プロフィール

大月みどり

大月みどり

カレンダー

フリーページ

カテゴリ

2023年12月15日
XML
カテゴリ: 資料館


こんにちは、資料館です。
今回は扇山山中にある「二十六夜塔」を紹介します。

表は東側、つまり道側を向いて立っています。
刻まれている文字は次の通りです。


「文化十一年(甲戌)」は西暦1814年です。
「天」は、石造物の造立年を示す数字の後ろに散見されることから、年と同じ意味を持つと思われます。
「サにヽ」は、二十を表します。
方に色は、施の ​​ ​異体字 ​ ​ ​です。
仲野は中野(現富浜町中野)です。
以上のことから、「二十六夜」と大きく刻まれたこの石塔は、文化11(1814)年3月吉日に中野地区の九兵ヱと甚蔵によって建立されたことがわかります。

○○夜と刻まれた石塔を「月待塔」といいます。
月を信仰の対象として、特定の月齢の夜に集まり、月の出を待ち上天した月を拝む行事を月待ち行事といいます。
多くの場合、「講」という組織を結成し、その構成員である「講中」が飲食を共にしたり、念仏や経文を唱えたりしました。
本来は信仰にもとづく宗教的行事でしたが、時代が下るにつれてその意義が薄れ、親交をふかめる親睦行事へと変容していきました。
月待塔は、その月待行事を長い間回数を重ねてきたことへの記念や、それぞれの月待で祀られる神仏への尊敬や感謝を表すための供養として建立されました。
大月市内にある「月待塔」の中でいちばん多く見られるのは「二十三夜塔」です。
二十三夜待ちで祀られるのは勢至菩薩で、智恵の光によって人々をもろもろの苦難から救い出すとされています。
神道では月讀命(つくよみのみこと)で、こちらは月齢を数えて暦を司ることから、先を読む農耕の神として祀られていました。
また、旧暦11月二十三夜は、「霜月三夜」「三夜待ち」と呼ばれ、三が産に通じることから、子宝や子育ての平安を願う女性達によって講が組織されることも多かったといいます。
ただし、これは一般的な二十三夜待ちの説明で、開催月やその内容については地域ごと年代ごとに違い、大月市内でもそれぞれの地域で様々な形態で行われていたと考えられます。

二十六夜待ちについても、祀られている神仏やその形態が各地で様々な違いを見せます。
愛染明王を祀る地域が多く、特に機織が盛んな地域では、「愛染」が「藍染め」につうじることから、染物業者に信仰があったといいます。
また、江戸では、陰暦の正月・7月の26日の夜、月光に中に阿弥陀三尊(阿弥陀仏、観世音菩薩、勢至菩薩)の三尊が現われ、その姿を拝むと平素の願いがかなうと信じられ、歌川広重が「 ​​ ​ 東都名所 高輪廿六夜待遊興之図 ​ ​ ​」にその様子を描いています。

では、扇山山中にある「二十六夜塔」を建立した二人が信仰対象としたのはどちらなのでしょうか。

大月市に隣接する上野原市と都留市には二十六夜山という山があり、その山中にはそれぞれ「二十六夜塔」があります。
手掛かりとして、その2つを調べてみました。

上野原市秋山の二十六夜山登山口にある看板には次のように書かれています。
​

廿六夜塔
平安時代から盛んにおこなわれた廿六夜待ちの信仰の遺習で、旧正月と七月の廿六夜の夜半、月の出を待って拝むと幸運を得ると謂われた。
秋山地区でも昔からこの信仰が盛んで、明治廿二年に建立された見事な廿六夜碑が山頂にある。
この碑は住民を病気災害から守り、養蚕の守護神として崇められている。

この文では月を仮の姿として現れる信仰対象が阿弥陀三尊なのか、愛染明王なのかがわかりません。
​​しかし、無病息災・平穏無事を願ったり、蚕が良く育ち、良い繭ができることを祈ったりしていたことがわかります。

また、『秋山村誌』には次のような記述が見られます。

​夫廿六夜藍膳明王ハ、万民ノ諸悪災害ヲ防御シ、且養蚕ノ守護神ニシテ、信シテ験アルハ辨ヲ俟スシテ人ノ知ル処ナリ、而ルニ、我国養蚕ハ、日ニ月ニ盛大シ、是全ク此業ヲ等閑スルナカレト欲ス、依テ茲ニ諸君ノ賛成ヲ得テ、高金山頂ニ一ツノ供塔 (ママ) ヲ安置シ、廿六夜ノ畑海ヲ拝礼、祈願所ト定ム、希クハ四方ノ有志何分ノ寄付アランヿ乞フ​
但シ毎年祭日、旧三月九月廿六ト定ム
明治廿二年旧九月日
発起者
落合文七
原田長三郎
『​ ​​ 秋山村誌 ​​ ​』(1992) p.1358
第11編 宗教 第三章 民間信仰 第二節 特殊な民間信仰 二十六夜山

高金山(高ヶ嶺山)の山頂に二十六夜塔を建立しようという趣意書です。
藍膳明王(愛染明王)を信仰対象としていることがわかります。
そして、諸悪災害の防御と養蚕の繁栄を祈願しています。
また、祭礼も旧暦の3月と10月となっています。
ちなみに、高金山(高ヶ嶺山)は二十六夜山の​ ​ 別称 ​ ​です。
ただ不可解なのは、趣意書が「明治廿二年旧九月日」に書かれているのに、山中に立つ「二十六夜塔」には「明治廿二年七月吉日」と刻まれていることです。
これをどう説明したら良いものか、誰か教えてください。
​
都留市の二十六夜山の山頂にも二十六夜塔があり、その傍らに立つ案内板には次の文が書かれています。

二十六夜山
二十六夜山(標高1297m)は、都留市の南東部に位置し、今倉山から赤岩とつらなる尾根の西側に位置する最後の山です。
(中略)
山名は、江戸時代に盛んとなった旧暦の正月と七月の二十六日の夜に、人々が寄り合い飲食を供にしながら月の出を待つ二十六夜待ちの行事に由来します。
この日の夜半の月光に現われる阿弥陀仏、観世音菩薩、勢至菩薩の三尊の姿を拝むと平素の願いがかなうと信じられ、かつては、この二十六夜山の山頂で、麓の村人たちによって、遠く道志山塊から上がる月を拝む月待の行事が行われました。

阿弥陀三尊を拝む月待行事であったとしています。
これ以上の情報はありません。
都留市の​ ​ 観光情報 ​ ​にも同様の記事がありました。

さて、扇山山中の二十六夜塔に話を戻しましょう。
石塔には神仏の尊名や像、梵字などが刻まれていないため、阿弥陀三尊、愛染明王のどちらを祀っていたのか、それとも両者を祀っていたのかはわかりません。
しかし、江戸時代には中野地区を含む郡内地方は郡内織(郡内縞)の産地として養蚕がさかんだったことから、秋山の二十六夜待ちと同様に、藍染めをする染物業者が信仰した愛染明王が、流通経路をさかのぼり養蚕農家に、あるいは養蚕から機織までのすべての工程を行っていた当時の一般農家に受け入れられ、養蚕の守護神として祀られていたではないかと思います。
ただ、ここでも不可解なのは、施主として九兵ヱと甚蔵の二人の名前が刻まれていることです。
「講」を結成して月待ちを行っていたのなら、個人名ではなく「○○講中」という集団名にするか、無記名であるのが一般的です。
だからといって二人だけで「講」を構成していたとは考えらません。
「講」の代表者、あるいは石塔の造立を呼びかけた発起人、または資金を出した者、と解釈するのが妥当かと思うのですが、どうでしょうか。

なお、石塔のある場所は南向きの尾根上の緩斜面ですが木が生い茂っているため東方向への見通しがききません。
ここで、月待ちを行ったとは思えません。
この先の扇山山頂は広く、しかも北東方向から南西方向に大きく視界が広がっています。
新宿高層ビルやスカイツリー、その先の房総半島まで見通せます。
月待ちをするのには絶好の場所です。
自分だったらここで月待ちをしたいと思います。

※おまけ
いつものことですが、歯切れの悪い終わり方で申し訳ありません。
信仰は、伝播の過程でその時代やその地域の風土によって少しずつ変容していくので、これだと断定することが難しい上に、拠り所とする資料が少ない(無い)のでしかたがありません。
一般に知られていることから類推するしか方法がなないので、「思う」・「考えられる」という表現が多くなってしまいます。
あくまでも、一つの参考として読んでいただければと思います。
民俗学に類することは、遺物・写真はもちろんですが、それを説明できる文献、特にエゴドキュメント呼ばれる日記、手紙、自伝、私的な覚え書きなど、自分のために書いた個人的な文書が貴重な資料となります。
古い家や蔵などを整理・解体された時に、大月市郷土資料館に寄贈してもよい地域の歴史や文化に関わるエゴドキュメントがありましたらぜひともご連絡ください。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年12月16日 10時21分29秒
コメント(0) | コメントを書く

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: