2009/10/09
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今日は終末期医療の研修1日目でした。BLSの取得は別として今年度初めての研修。
感染対策の研修も受けたかったけど、定員の関係で受けられなかったので、勉強会のサポートをする形で勉強させてもらうことにしたから。

死に逝く人がたくさんいる環境だけど、急性期病棟にいる医療者は専門分野がちょっと違うから終末期への(ホスピス的な)ケアに関してスペシャリスト具合が足りないのが現状。

―そこで改めて考えてみる―
どこで死にたい?
死ぬ時はどんなことをしてほしい?
自分らしい最期って?

例えば死ぬまでの時間がおおよそ分かる癌だとして。
絢爛豪華な場所で死ぬと言うより大体の人は

そう言う普通の最後の場面を迎えることが現実的になる。

―一般病棟(急性期病棟含む)での終末期患者の状況について―
・適切な疼痛や症状のコントロールがされていない
・ナースや医療スタッフとの個人的なかかわりが極めて少ない
・死に逝く患者とナースは最小限のコンタクトしかない
・患者は死に近づくにつれて孤立感と孤独が増している
と言われていて、全くその通りとまではいかないけど必要十分に行われていないと感じられるところがたくさんあると思う。

人の死に様には色々な価値感があるけれども、『終末期の意思決定において最善の選択をすると言うのは単に医学的な観点ではなく、「物語られる命」のなかで評価される必要がある。』と今日の研修では言っていた。 つまり、その人本人、家族の意向は一般論では理解できるものではなく、医療者が積極的に関わっていくことで初めて患者さんや家族のありたい姿を支える医療者になることができると言うことだった。また、終末期の患者さんでしばしばみられる理解しずらいことが起こった場合、言動の辻褄が合っていない、単なる不穏行動だと判断せず、どうしてそうするのかを聞くことによって手立てが見つかることもあるとも言われていた。ただし、これらの現象が生物学的側面(病状によりもたらされるものや、電解質が狂うことで起こる意識障害などではないか血液検査データを確認すること)と区別をすることが重要になる。

死への孤独感に関してナイチンゲールは
「(どんな患者さんも)たった一人でも良いから、なんでも自分の思っていることを率直に話せる相手がいてくれたらどんなにありがたいことだろうと思っているのである。」と言っている。患者さんと医療者いう関係性ではなくても、人としてみんな思うことだよね。
天童荒太の著書「悼む人」の中で全国の不慮の死を遂げた人を悼む主人公の静人が現場に立ってこう話す。

静人の母、巡子が自宅で死を迎えつつある時、とても苦しそうに息をしていたので訪問してきていた主治医がセデーション(鎮静)をかけるか家族に確認していたが、本人は娘の子供が生まれるまで生きていたい思いがあったのでそれを望んでいなかった。しかし瞬きさえ思うようにできない身体状況で返事ができなかった時、夫が妻に向かって「眠れる薬使ってほしい?」尋ねてもらうことができ、精一杯首を振ったそう。そして呼吸も止まりいよいよ最期の時。夫の腕に包まれながら「心から愛していた。僕に必要な人だった。」と言われ、返事ができる状況ではないが巡子はとても幸せにあの世へ行けたそう。

この本を読めば死を迎える本人や家族に対して含蓄を持ってかけられる言葉が一つ増えると思う。死を目の前にすることが多い私たち医療者は、人は最期の時まで耳は聞こえているので家族に会話をすすめたり、抱きしめるなどの非言語的コミュニケーションは慰めや希望、尊厳をもたらすことに有効であることを知らせる必要があると言うことを改めて感じた。

そして愛ってこんなにも人を救ってくれる素晴らしいものなんだね。

長くなりましたが、次は救急医療の終末期についてレポートします!





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Last updated  2009/10/10 01:06:47 AM
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