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ローラは夜泣きがひどい赤ちゃんで、1時間毎に泣きました。昼寝もせず、しかも夜更かしでした。なのに元気いっぱい!30分も寝れば充電完了!といった子でした。 そんなローラの世話に追われている最中、年子でドロシーが生まれました。2人が交互に泣くので、私はほとんど一睡も出来ない日々が続きました。少しでも寝て欲しくて、早朝から夕方暗くなるまで、おんぶ紐でドロシーを体に括りつけ、ローラを外遊びに連れて行きましたが効果はなく、私の子育て24時間体制(眠らない日々)は永遠のように続くのでした。 プーは仕事が忙しく、たまの休みに、ちょっとでも何か頼むと、露骨に嫌な顔をしました。せめて話を聞いて欲しいと思っても、彼の目はテレビに向いていてました。そしてすぐに、「だから結局何がいいたいの?!」とイラつきました。俺の休みは俺が休むためにあるんだ!と・・ 専業主婦の鏡のような母に育てられた私は、手抜きの仕方もわかりませんでした。たまにどうしても出来ないことがあると、強い罪悪感に苛まれました。妻とは母とはこうあるべき、そのこだわりが、私を縛り付けていました。 私は、完全に自分を失い、自分の欲求が何かすらも忘れ、日々、「~せねばならない」に追われていました。子どもに愛情を示す一方で、憎しみさえも感じ、そんな自分を責めました。 私は別人になりました。私は私ではなく、母親という生き物になりました。 生活のこともあり、また、この苦しい日々から少しでも解放されたいという思いで、私は再び仕事を始めました。ところが私はいつも、自分が仕事をしていることで、子どもに寂しい思いをさせているのではないかという罪悪感を持っていました。だから、家にいる時はその罪滅ぼしのような気持ちで、一層、子どもに尽くしました。必要以上に手をやき、世話をやきました。朝は4時半に起きて、家事のほとんどを済ませ、毎晩(ローラが5年生になるまで)欠かさず40分、本を読み聞かせ、2人が眠るまで添い寝をしました。プーの帰りは深夜なので、帰ってくると、晩酌と食事の用意をしました。 プーは土日も出勤なので、私は一人で子どもをどこかしらに連れて行きました。私にとって土日は、仕事のある日よりハードな出勤日のように感じていました。平日に休んで、のんびりしているプーを見ると、やはりプーにも、憎しみのような気持ちを感じました。 外でお金を稼ぐ仕事を持っていない時は、働いていないことに引け目を感じ、外で働き出すと、子どものそばに居られないことに罪悪感を持ち、また、プーほどの稼ぎを得ることが出来なかったので、ちょっとグチをこぼしたり、協力を頼むと、「俺と同じだけ稼げるなら、いつだって代わってやるよ。 俺だって出来ることなら代わりたいよ。だって楽だもん!」と言われました。 私は友人たちとストリートダンスチームを結成し、自分を取り戻しつつありました。でも、その時間を作るために、私の睡眠時間は平均2、3時間になりました。自分の好きなことをする分、家事や育児は一層頑張る必要がありました。そんな生活に疲れ、結局、私はダンスを続けることを断念しました。そのうち、友達と出かける体力も気力もなくなっていきました。 ある日私は、全身の激しい痛みで、立ち上がることが出来なくなりました。横になっていても痛くて、泣き叫けぶほどで、あらゆる病院に行きましたが、原因不明とされ、「ストレスだろう」と言われました。でもその時の私には、自分がストレスを感じているという感覚すらありませんでした。私にはストレスなんてない!ましてや、こんなにひどい痛みの原因が、ストレスだなんて考えられない!と、私は医師に抗議しました。重症ですね。 母親は自分自身を傷つけている。まるで汚れ物をため込むように何年間も自分を殺し続けているうちに、やがて自分を完全に見失う。自分のやりたいことなんてたいしたことじゃないと考えるのが自分をなくした女性であり、人間らしさに欠けた女性である。偽りの自分を持つ母親は、おそらく自分が抱えている問題に気づいていないのだ。問題はないと否定するか、子どものためなのだから仕方ないと言い張るかもしれない。でも、偽りの自分を持つ母親は、知らず知らずのうちに苦しみ、静かな怒りと苦痛を溜め込んでいる。わたしは子どものために常に自分を後回しにしていたが、自分では決してそれを認めなかった。そして、私は大人としての自信を失った。しばしば不安と混乱を感じたが、憤りの火を燻らせることに時間を費やした。そういう母親は、信念や自信を失い、憂鬱と悲しみの発作を抱えている。心だけでなく、いずれ身体を壊すことになるだろう。(カリン・ルーベンスタイン) 女性は生物学的にも、他人の感情に敏感なのだそうです。そのため、子どもの要求や不安を自分のことのように感じ、何かで子どもの感情が傷つくことがあると、自分にも責任があるのではないかと思ってしまいがちです。そしてそのうち、自分の要求と子どものそれとの区別がつかなくなります。 多くの母親は、子どもが苦労のない、幸せでよりよい人生を送れるよう、献身します。睡眠時間を削り、友人とのつきあいを控え、自分の洋服を買うことにさえ、罪悪感を覚えます。また、そういう犠牲を払うのは、母親の義務であり、それが子どものためになると信じているのです。 子どもたちの要求を満たし、子どもたちに出来得る限りのものを与え、幸せで間違いのない人間にしようと考える。子どもに尽くし、支えとなる母親でなければと思うのです。 もちろん妻として母として、家族に尽くすことは決して悪いことではなく、むしろ褒められるべきことだと思います。でも私は、家族に尽くすことで、家族の人生を生きてきたことに気づきました。私が生きるべきなのは、私の人生なのに・・・ だから私は子どもの人生に夢中になり、子どもの人生を間違いのない完ぺきなものにしようとしていたのです。子どもの問題の所有者は、子ども自身なのに、子ども以上に悩み苦しみ、必死になって、自分の価値観を子どもに押し付けていました。 つまり、自立出来ていないのは、実は私だったのです。 もう子どもに、家族に、憑依して生きるのはやめよう。私は私の人生をもう一度生き直そう。そう思いました。 そして私は、子どもの問題と自分とを切り離せるようになり、おかげで、子どもはようやく、私の憑依から逃れ、イキイキと自分の人生を生きるようになりました。 私は自分を許せるようになり、「やりたくないことはやらなくていい」と心から思えるようになった時、本当に楽になりました。 でも、私が私自身をもう一度取り戻すことは、想像以上に難しく、私はどんな人間なのだろう?何が好きで、何がしたいのだろう?と、考えてもわからないのです。 私は、かつての自分を思い出してみました。若い頃の私は、マイペースで自信家でした。他人が自分をどう思うかなんて考えたこともなかったので、思ったことはそのまま口にするし、私の破天荒なアイデアや行動に、いつも周りはビックリしていました。望めば夢は叶うものだと思っていたし、実際、そのように行動して、叶えてきました。いつも周りには友達がいて、みんなを驚かせたり、爆笑させるのが常でした。歌うこと、表現することが大好きで、バンドをやったり、お芝居やイベント等を開催しました。 でも妻・母になった私はまるで別人になっていました。大胆無敵、夢いっぱいの私は、どこにいったのでしょう。 もう一度、私が私を見つけるためには、ゆっくり自分と対峙する時間が必要だと思いました。そのためには、自分の負担を家族にも、少しずつ背負ってもらえたらと思いました。また、私の心の奥底で燻ぶっている思いを、家族にもわかってもらいたいと思いました。私はもう、罪悪感や迷いを感じることはなく、胸を張って宣言しました。 私は家族を大事にすると同じように、これからは自分自身も大事にします。なので、私が一身に背負ってきたものを家族で分担、ヨロシクお願いします! 罪の意識を捨てるのは、挑戦であり、鍵となる。それによって母親は、自分について多少考えられるようになり、ひいては子どものためにもなる。母親が年中行っている犠牲的行為が、娘には害を与えている可能性がある。犠牲を払う母親は、娘に偽りの自分を持つよう勧めて、知らず知らずのうちに、娘の自尊心を損ない、自分の意見を持てないようにさせているのである。また、母親が家事をやり過ぎると、自分が苦しむだけでなく、家族のためにもなっていないのが実情である。家族から母親は自分たちより劣る存在であり、自分たちに仕える者だという見方をされるようになってしまうのだ。母親が家事をすべて引き受けることは、大きな間違いであり、家庭生活に参加する機会を夫から奪うものだと考えなければならない。楽しいことだけでなく毎日の嫌な仕事もこなさない限り、夫は家族の一員とはなれないのである。
2009.01.23
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ここのところ、まるで男女平等を訴える女性団体みたいに叫び続けたので、 ちょっとお疲れ…(^_^;) 小難しい話しはひとまず横においといて、 ここでちょっとブレイク…o(^-^)o 先日、友人との新年会がありました。 前にもちょっと話した 中学教師をやってる友人、 今度、教師仲間でミステリーツアーに行くのだそう。 「へえ~、どこに行くの?」 「だから、ミステリーツアーだからわかんないの」 !!! どこに連れて行かれるかも、何をするかもわからずにツアーに申し込むなんて…(^_^;) やっぱ学校の先生って変わってるわ~(^_^;) 職員室は、変わり者の見本市! な~んて聞くけど、 確かに、先生って個性的だわ… 別の友人、 私とオソロのネックレス、 何年かぶりにつけてみたら、 太り過ぎてて、ネックレスじゃなくて、 首輪になってたそうで…(^_^;) 笑うと鎖が食い込んで、 首がしまるんだって… そんな自分が悲しくて、 笑い続けようかと、 つまり自害しようかと思ったくらいだったと言ってました(^_^;) 私も子どもが不登校になって、 ストレスでなぜか激太りしたので、 他人事ではないぞと思い、 ネックレスしてみたけど、 なんとか大丈夫でした~p(^^)q! 今日の食事当番、本当は私なんだけど、 月曜と交替したので、ドロシーが夕飯作ってくれました(^0^)/ 一番お得意の「オムライス」だった♪ 美味しかった~♪ 携帯を防水携帯に機種変したので、 お風呂で半身浴しながら書いてみましたo(^-^)o 大丈夫か?本当に…
2009.01.21
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子育てにおいての家事の分担、また、どのように進めていくか等、まだまだ書きたいことがいっぱいありますが・・・今日は、夫が家事をすることについて、少し書きたいと思います。 私は今回、家事分担をするにあたって、これはプーにとっても、とても良いことだと思いました。プーは転職するまで、尋常ではない勤務をこなしてきました。殆ど休みもなく、1日16時間も働く生活を長いこと続けてきたのです。通勤時間をひくと、家に居られる時間は4、5時間程度、まさに寝食を忘れて、働いていました。それが転職によって一転しました。それまでは、大きな責任を背負う立場ではあったけど、自分の指示で大勢の部下が動くという、やりがいのある仕事だったと思います。今もそれなりの責任はあるのですが、思ったほど、大きな仕事を任される訳ではなく、給料も以前よりだいぶ少なくなってしまいました。 日本の男性は、自分の価値を、給料で量るところがあるようで、このことでプーの自尊心は、すっかりしぼんでしまいました。 実は、「怒鳴らないで」という記事を書いた時、私は彼が、軽い鬱状態なのではないかと思っていました。メッセで、男性にも更年期があるので、それではないですか?とアドバイスを下さった方もおられました。 現在、以前ほどの過剰勤務はなく、家に居られる時間も増えたプーに、私としてはもう少し、仕事以外のことにも目を向けて欲しいなという思いがありました。 何か趣味でも始めてみたら?ボクシングジムなんかどう?などとさりげなく薦めてみましたが、「そんな暇はない」と言って、散歩に連れ出す位が精一杯でした。二人で飲みに行こうと行っても腰が上がらず、せっかく地元に帰ってきたのに、友達の誘いも断ってしまいます。仕事以外では、ともかくずっと家にいて、ひたすら横になって、DVDを観たり、ゲームをしたりするだけで、他には何もしない状態でした。 男性は、家庭の中であえて役割が与えられていない以上、仕事から帰ると、ほとんどやることがありません。男性にとって家は、ある意味では、とても居心地の良い場所です。 でも私は、プーにとって、家庭の居心地が良すぎる(やることがない)のも考えものかなと思いました。家の居心地が良いということ、面倒な事は全て私が引き受けるということは、心おきなく仕事に没頭出来る環境であるということ・・そういう環境を用意することそが妻の努め、良い女房という考え方が一般的なのかもしれませんが、そのことで、男性はワーカホリックへの道へ邁進することが出来ます。 妻としては、夫が家事の煩わしさから解放され、仕事に没頭出来る環境を用意することが、夫のため、如いては家族のためという思いがあるのでしょうが、こうやって、夫の家庭の中での存在価値を小さなものにし、家族から閉め出し、ワーカホリックの道へ、果ては鬱病への道へと、知らず知らずのうちに導いているのかもしれないと思いました。私は、プーが家事に参加することは、仕事以外にも自分の存在価値を見出すきっかけになるのではないかと考えました。 自分は仕事が出来てなんぼ、昇進してなんぼ、家族が少しでも贅沢出来るように稼いでなんぼ、そんな頭と心に風を通すことになるような気がしました。家事、それは、生きるために必要なこと。「生きる」ということ。 仕事に集中出来るようにと妻が尽くすことで、かえって夫の生きる力を奪っているのではないか?だから男性は、仕事で行き詰まったくらいで、精神を病んだり、自殺したり、過労死するまで働いたりするんじゃないだろうか?日本のサラリーマンは、会社の為、自分と家族の経済的豊かさのためによく働きます。上司や同僚、査定等を気にして、あえて有給休暇をとらず、所定勤務時間以降も会社に居残るサラリーマンも多いようです。さらに日本の男性は、妻との関係をより良くしようと考えるよりも、職場での人間関係に重点をおく傾向があり、(それが良い仕事につながるという考えもあり)アフター5も職場の仲間と過ごすなどして、帰宅は深夜になるという状況も平均的です。職場の仲間と過ごす時間の方が妻や家族と過ごす時間よりはるかに多い、つまり、夫にとっては、職場が自分の生活の場なのです。職場で精魂を使い果たした夫は家庭でぬけがらとなり、妻は一人、子どもと半母子家庭状態で暮らします。その分、母親のエネルギーは、ひたすら子どもに注がれます。結果、過保護・過干渉な母親に育てられた、いつまでも自立出来ない、未成熟な子どものような大人を世に送り出すことになります。 自立出来ていない男女の結婚生活や夫婦関係がどんなものになるか?それは想像にたやすいでしょう。わが国の自立心を欠いた男性たちは、まさにこのような母親に育てられた産物なのです。そんな多くの男性が、結婚相手に、母親の代理を求めたとしても、不思議ではありません。 母親に、家事の一切から解放されて育てられ、大事に育てられてきた男性は、生活の世話の一切を妻に依存します。 さらに、伝統的な男性優位の価値観による、自立性を欠いた、未熟性に気づかないばかりか、そのことに問題意識すら持たないのです。 自分は、家では「世話される者」であるという認識で、妻や子どもに対する役割を拒みます。日本の男性にとって、結婚はゴールなので、欧米のように、結婚がスタートで、その後の夫婦関係を育てるとか、家庭生活のために互いに努力するということを怠ります。まさにピーターパン、永遠の子どもです。 また、女性も、母子密着関係、過保護の産物なので、白馬の王子が幸せにしてくれることを願う(他者に依存するという)シンデレラなので、お互いに、相手に対する期待が多く、でも、それに応えるものをお互いに持ち合わせていないので、お互いに欲求不満を募らせます。 永遠の子どもピーターパンと、誰かに幸せにしてもらうことを望むシンデレラでは、うまくいくはずもありませんね。 現在、女性の多くが外で働いています。男性ほどの収入はないにしても、仕事と家事・育児のダブルシフト、トリプルシフトをまるでスーパーウーマンの如くこなしている人は大勢います。それなのに、家事・育児の大半が女性に委ねられたままであることに、女性はいらだちを募らせています。 では、外で働いていない主婦は楽でしょうか?また、子どものため、家事のため、正社員を諦め、パートを選んだ主婦は楽でしょうか?いいえ、最も犠牲を払っているのは、むしろそういう主婦だと思います。 男女平等の精神の元で、女性もしっかり教育を受けてきました。本当は高い能力があるのです。 でも、長い間、家事と育児を一人で背負ってきたため、かつて持っていた自信や自尊心を持ち続けることが出来なくなってしまいました。かつて持っていた沢山の夢も忘れてしまいました。(このことについては、また後日書きたいと思います。) 家族は、喜びを分かち合う。そして、犠牲も分かち合う。そういうものだと私は思います。 家事・育児。ここに男性の参加がないかぎり、互いに自立した関係は望みにくく、ましてや、人生80年以上となった長寿時代を、とてもじゃありませんが女性は、充実して暮らせないのです。 子どもが巣立った後、夫婦2人の生活の方が長く続きます。妻に先立たれたり、熟年離婚したりすると、男性は早死してしまうらしいですが、男性も女性も、それぞれ一人の人間として、自分の世話の仕方を覚えるべきだし、協力しあって自分たちの世話をする方法を学ぶべきだと思います。 家族それぞれが、自分の世話を自分で出来る、つまり、「自立」した上で、本当の家族になれるのではないでしょうか。 母親一人に、夫、子どもが全面的に依存した状態で成り立っている、誰か一人の犠牲によって成り立っている家庭など、私には意味がないと思えました。 長くなりました。また書きますね。遅番勤務行ってきま~す!眠い。。。。
2009.01.21
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私は、妻として、母親として、家族にとって、家庭は安らげる場所であることが大事だと思ってきました。仕事や学校で疲れて帰ってくる家族、せめて家にいる時くらいはゆっくりさせてあげたい、休ませてあげたい、そんな気持ちで家族に一生懸命、尽くしてきました。その気持ちは、義務を超えた家族に対する愛情、思いやりからくるものでした。 でもふと考えました。じゃあ家族の方はどうなんだろう?と・・・ 家族は私に、そういう気持ちを持ってくれているのでしょうか?仕事から帰った私に対し、ゆっくりさせてあげたい、休ませてあげたい、そんな思いやりの気持ちを持ち、それを示してくれているのでしょうか? 答えはNOだと思いました。なぜなら、私が家の中でこまネズミのように働く姿は、家族にとってあまりに当たり前のことだったからです。 妻とはそういうもの、母親とはそういうものという感覚、妻、母親を家族のお手伝いさんとみなす感覚が、確かにそこにあるように思います。 やっとの思いで洗い物を終えたのに、ローラは出し忘れたお弁当箱を、無言でまるで放り込むように出してきました。彼女の口からは、かつて私が母に言ったような「出すの遅れてごめん」「ごちそうさまでした」「ありがとう」といった言葉は出てきません。せめてもの抵抗で、「今洗い物終わったのに~」という私に、「だから何?」と言わんばかりの顔をして立ち去りました。 私は、ああ、この子には、毎日お弁当を作ってもらっている、洗い物をしてもらっているという感覚も、感謝の気持ちもないのだ。そう思いました。 よく世間ではこんな風に言います。 『今こうして何不自由なく暮らしているのは、お父さんお母さんのおかげ。世界中には、食べるものがなくて死んでいく子どもがたくさんいるんだよ。あなたは恵まれているのよ。感謝しなくちゃね』 これが最もだということは、子どももわかっているのでしょう。 でも、いくらそんな話をしたところで、実際には、お腹が空いていようといまいと、時間になれば黙っていても食事は出てきます。寝転がっているうちに、いつの間にか食器は洗われているし、昨日着た服は翌日、綺麗に洗濯され、畳まれ、部屋に戻ってきているわけです。まるで魔法のように・・・ 当たり前じゃないんだよといくら口で言われても、実際には、当り前のことになってしまっているのです。 今、家事を分担していますが、家族が家事を、喜んでやってくれることを期待している訳ではありません。上手にやってくれる事を望んでいるわけではありません。 私が期待しているのは、実際自分でやってみて、それがどれだけ大変なことなのかを実感してもらうことなのです。 反発が出たとしてもいいのです。むしろ嬉しい反応です。その「やりたくない」と思う気持ちさえも、実際に自分自身で感じてもらうこと、それが大事だと思うからです。 母親も日々、その気持ちと闘っています。母親は全自動家事ロボットなんかではなく他の家族と同じように生身の人間なのですから。 大変だし、泣きたくなるほどやりたくない日もある。もし、誰かが「手伝ってあげようか」と一言言ってくれたら、とっても嬉しいのです。 人間は体験したことじゃないと、本当にはその意味を理解することは出来ません。 何もしなくても当たり前にキレイになっていたり、何もしなくても当たり前に温かいご飯が出てきていたら、その有り難さを実感することはなかなか出来ません。当たり前ではないはずのことでも、当り前のことになってしまうのです。 でも、自分がそれを実際やってみることによって、この当たり前のように感じていたことのすべてが、実は誰かが自分のためにしてくれていたことなのだと気づくのだと思います。 また、家事を分担することで、家族の会話が増えました。 「これ、どうやったらいいの?」「ああこれはね、こうしてこうするのよ」「あ、そうか!こうやるんだ~!ありがとう!」「どう?こんな感じでいい?」「うん、なかなかうまいじゃない」「えへっ、そういえば学校でやったことがあった~」「あらそうなんだ」こうやって色々な話をしながら、一緒に家事をします。 それまで私が作ったものを当たり前に食べていたのが、自分で作るようになると、「どう、美味しい?」「美味しいよ~」「本当に?よかった~!これ、何が入ってるかわかる?実はこんな風に作ってみたんだよね~」こんな感じで話しが広がっていきます。 今日の夕食の当番がお母さんだとわかると、みんな「やったー!!!」と喜びます。これも私が毎日当たり前に作っていた時は、有り得なかった反応ですよね。 その日自分が当番じゃなくても、食事を作るということがもはや他人事ではなく、自分の問題でもあるのです。 「洗濯機使う人いる?今私、使っていいかな?」「今日のお風呂当番誰?」「良いことに気づいたよ!自分が洗い物の当番の時は、 なるべく食器を使わないようにすればいいんだ!」等々・・・ 何だか家庭に活気が出てきました。 大切なのは、家族が家事を自分の問題として捉えること。家事、それは、生きるために必要なこと。「生きる」ことに直接つながっています。すなわち「生きる力」です。 自分で洗った服を自分で干す。このことで、子ども達は、自分に自信をつけます。思春期になり、自立心が芽生えた子どもの、自立心が満たされます。 ちゃんと出来た=自尊心が高まり、充実感がみなぎってきました。失敗した=お母さんってやっぱすごいんだな~ 私はもう一人で、誰にも評価されない、感謝もされない家事を、一手に引き受け、みじめな気持ちになることもありません。 なぜならその大変さを、家族はみんな知っています。今私がやっている家事は、明日は他の家族がやってくれます。隣りで別の家事をしている人がいます。一緒に話をしながらやります。 つい先日まで、たった一人、キッチンで黙々と片付けをしていた私。リビングからテレビを観て笑う家族の声だけが聞こえました。あともう少し娘たちが大きくなったら、今度は、お皿を下げた後、リビングではなく、自分の部屋に散って行き、彼氏や友達と電話をしたり、好きな音楽をガンガン鳴らし始めるようになっていたかもしれません。プーは一人リビングで、テレビのチャンネルを回しながら寝てしまい、私は山のようにある、やらなければならないリストとの闘っていることでしょう。 そうしているうちに、いずれは、介護の問題も出てきて、きっとまたそれも、私が一人黙々とこなしていくことになったかもしれません。 娘たちはそんな私を見て育ちます。結婚なんてするもんじゃないな、子どもなんて欲しくないなと思うかもしれません。ピーターパン症候群。大人になりたくない人たちは、こんな親の姿を見て育った人たちなのでしょう。 そりゃそうでしょうね。大人になんかなったって、良いことなんて無いのだと、お母さんを見ていたらわかります。 母親はまず、自分の家庭から、反旗を翻す必要があると思います。そうでなければ、女だから、妻だから、母親だから、自分を犠牲にして生きるべきだという文化や社会の圧力による見えないハンディキャップを死ぬまで背負い、やがては娘や孫娘たちに、それを引き渡すことになります。 ふ~っ、、、今日はここまで。 家事分担のこと、書きたいことがいっぱいあり過ぎて、うまくまとまってないかも・・・私の頭の中のことを、ちゃんと伝わる文章に出来るかわかりませんが、時間の許す限り、少しずつ書いていきたいと思います。
2009.01.19
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前回の記事で、今年のわが家の決まりは「家事はみんなで」になったことを書きました。さて、それは守られているか? 実は・・・ しっかり守られています でも最初からそうだった訳ではありません。年明け、この決まりが出来てからも、家族は何ら変わりない生活を続けていました。「家事はみんなで」という決まりを、みんなで決めたのに、結局はほとんど全ての家事を私がやっていたのでした。 プーがしてくれたことは、自分の仕事が休みの時に、私が干して出かけた洗濯物を取り込み、畳んでおく事、私が洗っておいた食器を食器棚にしまう事、雨戸を閉めることくらいでした。もちろん、数か月前まで、右の物を左に移す事すらもしなかった夫が、そうやって、少しでも手伝ってくれていることは、本当に有難く、嬉しいことでした。 私が100パーセント、すべての家事をこなしていたのは、つい最近までのことです。それまで私は、何の疑問も感じず、家事と、子どもや旦那さんの世話をするのは、自分の義務だと考え、そのすべてを引き受けていました。 いや、本当は疑問を感じていました。何で私だけ? 何で私だけこんなに頑張らなくてはいけないの?この思いは、常に私の中にありました。 でもその度に私は、自分の気持ちを整理して、なぜ私がすべきかという理屈をこねては、自分に言い聞かせて、頑張ってきました。 夕食を終えると、プーと子ども達はお皿を流しに運び、3人でひっくり返ってテレビを観て、大声で笑っていました。 一人キッチンに取り残された私は、残り物にラップをかけて片付け、山のようなお皿や、汚れたガステーブルに向き合うのです。 今まで何度、自分がみじめで、不当に扱われているような気分になったか・・・ でも、他にやる人はいません。手伝ってくれる人もいません。ちょっと前までは、自分のお皿を流しに運ぶことすらしなかった家族です。誰も、「休んでいて。たまには私が(俺が)やるよ」と願い出る気はさらさらないようです。だから私は、疲れた体にムチ打って、一人でやるしかないのです。 多くの母親は知っています。家族に家事を手伝ってもらうのは、一人で片付けるよりもっと大変なことだと。家族を説得する努力はむなしいもので、わざわざ波風を立てるより、自分がやってしまう方が、はるかに家庭はスムーズにいくということを・・・ でもこうした自己犠牲の気持ちが、実際には、家族の毒となるのです。(このことについては、後日詳しく書きたいと思います) 私は、年明けから10日経った時、家族に大きな宣言をしました。ついに家族に反旗を翻したのです。 お知らせ明日より、私、メロディは、皆さんのお手伝いさんから、卒業させて頂きます。これ以上、私一人が皆さんの犠牲になることは、肉体的、精神的に不可能です。ですのでこれからは、私も皆さんと同じように、自分のことだけして、生活したいと思います。今後は、それぞれ、自分の食事やお弁当の支度をして、自分の使った食器や調理器具などの洗い物をし、自分の着たものや使ったものの洗濯をして、自分のゴミを集積所に出し、自分の部屋の掃除をし、それぞれがそれぞれで、自分のことを責任を持ってして下さい。みんなで使用している共有部分、例えば、お風呂、洗面所、トイレ、ダイニング、リビング、階段、廊下、玄関、家周り等については、当番表を作成し、それぞれ責任を持って、やっていくことにしましょう。当然、私も自分の分の食事を作り、自分の食器を洗い、自分の洗濯ものを洗い、自分のゴミを出し、自分の部屋の掃除をし、当番の掃除等をします。それでは皆さん、頑張って。お互いに、自分のことは自分でやって、それぞれの仕事や学校生活を楽しみましょう(^0^)! さぁ参った!晴々とした気持ちの私とは裏腹に、他の家族は戸惑いました。 そりゃそうですよね。あまり家事に参加しないのは悪いなという感覚くらいはあったものの、家で好きな時に好きなことが出来るという贅沢を誰も手放したくなどありませんもの。 妻(お母さん)さえ頑張ってくれれば、掃除機をかける代わりに、新聞やマンガを読んでいられるし、洗濯ものを干す代わりに、テレビを観ていられるのですから。 プーは言いました。「家庭崩壊だ!」ローラは言いました。「それはお母さんの仕事でしょ!」 以前の私でしたら、家族のこんな反応をうけて、妻として、母親として、これでいいのか?という、罪悪感に苛まれ、諦めていたはずです。でも今回の私は違いました。この選択は、必ず、家族全員を幸せに導くという、確固たる自信があったのです。私が楽になりたいというよりも、むしろ、これが家族のためになると信じました。 その気迫に押されてか、私があまりにもニコニコと当たり前にそう宣言したせいか、結局、家族は自分から、「やってみるか!」という結論を出しました。 でもやはり、食事がバラバラというのは良くないということになり、食事の支度や片づけについても、他の共有部分の家事と同じように、当番制にするということで、話は決まりました。 月火水木金土日プー(計11) ・1階掃除・玄関・雨戸・夕食洗い物・ゴミ捨て・夕食洗い物・朝食作り・ゴミ捨て・1階掃除・玄関・雨戸・夕食洗い物・夕食洗い物 メロディ(計17)・朝食洗い物 ・朝食洗い物 ・朝食洗い物・1階掃除・夕食作り・朝食洗い物・夕食作り・お風呂 ・朝食作り・朝食洗い物・1階掃除・ゴミ捨て・夕食作り・お風呂・夕食作り・玄関・雨戸・お風呂ローラ(計12)・朝食作り・玄関・雨戸・お風呂・お風呂・朝食作り ・玄関・雨戸・朝食作り・1階掃除・夕食洗い物・1階掃除・夕食作り・夕食洗い物ドロシー(計13)・1階掃除・ゴミ捨て・夕食作り・夕食洗い物・朝食作り・ゴミ捨て・夕食作り・玄関・雨戸・お風呂 ・お風呂・玄関・雨戸・朝食作り・朝食洗い物 • 自分の着た物の洗濯は自分で。自分の部屋の掃除・ゴミ捨ても各自でする。• お弁当は自分で詰める。• 食器は各自で下げる。 洗濯は、こんな風にして、各自でやっています。 ↓ こうやって、家事を分担するようになってから、まだ数日ですが、家族の絆は深まっているように思います。 ローラが先日寝る前に、こんなことを言っていました。 「お母さん、ローラね、 家事をやるようになってから、 色々なことがうまく回り始めた。どうして? 初めはうまくいかないと思ってた。 学校行って、家事もやるなんてうまくいかないと思ってた。 でも違った。 家事をやるようになってから、こんなにうまくいく、ねぇどうして? お母さん、その方程式、本当は知っているんでしょ?」 「うふふうん、知ってるよ。さぁ、おやすみなさい。」 続きはまた書きます
2009.01.15
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相変わらず、忙しい毎日を送っています。別の学童で欠員が続出し、ウチの指導員がヘルプに行っている為、来月まではほぼ休みなしでの勤務です。今月も、正月明けから休みなし、再来週に1日だけ休めますが、土曜日も出勤、こんな状況が来月末まで続きます。 お正月は、Hey say jump!のコンサートに行ったり、ドロシーのクラブの発表会があったり、正月明けの日曜は、ローラの部活の発表会があったりで、休みも休みじゃない感じです。そんなこんなで、blogの更新もままならない状況です。 しかも!一昨日から、ドロシーが風邪をひいて、高熱を出していますインフルエンザではないようですが、熱が下がらないので、昨日、今日とお休みしています。後期は休んでなかったので、皆勤賞狙えちゃったりするのか?なんて頭もちょっとだけあったのですが、まぁしょうがないですね。ところで、メロディ家では、毎年、お正月に、その年の目標や、係を決める家族会議があります。もう何年もしている事ですが、子ども達は家族会議が大好きです。今年の係は、 ・ プー イベント係 ・ メロディ 公安係 ・ ローラ 整理係 ・ ドロシー 新聞係 です。 イベント係は、家族のイベントを企画・開催します。どんなイベントをやるかと言うと、例えば、漫才大会、ビストロ大会、粘土細工王選手権、健康お散歩大会等、ともかく色々企画してやっています。お金はかけずに、盛り上がる!オールB型家族ならではの愉快なイベントです。 公安は、みんなが係の仕事や自分ですべき事をちゃんとやっているか、家の決まりをちゃんと守っているかをチェックして、公安ノートに書き込み、月一回の家族会議で、みんなに報告する係です。注意3回で、ペナルティーが与えられます。全てみんなで話し合って決めた事なので、不満はほとんどないです。 整理係は、文字通り、整理整頓、アルバムの整理等もします。 新聞係は、わが家のニュースや情報を書いた新聞を発行します。トイレのコルクボードに貼っているので、お客さんも読み、これがかなり好評で、みんなに褒めてもらっています。 で、今年の家族の決まりは、ズバリ!「家事はみんなで」になりました さて、それはどうなっているでしょう?本当に家事はみんなでやってるのでしょうか?その事については、また次回に書きたいと思います。衝撃の記事まで、しばしお待ちを
2009.01.14
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あけましておめでとうございます(*^▽^)/ 昨年末、ご挨拶のblog更新をするつもりでしたが、 時間がとれず、新年のご挨拶を 携帯からさせて頂いてます。 これからお客さんが続々といらっしゃるので、 とりあえず、ご挨拶だけ・・・ 本年もどうぞ、よろしくお願い致します。(^-^)/
2009.01.01
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