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2023年12月05日
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カテゴリ: 資料館


こんにちは、資料館です。
下和田春日神社の2回目、「百蔵大明神」についてです。

​鳥居横の ​案内板 ​​ には、神社の由緒について次のように書かれています。​



当初大同三年(八〇八)七保町下和田百蔵山頂に「百蔵山(モモクラサン)春日大明神」と称し鎮座。
徳治元年(一三〇六)に山火事にて社殿炎上、その後文和二年(一三五二)山火事を恐れて神慮を伺い、東梨木戸の現在地に御遷座し、本殿は享保五年(一七二〇)に改築されたものと社記に云う。

なるほど、平安時代の初めに百蔵山頂に創建され、「百蔵山春日大明神」と呼ばれていたのですね。
そして、鎌倉時代の終わりごろにおきた山火事により社殿が焼失したので、室町時代の初めに今の場所に移ってきたというわけか…。
う~ん、そうえば百蔵山頂に「百蔵大明神」と刻字された石碑が一基あったな。
というわけで、百蔵山頂で撮ってきたのが上の写真です。


明治維新百年祭記念
百藏大朙神遺跡
昭和四十三年三月十四日 氏子一同
山梨縣神社庁長 古屋新 書


銘文中央に「百蔵大明神」とあります。
案内板の「百蔵山春日大明神」とは違う神様なのでしょうか。

まず、「百蔵山春日大明神」について考えてみます。
先頭につく「百蔵山」は「山号」と呼ばれる称号で、他の同名の神社と区別するための住所のような役割を果たします。
「山号」は一般的には寺院に多く見受けられますが、「山号」を持つ神社もわずかとはいえ存在します。
「春日」は神名で、祀られている神様は当然ながら春日神となります。
最後の「大明神」は、「大」が次の名詞にかかる形容詞で、「明神」が神社(神)の格式(ランク)を表したり、神様を尊び敬う気持ちを表すときにつける「神号」となります。
つまり、百蔵山にある春日神を祀ったとても格式の高い神社、もしくは、百蔵山にあるとても尊い神様である春日神を祀った神社、ということですね。

次に、「百蔵大明神」です。
その前に、毎度おなじみの『甲斐国志』には下和田春日神社がどのように書かれているのか確認しておきましょう。


『甲斐国志』 巻之七十二 神社部第十七ノ下​
百蔵山春日明神 (下和田井尻ニアリ)​
本村氏神ナリ地蔵立像アラハゝキ貮躰(衣冠形坐像)背後ニ文明十五(癸卯)ノ銘アリ十六善神壹幅天文八(己亥)年ノ裏書アリ神剣壹振銘曰甲斐国都留郡宮谷郷百蔵大明神為御剣天文十七年十一月吉日於駒橋元近作之
△花井寺ハ社ノ西隣ニアリ安貞二年ヨリ宝徳年中マデ書写スル所ノ大般若経六百巻ヲ蔵ム其巻末ニ筆者ノ姓名及神主ノ名ヲ記シタレハ此経ハ明神ニ奉納シテ 花井寺ハ社ノ別当職ナルベシ 此ノ寺寛和二(丙戌)年創造トアレバ別当職タルコト久シキコトニシテ此社ノ旧キコト可知ル 応永中絶学祖能禅師住持タリシヨリ改メテ禅刹トナリ塩山ノ末院トナル今ハ社僧ナク神主ノミ神領畑壹段四畝七歩祭礼七月廿六日十一月十五日神主ハ奈良大和
〔以下略〕



「明神」に、形容詞の「大」がついていません。
江戸時代には「大」をつけてよんではいなかったようですね。
また、祭礼の日も違っています。
気になるのは、花井寺の説明部分にある「花井寺ハ社ノ別当職ナルベシ」の文言。
これを理解するのには花井寺の記述を読まなくてはいけません。


『甲斐国志』 巻之九十 仏寺部第十七下
水上山花井寺 ​(下和田村)​
​​​臨済宗山梨郡塩山向岳寺末 〔中略〕 開山絶学無能禅師是レ禅法ノ開祖ニシテ是ヨリ先 寛和二(丙戌)年神主奈良某大檀那トナリ創造ス 盖シ真言ノ精舎ニシテ百蔵明神ノ別当職ナルベシ 〔中略〕 応永中無能禅師来住ス初メテ禅法ヲ唱フ此ノ時改宗シテ臨済宗ノ禅刹トナリ向岳寺ニ属ス 〔後略〕 ​​​


花井寺は、寛和二(986)年に百蔵山春日大明神の神主奈良某(なにがし)が大檀那(パトロン?)となり真言宗の寺院として創建し、応永年間(1394~128)のどこかで臨済宗に転宗したとあります。
そして、それは「百蔵明神ノ別当職ナルベシ」ともあります。
おっと、ここでは「百蔵明神」と書いてありますね。
はからずも、「百蔵山春日大明神」、「百蔵山春日明神」、「百蔵大明神」、「百蔵明神」と呼び方は違うけれども、同じ神様である春日神を指していることがわかりました。

では、この「別当職」とは何でしょうか。
「別当職」とは、神社の役職の一つで、神社に属しつつ仏教儀礼を行う僧侶を「別当」といいます。
ちなみに、「別当」のいる寺院を「別当寺」といいます。
「神社で仏教儀礼を行うの?」と思われる人も多いと思いますが、江戸時時代以前には、「神と仏は一体である」という考えのもと、同一敷地内(境内)に神社と寺院が併設されたり、神前での読経や仏像を神体として祀るなどがあたりまえに行われていました。
これを「神仏習合」といいます。
先に引用した『甲斐国志』の「百蔵山春日明神」の説明の中に、祭神はあたりまえのこととして省略されているのに、「地蔵立像」を所蔵していることが書かれているのもこのためによります。
参考までに、総本社である春日大社もかつては興福寺と「神仏習合」の関係にありました。

「神仏習合」が出てくると、本地垂迹説や修験道との関わりも気になります。
総本社である春日大社では春日4神にそれぞれ本地仏を充てていましたし、春日大社の春日山(花山・三笠山)も山岳信仰の修行場・霊場でした。
分社である下和田春日神社も、「明神」という神号や、鳥居の形式が「両部」であることから、本地垂迹説」に基づいて祭神を「仏が仮の姿で現われたもの」として信仰されていたと思われます。
ただ、いつからその信仰が始まったかについては、残念ながらわかりません。
また、修験道についても、下和田春日神社も創建から焼失するまでの500年間も山頂に社が山頂に置かれていたことから、山岳信仰があったのだろうと考えられますが、こちらも推測の域をでません。

これ以上進むと、どんどん沼にはまっていきそうなので、「神仏習合」「本地垂迹説」「修験道」についての詳しいことはグーグル先生に聞いてみてください。

※次回予告
「殿本殿透彫胴羽目彫刻」についてです。
これが、実は下和田春日神社について紹介したかった本題です。

※おまけ
春日大社と興福寺の「神仏習合」の関係については​ ここ ​と​ ​​ ここ ​​ ​です。
春日大社と山岳信仰については​ ​​ ここ ​​ ​です。​​​​





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最終更新日  2023年12月06日 09時33分46秒
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