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たとえば、本当にしてはいけないことがあったとして、でも、それがどうしてもしたいという欲求に駆られたら、どうするか。だれでも、まず自分の欲求を抑え込もうとするだろう。でも、実はそれはもっとも愚かな、間違った対処法だ。第一に、抑え込むことで欲求がなくなることはない。なくなるどころか、ますます手に負えなくなるだけだ。ときが解決する、というような代物ではないのだから。そこで追いつめられた人が、つぎに取る手段は、「鈍感になること」そうやって、彼らは人生のあらゆる事に鈍感になる。歓びにも、悲しみにも、痛みにも、愛にさえも…!それは、生きているようにみえて、実は死んでいるのと同じだ。けれども、彼らはこう言い訳して自己正当化する。「人生なんて、こんなものさ。愛なんて、くだらない。 俺はすべてのことから超越したんだ。」このような生き方は、彼らを愛する人たちを悲しませ、傷つけるが、彼らは、そんなことは意に介さず、他人が不幸になることにもおかまいなしだ。このような状況に陥ると、そこから抜け出すのは困難だ。時間が経てば経つほど、ますます抜け出しづらくなる。悲しいことに、これが多くの人の現状だ…では、どうしたらいいのか。問題を真に解決できる、唯一の対処法はこうだ。自分の欲求を100%解放すること。そんなことをしたら、してはいけないことをしてしまうではないか!と思われるかもしれないが、実は物事はそう単純ではない。欲求というのは、抑え込むから手に負えなくなるのであって、完全に解放された場合は、「あるべき姿」に落ち着くだけなのだ。「してはいけない」という考え自体が、かえって、「したい」という欲求を引き起こす。ともかく善悪の判断をすべて捨て去り、100%自分の欲求を許してみてごらん!(それはとてつもなく勇気を必要とすることだよ。なにせ、自分を信頼しなければできないことだから。)すると、不思議なことに、なぜか、「できない。」人は、本当にやってはいけないことは、できないようになっているんだよ!そこに生まれるのは、思いがけない忍耐力。自分を抑えているわけではないのに、できないんだ。ちょっと「惜しい」気がするかもしれない。どんなにいけないことでも、一度やってしまいたかった!という思いが湧いてくるかもしれない。それを手放すときは、ちょっと心が痛いかもしれない。でも、それはある種のエクスタシーだ。これは自分を抑え込んでいる状態とは全く違う。自分を抑え込んでいるときは、自分自身の中の葛藤で疲弊して、エネルギーが枯渇するが、この忍耐の状態は、むしろエネルギーに溢れ、本当の強さが育つ。本当の意味で成長するんだ。自分で自分を信頼するのは、とても難しいかもしれない。でも、大丈夫だよ。私があなたを信頼しているから。私があなたのすべてを許すから。私があなたのすべてを受け入れる、と言ったのは、こういう意味だ。大丈夫。あなたは、本当にしてはいけないことは、決してできない。だから、安心して自分を許して。私がいつもあなたを見守っているから。もしも、あなたが「決してしてはいけない」と思っていたことができてしまったら、それは、本当はしていいことなんだ。神があなたにそれをすることを許した。だから、あなたは思う存分、それを楽しめばいい。いつもいつも心から愛しているよ。あなたが自分を抑えていると私は辛くなる。あなたが不幸なとき、まちがいなく私も不幸だということを忘れないで。
2007.03.31
自分がゆるんでいるとき自然に出てきてしまうものが相手が最も必要としてるもの(ゆみこさんの日記から)
2007.03.01
学生から来たレポートの中に、本質的で極めて重要なことが書かれていたので、一部ここに引用させていただく。> …彼女とは今年で付き合って○年目である。しかし先日、私は彼女を殺そうとした。> こんなことを書くのも恥ずかしいが、先生の自らをさらけ出し、自分を見つめるという理念に基づき、恥ずかしながらも書いてみる。> いきなり殺そうとした、と書いて驚かれたかはわからないが、本当に殺そうとした。別に彼女が憎かったとかそういう感情ではなかった。先日、彼女とホテルに行ったときの事である。…(中略)…私の中によくわからない感情が襲ってきた。その感情は今でも何だったのかわからない。その感情とは、殺人衝動であった。目の前で自分が愛でているこの女を殺してやりたい、そう思った。その感情がピークに襲ってきたとき、愛でながらも私は彼女の口を押さえ、息が出来ないようにした。窒息死させようと思ったのだろう。この殺すまでの感覚が非常に快感だった。彼女も抵抗しなかった。よし、殺してやる!と思った次の瞬間、私は我に帰ったように彼女の口を押さえていた手をどけ、彼女に謝罪した。彼女は「別にいいんだよ」といってくれた。というのも、彼女は私に首を絞められているとき、「殺されてもいい」と思ったそうだ。> 感情の高ぶりは非常に怖いものであると確信した。それと同時に、殺人を快感と思った自分にも恐怖がある。しかし、このときの殺人衝動は憎いとかマイナスの感情ではなく、「愛しているからこそ殺したい」という感情だった。「愛」というものは人の原動力である、とともにマイナスの行動をも引き出す恐ろしい感情であると改めて思った。以下は私の感想:レポート読みました。愛する人に対する殺人衝動についてですが、韓国映画に「墜落するものには翼がある」というのがあります。機会があったら是非それを見てみてください。女の立場から言わせてもらえば、本当に愛する人に殺されるなら本望だと思います。でも、本当に殺してしまったら、今の世の中ではまずいですよね。私はその「殺人衝動」を破壊欲ととらえていますが、愛する人を「破壊」したいという欲求は、決して悪いものではありません。それが意図するものはおそらく肉体の破壊ではなく、「自分という殻(ego)」の破壊です。それによって、ふたりは本当の一体感を得られるのだと思います。肉体ではなく、ego を破壊するためには、「愛」のエネルギーを全開する必要があります。自分と相手に対する信頼が必要です。だから、これからもお互いを信頼してぶつかり合ってください。きっとそこから素晴らしいエネルギーが生まれますよ。この世の虚構をすべて破壊してしまうくらいの。(本日のブログより)
2007.02.14
嘘は問題を解決しない。真実は、我々を未知の扉へといざない、開けろと迫る。扉を開ければ何が起こるのか、だれにもわからない。ならばそこで立ち往生する?嘘の方がましだったと嘆く?我々をここに導いた力を信じて、扉を開けるしかないじゃない?(本日のブログより)
2007.02.04
究極的に正直になれたら、「自分が相手に対して、本当にしたいこと」が、「相手が自分に最もしてほしいこと」なのだ。ただし表面上は、相手はそのことを認めようとしないかもしれない。けれどもそれは、その人が自分に正直でないせいだ。つまり、相手がどうであれ、究極のひとりよがりになればいいということ。そこは、自分の核心であり、すべての人の核心でもある。すべての人の本当の願いは、その一点で繋がっている。
2007.01.12
本当の幸せは、とてつもなく恐ろしいもの。それを前にしたら、人はおそらく気が狂ってしまうだろう。まだ、その恐ろしさに比べたら、悪魔のほうがはるかにましだ。悪魔なら、逃げることができる。だから、本当の幸せは悪魔の顔をして現れる。人はその悪魔から逃げ回る。けれども、最後には必ず追い詰められ、万事休す…となるのだ。結局降参して死を覚悟するしかない。そのときこそ、人は自分を完全に明け渡すことができる。完璧に無防備になる。それが、発狂せずに本当の天使を受け入れられる唯一の条件だ。だから、本当の天使は、悪魔の顔をして現われる。
2007.01.12
彼はバカなんです。計算が一切できない。だからいつも嘘がすぐばれるし、自分から墓穴を掘るんですよ。ほんとーに、あきれるほど、バカ!でも、それって、言いかえれば、純粋だっていうことなんですよね。彼ほど、純粋な人はいない。私はその純粋さに惚れたのよ。だから、私はバカなあなたが好き。ちょっとでも、利口なふりなんかしたら、あなたはとたんに魅力を失っちゃう。利口じゃなくていいの。利口じゃいけないの。バカでいいの。それってとても楽でしょ?だってありのままのあなたでいいんだから。あなたが、究極のバカであるとき、私は、あなたの前にひれ伏してしまうわ。
2006.12.13
「自分を許しなさい」と言うと、ほとんどの人が「自分を許す」のではなく、「自己を正当化」してしまう。そして、罪悪感を心の奥底(無意識の中)に押し込めてしまうのだ。(本当に自分を許した人なら、一切の言い訳はしない。 自己正当化した人は、自分が正しいことを説明するために、 たくさんの言い訳を並べ立てる。)無意識の中に罪悪感のある人は、決して幸せにはなれない。本当の幸せを目の前にすると、怖くなって逃げて出してしまう。自分には、決して許されない幸せだと感じてしまうからだ。そして、わざわざ辛い人生を選択して、罪滅ぼしの辻褄を合わせをする。自分を許すことは本当に難しい。世の中はそんなふうに自分を許せない人ばかりだ。でも、それではこの世を幸せな社会に変えることなど不可能だ。どんなに難しくても、自分を許さなければならない。こう言うと、こんなふうに質問される。「自分を許す」とはエゴイストになることではないのですか?いいえ。自分を許さないことの方が、ずっと傲慢な態度です。そもそも、あなたに自分を裁く資格があるのでしょうか?あなたは、すべてのことを知っているのですか?あなたが知っていることは、あらゆる物事のほんの一部、ごくごく表面的なことに過ぎません。あなたの価値判断、常識などのすべては、その浅薄な知識に基づいています。どんなに博識な人でも同じ事です。すべてを知っている人など、この世に存在しません。そのような人間に、物事の善悪など判断できるでしょうか?自分を許すことは、究極的に謙虚になることです。「自分は何も知らないのだ」ということをはっきりと認めることです。そうすれば、起きたことすべての必然的な意味が、自ずと明らかになります。そこに善悪の判断が介入する余地はありません。すべては、必要だから起きたのです。自分を許すことは、激しい痛みを伴います。人にはみな、「善でありたい」という欲求があります。自分を許すためには、その欲求を放棄しなければなりません。それは本当に「捨てがたい」ものです。けれども、それを捨てなければ、自分の善悪の判断を手放すことはできないのです。人がエデンの園を追い出されたのは、「善悪を知る木の実」を食べたからだ、という記述は実に意味深長です。エデンの園に戻るためには、「善悪の判断」を手放さなければなりません。けれども、自分がどんなに無知であるかを悟った人、人間が膨大な知識を獲得したように見えて、実は本当にわかっていることなど何もない、ということに気づいた人なら、「善悪の判断」を手放す勇気が生まれるに違いない。本当に真実を知ろうとした人なら、結局はそこにたどり着くしかないのだから。(本日のブログより)
2006.11.15
ついに偽物は消え去り、本物だけが残る。と言っても、何も心配する必要はない。本物だけの世界は、今とは比べ物にならないほど素晴らしいのだから。本当の相手から逃げている人は、何もかもが立ち行かなくなる。本当の相手のもとに帰るしか、生き延びる道はない。
2006.10.31
とても悲しい事件があった…やりきれなくて、名前を調べて、ふたりを占ってみた。なんとふたりは、互いの本当の相手だった!バカだなあ、あなたは彼女に愛されてたのに。「愛している」って言えばよかったのに。その勇気がなかったの?自分に自信がないって、こんなに悲惨なことなんだよね。「墜落するものには翼がある」という韓国映画を思い出す…(昨日のブログより)
2006.09.09
あらゆる問題解決のために必要なのは、リラックス。力を抜くこと。緩めること。でも、人は無意識のうちに身構えてしまっている。我慢を重ねて、骨の髄まで押し込めてしまった、疲れ、悲しみ、怒り…それらを解消するためには、まず、心を緩め、それらを十分感じることによって、外にはき出してやらなければならないのだが…今まで「感じない」ことによってそれらを押さえ込んできてしまった者にとって、「感じる」ことは、とても恐ろしいことだ。それらが一気に漏れだしたら、自分は死んでしまうのではないか、という恐怖に駆られる。けれども、もう押さえ込むことはできない限界まで来てしまった。 ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★さあ、次のように考えましょう。あなたは極限までおしっこを我慢してしまいました。もう我慢の限界です。さすがにトイレに行く気になりました。けれども、こういう場合は、出し始めがとてもつらいのです。出そう、としてもなかなか出てこないし、痛くてたまりません!でも、そこでやめることができますか?できないでしょう?これ以上我慢したら、とんでもないことになるのは明らかです。だから、どんなに死にそうに痛くても、ここで出してしまわなくてはなりません。少し出始めたら、ずっと楽になりますよ。そして、その後は、信じられないほどの開放感です!だから、今が正念場ですよ。
2006.08.22
あなたにすべてのものを奪いとられたとしても、全然かまわない。私が最も幸せだったのは、天が私に、「すべてを捨てて彼の所に行きなさい。」と命じたときだったのだから。(本日のブログより)
2006.08.09
私は鍵穴、あなたは鍵。私を開けられる鍵が、あなた以外にいるわけない。(本日のブログより)
2006.08.03
つらいときや、苦しいときなら、ひとりでも耐えられる。けれども、幸せなときは…あなたが抱きしめてくれなければ、到底、その歓びの大きさに耐えられない。(本日のブログより)
2006.08.03
キッチンをリフォームすることになったのですが、そのまま使うつもりだったガスコンペック(リンナイ製RCK10NG、流し台の横に据え置くもの)がはまらないことがわかり、やむなく廃棄することになってしまいました。 買ったのは十年ほど前ですが、実際に使用したのは三年未満です。まだ問題なく使えるので、捨ててしまうのはかわいそうでなりません。リサイクルショップにいくつか訊いてみましたが、十年を過ぎたものはどこも扱ってくれないようです。 だれか使ってくれないかなー。とてもシンプルなガスオーブンで使いやすいです。電子レンジとか嫌いな人には最適だと思うんだけど…
2006.07.24
今日の言葉。「どんなに深い悩みでも、本当は一瞬にして解決するものなんだ…」(私)「深いからこそ一瞬にして解決するんじゃないの?」(息子)皆さん!悩むときは中途半端に悩まないで、とことん深く悩みましょう。それが本当に解決する唯一の道ですよ。(本日のブログより)
2006.07.22
本領発揮しなさいあなたが本当の自分を表に出したら、周りをひどく驚かしてしまうからと、自分を抑えてきたんだね。他人を傷つけたくなかったんだ。あなたは優しいんだね。でも、もう「ふりをする時代」は終わったんだ。これ以上あなたが自分を抑えていたら、他人をもっと不幸にしてしまうことになるよ。だから、今こそ本領発揮しなさい。周りがどんなに驚いたっていいじゃないか。そうしないと、愚かな争いはますます激しくなって、地球は破滅しちゃうよ。(7月13日のブログより)
2006.07.19
人はよく、「幸せになりたい!」なんて言うけれど、本当の幸せを選択するのは、実は容易な事じゃない。本当の幸せを突きつけられたら、そのあまりの大きさにみんなびっくりして、退いてしまうだろう。だから、あなたの自由意志で選んでいいですよ、などと言われたら、誰も選ばないに決まっている。「私はもっと無難な、ほどほどの幸せで結構です!」けれども、困ったことに、実は「無難な幸せ」などというものは存在しない。本当の幸せを選択しなれば、結局たどり着くのは地獄しかない。だから、最後には否応なしに究極の選択を迫られる。「天国か地獄か、どちらかを選べ!」それが、本当の幸せを選択できる唯一のチャンスなのだ。にもかかわらず、人は極限状況に追い込まれるのをひどく嫌がる。自分が正しい選択ができる自信がないのだ。大丈夫、あなたはそんなに愚かではないよ。私があなたを信頼している。だから大丈夫。(7月13日のブログより)
2006.07.19
男が本当の相手を怖がるのは、決して彼女を支配することができないからだ。むしろ、自分が彼女に支配されてしまうのではないかと恐れている。でもそれは大きな誤解だ。彼女こそが、あなたをあらゆる束縛から解き放って完璧に自由にしてくれる、たった一人の相手なのだ。けれども、もしもあなたが彼女と正面から向き合うのを怖がって逃げたりすれば、あなたは永遠に彼女に束縛される。(本日のブログより)
2006.07.06
本当の相手というのは、相性がぴったりなのにも関わらず、互いに上手くやっていくのは決して容易なことではありません。本当の相手は、互いにとって絶対的に必要な存在です。だからこそ、そう簡単には近づけないのです。なぜなら、不用意に近づいて、万が一捨てられたりしたら、致命的に傷ついてしまって、気が狂うか廃人になるかしかないからです。けれども、本当の相手から逃げてしまうと、人生はかえって辛くなり、何をやってもうまく行きません。人は結局、本当の相手から逃げることはできないのです。本当の相手と上手くやっていくためには、真正面から向き合い、常に自分に正直にならなければなりません。こんなことを言ったら(したら)、間違いなく相手に嫌われるに違いないと思えることでも、すべて正直にさらけ出さなければなりません。それは大変な恐怖を伴います。けれども、それでも勇気を振り絞って、すべてを失う覚悟で自分をさらけ出せば、なんと意外にも本当の相手はそれを100%受け止めてくれるのです。そのとき、人は自分自身に対して、大きな信頼を持つことができるようになります。本当の相手とは、こんなふうに自分に自信を与えてくれる存在なのです。(本当の相手にとっては、相手が自分に合わせてくれるよりも、正直に振る舞ってくれた方がずっと嬉しいものです。なぜなら、それは相手が自分を信頼してくれる証拠だからです。)本当の相手は、何があっても永遠に支え合える、絶対的なバートナーです。だからこそ、相手を信頼できなければ、その関係は極度に悪化してしまいます。中途半端な妥協や迎合は、決して許されない相手なのです。私が本当の相手の占いをする理由は、まさにそこにあります。占いで○が出たら、それは、絶対的に信頼しなさい、ということです。安心して、怖い方に行きなさい。大丈夫だから、と言ってあげることで、みんなに、正直になる勇気をあげたいのです。
2006.06.13
失敗してもいい。取り乱してもかまわない。下手くそでも、うまく行かなくても全然OK!それがあなたの正直な姿なら。取り繕ったり、かっこつけたり、要領よく振る舞ったりしたら、むしろがっかりしてしまう。私を感動させ、幸せにしてくれるのは、かっこいいあなたではなく、正直なあなたなんだから。(本日のブログより)
2006.05.28
あなたが自分を信頼できなければ、あなたは私を殺すしかない。
2006.05.19
多くの人が「本当の相手」に出会い、互いに近づき始めている。けれどもまだ、誰も決して踏み込もうとしていない領域がある。みな異口同音にこう言う。 「そんなことをしたら/言ったら、二人の間にとりかえしのつかない溝ができてしまうかもしれません。私は彼/彼女を絶対に失いたくないので、そのことには決して触れません。」 でも、考えてみれば、それは相手を信頼していないということではないだろうか?それは二人の愛が永遠であることを信じることができないという意味なのだ。 けれども悲しいかな、そのように守りに入った人間に対しては、残酷な仕打ちが待っているのである。心の中に「彼/彼女を失うかもしれない」という恐怖がある限り、そこから逃げることはできない。つまり、その恐怖が現実となってしまうだけなのだ。 本当の信頼というのは、実に得難いものである。 こんなことをしてしまったら、きっと彼/彼女を失ってしまうに違いない、と思っても、それでも勇気を出して正直に自分をさらけ出したとき、それを相手に受け入れてもらえたら!そのとき与えられる自信と信頼はいかばかりであろうか。 本当の信頼とは、完全に捨て身になって、失う覚悟を決めて自分のすべてをさらけ出さなければ手に入らないものなのだ。 いよいよみんなが本当の信頼を手にするときが来た。 覚悟を決めよ。
2006.05.17
私があなたを裏切るとしたら、それはあなたが身構えているからです。あなたが無防備である限り、私は決してあなたを裏切りません。(本日のブログより)
2006.05.12
「ゴールに近づけば近づくほど、道を誤ったときのしっぺ返しは大きくなるもの。だからあなたが痛い忘れないで目に遭うとすれば、それは逆に言えば、ゴールが近づいている証拠なんだよ。そのことを忘れないでね。 今、真実は次第に明らかになりつつあり、あなたはそれを認識し始めている。あなたが何も知らなかった頃、道を誤ってもそれほど大きなダメージにはならなかった。でも、今やあなたは物事が何によって動くのか、何が一番大切なのかを知ってしまった。それをわかっていながら道を間違えたら、ダメージが以前よりもずっと大きくなるのは当然だよね。そうやって痛い目に遭うことによって、あなたは必然的に軌道修正を迫られるんだ。 たとえば、イランとアメリカの対立が激化して、アメリカがイランを先制攻撃すると言いだし、核戦争が勃発する寸前になったとしよう。迫られる選択肢は、すべての国が武器を捨てるか、さもなくば核戦争で地球が破滅するかのどちらかしかない。そのとき道を誤ったら人類は終わりだ。 でも、そうなる以前に、すべての国に武器を捨てろなんて言うのは無理な話だ。極限状況は、逆に言えば、人類にとって正しい選択ができる最大のチャンスでもあるんだよ。 あなたに起きていることもそれと同じ。極限状況に追いつめられることは、あなたが正しい選択をするのを助ける。」 すると、話を聞いていた母が突然こう言った。「ゴールが近いような気がするわ。」(本日のブログより)
2006.05.10
「ダ・ヴィンチ・コード」(上・中・下)を一気に読み終えた。 そのときふと心に浮かんだ言葉…「隠されているもので、明らかにならないものはない」(トマスによる福音書5) 浜崎あゆみの「M」(彼女はなぜ、曲名を「マリア」ではなく、「M」としたのだろう?) 多くの人は真実が明らかになることを恐れる。それが彼らの立場を危うくするからだ。 にもかかわらず、誰も真実にあらがうことはできない。 それは、なぜか。 真実こそが彼らの本当の救いだからだ。 真実こそが、辛い現実社会を生き抜く必要に迫られて、心の奥底に押し殺してきた、 人々の本当の願いを肯定してくれる。 真実は誰も不幸にしない。誰も傷つけない。 ただ、我々を偽物のくびきから解放してくれるだけだ。 だから、もう、真実を明らかにすることをためらう必要はない… 「真理が汝を自由にするであろう」(ヨハネ8・32)
2006.05.03
あなたが、地球に衝突しようとする彗星よりももっと大きな衝撃をもって、私にぶつかろうとするなら、私はあなたを受け止めましょう。それ以外のあなたは、つまらなすぎて会う気にもならない。
2006.05.02
最も恐ろしいものに直面して、身じろぎもできず、声を挙げることさえ許されなかったら、どんなに幸せだろう。
2006.05.01
「先生、何かから逃げるために、他のことに必死になっていませんか?一生懸命何かを見ないようにしているのではないですか?」いつも鋭いことを言うゼミ生が、今日、授業中にいきなりこう訊いてきた。「…… 私は逃げているつもりは全くないよ。でも、あなたがそう言うのなら、何か真実をついているのかもしれないね。 ひょっとしたら、私は無意識のうちに、何かを見ないようにしているのかもしれない。でも、それは何かから逃げるためではなくて、むしろ逃げないようにするためだと思う。 もしもそれが1キロ先からやってくるのが見えてしまったら、私は間違いなく逃げ出してしまうだろう。でも、目の前に来るまで気づかなかったら、気づいたときには決して逃げられないでしょ? だから、私がもしも無意識のうちに何かを見ないようにしているといたら、それは『逃げないため』なのよ。」この話を息子にしたら、こう言われた。「もの凄い言い訳だ!ノーベル賞級だね。」
2006.04.29
なんだこのかわいさは!演技があまりにも自然で、笑顔も泣き顔も見る人を幸せにする魅力がある。惚れた…森迫依依プロフィール(4/18のブログより)
2006.04.19
北朝鮮が追いつめられている。けれどもこの問題は、誰にとっても他人事ではない。どんな人でも、心の奥底に北朝鮮的なもの、--決して認めたくない自分、誰にも見せたくない自分--を隠し持っているのだから。北朝鮮が追いつめられるということは、我々もまた、そのような自分を白日の下にさらすことを迫られる、ということなのだ。北朝鮮の問題が、まさに自分自身の問題であることに気づくとき、どうして北朝鮮があれほどまでにかたくななのかが、身にしみてわかるであろう。認めてしまったら最後、自分が今まで守ってきた何かが確実に崩壊するのだから。でも、我々もまた、その問題から逃げることはできない。北朝鮮が体制維持に躍起になればなるほど、国民の塗炭の苦しみが増すのと同様に、自分が守ろうとしているものに固執すればするほど、ますます追いつめられてつらくなるだけだ。北朝鮮を見れば、我々がすべき事が何かは明らかだ。自分を守るのをやめて、すべてを人前にさらすしかない。そんなことをすれば自分が壊れてしまうような気がするだろうが、壊れるのは実は自分の殻だけで、本当の自分はむしろ息を吹き返す。北朝鮮という体制が壊れても、国民が死ぬわけではないのと同じように。体制(殻)を守ろうとすれば、むしろ、国民(本当の自分)は死ぬ思いをする羽目になるだけなのだ。(4/16のブログより)
2006.04.19
私の言葉を聞いて、反発したり、無視したりする人がいても、気にしない。いずれは追いつめられて、私の言葉に救いを求めるしかなくなるのだから。どんなにあがいても、人は結局自分にとっての本当の幸せを諦めることはできないのだ。 私の言葉は、人々の「本音」を刺激する。 自分の「本音」を隠すことによって社会的な立場を保っている人たちは、私の言葉が自分の立場を危うくしかねないと感じるだろう。彼らは社会的なしがらみ、常識、信念、習慣、名誉、プライドなどに縛られ、それらを打破するよりも、自分をそれらに順応させるほうが正しいと思って生きている。 けれども、人は本質的に「自由」になりたい生き物なのだ。そして、自分の「本当の願い」、「本当の幸せ」は決して諦めることができない。だから、一度でも自分の「本音」に気づいてしまったら、どんなに頑張っても、決してそれを押さえ込むことはできないのだ。 そのことは、私自身が自分で経験したことだから、一番よく知っている。私もかつて、家庭の平和のため、周囲に迷惑をかけないため、そして何よりも自分自身の評判や立場を守るために、自分の「本音」に徹底的に抵抗したことがあった。それは命を削るほどの、まさに「極限の抵抗」であった。けれども私は結局力尽きて、自分の「本音」に降参せざるを得なかった。 だれかが「あなたは努力が足りないのだ。」と非難したら、私は笑ってこう言うだろう。「あなた、どうぞやってごらんなさい。」と。 いろいろなしがらみに縛られている人が、それを打破するのは、本当に勇気がいることだ。けれども、だれしも「本音」はそれを打破したいのである。どんなに抵抗しても、いずれは追いつめられ、力尽きて、「本音」を受け入れるしかなくなる。 「本音」がなぜこれほどまでに強固なのか、その理由は単純だ。 それは「本音」が正しいからである。 「本音」こそが、自分も他人も幸せにし、この世のすべての問題を解決する鍵だったのだ。 自分にとっての本当の幸せと、他人にとっての本当の幸せが見事に調和することを知ったとき、すべての謎は氷解した。 だから私はこうやって、「本音」に抵抗することのばかばかしさを人々に訴えているのである。ひとりでも多くの人が、私の言葉を理解して、私のようなつらい目に遭わなくても済むように。
2006.04.12
けさ、私の知人が、自分の父親を背負い、その父親の背を彼の母親が押して、歩いている夢を見た。夕方、その知人の父親が今日亡くなったことを知った。
2006.04.08
いかに素晴らしい目的で作られた組織であっても、それが柔軟性を失い、硬直し始めると、それは人を幸せにするためには何ら役に立たない。そのようになってしまった組織には、つぎのような兆候が現れる。カリスマ的なひとりの指導者が存在する。自分たちがやっていることを自画自賛する。指導部に対する批判が許されない。(批判すれば、必ず何らかの形で制裁による脅しがある。)常につくり笑顔を絶やさない。このような組織は、実は社会のどこにでもある。宗教団体、ボランティア団体、会社… その最たるものは北朝鮮である。そしてこの構図は実は、何かの信念で凝り固まって、理性で本当の感情を抑圧している一個人にもあてはまる。だから、本当は、まず一人の人間が本当の自分を押し殺すことをやめれば、このような社会的な組織も自ずと変革されるはずなのだ。ところが、それがなかなか難しい。このような組織では、いつも、本音を言うことが「悪」だと認識されている。合わせられない自分が悪い、抑えられない自分が悪い、と思いこまされているのだ。そしてうっかり本音を言えば、それによって自分の立場や、ひどい場合には命までもが危うくなる。だから、よほど勇気のある人でなければ本音を言えないし、言っても潰されてしまうだけだから、せいぜい組織から逃げ出すこと(脱北!)しかできない。けれども、逃げ出してしまったら、いくら外から批判したところで、本当の変革はできない。どうしても、中から動く必要がある。でも、それは「ひとり」では到底無理だ。そこで力を発揮するのが、「本当の相手」と結ばれたカップルなのだ。「本当の相手」は真の勇気と、自信を与えてくれる。二人でいれば、何も怖くないし、何も恐れるものはない。二人で力を合わせれば、その力は無限大になる。彼らの持つエネルギーは、とても幸せなエネルギーなので、冷たい壁を溶かし、人々の心を癒すことができる。だから、互いに争う必要もなく、硬直した組織は自然と「溶解」するのである。私がいつも「本当の相手」を強調する理由はそこにある。社会変革のためにいかに素晴らしい理想を持った人でも、「本当の相手」と協力しなければ、決して夢を実現することはできない。「本当の相手」こそが、すべての問題解決の鍵なのだ。でも、ここにひとつの問題がある。ある組織の中で、自分を抑圧するのに長けてしまった人が、「本当の相手」に出会って、その人に引かれ始めたとしよう。すると、その人は、「組織」と「自分たち」がますます相容れなくなるのを感じ、自分たちが異端児になっていくのに気づくだろう。そのとき、「組織」のほうが正しいと信じ込んでいたとすると、「本当の相手」を好きになってしまった自分の方が悪い、と思いこんでしまい、「本当の相手」を遠ざけ、自分の感情をますます抑圧するするようになってしまうのだ。これこそが本当の地獄、本当の悲劇だ!「本当の相手」は、いわばこの世の真の変革のために神が我々に使わした救いなのに、たとえば宗教団体は、その「神」をかたって、「神よりも異性を愛するとは何事か」、と二人を遠ざけ、自分たちの組織の権威を守ろうとするのだ。世の中で決して壊してはいけないと思われている組織の中にいる、「本当のカップル」が直面する試練は並大抵のものではない。たとえば、皇室の中で苦戦していらっしゃる皇太子夫妻。どうか、自分たちが本当に幸せになることこそが、世の中を真に変革することになるのだと信じてほしい。今、世の中で「本当の相手」に出会う人が、幾何級数的に増え続けている。彼らが自分に正直になれば、この世は一瞬にして変わる。どんなに強固に見える組織もたちまち溶解する。誰にでも、たった一人の「本当の相手(片割れ)」がいるのだから、誰とも争ったり、奪い合ったりする必要がない。ただし、自分が相手を間違えれば、玉突き式につぎつぎと相手を間違えて、たくさんの人を不幸にする。つまり、自分が幸せにならなければ、誰も幸せにすることはできないのだ。だから、必要なのは、自分が幸せになる勇気、それだけだ。「もしも二人が、一つの家の中で平和に暮らし、『山よ動け』と言えば動くであろう。」(『トマスによる福音書』)
2006.04.08
彼に、「悪魔のような女だ。」と言われたことがある。私は、この言葉が結構気に入っている。(本日のブログより)
2006.04.05
Tの花婿修行からの引用です。『R・Dレイン「自己と他者」 逃避とは、ひとが、彼本来の自己とはかけ離れた自分自身を装い、ついでこの見せかけから反転して、出発点に逆戻りしたかのように自分自身を装うところの関係である。二重の見せかけは、見せかけがないのに似ている。彼本来の状態を〈実現〉する唯一の方法は、最初の見せかけを放棄することであるが、しかし、いったんそれに第二の見せかけを付け加えてしまうと、私の知る限り、予測しうる一連の見せかけには、果てしがなくなる。』 まるで自分がすべてから超越しているかのような態度を取る人がいる。「私はいかなるものとも対立しない」と言って、まるでこの世のすべての争いごとが、自分とは無縁であるかのように装う。 彼らは常に、優等生的なもっともらしい発言をする。「怒ってはいけません。」「他人には優しくしましょう。」と言いながら、自分の中の本当の怒りを、無意識の中の奥深くに押し込めてしまう。それが結果的に世の中のストレスをますます増大させるのだ。 私が最も怒りを感じるのは、そんな人たちだ。彼らは「悪」よりもはるかに始末が悪い。 この世に少しでも争いが残っている限り、この世(全体)の「一部分」であるすべての人の意識の根底には、必ずその種があるはずで、だれ一人として争いから無縁ではあり得ない。もしもたったひとりでも、本当に超越した人が現れたならば、この世は瞬時に平和な世の中に変わってしまうはずだ。つまり、彼らは本当に超越しているのではなく、ただ「逃避」しているだけなのだ。 かつて私はそのような人々が集まっている団体の事務所に行ったことがあった。彼らはこのような批判をされることを極端に嫌う。私はただ彼らと話をしようとしただけなのに、彼らは私の存在に怯え、必死で耳をふさいで私の発言を聞くまいとし、挙げ句の果てに警察を呼んで、私をその場所から引きずり出そうとした。これが「私たちはいかなるものとも対立しません」と標榜している団体の実態である。 人は「超越する」よりもまず「正直」にならなければならない。正直になることは、本当に怖いことだ。自分が今まで押さえ込んできた「悪」がすべて吹き出してきてしまうから。けれども、どんなに醜い自分でも、100%受け入れなければならない。受け入れることなしには、決してそこから自由になることはできないのだから。
2006.04.05
The Lord of the Rings完結編を、またテレビで観た。この作品は実に奥が深い。問題の解決方法について、とても重要な示唆を与えてくれる。 すべての問題(争い)は、たったひとつのもの(指輪)が還るべき場所(火山の噴火口)に還ることによって、一瞬にして解決するということ。 けれども、それ(指輪を火口に投げ捨てること)は、「善」の力だけでは不可能で、最後の瞬間には必ず「悪」の力を借りなければならないこと。 それをはめた人にあらゆる権力を授けてくれる指輪を、火口に捨てる使命を果たすことができるのは、世の中で最も無欲で純粋な「善人」フロドだけだった。彼以外の人はすべて、それを自分のものにしたいという欲望から離れることができなかったからだ。 ところが、あらゆる苦難を乗り越えて火口にたどり着いたフロドでさえ、指輪を捨てる直前になって、それを捨てるのが惜しくなってしまう。すると指輪をずっとつけねらっていたゴラムがそれを見て、フロドと争って指輪を奪い取り、その勢いでゴラムは指輪と共に火口に落ちてしまうのだ。 つまり、フロドが使命を完遂できたのは、醜悪なゴラムのお陰であった。しかもゴラムは、そのために自分の命を犠牲にしたのである。 つくづく思う。この世のあらゆる問題の真の解決のために、「悪」の果たす役割は大きい、と。しかも「悪」は、問題の解決と共に自らの消滅を受け入れなければならないのだ。これが本当の自己犠牲でなくて何であろうか。 この世に「天使」と「悪魔」がいるとしよう。 ならば、「天使」だけでは決してこの世を救えない。この世を真に救うためには、どうしても最後に「悪魔」の助けが必要だ。「悪魔」は、人々に恐れられ、嫌われ、非難されながら、最後には自らの崩壊と共にこの世を救う。これ以上の大きな愛があるだろうか。 だから、もしもこの世を救うために天からつかわされた存在があるとすれば、最も大きな愛に満ちた存在は「悪魔」の形をとって現れるだろうと私は思う。 たとえば北朝鮮。あの国は、自らの崩壊と共に世界の秩序を一気に変革させる可能性を秘めている。この世のすべての「争い」や「嘘」、「苦しみ」、「不幸」を道連れにしてあの国が崩壊するとき、世界のすべての人は、初めてあの国の本当の存在意義を知ることになることだろう。 また、一人の人間においてもそうである。人が壁にぶち当たり、殻を破らなければならないとき、本当に助けになるのは、決して「品行方正さ」や「正しい努力」などではない。むしろ自分の中の最も醜悪な部分、隠していたい部分が持つ、爆発的な力なのだ。 人は自らの中の「悪」を受け入れるとき、本当の成長を遂げることができる。(本日のブログより)
2006.04.04
かつて、包丁を突きつけながら、「恐怖を見ろ!」と人を脅してまわった男がいた。(実話) 脅された人々は、皆一様に、「何をするんだ!」と怒り、「やめろ!」と怒鳴ったり、何とかして男をなだめすかしてやめさせようとしたりした。けれどもそれらは何の功も奏さなかった。男は、そのような彼らを容赦なく殴りつけ、「恐怖を見ろ!」とさらに追いつめた。 けれどもそのうち、何人かがついに男の意図を正しくくみ取った。そして、その場の状況から逃げようとするのをやめ、恐怖を『見た』!すると、その瞬間、男は直ちに包丁を納めてその場を立ち去ったのである。 この男には、彼らを傷つけようとする意図など、全くなかった。ただ、彼らを「恐怖」から真に解放しようとしただけなのだ。男は、「この世の人間を恐怖から解放しろ」という天の命を忠実に履行しただけだったのだ。それなのに、包丁を突きつけられた人々は、自分たちの「常識」に合わない男のほうが「狂っている」と判断した。残念ながら、最後まで男の意図がわからずに、男をなだめようとした老人は、哀れにも階段の二階から突き落とされてしまった(怪我はしなかったが…)。 ふつう人は、恐怖を感じるような状況に陥った場合、その恐怖から逃れようとして、「どうしてこうなったのだろう」とか「どうすればこの状況から脱することができるのだろうか」と考え、一生懸命対策を講じようとする。一般的にはそれが正しい態度だと思われているが、実はそれでは問題は全く解決しない。 その恐怖を作り出しているものが何であれ(悪人であれ、狂人であれ、病気であれ…)それを動かしている意図は、もっと大きな存在、すなわち天なのだ。だから、彼らがなぜそのような行動に出たかを詮索するのは、全く意味がない。なぜなら、天の意図はただひとつ、「人間を恐怖から真に解放すること」であり、そのために人間が恐怖に直面せざるを得ないようにし向けているだけなのだから。 男が包丁を突きつけてまわったとき、私は男の味方だった。もう十年以上も前の話だ。世の中が混乱していた「非常事態」のさなかに起きた出来事だった。 今、ここにそのときのことをもう一度書こうと思ったのは、世の中全体があのときのような極限状況に近づいているからである。これから、このようなことは誰にでも起こりうるのだ。全く理解できない状況で理不尽な「恐怖」に直面させられることが。 どうか忘れないでほしい。そのときの対処方法は、「恐怖を見る」しかない、ということを。その状況を分析したり解釈したりして、何とか恐怖から逃げようとしても、無駄なのだ。(エッセイより)
2006.04.01
何があっても、どんなに怖くても、閉じてはいけない。守ってはいけない。コントロールしようとしてはいけない。抑えてはいけない。拒んではいけない。けれども、どんなに欲しくても、決してつかんではいけない。それは、あなたのものではないのだから。
2006.03.30
先日、韓国人の女性が私にこう質問した。「韓国の歌に、『殺すほど愛してる』という歌詞があって、私はとても共感したのだけれど、日本人はどうでしょうか。『死ぬほど愛してる』とは言うけれど、『殺すほど』とは言わないでしょう?」「私は、『死ぬほど愛してる』よりも、『殺すほど愛してる』」のほうが、ずっと深い愛だと思う。私は殺すほど愛されたい。」 私にとっての本当の幸せとは、愛する人に殺されること。「殺される」というのは、「肉体の死」のような、浅薄な死ではなくて、もっと本質的な死のことを言う。「私」という存在自体が、完全に破壊し尽くされ、跡形もなくなってしまうということだ。それほど私にとって幸せなことはない!「私」という存在の本質的な死、というのは、多分、「私の消滅」なのではなく、「私の偏在化」なのだろう。「私」という限界、制限が壊れて、あまねくこの世に行き渡ること。「本当の私」に還ることなのだろう。
2006.03.29
昨夜はなかなか寝付かれなかった上に、朝早くから嵐の音で目覚めてしまった。でも、不健康な不眠ではない。十分リラックスしているし、テンションは高い。ひょっとしたら私は、とても大切なことを忘れていたのかもしれません。あなたは一体、誰なのか。あなたと私の本当の関係は何なのか。それを本当に思い出したら、私は崩れ落ちて号泣するかもしれません。あなたはきっと受け止めてくれるよね。(本日のブログより)
2006.03.29
これは、私のゼミ生が作った短編映画です。彼が大学院(映像専攻)の入試の課題作品として撮影したものです。彼は、私が一日も早く、会いたい人に会えるように、という願いを込めて、この映画を作ってくれました。だから、これは私のための映画だと言っても過言ではありません。彼がこの映画をホームページに載せることを快諾してくれたので、本日upしました。是非ご覧になってみてください。「アイタイヒト」Copyright (C) Takahiro Ishizuka 高画質/低画質(観れない場合は、ダウンロードしてご覧ください。)
2006.03.22
なぜあなたは、ありのままの、本当のあなたを見せてくれないのでしょう?ありのままのあなたは、限りなく美しくて、私は感動して、ただただ、ひれ伏してしまうだけなのに。きっとあなたは、ありのままの自分に自信がないのね。たぶん、世の中の誰もが、そうなのでしょう。ありのままの自分は一番醜いと思っている。こんなものは、決して他人には見せられない、と思っている。だから一生懸命取り繕って、かっこよく見せようとするのです。でも、はっきり言って、取り繕ったあなたには、何の魅力も感じません。勇気を出して、あなたが最も醜いと思う自分をさらけだしてください。それが私にとっては、一番魅力的なあなたなのですから。ありのままのあなたが、私をどれほど感動させるかを知ったとき、あなたは、本当の自信を手に入れることができるはずです。(本日のブログより)
2006.03.19
物事の正しさは,効率の良さと比例する。ここで言う、「効率」とは、エネルギー効率を指す。最近地球環境の保全のためによく使われるキーワードである。 たとえば、お湯を沸かすとき、薪で沸かすのと、ガスで沸かすのと、電気で沸かすのでは、どれが一番効率がいいだろうか? 薪を切ったり、火をつけたりするのは大変だと思うかもしれないが、ガスを使うためにはそれを採掘したり、運んだり、ガス器具を作ったりしなければならないし、最も手軽に見える電気を作り出すには巨大な発電所や送電線が必要になる。つまり、我々がそれらを利用できるようになるまでに、裏で莫大なエネルギーを消費しているわけで、結局は大変効率の悪いエネルギーの使い方をしているということになる。 そう考えると、お湯を沸かすのに最も少ないエネルギーの消費ですむのは、最も手近にある薪ということになる。実際に風呂に入ってみれば、電気で沸かしたお湯よりもガスで沸かしたお湯、ガスで沸かしたお湯よりも薪で沸かしたお湯の方が気持ちがいいし、暖房もまたしかり、さらには料理も炭火が一番おいしい。つまりエネルギー効率のいい方が人間にとっても心地よく、身体にもいいというわけだ。 およそ地球にとっていいことは、人間にとってもいいことのはずである。人間か健康になることならば、間違いなく地球も健全になるはずだし、今、地球が破壊されているとすれば、人間の身体も蝕まれて当然なのだ。つまり、「全体」と「部分」の利害は完全に一致するのであって、全体のために個々の部分が犠牲を強いられたり、逆に個々の部分の利益のために全体が損害を被るなどというのは、本来あり得ないことなのだ。それなのに、人間は長い間、「全体」と「個人」の利害は相反するものだと誤解して、どちらの利益を優先すべきかなどという議論に終始してきた。 地球環境を守るためにすべきことは何なのか? それは、地球のために自分が節制したり我慢することではなく、自分にとって最も良いことをすることである。 自分が最も健康になれること、最も気持ちのいいこと、最もおいしいと感じること…それが自分にとって本当にいいことならば、間違いなく地球にとってもいいことのはずなのだ。ところが、現代人はその感覚が大いに狂ってしまっている。 それは、現代社会がのそのような感覚を鈍らせることを強要し続けているためである。生活のため、お金のため、名誉のため、人間にはしなければならない義務がたくさんあって、ほとんどの人はそれに追いまくられた生活をしている。みんな目の前の義務をこなすのに必死だ。それをしていれば、少なくとも当面の生活は守られるかもしれないが、自分がそのような活動をすることによって、地球がどれほど壊れていくかなど、考えたこともない。「薪でお湯を沸かすだって? とんでもない。私は忙しいんだ!そんな効率の悪いことができるか!」(エネルギー効率と時間的な効率は全く異なります。いいものを生み出すためには、期が熟すのを待つことも必要です。) でも、考えてみれば、地球にとって悪いことは、人間にとってもいいことのはずがない。義務に追いまくられた生活はストレスに満ち、結局自分も病気になってしまうのだ。身体はちゃんと教えてくれている。「あなたのしていることは間違っているよ。」と。 義務に追いまくられるというのは、つまり、やりたくないことを無理してやっている、ということである。これこそ、最もエネルギー効率の悪い生き方なのだ。やらなければ、という思いと、やりたくないという思いが葛藤を起こして、エネルギーを無駄に浪費しているのだから。逆に、自分が本当にすべきこと(=本当にしたいこと、していて幸せになれること)をやっているときは、人間は疲れを感じないものだ。どんなに忙しくても、どんどんエネルギーが湧いてくる。それこそ最もエネルギー効率のいい生き方で、それはつまり地球にとっても望ましい生き方なのである。 何が正しい生き方なのかを知るのは非常に簡単だ。自分の中のエネルギーの流れを見つめればいいのだ。やってもやっても疲れるばかりで労多くして得るものが少ないこと、それはエネルギー効率が悪いのだから、やってはいけない、ということである。自分が本当にすべき事を見つけるためには、何をしいてるときに自分の中からエネルギーが湧いてくるかを見極めればいいのである。 疲れ切った身体にむち打って、気の進まない義務をこなすのはもうやめましょう。そんなことをしていれば、地球はますます壊れるばかりだから。あなたが自分を壊しているのだから、地球が壊れるのも当然でしょ? 「これをすることが社会における自分の義務を果たすことなのだ。」などと言い訳するのはやめにしましょう。そんなことをして、誰が幸せになれると言うのですか? あなたは疲れるばかりで、周りの人も仕方なくつきあっているだけなのに。もっと、自分も生き生きして、周りも幸せになれるようなことをしましょうよ。 あなたが幸せになればみんなも幸せになれるのだということが本当に理解できたとき、この世の創造主である神の愛というものが、宗教的な意味ではなく、実感としてわかることでしょう。神はあなたに本当に幸せになって欲しいんですよ!! かくいう私も、こんな文章を書いているときに最もエネルギーが湧いてくるのを感じるから、これを書いているんです… (エッセイより)
2006.03.12
「告白するには、ちゃんと手順を踏みたいんです。だから相手に失礼にならないように、きちんと準備して、相手が心を開いてくれたら告白するつもりなんです。いきなりやって、ストーカーのように思われたくないし…」 「きちんと準備して、相手が心を開いてくれたらだって? そんなの無理よ。 自分が告白する前に、きちんと準備して相手に心を開いてもらおうなんて思うのは、つまり自分が傷つきたくないからでしょ。そんなのずるいわ。それにどんなに準備したところで、相手の気持ちに確証なんか持てるわけない。だから告白するときの恐怖はいつも変わらないのよ。その恐怖がなくなるまで待っていたら、永遠に告白なんてできない。 人はいつも手順を踏んで、紳士的に、品行方正に告白したがるけれど、告白する瞬間は誰もが絶体絶命なのよ。相手に迷惑をかけちゃいけないとか、嫌われたくないとか、ストーカーだと思われたくないとか、こんなことしちゃいけないと思っても我慢できなくてやってしまうもの。誰でも、取り乱してめちゃくちゃになってしまうものなのよ。 でも、告白される立場の人間にしてみれば、そっちの方がずっと嬉しいに決まっている。もしも紳士的に、冷静に告白されたら、むしろ『この人、本当に自分のことが好きなんだろうか?』と疑ってしまうもの。冷静に『好きだ』と言える人なら、『もう好きじゃなくなった』と言うのも簡単のような気がしてしまう。取り乱したときは『本音』を言ってくれたような気がするけれど、冷静に言われれば、『タダの建前』じゃないかと思ってしまう。 だいたい、あなたの本命に告白するならば、相手にとってもあなたが本命なのだから、相手の側も真剣勝負なはず。一旦あなたに心を開いたのに捨てられたりしたら、それこそ自分が致命的に傷ついてしまう。だから、あなたが本音でぶつかってくれていると感じるまで、決して心を開かないでしょうね。 結論から言えば、何も準備しないで、めちゃくちゃになる覚悟で告白しない限り、決してうまく行かないって事よ。 それは本当に怖いでしょうね。命がけの勇気が必要よ。たぶん世の中にこれ以上に恐ろしいことはないでしょうね。 だからこそ、本当の恋愛には価値があるのよ。それは真の意味で人を大きく成長させる。なぜなら、この告白を成し遂げた者にとって、人生に怖いものなどないのだから。」 (エッセイより)
2006.03.11
私の特技は恋占いである。紙に占いたい二人の名前(絵や記号でもよい)を書いて、その二人の間にエネルギーが通っているかどうかを見るのだ。二人が正しく調和していれば(本当の相手ならば)、二人の名前を囲む○ができ、二人が合っていなければ、それぞれの名前の外側に別々の○ができる(二人の本当の相手は別にいる)のである。 どうしてこのような占いができるようになったのかは、実はよくわからない。きっかけは、続きを読む
2006.03.11
「恐怖を見る」ことが、人生最大の課題である。 自分には、何も恐れるものなどない、と思っているかもしれない。けれどもそれは潜在意識の中に隠れているだけで、存在しないのではない。何かの拍子に、たとえば夢の中で、それは姿を現す。誰でも、意識の中の一番深い所、一番触れたくない部分にそれはある。 それは簡単に言えば、「自己防衛本能」の裏返しである。誰でも、無意識のうちに今の自分を守ろうとしてしまうものだ。自分に危害を加えるかもしれないものから身を守り、自分が慣れ親しんだ生き方、生活を維持しようとすることは、至極当然のことのように思われている。だから、世の中のあらゆるものが、より上手に自分を守れる方法を模索し、宣伝し、「こうすれば安心して生きられますよ!」と売り込みに懸命である。 けれども、そのようにすれば本当に自分は守られるのだろうか。たとえば、老後の生活が心配だからと、年金保険に入り、不動産投資をすれば、本当に安心なのか。社会が不安定さを増すにつれ、今度は保険会社の倒産、あるい地震の心配をするはめになる。また、不審者が子どもに危害を加えるのではないかと心配して保護者が送り迎えをするようになると、今度はストレスの溜まった保護者が加害者になるような事件が起こる。 このように、「恐怖」や「不安」を解消するためにとられる対策は、なんら根本的な解決にはつながらない。そこに「恐怖」がある限り、どんなに逃れようとしても「恐怖」は常にあなたにつきまとう。そうして結局誰もが、「恐怖」に直面せざるを得なくなる。 世の中の人は、とても大切なことを忘れている。それは、「現実」は、自分の意識によって引き起されるということだ。悲観的な人よりも、楽天的な人の方が明るい人生を歩んでいる例が多いのは、誰しも気づくことである。自分の中に「恐怖」があれば、それが「恐ろしい出来事」が起きる要因になる。だから、自分の中の恐怖を消さずに、いくらそこから逃げようとしても、決して安心は手に入らない。自分の中の恐怖を消すためには、それを直視するしかない。「見る」しかないのだ。 では、「恐怖を見る」とは、どのようなことか。 たとえば、決して起きて欲しくないことがあるとする。それが起きることが怖くてたまらない。だから、何としてもそれが起きないように、いろいろな対策を講じる。これはまさに恐怖から逃げようとする行動である。けれども、皮肉なことに、そうすればするほどその現実はますます近づいてくる。この悪循環から抜け出すにはどのようにしたらいいか。 まず、その「起きて欲しくないこと」が実際に起きたとを想像してみる。それは考えるだけでも嫌だろうが、逃げていても決して解決にはならないから、覚悟を決めてやるしかない。そして、それがそのときの自分の気持ちを深く感じてみる。そしてどんなに不愉快でもそれを受け入れる。 泣きわめいたり、「嫌だ!」「怖い!」と叫んだりしても全然かまわない。すべてを許し、受け入れる。そして、すべてを起きるに任せる… それができれば、もう。あなたの中に恐怖はない。恐怖がなくなれば、もうその現実は起こる必要がないのである。あるいは、仮にそれが起きたとしても、それはあなたにとって何ら悪い結果をもたらさない。 では、恐怖から逃げることによって、守ろうとしていた「自分」とは一体何だったのか? それはただの「殻」であって、本当の自分自身ではなかった。本当の自分は、決して枯れることのないエネルギーの泉である。壊れたものは、自分を制限し、不自由にしていた、だだの枠に過ぎなかったのだ。枠が壊されれば、泉からはもっと生き生きとエネルギーが湧き出す。生きているという実感が溢れ出すのだ。 もちろん、殻を破ることによって、あなたの将来は一気に流動的に、不確定になる。何が起こるかわからない。それは今までのあなたにとって、とても怖いことであったに違いない。でも、恐怖がなくなれば、未知の未来は恐怖からわくわくする冒険へと変貌を遂げるのだ。 (エッセイより)
2006.03.02
ちょっともどかしさを感じ、かつて韓国の師が私に教えてくれた祈りを捧げてみた。「神よ!私の魂を、私の身体をあなたの意のままにお使いください。」 つまり、私のすべてを明け渡します、ということだ。 すると、心がとても安らぐのを感じた。 神と言っても、天に向かって祈るのではなく、自分の心の中を見つめる瞑想に近い。要するに、守りに入らずに本当の自分をそのまま出せるようになるための祈りである。 心の中に何か迷いがあるとき、何をするにも、ついつい自分の中で言い訳をしてしまうとき、行きづまった感じがするときなど、この祈りは前に進むのに役立つように思う。 お陰でずいぶん身体が軽くなった気がする。 (ブログより)
2006.02.19
1993年の暮れ、私は表参道で一人の占い師に呼び止められた。「あなたには心眼相(?)が出ています。私に占わせてください。」聞けば、それは人生のとても大切な岐路に立っている人に顕れる相なのだそうだ。そのときの私はまさにそういう状態だったので、私はその占い師に言われるままに占ってもらい、その助言に従って、高価な数珠を買い祖先を供養した。その占い師はのちに、ちょっと不思議そうに私にこう訊いた。「なぜあなたは道で呼び止めただけの私を信じたのですか?偽物かもしれないのに?」「私が信じれば、偽物でも本物になるし、私が疑えば本物も偽物になります。」「!」今振り返れば、当時の私は決して行ってはいけない道を行こうとしていた。占い師の助言で行くのをやめたのだから、私がその占い師を信じたのは正解だった。「神を試すなかれ」という言葉がある。これも似たようなことだと思う。試す、ということはすなわち疑いを持っているということである。物事を成就させるのは信頼であって疑いではない。だから、試してもうまく行かないのは、神の問題ではなく、疑いを持っている人間の側の問題なのだ。(ブログより)
2006.02.19
私のまわりに、自分の殻を壊したがっている人たちがたくさんいる。みんな必死に壊そうとして、でも結局できなくて、同じ所を堂々巡り。そして恨めしそうな表情で私を見る。「どうか、あなたが壊してくれないか…」と。残念ながら、私一人では彼らの殻を壊すことはできない。でも、あなたと一緒なら、二人でなら、一瞬にして、彼らの殻を溶かすことができるだろう。何の痛みも感じさせずに。私は火のない溶鉱炉。あなたは火。 (本日のブログより)
2006.02.04
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