移動祝祭日にて。

移動祝祭日にて。

2009.03.15
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去年の7月に書いて投稿した原稿。この前のものは掲載されたが、こっちは没になった。
なんか久しぶりに読み返していたら、どこにも出さない(出ない)のは、作品にも自分にもよくないかなと思うところがあって、ここに掲げさせてもらいます。ちょっと長いですが、気が向いたら読んでみてください。



いやさ、「花しぼみて露なほ消えず」。
   上田現に捧ぐ──仲井戸麗市『poetry』


 上田現が死んだ。袖触れ合うも他生の縁という言葉に倣えば、告別式に列席するまではいかなくとも、弔電の一本ぐらいは打つべき間柄だった気がする。
 調べてみたら、90年から95年にかけて、彼には計6回インタビューをしていた。そして正直にいわせてもらえば、私は、上田現の良き聞き手でも、良き理解者でもなかった。取材で会って言葉を交わせば、いつもそれなりに話は盛り上がった。しかしそれは評価するものとそれに値する表現者の会話というより、疑念を抱き糾弾する者とそれに反駁する者との関係に近かったように思う。
 そんなわけで、彼との「交流」は長続きはしなかった。インタビューでの二人のやりとりを見ていた編集部が、これではまずいと思ったのだろう。そして、それは正しい判断であった。幸せはできるだけ多い方がいい。表現者も幸せ、取材する側も幸せ、レコード会社も幸せ、記事を見る読者も幸せ。もしそういうインタビューがとれるなら、それに越したことはない。その意味で、上田現とのインタビューは、私にとってはOKであったとしても、上田現にもマネージメントオフィスにもレコード会社にも読者にもあまり幸せを供給できない種類のものだった気がする。

 毎日、同じ時間に起きて、顔を洗い、同じ時刻の電車に乗って、会社にいく。そして、先週や先々週と同じような調子で仕事をこなす。決まりきった手順、何も感じず、何の情動もなく、それこそロボットのような繰り返しで工作機械の部品にでもなったかのような行動が続く。仕事がもし本当にそういうものであったなら、かつてチャールズ・チャップリンが『モダン・タイムス』で描いた、大量生産の流れ作業の中、ネジを締めていく工員のように、非人間的・自己疎外といったイメージしか生まれないだろう。文字通りのルーティン・ワーク。

 以前、RCサクセションの仲井戸麗市に「“雨上がりの夜空に”は、もう何千回も演奏してきたと思うんですけど、これだけ長い間、同じ曲を演奏する時の気分というのはどんな感じなんですか」という質問をしたことがある。チャボさんは、その時、半ば照れ笑いを浮かべながら、こう答えた。「そうだよね。本当に呆れるくらいやってるよね。でもね、不思議なもんで、イントロのギターを弾き始める時の気持は、いつも同じなんだ。最初の音がちゃんと出てくれるか、タイミングは狂ってないか、それは毎回変わらない。本当に最初の頃に演奏した時と一緒の気持ち。変なんだけどね」。人間にとって「反復」が決してマイナスの事項ではないこと。いや、むしろ生の原点になることもあるのを、それは教えてくれる。
 無論、音楽だけが特別だということはない。チャップリンが描いた、自己疎外の権化というべき、ベルトコンベアーに乗っかってくる部品を組み上げる作業は、野麦峠の「女工哀史」の時代と現代では同一であるはずもない。工場の現場は、ただボルトとナットを組み合わせ回し続ければ済むほど、単純作業の繰り返しでは済まなくなっている。どんな繰り返しの局面においても、生産的、創造的、革新的な技術の更新は必要だし、それがなければ“流れ”の効率は徐々に下がり、遅延してゆく。
「精神は反復を嫌う」という。しかしまた反復がなければ、人は安心できない。過去から現在、未来へとつながる線を引き続けることができなくなる。それは自分を見つめなおすことができないという意味もあるし、現在という命題を解くカギをなくすという意味をも含んでいる。
 キルケゴールは言っている。
《反復と追憶は同一の運動である。ただ方向が反対だというだけの違いである。つまり、追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、本当の反復は前方に向かって追憶されるのである。だから反復は、それができるなら、ひとを幸福にするが、追憶はひとを不幸にする》。
 その原理に従えば、例えば『三丁目の夕日』など、不幸の塊みたいな作品、という捉え方が可能である。しかし、なんらかの理由で歩みが止まった時に、過去に惹かれない者がいるだろうか。ノスタルジアのヴェールを被せれば、鋭くとがった荒々しい線も丸みを帯び、なにやらたおやかな匂いが立ち上る。過ぎ去った自分は、いつだって今の自分より、どこか穏やかで幸せだったように思える。進退窮まった現在の自分であっても、何年かの後、追憶のフィルターを通せば、やはり幸福の表情を見せてくれるのではあるまいか。しかし、追憶の点滴は慰めにはなっても、自分を起動させるほどの力は持ち得ない。
 一方、反復には、大抵「負」の印象が付きまとう。同じことの繰り返し。ただ同じ場所でぐるぐる回ってるだけ。どこにも辿りつくことができない……。しかし、パン屋は毎日パンを焼くこと、バスの運転者は毎日バスを時間どおり走らせること、が仕事である。それは、暑かろうが寒かろうが、身体のバイオリズムが上昇してようが下降してようが、毎日、同じように始まり、何事にも惑わされず、実施される。その「反復」の徹底の中に、生のなりわいのメルクマールがある。いやむしろ、そうでない人などいやしない、と言ってもいいのかもしれない。
 今回出た仲井戸麗市のミニ・アルバム『poetry』には、7曲の歌(詞)が収録されている。このところ、彼の独壇場になってきた、歌ではない、詞の朗読=ポエチュリー・リーディングの曲がそのうち半分以上を占める。そして、聴き手は、他では決して受け取れないものを、もう一つ掴むことになる。
 一曲目の“久遠”には「俺の呼ぶ声に 気付きもせず」という言葉が4回。2曲目の“HOME”には「いったりきたり」が7回。“太陽に歌って(戸山ハイツ)”では、文字通り「太陽に歌って」というフレーズが15回、この言葉の英語版であるフレーズ、「SINGING IN THE SUNSHINE」が12回。最終曲の「風樹」に至っては「風が吹いてる」という呟きが28回登場する。ラップのアルバムも含めて、これほど言葉の反復が出てくる作品はあまりないと思う。少なくとも私の記憶にはない。にもかかわらず、そのリフレインのどれもが退屈さとは無縁である。というか、それらのリフレインが続いていくが故に、作品の一つ一つに生命が吹き込まれている印象を受ける。
 15分を超える大作、“太陽に歌って(戸山ハイツ)”は、ここが自分にとっての「記憶の現住所」ということわりの言葉から始まる。そして、終盤には、「過去への未練 過去への未練は元より まさか未来への未練」という一節が登場する。普通、「未練」という言葉が向かう先は「過去」である。しかし、キルケゴールが「未来への追憶」と述べた場に漸近線を描くように、仲井戸麗市は「未来への未練」と言い放つ。辞書を引くと「未練」には「あきらめきれないこと」の他にもう一つ、「まだ熟練してないこと。未熟」という意味もある。過去への「未練」なら、それは、何かをしてしまった「後悔」か、あるいは、何かをしなかった「後悔」に還元できる。しかし「未来への未練」には、《期待の不安がない。探検に伴う不安な冒険もない。しかしまた追憶の持つ哀愁もない。そこには瞬間の祝福された確実さがある》。
 仲井戸麗市は1950年生まれ、だ。今年で58歳。生き物としてのホモ・サピエンスの生命曲線で区切れば、壮年から老年になろうとする時期に当たる。しかし、その彼が抱える思いは、文字通り「未来への未練」である。

 私は人と酒を飲んで酔っぱらう度に、言い続けていることがある。
 一つ、「何言ってんだ、これからだって、背は伸びるかもしれないだろう」
 一つ、「そのうち、オチンチンはもっとでかくなると思うな」
 一つ、「これからでも、クロールで50mを30秒を切るのは可能だろう」
 まだまだひよっこ。これからもずっと「青い」まま。

 さて、私はこれからプールにいくことにする。今日は2キロを休みなしで泳ぐ。それとこの仲井戸麗市のアルバムが、遅ればせながら、上田現さん、あなたへの手向けだ。
 アデュー。






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最終更新日  2009.03.16 01:00:01
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