ない、わるい、わるい、ことをやったのだぞ、とかきしるす> 今年2月28日に89歳で他界した「桜隊原爆忌の会」の中村美代子会長は昨夏の追悼会で言い切った。 「私は原爆をいちばん憎んでいます。いまだに憎んでいます」(次回は22日に掲載)
2012年05月15日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/13 米軍封印…消えたカルテ=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年5月8日 大阪朝刊) <二週間目・黒髪ボロボロ 「原子爆弾」その後> 移動演劇「桜隊」の女優、仲みどりの原爆死に言及した毎日新聞(大阪)の見出しである。 1945(昭和20)年8月31日付の記事は、GHQ(連合国軍総司令部)がプレスコードを敷いて原爆報道をすべて禁止する直前に掲載された。長めの記事だが、資料価値のある内容なので引用したい。 <広島、長崎に魔の旋風を起こした呪うべき原子爆弾の残虐性は日を経るに従ってあらゆる観点から提出暴露されているが、この度わが国医学界の手で新たに病理学的立場からその悪鬼無残の真相が究明されるに至った。(略) 東大都築外科の玄関口に衰弱甚だしい三十五、六歳の患者が家人に運ばれてきた。この患者は丸山定夫氏を隊長とする移動演劇団桜隊の花形、仲みどりさんである。(略)丸山氏をはじめ四人が爆死を免れたが、それも束の間、つぎつぎと倒れていった。みどりさんは災害の人として東大病院都築博士以下同外科総力を挙げての努力にもかかわらず、背中に受けた軽い擦過傷から日一日と衰弱してゆくばかりであった。輸血、輸血、残された手段は輸血以外にはなかった。恐るべし輸血した鍼(はり)の傷痕からまたまた腐蝕(ふしょく)しはじめていくではないか。 広島で罹災(りさい)直後身体的内部症状の認められぬままに一人で元気よく帰京した旬日前の容姿も極度の食欲不振で今は見る影もなく衰え、入院四日目罹災後二週間目には房々とした黒髪はボロボロ抜けはじめ、一寸(ちょっと)した擦傷程度の背中の傷も急激に拡大化膿(かのう)、入院当初行った血液検査によると血球とくに白血球に非常な変化があり(略)その抵抗は著しく減少していた。二十四日朝みどりさんは今朝は少し元気が出たようだと付添の医師と話し合ったほどだったが、その日容体は悪化、同日ついに不帰の人となってしまった。実に罹災後十九日目である。 死体は三宅助教授が主任となってただちに病理解剖に付されたが、その結果内臓に顕著な変化が認められた。何しろ原子爆弾による患者として最初の解剖なので、その身体に作用する恐るべき病理原因はただ内臓に現れた症状がレントゲン線、ラジウム線を作用させた際、最大の病症にまったく一致するという程度のことが判明したのみで病理学上はまだ材料が不十分だ。しかしこの史上空前絶後ともいうべき呪いの災害を被ったわが国としては医学界の名誉にかけても、これが身体におよぼす恐るべき影響ならびに症状を徹底的に究明し、これを世界に公示すべき重大な責務がある> 都築正男教授は三宅仁助教授らを連れて広島入りするが、そこで得た原爆症のデータは米軍が持ち帰った。加えて9月19日にプレスコードが敷かれ、原爆の実相は長きにわたって封印された。日本の医学界とマスコミの敗北であった。 仲みどりは「原子爆弾症」と医学的に診断された第1号患者となった。しかし、彼女のカルテは東大病院から消えたままである。(次回は15日に掲載)
2012年05月08日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/12 面影消え苦しむ姿「無念」=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年4月24日 大阪朝刊) 憲兵は日本陸軍の兵科の一つで、軍事警察をつかさどった。権限が拡大されると思想弾圧など国民を監視したが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって解体された。 当時、20歳になったばかりの佐野浅夫さんは、1945(昭和20)年8月15日の終戦を過ぎても軍から解放されなかった。幹部候補生を対象に補助憲兵を命じられた。 86歳を迎えた3代目水戸黄門の佐野さんは語るのだった。「GHQのマッカーサー司令官が日本に来るまでの間、兵士が反乱を起こさないように治安を維持する補助憲兵にされたのです。広島に新型爆弾が落とされたと聞いていたので、桜隊のことを気にかけながら軍隊に残りました」 この頃、珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さんは広島で丸山定夫をみとり、神戸で園井恵子と高山象三に会って東京に戻っていた。園井と高山の死去は自宅で知った。広島の同じ寮で一時期を過ごした桜隊の9人が原爆に遭い、仲みどりを除く8人が他界したという。この悲しい事実を前に、諸岡さんは愁嘆にたえなかった。一方で、仲だけは生きていてほしいと祈り続けた。 「仲さんは気性が強く男勝りでしたので、どこかで生き延びているのではと希望を抱きました。でも、原爆に遭った桜隊の人たちが次々と死んでいるので穏やかではなかったです」 実はこのとき、仲は広島から東京・杉並の自宅にたどり着き、東大病院のベッドに横たわっていた。 原爆を落とされた8月6日、仲は崩れ落ちた寮のがれきの下から抜け出して、京橋川にいるところを陸軍の救助隊に助けられた。収容所で死にゆく人たちを目にするにつけ、仲はじっとしていられなかった。 8月8日、仲は破れたシーツに半裸の身を包んで、東京に向かう復旧一号列車に乗り込んだ。この列車には園井と高山も乗っていたが、互いに知る由もない。 仲が東京の実家に着いたのは10日未明だった。容体は日増しに悪化し、丸山が亡くなった8月16日、母親に連れられて東大病院を訪ね、そのまま入院した。 佐野さんは追想する。「ある補助憲兵から、桜隊の女優さんが広島から帰ってきて東大病院に入院している、と聞いたのです。仲さんだとわかったので、会いたい一心で東大病院に駆けつけました」 佐野さんが憲兵の腕章を見せると、東大病院はすんなりと通してくれた。 「お見舞いではなく、仲さんの顔を見たかった。桜隊のことを聞きたかった。その一念です」 病室で見たのは、佐野さんの知っている剛健な仲ではなかった。「面影すらなく、問いかけても、うぅうっという声しか聞けませんでした」 急性原爆症に苦しむ仲の様子について、佐野さんは多くを語らない。口に出すべきではない、と今も思っているのだろう。それほどに原爆は、仲みどりを壊していたに相違ない。 「無念極まりました」 沈黙の後、佐野さんはそう言って唇を引き結んだ。(次回は5月8日に掲載)
2012年04月24日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/11 死んだら芝居ができん=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年4月17日 大阪朝刊) 「実を言いますと、私は散り残った桜です。召集されなかったら、桜隊の10人目の原爆犠牲者となるはずの人間でした」 国民的人気を集めたテレビドラマ「水戸黄門」でおなじみの俳優、佐野浅夫さんが「桜隊原爆忌」の追悼会でマイクを握ったのは06年と07年の8月6日だった。3代目黄門の佐野さんは歴代最長の7年間にわたり水戸のご老公を演じた。 この日はサマースーツに身を包んで、長い間の沈黙を破った。「丸山定夫さん、園井恵子さん、仲みどりさん、高山象三くんの4人と一緒に苦楽座で生活をしていたのです」 苦楽座は桜隊の前身で丸山定夫、徳川夢声、薄田研二らが1941(昭和16)年12月に結成した。俳優志願の佐野さんは日大芸術学部で薄田の息子、高山象三と同期だった縁で、彼に誘われて苦楽座に参加する。 「私は園井さんよりひと回り下の丑(うし)年で、最年少の18歳でした。園井さんから、ウシウシ頑張ろうね、と励まされたものです」。東京都内のホテルのラウンジで、86歳の佐野さんは振り返る。「宝塚時代のファンから頂いた貴重なヨウカンを、園井さんがお裾分けしてくれて食べていたら、仲みどりさんに怒られてね。男の子がそんな甘い物を食べるんじゃないのって。園井さんが正座してお化粧をしている隣で、仲さんはステテコをはいてあぐらをかく威勢のよさがありました。家族的な劇団でした」 舞台にあがると、それぞれがプロの俳優力を発揮した。丸山と園井の「無法松の一生」を舞台の袖で見ていた佐野さんは、役者の神髄を学んだという。 「生身の人間になりきり、ポロポロと涙を流す丸山さんは、人間の情を表現できる俳優でした。相手役の園井さんも丸山さんに応じて、やはり涙をこぼす。2人の演技をそばで見たことが、私の一生の財産です」 佐野さんが苦楽座から引き裂かれたのは45年3月だった。陸軍の甲府連隊に召集されたのである。高山は病気がちだったので地方公演に出るのを許された。苦楽座が桜隊と改称して広島に移動するのは、6月のことだった。 佐野さんは語る。「桜隊は、苦楽座でつけた名前ではありません。当時の劇団は国から花の名前を押しつけられた。俳優座は芙蓉(ふよう)隊、宇野重吉さんは瑞穂(みずほ)劇団でした。高山くんは桜は軍隊のイメージが強いと嫌がっていたが、芝居をするために仕様がなかった」 佐野さんは標準体形だったので、「老け役もできれば少年役もできる」と、男優の少ない劇団にあって期待された。だが召集から逃れることはできない。「お国の赤紙には勝てませんよ」。佐野さんは東京を離れる前に丸山を訪ねた。 「丸山さんは私を見つめて、ぜったいに死ぬなよ、と強い口調で言ってくれました。死んでしまったら芝居ができません。そのことを伝えたかったのでしょうが、当の丸山さんが原爆にやられてしまったのだから、悔しいですよ」(次回は24日に掲載)
2012年04月17日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/10 死しても女優であり続け=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年4月10日 大阪朝刊) 終戦の年の夏、六甲の坂道を新聞紙に包んだ氷を手にして、24歳の内海明子さんは走っていた。宝塚時代から可愛がってくれた園井恵子を助けたい一念だった。 「熱が40度を超したというので額に手を当てると、それは燃えるような熱さでした。もう井戸水くらいでは役に立たないと思いました」。園井の本名・袴田トミから「ハカマちゃん」と言っていた内海さんは呼びかけた。「氷を買ってきてあげるから、ハカマちゃん、待っててね」 園井は小さくうなずいた。ビタミン注射を打った左腕は倍以上に腫れ、皮下出血による紫色の斑点ができていた。 兵庫県宝塚市の内海さんは、67年前に追憶の糸をたどる。「氷屋さんを探し当てても、ひとかけらも手に入らなくてね。断られ続けても、神様どうかハカマちゃんのために氷を与えてくださいと祈りました」。内海さんは句切って言った。「何軒目だったでしょうか、やっと1キロほどの氷を頂いたのです。解かしてはならないと新聞紙にくるんだ氷を持って、坂道を必死で駆け上がりました」 園井がわずかに呼吸を保っていた中井志づさん宅に戻るや、内海さんはガーゼを氷で冷やした。そのガーゼを園井の鼻や口元にあてると、弱々しい声で応えるのだった。「あー、気持ちいいわ」 内海さんはしんみりと続ける。「あのときは、うれしくてハカマちゃんの枕元で泣きました。この言葉が最後になろうとは思いもしませんでした」 8月21日、園井は神戸で帰らぬ人となった。 「心配のあまり脈をとっていたのですが……、ハカマちゃんの脈がかすかになって、プツッと切れてしまいました」 一方、桜隊と同宿した珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さん(84)は東京の自宅で、園井が死んだと聞かされる。「信じられないので、だって神戸で会ったとき、助かってよかったねと喜び合ったばかりよ--と言い返した覚えがあります」 内海さんは園井に薄化粧を施した。「髪は少し薄くなっていましたが、苦しんだ顔ではなく、気品があって美しい、私の知っているハカマちゃんでした」 園井は死に化粧までも映えていた。死してもなお女優であり続けた。 一人息子の高山象三を骨揚げした俳優の薄田研二は、物言わぬ園井に手を合わせると、持っていたスケッチブックを開いた。園井の美しい顔を残したかったにちがいない。 内海さんの夫で、宝塚歌劇団の演出家だった故内海重典氏は「私が愛した宝塚歌劇」(阪急ブックス)に書き留めた。 <薄田さんはデスマスク(死顔)をスケッチしていた。(略)遺体を大八車に乗せ、六甲の焼け跡を縫って火葬場に運んだ。引き手は八田元夫さん、押したのは薄田さんと私だった> 志づさんや内海さんら女性たちは、園井の遺体を乗せた大八車の後に従った。忍び泣きが六甲の坂道に降り注いだ。(次回は17日に掲載)
2012年04月10日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/9 死の気配ごまかした日=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年4月3日 大阪朝刊) 神戸港は夏の落陽を浴びて光っていた。沖合には擬装空母が放り捨てられてあった。付近の船舶はことごとく米軍の空襲で沈没させられたが、子どもだましのおとり船は見向きもされていない。 終戦から4日後の1945(昭和20)年8月19日に桜隊の演出家・八田元夫が、海に開けた六甲山麓(さんろく)に建つ中井志づさん宅の2階から目にした光景である。八田のそばでは、舞台監督兼俳優の高山象三が片息をついていた。 高山は、やっと往診してくれた医者から、法定伝染病のジフテリアと診断された。誤診であるが、急性原爆症とわかる開業医はまずいなかった。 桜隊を率いた丸山定夫をみとった八田だけは、ジフテリアに異を唱えた。しかし、ここは医者の診断に従い、高山を隔離する病院を探した。だが見つからず、高山と一緒に広島から逃げてきた園井恵子を、やむをえず隣の部屋に移した。 ほどなくして園井の部屋から、高熱にあえぐ息遣いが聞こえてきた。8月20日を迎えていた。 宝塚時代の後輩、内海明子さん(91)は中井家で園井に付き添った。園井の本名・袴田トミから「ハカマちゃん」と呼んだ内海さんが、当時を振り返る。 「8月19日までは少し歩けたハカマちゃんですが、20日にはすっかり弱られたので、ずっとそばにいて看病しました。すると中井のおばさまから呼ばれて--象ちゃんが亡くなったの、ハカマちゃんに知られたらいけないので注意してね、と言われたのです。隣の部屋が静かになったのに気づいたハカマちゃんから、象ちゃんはどうしたのと聞かれると、眠っているみたいよと答えて、夢中でごまかしました。あのときは、とてもつらかったです」 八田が珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さんに託した手紙を読んだ高山の両親が中井家に着いたとき、一人息子は火葬場に送り出された後だった。志づさんが「追いかければ間にあうかもしれません。お供します」と両親の背を押した。 だが両親は、息子の顔を見ることができなかった。炎の向こうに幻の息子がいたにすぎない。高山象三、享年21だった。 この間も内海さんは園井のそばにいた。高山の死はふせられたままであった。高山の遺体を納めた座棺を担いだ志づさんの夫らは、園井に気づかれないように静かに階段を下りた。 園井は低声で、内海さんに頼んだ。「阪大病院に連れて行ってくれない」 阪大病院に園井が思い至ったのは、体験したことのない症状に不安をおぼえたからに相違ない。当時、24歳の内海さんは「大好きで、尊敬するハカマちゃん」を助けてあげたいと痛切に思う。 だが園井の容体と当時の状況からして、いかんともしがたかった。 「お熱が下がったら行きましょうね」 太く腫れた園井の腕を、内海さんは何度もさするのだった。(次回は10日に掲載)
2012年04月03日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/8 元気だった姿、面影なく=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年3月27日 大阪朝刊) 移動演劇「桜隊」を率いた丸山定夫の絶筆は手紙だった。舞台監督兼俳優を務めた高山象三の両親に宛てて、原爆に遭遇する1週間前に書いた。<父上様 母上様 ご機嫌いかがですか>に始まる。<その後大きなブーブー(空襲)は来ませんか。(略)象ちゃんはつくづく私一生の掘り出しもの--幸福でした>。<七月二十九日 ガン>と結ばれている。 高山の父親は俳優の薄田研二で、丸山と一緒に苦楽座を創立した同人である。母親は面倒見のよさから、新劇人の間で「薄田のママ」と慕われていた。 一人息子の高山は、演出家を目指して日大芸術学部に進んだ。桜隊では舞台監督や演出助手、さらに少ない男優の役を補っていた。原爆に襲われたとき、最年少の21歳であった。 桜隊の演出家・八田元夫は広島で丸山と永別した後、神戸の中井志づさん宅で、捜していた園井恵子と高山に出会う。8月19日のことで、著書に記している。 <これが一月前、元気な姿で別れたあの象三なのだろうか。頬はぐっとこけ落ち、鼻の穴は何やら赤黒いものがつまり、血の気を失ってうすら開いた口元が苦しそうに息づいている。思いなしか額がうすくはげ上がっている。枕元には紙と鉛筆が投げ出され、たどたどしい筆跡で「水がのみたい」と書いてある。(略)どす黒く血の塊がつばと一緒にはき出された。喉が赤くただれ、その喉仏の周りに赤黒い血がべったりとねばりつき、歯ぐきからも黒血が吹き出している>「ガンマ線の臨終」(未来社) 八田に同行していた珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さんは手紙を託される。「これを持って東京の世田谷に行ってほしい」。高山の両親に宛てた、息子の重篤を知らせる手紙だった。 諸岡さんは神戸から東京に向かう。「復員の兵隊さんで汽車は満員だったのですが、慰問公演をした部隊の兵隊さんがいて、窓からぎゅうぎゅう詰めの車内に押し込んでくれたのです」 84歳を迎えた諸岡さんは「生きているのが不思議です」と語る。幸運に恵まれたのも事実で、東京駅に着いたとき、兵役を解かれた長兄を見つけた。「事情を話したら、ぼくが手紙を持って行くよと助けてくれたのです」。諸岡さんは続ける。「実家に帰ると、おまえ足があるんだね、と母親が真っ先に聞くのです。広島の状況からして諦めていたのかもしれません」 そのころ中井家では、食べ物が喉を通らなくなった高山に、桃を搾って口にふくませていた。志づさんの夫が神戸製鋼の幹部社員で、工場で分けてもらった貴重な2個の桃だった。 一方、高山と中井家に駆け込んだ園井も変調を見せ始めていた。園井の看病を続けた宝塚の後輩、内海明子さん(91)は話す。「あれほど元気だったのに、血便、血尿、発熱が見られるようになり、とうとう床につかれてしまって……」 原爆から放たれた放射線は残忍きわまりなかった。(次回は4月3日に掲載)
2012年03月27日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/7 終戦「芝居ができるわ」=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年3月20日 大阪朝刊) 宝塚歌劇団から舞台女優を目指して桜隊の丸山定夫に師事した園井恵子は、岩手県の松尾村(現八幡平市)で1913(大正2)年8月6日に生まれた。32歳の誕生日の朝、原爆に見舞われたのだから、非情な運命である。だが園井は一時、運命の女神に救われたと思っていた。「六甲のママ」と慕った神戸の中井志づさん宅に飛び込んだとき、園井は真っ先に口にしている。「私、助かったのよ、助かったのよ」 当時の園井については、結婚して中井家の近くに住んでいた元タカラジェンヌの内海明子さん(91)が詳しい。加古まち子の芸名で宝塚の舞台に立った内海さんは、7歳上の園井から妹のように可愛がられた。園井の本名が袴田トミなので、「ハカマちゃん」「アーちゃん」と呼び合い、園井が中井家を訪問するときは決まってお供をしている。 内海さんは「大好きなハカマちゃん」の記憶が薄れることはなく、むしろ鮮明になってきたという。 「広島のハカマちゃんが心配で中井のおばさまを訪ねると、浴衣を着たハカマちゃんが出てきて、ニコニコしながら元気に私を迎えてくれたのです。それも無傷ですから、抱き合って無事を喜び合いました」 実は--広島に原爆が落とされる直前の7月末、園井は公演の合間をぬって中井家でくつろいだ。広島に戻る8月1日、内海さんは相談を受ける。 「私が広島出身なので、よい疎開先はないだろうかって、ハカマちゃんに聞かれたのです。お寺を紹介したのですが、すでに大学生が借りていました」 そうした経緯もあって内海さんは園井を案じていた。8月8日に中井家で再会できると、やっと安らいだ。「洗髪したら髪の毛が抜けたので、中井のおばさまから、髪に触らないようにと言われて、そのことをよく守っていました」 一方、園井と助け合って、広島から中井家にたどり着いた舞台監督兼俳優の高山象三は衰残の身だった。 「象ちゃん、大丈夫、と何度も声をかけて、ハカマちゃんは象三さんの看病に懸命でした。たしか8月11日だったと思います。歩けない象三さんを荷車に乗せて、中井家の人たちと病院に連れて行ったのですよ、ハカマちゃんは」 東北人の粘り強い性格にもよるのだろうが、このとき園井には、21歳の高山よりも体力が残っていた。 終戦を迎えた8月15日、内海さんは園井の輝く瞳を見た。「これで思いっきり、お芝居ができるわ。そう言って、ハカマちゃんは心の底から喜んでいました」 8月17日、園井は故郷の実母に宛てて、神戸から希望をこめた手紙を出した。 <お会いしたく、たまらなくなりました。ほんとうに九死に一生を得たとはこのことです。しかも八月六日、生まれた日に助かるなんて、ほんとうに生まれ変わったんですね。健康に立ち返る日も近いでしょう。そうしたら、元気でもりもりやります。やりぬきます。母さん江>(骨子)(次回は27日に掲載)
2012年03月20日
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『週刊新潮』2012年3月22日号「墓碑銘」欄上記拡大画像 「オリジナルサイズ」をクリックで拡大
2012年03月15日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/6 空爆後の神戸で再会=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年3月13日 大阪朝刊) 大阪行きの列車が広島駅を出たのは午前3時過ぎだった。崩れ落ちたホームに詰めかけ、始発を待ち焦がれた乗客で車内はあふれた。1945(昭和20)年8月19日のことである。 桜隊の演出家・八田元夫は、珊瑚(さんご)座を率いた乃木年雄から頼まれて諸岡千恵子さんともう一人の若い女優を連れていた。 東京都内の自宅で、84歳の諸岡さんは追想する。「夜になると、焼け野原のあちこちで青白い火がぽっぽっとあがるのです。八田さんから、死体の燐(りん)が燃えているんだ、火の玉だよと聞いて、びっくりしました。怖いというより、多くの死体が埋葬されていないのだ、と思い胸が痛みました」 広島を後にした列車の車内は、復員の兵隊が目立った。八田の著書によると<汗と垢(あか)と埃(ほこり)と脂と革の息でむんむんとむれ返っていた>。太陽が海から昇り、車窓が光り始めたとき、八田が突然言った。 「一緒に神戸で、園井くんを捜そう」 根拠はあった。桜隊の寮と同じ町内会の理髪店主から証言を得ていた。「広島駅の方に、女の人と若い男の人が、肩を抱き合うようにして逃げるのを見ました。阪妻さんの無法松に出ていた女の人です」 園井恵子の名を高めたのが、阪東妻三郎と共演した映画「無法松の一生」だった。八田は男女を、園井と演出家を目指す舞台監督兼俳優の高山象三の2人だと推断していた。 諸岡さんは語る。「園井さんが宝塚歌劇団のときから家族同様にしてもらっていたお宅が神戸にあり、そこにいるのではないかと勘が働いたそうです。私は大阪で乗り換えて東京に戻る途中でしたが、八田さんに従いました」 桜隊の演出家と珊瑚座の2人の女優は神戸で降りた。米軍のB29爆撃機に27回も空爆を受けた神戸は、無残な焼け跡が広がっていた。園井が「六甲のママ」と呼んだ中井志づさんの住まいは、六甲山に向かう坂道の途中にあった。 亡き中井さんは北海道庁立小樽高等女学校の卒業生で、園井の先輩にあたる。こうした縁もあり宝塚時代から園井を支援していた。 八田が中井家の玄関を開けると、突き当たりの階段のそばに園井は揺れるように立っていた。八田の勘は的中したのである。 園井と高山は東京に向かう復旧一号列車に乗り込んだ。神戸にたどり着いたのが8月8日の昼下がりだった。園井は道端で拾った男物の地下足袋と短靴を別々の足に履き、素足の高山は藁(わら)を巻きつけていた。 「生きていたんだね、よかったね、ほんとによかった、と抱き合いました」 このとき高山は衰弱が著しく、高熱に浮かされて2階に寝ていた。園井は八田と諸岡さんに「ガンさんは?」と、桜隊の丸山定夫の安否を問うてきた。死んだとは言えず、八田は口をつぐんだ。諸岡さんも黙っていた。園井は察したようで、その夜、「ガンさんの最期を聞かせて」と、ぽつりと言った。(次回は20日に掲載)
2012年03月13日
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中村美代子さん、2012年2月28日ご逝去。(家族葬とのことで、発表を遅らせました)中村さんは桜隊原爆忌の会の会長として、出向く先では原爆と丸山定夫についてお話しされ、8月6日の会には多くの人に声をかけて誘い、と、熱意をもって活動していただきました。「私にはこれくらいしかできないから」と言って…。私たちにとってだけでなく、大変得がたい存在でした。「丸山定夫を殺した原爆が憎い! 原発が憎い!」(2011年桜隊原爆忌で発言されているときの表情)亡くなったと聞く2月28日の前日昼に電話をもらいました。3月4日に開く世話人会の確認のためでした。29日には、電話の後投函された中村さんからのハガキも届きました。会を風化させないよう、今後どのように運営したらよいか、方針を打ち出すための会議なので、中村さんも真剣に後釜を考えなければならないと言っていた翌日のことなのですから、無念です。丸山定夫を熱く語る人がまた一人減りました。舞台を観た人もほとんどいなくなっていってしまいます。ご冥福を祈るしかありませんが、きちんと後継方法を考えるのが、今の私たちの仕事です。【中村美代子さん略歴】 俳優・元俳優座、新劇俳優協会理事、桜隊原爆忌の会会長1923年生まれ。芸術小劇場、俳優座を経て現在フリー。92年、清水邦夫『冬の馬』で紀伊国屋演劇賞受賞。舞台:『三文オペラ』、『ピーチャム夫人』『女の平和』他。映画:『人間の条件・完結篇』、『赤ひげ』、『金環蝕』、『死の棘』他。TV:NHK『繭子ひとり』、『はね駒』他。中村美代子〈Wikipedia〉【注】Wikipediaに、生年1924年とありますが、本人と話した記憶(大正12年生まれと聞いていました)からご家族に確認し、1923年の誤りと判明しました。
2012年03月07日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/5 「生きろ」叫び続け…=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年3月6日 大阪朝刊) <亡(ほろ)びるな 亡びるな 生きろ/起きろ 起きろ 起き得るかぎり/生き得る限り 生きろ 再び生を楽しめ>(詩「亡びるな」の冒頭) 新劇の団十郎と呼ばれ、桜隊を率いた丸山定夫がこの詩を書いたのは23歳のときだった。 それから21年後の1945(昭和20)年8月15日、丸山は宮島の存光寺でふせていた。急性原爆症で苦しむ姿は痛々しかった。 丸山に食事を運んでいた珊瑚(さんご)座の女優、諸岡千恵子さんは枕元で声をかけた。 「戦争が終わりましたよ、丸山さん」 すると丸山は、か細い声で応じた。「脚本を検閲されずに、好きな芝居ができる世の中になったんだね、よかったねぇ」。声は途切れながらも、丸山は希望をつないだ。「この体を治して、いい芝居をやってみせるよ」 このとき丸山は歯茎から血を出し、頭髪もかなり抜け落ちていた。 2日前には、桜隊の5人の女性が白骨で発見された。丸山の記憶から、事務長の槇村浩吉や珊瑚座の座長、乃木年雄らが広島市内の寮の焼け跡を掘り返して見つけたのだ。島木つや子(22)、森下彰子(23)、羽原京子(23)、小室喜代(30)、笠絅子(けいこ)(41)。笠と島木は母子、小室は槇村の妻で衣装係兼世話人として加わっていた。 丸山は演出家の八田元夫にうめくような声で言っている。 「こんなにまでやられて、なぜ日本は手をあげなかったのだろう--」 原爆により骨と化した5人の通夜は存光寺で営まれた。丸山は遺骨に手を合わせて震えていた。諸岡さんたちが隣室に引き取ると、丸山の号泣が夜の底を揺さぶった。 このころ宮島では、運びこまれた重傷の被爆者が次々と亡くなっていた。「火葬場がないうえ、ひつぎの数も限られたので、亡くなった人は果物箱に折って入れるのです」。諸岡さんは18歳の夏を振り返る。「高く積まれた箱からは死臭が漂っていました」 空腹にあえぐ諸岡さんが足をとられて、ふらふらっと箱の山に近づいたとき、地元の人から注意された。「だめよ。水が流れているでしょ、死体の水よ」。諸岡さんは思わず空を仰いだ。「人間は死んだら、水になるのだろうか」 日付が8月16日に変わった。<生きろ>と胸のうちで何度も叫んだにちがいない丸山は、体力を使い切っていた。妻の骨を拾った槇村は「桜隊原爆忌の会」が作製したリーフレットに「丸山定夫の最期」を残した。 <高熱は朝から続いているし、シャックリは病人を苦しめ続けていた。ガンさんには、庭にとび出して井戸で水をかぶるような体力は、最早(もはや)なかった。時に、耐え切れず、水を一口飲んでは噎(むせ)んで体力を消耗した。(略)女医さんが来てくれた。「ご臨終です」と云(い)って、時計を見ると午後九時三十分だった> 享年44、丸山定夫の人生は永遠に幕を閉じた。(次回は13日に掲載)
2012年03月06日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/4 「熱い」虫の息で水浴び=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年2月28日 大阪朝刊) その年の夏、18歳だった彼女は映画の一場面のような光景を脳裏にとどめた。67年も昔のことだが、まるで昨日の出来事のように、くっきりと記憶のスクリーンに映し出せる。 月が高く昇った半夜、寺の裏手にある井戸端で、痩せた男が水浴びをしていた。井戸につるべを落とし、くみあげた水を頭からかぶる。時間が止まったように鈍い動作の後、やがて男は動かなくなった。 移動演劇「珊瑚(さんご)座」の女優だった諸岡千恵子さん(84)は振り返る。 「大変よ、劇団の人が水浴びをしている、と言われて庭に出たのです。丸山定夫さんでした。井戸端に座りこんで動かないので、どうしたのですかと聞くと、体が熱くてかなわないので、水浴びをしているんだよ、と消えるような声で言われたのを覚えています」 広島湾に浮かぶ宮島の存光寺で水浴びをしていた丸山定夫は、爆心地から約750メートルの堀川町の寮で被爆した。寮は壊滅し、丸山が率いた桜隊の8人も、爆風と熱線と放射線に襲われた。諸岡さんら珊瑚座の座員は存光寺に疎開したうえで、8月2日から地方巡演に出ていて無事だった。 8月10日、存光寺に丸山メモが届いた。<タイビにいる。れんらくたのむ。ガン>。紙切れに鉛筆で刻んだ筆跡は本人に違いなく、丸山の愛称は「ガンさん」で通っていた。タイビは鯛尾収容所とみられた。 丸山メモが届くのを待っていたかのように、桜隊の2人が東京から存光寺に駆けつけた。演出家の八田元夫と事務長の槇村浩吉である。2人は召集された男優を補充するために帰京していた。 八田と槇村は、丸山の生存を喜んだ。広島にいた桜隊の9人全員が死亡したのではないか、と八田は覚悟のうえだった。 2人は存光寺を後にして鯛尾収容所に向かうが、丸山は国民学校の収容所に移っていた。2階の教室で毛布にくるまり、虫の息だった。このときの様子を、八田は著書「ガンマ線の臨終」(未来社)に記している。 <外傷は首、背、手、足、八、九ヵ所、裂傷だけで火傷は見当たらないが、首のあたりをしたたかに打っているらしい(略)「このままでは死ぬぞ、と這(は)い出た」「火の追いかけて来ないところへたどり着いて、そのまま倒れてしまったんだね」(略)頬は燃えるように熱い。話す言葉が途切れ途切れになってくる> 12日、丸山は存光寺に運び込まれた。丸山を診た医師の言葉を、諸岡さんは覚えている。 「だいぶガスを吸っておられるので、お気をつけてください」 目に見えない放射線の正体が定かでなかった一時期、市民の間でも「悪いガス」がささやかれた。 だが、丸山が弱り切った体で水浴びを続けたのは「悪いガス」のせいではなく、ひとえに放射線の影響による。原爆放射線は名優の全身をほてらせ、体内の細胞を壊しつくそうとしていた。(次回は3月6日に掲載)
2012年02月29日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/3 生死分けた宮島疎開=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年2月14日 大阪朝刊) 強い近視の目には、おびただしい数の丸太がぷかぷかと川面に浮いているようだった。光っていた。このとき18歳の諸岡千恵子さんは見えたままの様子を声に出した。すると諸岡さんの所属した移動演劇「珊瑚(さんご)座」を率いた乃木年雄が言った。 「いいな、近眼は。あれはみんな人間だよ」 諸岡さんは目を凝らして見入った。真夏の太陽が裸の死体を照り返していた。1945(昭和20)年8月9日のことで、諸岡さんの知る1週間前の広島はなかった。 振り返るに珊瑚座は8月1日に堀川町の寮を出て、宮島の存光寺に疎開する。米軍の空襲を警戒してのことで、同宿の桜隊も同行する予定だったが、珊瑚座が一足先に引っ越した。 8月2日、珊瑚座は芸備線に乗って巡演に出る。 8月6日、岡山での公演後、楽屋で広島の異変が話題になった。「汽車でここに来る途中、広島の空に雲のような白煙が立ちのぼっていたが、何かあったのだろうか」。空襲警報のたびに公演が中止になっていたので、座員たちは気にとめず島根を目指した。 8日になって、広島に新型爆弾が落とされ、被害が甚大だと聞いた。諸岡さんをはじめ珊瑚座の誰もが、桜隊の安否を気遣った。 9日朝、島根から広島に向かう。諸岡さんは回想する。「広島から来る汽車は、全身を焼かれて真っ赤な肉が露出した負傷者が大勢乗っていました」 途中から汽車は動かなくなり、珊瑚座の座員は歩き始めた。1時間ほど進んだところで、軍用のトラックに乗せてもらった。慰問公演で顔見知りになった少尉がいて、便宜を図ってくれたのだ。こうして諸岡さんらは広島市内に入る。 「何もない、焼け野原だけが広がって、あちこちから黒煙があがっているのです。川に浮かんだ死体もそうですが、それは恐ろしいまでの惨状でした」 珊瑚座は宮島の存光寺に戻った。翌10日から乃木たち5人の男性座員が、桜隊の捜索を始める。「広島原爆戦災誌」(広島市編)に乃木は手記を寄せている。 <堀川町の寮の焼け跡は、あたり一面真っ白な灰で、コナ雪が積もったようになっている。(略)私たちは屋敷跡を歩きまわったが、死臭は勿論(もちろん)、人間が焼けたような形跡もない。白い灰が地上一尺ほど平面に拡(ひろ)がって、瓦のカケラ一つ見つからない><たくさんの負傷者が横たわっている防空壕(ごう)を一つ一つ探して回った。「桜隊の人はいませんか!」大声で呼びながら、壕の奥の方まで行ったが、返事がない。探し疲れて、私たちはその日は帰った> 一方、存光寺には重傷の原爆被災者が次々と担ぎ込まれた。「やけどがひどく鼻や口がわからない人たちが、水を水を……と言っているのです。やかんに水を入れて運んでも、飲むことができず、顔から水がこぼれるばかりでした」 諸岡さんは死にゆく人々を前に胸が痛んだ。桜隊の俳優たちの顔がうかび、気がかりでならなかった。(次回は21日に掲載)
2012年02月14日
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う2 鑑札手にし巡演の旅=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年2月7日 大阪朝刊) ひとたび戦争になれば、国家は勝手放題に振る舞う。そのことを見せつけられたのが、先の15年戦争だった。演劇にしても、俳優が舞台に立つには、内閣情報局が発行する「鑑札」と呼ばれた俳優登録証明書を必要とした。いわば国家の意に沿わない俳優を、強制的に排除できたのである。 鑑札について、「桜隊原爆忌の会」の中村美代子会長(88)が追悼会で体験を披露している。「俳優座で演じるため、警視庁の特高二課に行きました。指紋を押印させられたうえで俳優鑑札をもらえたのです」 なんともいかめしい限りの鑑札だが、東京都内に住む諸岡千恵子さん(84)は、13歳のときに申請し、2年かかって手にした。 「歌や踊りが好きな浅草っ子でしたから、子役として金語楼劇団に入ったのです」。この劇団は落語家にして喜劇俳優の柳家金語楼が1940(昭和15)年に結成した。「警察から鑑札をもらえたのは15歳のときでした。身長が低いのをいいことに、子役で出演させてもらえたのです」 諸岡さんの芸名は柳みどりだった。新派の俳優、乃木年雄に引き立てられた。あるとき、乃木が言った。「兵隊に取られて芝居ができなくなったら困る。一緒に移動演劇に行こう」 すでに2人の兄が召集され、諸岡さんと2人暮らしの母親は強く反対した。母親の気持ちは理解できたが、それでも舞台に立ちたい。18歳の一念が実り、諸岡さんは乃木を座長とする移動演劇「珊瑚(さんご)座」の座員となる。9人の一座だった。 「東北の軍需工場やお寺などを巡演する途中で、何度も空襲に遭ったのですよ。四国では、特攻で飛び立つ兵隊さんの前で剣劇を披露しました。おすそわけに頂いたおまんじゅうに、特攻と焼き印されていたのが忘れられません」 日本移動演劇連盟から疎開を命じられた珊瑚座は45年6月に広島入りした。丸山定夫の率いる桜隊もすぐにやって来た。丸山の他に園井恵子、仲みどり、島木つや子、森下彰子、高山象三らがいた。両劇団は広島市の中心街、堀川町の民家を寮にした。 「持ち主が疎開していた家屋ですが、とても大きな木造2階建てでした」。諸岡さんは同宿した桜隊に言及する。「おちびさんと呼ばれて、桜隊の俳優さんにかわいがられてね。買い出しで手に入れた野菜を、園井さんや仲さんから分けてもらったものです。炭火で熱くした鉄のコテでパーマをかけあったりもしました」 丸山定夫は慢性の肋膜(ろくまく)炎を患っていた。諸岡さんは述懐する。「丸山さんは、ほとんど寝ていました。部屋の前を通ると手招きをして、紙に包んだあめ玉をくれるのです。優しい方で、誰からも慕われていました」 7月16日、桜隊は島根と鳥取の公演を終えて、10日ぶりに広島の寮に戻った。入れ替わりに諸岡さんの所属した珊瑚座は8月2日から地方巡演に出る。そして8月6日--諸岡さんが岡山にいたとき、米軍により広島に原爆が落とされた。(次回は14日に掲載)
2012年02月07日
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本日1月31日から、以下の連載が毎日新聞大阪で始まりました。毎週火曜日、全16回の予定です。ということは、5月まで続くわけですね。全国版でないのは残念ですが、ここに転載予定です。関西の方、新聞読んでいただければ幸いです。私どもも取材に協力させていただきました。 平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う 1 国策に散った演劇団=広岩近広 ≪記事≫ (毎日新聞 2012年1月31日 大阪朝刊) <移動演劇さくら隊原爆殉難碑>。石碑に刻まれた原爆殉難の文字が、1945(昭和20)年8月6日を今に問うている。占領下の建立だったので、軍隊を連想する漢字の「櫻」を碑銘に使わず、平仮名の「さくら」にしたという。毎年、広島原爆の日を迎えると、石碑の建つ東京都目黒区の五百羅漢寺で「桜隊原爆忌」が営まれる。 移動演劇「桜隊」は新劇の団十郎と評判をとった人気俳優、丸山定夫が率いた一座だった。当時の演劇事情と桜隊の被爆については「桜隊原爆忌の会」(東京都)によるパンフレットに詳しい。 <戦争のさなか、戦況の悪化とともに、劇団は壊滅状態にありました。国の方針に沿わない劇団は、強制的に解散させられ、100名以上が検挙されました。芝居を続けるには、移動演劇連盟に加盟するしかありませんでした。1944年に入ると、連盟に加盟している劇団は、地方への疎開を強いられます。全国の工場、学校、軍へと慰問の公演を続けたのです。そして1945年8月6日、桜隊は広島で被爆し、そこに居合わせた劇団員9名全員を失ったのです> 築地小劇場の分裂後に丸山が所属した新築地劇団と新協劇団が、弾圧の末に解散させられたのは40(昭和15)年8月だった。この年は「芸名統制令」「国民服令」が出され、10月には国民を組織的に統制する大政翼賛会が結成された。 日本移動演劇連盟は演劇を大政翼賛会に組み込むために、内閣情報局が41年6月に設立した。演劇の国家統制にほかならず、各地を巡演する移動演劇は国策宣伝隊の役目を負わされたのである。 ここに新劇人の苦悩があった。しかし丸山がそうであったように、舞台に立つことを何よりも優先させた。丸山は俳優の他に己の存在はないとさえ思っていた。 41年12月、丸山は新劇の同人らと苦楽座を結成して、第1回公演を行う。旗揚げ公演のパンフレットにこうある。 <世の中には悲惨事が多い。けれどもどんな悲劇の中にも血路があります。私達の明るい性質、健康な物の考え方から、何かを汲(く)み取って下さい> 苦楽座には宝塚歌劇団から園井恵子が加わり、ヒロイン女優が生まれた。丸山と園井が共演した「無法松の一生」の舞台は大ヒットする。ところが東京大空襲で主な劇場が焼け落ちると、移動演劇連盟は劇団の地方疎開を決めた。苦楽座は「桜隊」と改称して45年6月、広島に移った。 被爆65年の夏、五百羅漢寺の追悼会で「桜隊原爆忌の会」の会長で俳優の中村美代子さん(88)は嘆き、そして怒った。 「丸山定夫が生きていたら戦後の新劇は変わっていた。新しい、素晴らしい演技をファンに見せたかったのに、アメリカが原爆で丸山定夫を殺してしまった。本当に残念です」 丸山定夫は享年44、園井恵子は32だった。原爆は桜隊という新劇の偉才集団を殺したのである。 (次回は2月7日に掲載)
2012年01月31日
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たいへんよい講演なので、ご紹介しておきます。
2012年01月21日
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被爆66年 桜隊原爆忌 ―原爆殉難者追悼会2011年 8月 6日(土)午前10:30~ 碑前祭 12:00~ 追悼会なお、午前 8:00から五百羅漢寺主催「平和祈念桜隊殉難法要」が行われます。ご都合のつく方はぜひご参加ください。□ 追悼会の主な内容 □◎講演「桜隊に思う ―原爆と演劇・そして今」 ふじた あさや(劇作家・演出家)◎ミニコンサート:歌とギター「べんさん平和を歌う ―いのちをみつめて」 たかはし べん(シンガーソングライター)■プロフィール■ふじたあさやさん(劇作家・演出家) 1934年東京生まれ。早稲田大学第一文学部演劇科在学中、福田善之氏と合作で『富士山麓』を発表、劇作家としてスタート。前進座、文化座、青年劇場などに戯曲を提供。一方で児童青少年演劇、音楽劇などの脚本・演出も手がける。1975年、劇団えるむの創立に創造責任者として参加。1981年、青年劇場が千田是也演出で戯曲「臨界幻想」を上演。ラジオ・テレビドラマ作家としても活躍。『しのだづま考』(92年芸術祭賞)たかはしべんさん(シンガーソングライター) 北海道生まれ。炭鉱の町で育ち、十代後半にアメリカのフォークソングと出合い、平等・平和・人権を歌う歌に感動。1979年、子どもの自殺の悲しみを歌った「空をとぶ子供」でプロ歌手としてスタート。世界を回って歌い続けている。東日本大震災でも、現地入りしたり、チャリティーコンサートなど開催している。「息子に」「はえをのみこんだおばあさん」「がんばれアフリカ」「せかいじゅうの海が」など多数。参加費:3,000円(献花料・記念写真・昼食代含) 高校生以下1,000円会 場:目黒五百羅漢寺(電話 03‐3792‐6751)お申し込みは桜隊E-mailへ桜隊ホームページはこちら
2011年07月22日
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