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落ち込みそうな時にはこれ。子供に伝えたいメッセージですね。
January 22, 2015
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あまりドラマは見ませんが(夜10時代のドラマは殆ど見ません。)韓国の脚本家の中でキム・スヒョン作家の作品は好きです。なんというか、セリフがとてもいいんです。生活感あふれるセリフが多いし、言葉の使い方がとてもうまいし、設定もしっかりしています。『拝啓・ご両親様』も彼女が書いた作品ですね。その中で母が『一緒になって何十年も過ごしてきた夫が自分の価値を認めてくれなくては、 何の意味があるんだ』というようなセリフを口にします。そう、主婦というのは地味な仕事で。育児も家事も表に出てこない裏方さんみたいな役目で。それを家族が分かってくれなかったら、どれだけ悔しいだろうと思うのです。私も一緒。夫である健作さんが、私がしていることを認めてくれなかったら、本当にむなしいと思うんです。お互い様だとは思うけど。異国の地(もう異国という気持ちは薄れているけど)で頑張っていることを認めて欲しい。私は海を越えて、言葉も習慣も違うところで暮らしているんだということを忘れて欲しくないのです。(健作さんは生まれてこの方引越しすらしたことがありません。)そして、私がしたいことを認めて欲しい。ということを思っている自分に気付いたりしました。私がしたいことはまず、製菓製パンの勉強なんですがね。それをしてしまったら、一応就職して、他の勉強もしたいんです。裏方だけでは終わりたくない、そう思っています。そんなことを考えた日曜日の午後でした。
January 18, 2015
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近所の幼馴染の話を母から聞いた。父の容態の報告とともにこのごろ、母と国際通話することが多くなったので、いろいろな話を聴くことになる。私には一級下の幼馴染がいる。私は予定日より一ヶ月ほど早く生まれた3月生まれなので、彼女より一級上だったが彼女は小さいころから頭のいい子だった。幼心に『同学年だったら太刀打ちできないな』と思っていた。彼女は小児喘息もちで小さいころから苦労していた。彼女は3人兄弟の末っ子。兄姉がいる。一番上のお兄ちゃんとはあまり遊ぶ機会が無かったが、お姉ちゃんのほうとは良く遊んだ。ウチの姉とそこのお姉ちゃん、私、幼馴染と、学年がひとつ違いが並ぶので若草物語のように4人で遊んだり、クリスマス会をしたりしていた。お姉ちゃんが程なく結婚出産の養生で里帰りして数ヵ月後、そこのお母さんが倒れた。脳溢血かなんかで、気持ちは幼子のようになってしまったし、体のほうは障害が残った。幼馴染のほうは、早くに結婚、離婚して家に戻ってアルコール付けの日々になった。お父さんは自分の奥さんの介護疲れで、数年後、同じ症状で倒れてしまった。お父さんのほうも体に障害が残った。その家のお兄ちゃんは両親と妹の面倒を見ながら、遅くに結婚した。自営業を継ぐために婿養子になったお父さん、跡取り娘だった母さんだった。自営業を継いでいたおにいちゃんは遠くに所帯を持ってからも昼間は自営業のある実家に通い夜には生活を支えるためにバイトをしていた。いよいよ自営業が危なくなってきたとき、こちらの店をたたんで会社勤めをはじめるとともに、両親と妹を引き取っていった。何年かごに届いたのは『喪中につき年末年始のご挨拶を控えさせていただきます』と言うはがき。はがきに書いてある連名を見て母は私に幼馴染の死を伝えてくれた。お兄ちゃんにはそれでも面倒を見なければならない両親がいる。そんななか、何年かがんばったんだろう。昨日、うちの母はまた同様の喪中のはがきを受け取った。今度はお兄ちゃんが亡くなったという内容だった。お兄ちゃんの人生ってなんだったんだろうか・・・・・?長男だからと支えて支えて、結局は逆仏になってしまった。すごく優しいお兄ちゃんだったのは覚えている。巡り会わせって時にはむごい。ウチの父は幸せなほうなんだろうなと母は言っていた。そんな人たちを見ていると、家が片付かない事でグチグチ言っている自分って小さいなあと思うよ。
November 27, 2014
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私の場合,田舎での暮らしを満喫しているけれど,そう思わない人も多いと思う。極端な話,全部が全部都会で暮らせば,社会が成り立たないのは,みんなわかっている筈なのに。本人の適性とか,なりたい職業とか,ホントは千差万別なのに。みんな都会に住みたがり,座ってする仕事を目指したがる。貧乏クジ引いたって思うんだろうね。田舎で暮らすって事。めーちゃんは人に酔うタイプ。体質がそうなんだろうなあ。このまま田舎で暮らしたいと思っているらしい。田舎で暮らしていくとしても,広い視野を持ってほしいと思っている。ウチの健作さんは,このまま子供達が田舎に住み続けるとおもっている。昔気質の人なので,将来子供達の世話になるつもりらしい。もう,そういう世の中じゃないんだけどね。私達は,子育てを終えたら人生終盤だ。おや,話が逸れてしまった。田舎暮しの人も必要なのはわかっているけど,でも,貧乏くじを引くようで自分の子供達にはさせたくないと言うのが韓国の親の本音なんだろうな。
January 11, 2014
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『チンチャサナイ』を見ていて、その中の一人がどっかで見たことのある顔だと気がついた。確認したら、家族のみんな同意。その人とはサム。誰に似ているかと言うと、実家の父。めーちゃんも健作さんも納得していたよ。実家の父、濃い顔しているんだよね。
November 4, 2013
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学校の勉強が実生活に役に立ったことって別にないような気がする。と、子供たちの前では口が裂けてもいえないが・・・・・実生活で役に立つのって、家庭科とか、また買い物に行ったときに九九段とかそのくらいじゃないかなって思ってしまう。でも、高校のときの教えが私の今の生活に役に立っているとは思う。私は聖ウルスラ学院高等学校の出身である。1535年に、イタリアのアンジェラ・メリチ(Angela Merici、1474年?-1540年、聖女、1807年列聖)が創設した聖ウルスラ修道会(en:Order of Ursulines、Ordo Sancti Ursulae )は、少女の育成と教育にとりわけ専念したが、また世界中に聖ウルスラの誉れある名と崇敬を広めることに貢献した。聖ウルスラはこうして、学生の守護聖人と呼ばれることになった。この修道会に属する修道女であったウルシュラ・レドゥホフスカヤは、20世紀初頭に活躍した人物であるが、2003年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖され、聖人となっている。日本にはカナダより、1936年10月15日に、メール・セント・マチルドを初めとする三名の聖ウルスラ会の修道女が訪れ、1940年に仙台市木ノ下に聖ウルスラの修道院を設立した。翌1941年には、同会最初の教育設備である「あずま幼稚園」を創設した。更に1948年より「聖ウルスラ学院家庭学校」等、複数の教育機関を設立し、1951年には、「学校法人聖ウルスラ学院」として法人認可を受けた。この後、中学校・高等学校の設立と運営も行い、2005年には、新しいコンセプトのもと小中一貫校としてのプロジェクトを進め、校名を変更して、「聖ウルスラ学院英智小学校・中学校・高等学校」となった。従来女子校であったが、新しい学校名のもと男女共学校となった(参照サイト)。(ウィキペディアより)私は、この女子校時代の卒業生。単に公立高校に落ちただけだったんだけどね。でも、このときの初代校長先生の教えである『社会は家庭しだい、家庭は女性しだい』と言う理念が頭の中に刻み込まれていて、今の私を築いているんじゃないかと思う。やっぱり、家庭での陰の実力者だもんね。支えているようで、実は手綱を握っているのが女なんだよ。
October 26, 2013
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実家の母から電話があった。今月末の入院の日付が決まったそうだ。入院の翌日から、透析が始まるそうだ。さすがにウチの母も気落ちしていましたわ。『お父さんには申し訳ないのよね、お金がかかるから。』と言っていた。透析が始まると障害者の登録、手続きをすると医療費は安くなるそうなのだが、透析の病院まではタクシーを乗っていかなくてはならないので、今までよりも、出費がかさむということだ。まね、昔の夫婦だからね。やめるときも健やかなときもいつも分かち合って生きるようにと誓ったはずだからね。最後まで添い遂げてもらいましょうね。『 この間、ひーちゃんが『おばあちゃんに電話する』と言って、 突然国際電話をかけたんだけど、それがとってもうれしかったんだよ。』涙ぐんでいたよ。ウチの母。いろいろ考えてしまった。この間の日本行きでは、本当に私も辛かったんだけど、母は母だからね。申し訳ない気持ちになったよ少しでも元気でいてほしい。
October 18, 2013
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と、タイトルの言葉が頭をよぎったのは多文化家庭支援センターの先生がめーちゃんに勉強を教えてくれていたとき。 めーちゃんがひょんなことでむくれてしまったので4年前の写真でむくれているのがあったので(すっかり同じ表情だった)見せていた。 それで私の写真も見て先生が一言。 『お母さんもお若かったんですね。』 そりゃ、4年前に比べれば私も老けたよ。でも、あんまり正直な一言はうれしくないなあ。 老けたって言われて喜ぶ奴がどこにいる??
December 19, 2012
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なんと、病院から手術の日にちが決まった電話を受けたとき『二つ返事』で断ったって言うの~!!ウチの母、困り果てて姉に電話。私は姉からその話を伝え聞いた。弁膜症なんだよ。手術しないと治らないって言うんだよ。悪化する一方なんだよ。以前、病院の担当医からの説明を受けるとき、保護者として両親に付き添っていた姉から聞いた様子によると、『開胸手術』と聞いて、かなりショックを受けてしかも落ち込んでいたらしい。今のところ、50年以上続けてきたタバコとアルコールをやめて以来調子が良いという。だけど、自然治癒は難しい病気なんだよ。すでに心臓は肥大してきている。うちの父、ちょっと冷静になって説得する方法ないかなあ。来年こそは久しぶりに帰省しようとしているのに。
August 17, 2012
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ウチの母から電話があった。父が入院したとの事。弁膜症だという。腎臓の調子も悪いといっていたっけ。昨日、病院に行って即入院しろといわれたという。自転車だったので、いったん家に引き返し、自転車を置いて、大きい病院に入院しに行ったそうだ。母ももちろん付いていった。ウチの母、人工透析にならなくて本当によかったよ。付き添いのいらない完全介護の病院なので、母はしばらく一人きり。父は2週間の検査入院の後、手術の是非を決めるという。入れ替わりたちかわり。。。同時入院なんてことにならなくてよかった。うちの健作さんにその旨を言ったら『太りすぎで心臓の具合が悪いんじゃないの?』と私と腹立たせてくれた。うちの子供たち、仙台のおじいちゃんおばあちゃんには、後何回会えるのかな??
July 24, 2012
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うちの健作さんはマザコンなんだろうなあ。私が帯状疱疹になってから、一度、健作さんが子供たちを迎えに行った。そして、忙しいのと『子供の夕食を準備するのも大変だろうから』という、お兄さんの気遣いで、一度お兄さんの家で夕食を食べてきたことがあった。その帰り。シオモニの病院に寄ったんだそうだ。かなり弱って見えたらしい。それで、機嫌悪くなっちゃっていたよ、健作さん。最初に具合が悪くなって違う病院に運ばれた後、今の(お姉さんが働く)老人病院に転院したのは、シオモニが足を痛がったため。それで、転院をさせてみたら、シオモニの認知症のひどさがどんどん明るみに出てきた。シオモニはうちに帰りたがっている。でも、うちでは見切れない。二泊だけでも。。。。。と言われたが、私の帯状疱疹で延期状態。もうね、2年以上前から認知症の症状はあったんだよ。うちのハル君に蚊取りマットを?いて食べさせていたんだから。うちのハル君、自慢じゃないけど、いまだに飴の皮?けないんだよ。私に?いて頂だいって言ってくる。そんなのに、子供たちが危なくて一緒になんていられない。そう思うんだけど、うちの健作さんとお姉さんは違うんだなあ。弱って見えたシオモニを見て、『あの時転院させた人たちが皆してお母さんの寿命を縮めているんだ』と言ったよ。ハイ??いま、韓国の歳で95歳のシオモニの寿命が縮むってどれだけ縮むんだって聞き返したいよ。(伸び切っているよねえ、今だって)どんだけ長生きさせたいの??うちの実家の母よりずっと丈夫だよ。うちの実家の母のことはなんとも考えていないくせに、よくも言うよ。ま、来年、うちの実家の母にはいけたらいいなあ。とは言っておいたけど。うちの健作さんも、目先のことしか見えてない、考えられない。自分の母親が丈夫で長生きしたからって、私の実家の母もそうだと考えたら大間違いだ。親孝行、したいときにはいないって言うぞ。私、恨みになっちゃいそうだよ。この間、結局、保険会社から800万ウォン借り入れ可能だって話が出ていた時に、結局お兄さんに貸したんだよね。その時に、200万ウォンだけ、私たちが使うって渡してもらったら、それで子供三人と日本にいけたはず。そういう頭がないんだよ。だから腹が立つんだよ。お兄さんはそういうことには目端が利く。抜け目がない。うちの健作さんは。。。。。まったく・・・・(以下、省略)心の中でいつも両親に謝っているよ、私は。うちの健作さん、きっと日本に行かせるお金が勿体無いんだよ。死に金だと思っているんだよ。そんで、うちの両親がどうにかなったら、もう日本に送らなくていいのにって思っていると思う。きっと日本に帰りたいっていわなくなるだろうって、それを狙っているんだと思うよ。半分、私もあきらめている。うちの健作さんには、妻子を実家に送るために飛行機代のローンを組むとか、そういう手配ができる人ではないのは解っている。でもあきらめているって口に出したら、『らっき~、帰りたくないんだったら帰らなくていいよね』と調子に乗せてしまいそうで、口になんて出せない。うちの健作さんってさ、すぐ二言目には『だから奥さんが二人いたほうがいいんだ』と私に言ってくるんだよ。私が体不調だったり、疲れていて、牛の世話が出来ない時とか。冗談でも行っていいことと悪いことがあるでしょ。区別が付いていないの。もう、何かあるごとに言うから、聞きたくなくって、無理したら、帯状疱疹になっちゃったでしょ。そしたら、また言うの、そのせりふ。今回はお兄さんに言いつけたよ。あまりにも情けなくってさ~。何かあると、『出て行け』って言うしね。もう、ぼろぼろ。自分を奮い立たせて頑張っているんだよ。男は子供だからね。10歳違ったって、関係ないからね。長い愚痴だね。読み飽きちゃうね。ここまでお読みくださった皆様、ありがとうございました。
July 23, 2012
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今日は人の悪口だからね。気に入らない人はスルーしてくださいね。腹の中に収めていては、私がストレス溜まるから吐き出しますね。同じ扶安に住むある日本人オンマ。私の話をさえぎる、さえぎる。私の事、馬鹿にしているなあとは思っていた。すごい先輩面してくるんだよね。歳は下だけど、私のほうがずっと韓国生活が長い。私のほうが、シオモニと一緒の生活を長くしているし、韓国語も私のほうが上手。(私はヨスに住んでいる韓国人のJさんに『物凄く本を上手に読む』と言われていたんだけどね。)ただ、初めての子供を早産して失って不妊期間があったため、そのオンマの子供よりうちの子供のほうが歳が下なんだよね。だからって、少し見下されている。だって、私と同じ時期に韓国来て、子供いないけど、私より年上の人は一応敬意を払っているんだよ、そのオンマ。その人は私の話をさえぎる。自分の話しばかりをする。私、ウチの親から、人の話をさえぎるな、ちゃんと聞いてから自分の話しをしろって躾けられたんだよね。自分の体験だけが重要で人の話はキカナイみたい。私は、子育ての経験は少ないかもしれないけどね、その人より、いろんな韓国人を見てきているんだよ。自分の子供ではないけれど、甥っ子姪っ子の成長過程を見てきているから、(一番小さい姪っ子も二十歳過ぎてる)いろいろ人生を見てきているほう。姑の愚痴、義姉の愚痴も聞いてきている。(ま、愚痴聞きが私の人生の3分の一を占めているかな)もうね、その人とは距離置いたほうがいいかなって思ったよ。ここからは偏見だけどさ。その人夫婦仲があんまりよくないのよね。一事が万事で、私に対する態度みたいに夫に接していたら、姑に接していたら、そりゃ、夫婦仲も嫁姑の仲も悪くなるわなって思ったよ。子供の悪い面をあげて姑が『オンマに似たんだね』といってくるんだそう。私、そんなことは姑に言われたことないなあ。悪い面は『健作に似たんだ』とウチのシオモニは言う。一応、私を立ててくれることもある姑だ。つまりはそのオンマのシオモニはそのオンマを気に入らないんだよ。でも距離を置くと、私が負けかしら。どんな人でも包み込むことのできる人になりたいんだけどね。健作さんに愚痴っちゃったよ。今日のこと。うちはお互い、愚痴を言い合う夫婦です。(あれ、最後は惚気になったような・・・・)
May 9, 2012
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※一つ目私が住んでいるのは扶安郡界火面(ケーファミョンと読む)めーちゃんはそこの小学校に通っている。郡庁所在地は扶安邑。そこにめーちゃんと一緒の学年の女の子を持つ、あるオンマがいる。話をしていたら、『そこは田舎の小学校だからね』と言われて、ちょっとムカッと来た。いやあ、扶安邑は都会って思っているんだ、そのオンマ。充分、田舎ですから。人口6万も行かない片田舎ですから。わたし、仙台出身だが、仙台とは比べ物にならないくらい田舎だから、ここ、扶安は。ソウルとか、せめて光州のあたりに住んでいる人から『めーちゃんの小学校は田舎の小学校』って言われるんだったら分かるけど、同じ扶安で、田舎だと言われるとは思わなかった。そうそう、健作さんの兄嫁も『私は田舎暮らしが合わないの』とか言っていた。だ~か~ら~、充分に扶安は田舎だから~~。きっと、郡庁所在地に住んでいる自負心とかがあるんだろうね。 田園暮らしが合わないとかだったらわかるの。扶安は十分に田舎なのになあ。※二つ目。ウチのひーチャンはこのごろ魔の2歳児に突入している。まあ、かんしゃくの起こすこと起こすこと。よく行くマートの隣が交番で今日、ひーちゃんが交番に入っていこうとしたんだよね。『よくかんしゃく起こすんですよ』とか言ったら、おまわりさんが一言。『かんしゃく起こさないようにすればいいじゃん』それが出来たら、育児に悩むオンマなんていないよ~と叫びたいが黙っていた。おまわりさんはきっと、自分の子供は奥さんがかかりっきりで育てたんだろうなあ。少しでも魔の2歳児を体験した人は、そんな簡単に言わないよなあ。ウチの健作さんなんか、そういう時のオンマたちのストレスよく解ってくれるもん。
May 7, 2012
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ウチの母。健康診断の結果カクトウなしと言っていたので、検査結果を見てみたら。。。該当なしって書いてある。ガイトウって読むんだよ。と指摘したら。私国語苦手なんだよと一言。ウチのめーちゃん、健作さんみたいな人と結婚したいと言っている。それを聞いたウチの母、『あら~健作さんホゲホゲだっちゃわ~』う~ン、メロメロでもなく、デレデレでもなく、ホゲホゲってなに?ホクホクでもなく。。。。。ニュアンス、伝わりますかねえ。『イヤ~、あんたのお父さんと結婚した後でびっくりしたっちゃ、付き合った頃は標準語だったのに、結婚したとたん、仙台弁丸出しだったんだモノ』と思い出話をする母。『ほくろ』をほぐろといったのには驚いたなあ。と言っていた。それを言うなら、お母さん、私もショックを受けたよ。教科書では『ほとんど(ふた文字めの[と]にアクセント)』と習ったよ。家で母が『ほどんと(4文字目の[と]にアクセント)』って言っているから、そのギャップに苦しんだんだよ。とても楽しいウチの母。この間も鍋を焦がして父に笑われていた。笑いですむところが父のいいところだなあと思う。似合いの夫婦らしい。
April 27, 2012
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サザエさんの第一話だそうです。今のサザエさんよりシュールですね。
April 1, 2012
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ひーちゃんが幼稚園に入るまであと2年。がんばれるかな。専業主婦って言うか、ウチの場合、家族のフォローをする存在が必要。それが私。もう少し子供が大きくなってきたり、シオモニがご他界あそばすと、それぞれが自分のフォローをしながら私も動けるようになるんだろうけど。今はまだ、私が家に構えていなければいけない感じだなあ。置いてけぼりに会ったような、そんな気分になるのはどうしてだろう。がんばっているのにな。ま、そういう気持ちになることもあるさ。そうやって自分を抱きしめてあげよう。誰も知らないかも知らないけれど、私が私をいたわってあげよう。あと2年の間に家中をきれいにして(断捨離中)私も綺麗になって、『家の事そっちのけで出回っている』とか言われないように準備しよう。(韓国の人はウワサ好きだからね)家に張り付いていて楽しみと言えばネットでいろいろな情報を得たりすること。そういえば、姉に『私はあんたみたいにネットに張り付いていられるほど暇じゃないから』とか言われたっけ。ウチの姉ちゃんは独身で会社員。自分の時間を有効に使える身分だしフラメンコは習っているし、いろいろ忙しいらしい。ま、姉ちゃんから見たらそうかもしれないね。シオモニのオムツなんて替えたことない姉ちゃんは私の気持ちはわからないよな。働いた分(シオモニの世話&牛の世話)の報酬もなくすごく私のやりきれなさも分からないよな。それを実家の母に愚痴ったら、『ひがんじゃってまた~』とか言われてしまった。身近でいろいろ手伝いをする人の味方になりがちなのがその年代の人たちだ。聞けば、両親に9月に東京見物をさせようと、姉は計画中なのだ。(国技館で相撲見物まで計画中)きちんとお金を積み立てて。両親は、しっかり姉側の人間になっていたのだ。私は何もないもんなあ。財布は健作さんが握っているし。身近で両親に孝行してくれる姉がいることをよしとしよう。ま、人生ってそんなもんよ。少々の痛みと苦味が人生を濃くしてくれるもんだよ。
March 30, 2012
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昨日の朝、健作さんが牛の世話の途中で部屋に入ってきてこう言った。『や、子牛が死にそうだぞ、 血便が出た時点でお前が教えてくれなかったから対処が遅れて死ぬんだぞ、 こんなことならひーちゃんはオリニチブにやらないぞ』健作さんは日中の牛の世話を私に任せている。水遣り、飼料遣り、そして、牛の糞を一箇所に寄せておくことも私がしている。昼間はひーちゃんがいるから、水遣りなどに行く時は気が気じゃない。ひーちゃんが事故でも起こったら、どうしようといつも冷や冷やしながら牛の世話に行っている。ひーちゃんも好奇心が芽生えだして一時もじっとしていないのだ。シオモニに任せると言っても半分認知症になっているようなシオモニに子供を任せられることではない。牛のフンを一箇所に寄せておく時に子牛の具合をきちんとチェックすればよかったのだろうが、夕方のその時間は子供たちだけを家の中の残して作業に当たるから、不安でたまらない。結局、その子牛はその日のうちに死んでしまった。ひーちゃんのオリニチブはこのままお流れになってしまうのだろうか?健作さんは時々こうなのだ。子牛が死んだのは私のせいでもひーちゃんのせいでもない。のに、腹いせに私を苦しめるようなことを言い出す。牛の世話もして、シオモニの世話をして、家事をして、そして、ひーちゃんをオリニチブに入れないで家で見ろというのは、なんかの罰ゲームですか?今年は、10頭以上子牛が生まれるというのに、ひーちゃんをみながら牛小屋を行ったりきたりするのは無理と言うものじゃないかなあ。と言うことを、明るく攻め立てないように説明して、ひーちゃんをオリニチブに入れなくてはならないことを説得する私。こんなこと言ったらなんだけど、健作さん結構器が小さいことがあるんだよな。子牛が死んで気持ちが治まらないのはわかるけど、腹いせにひーちゃんのオリニチブ入園を先送りにするとか言って私を困らせることで憂さをはらさないでほしいんだよなあ。そのたびに私は物凄く振り回されて疲れるんだよ。でも、待てよ。健作さんはほかに楽しみもない悲しい人なんだよね。憂さを晴らす術を知らない人なんだ。私はネットもあるし、大好きなKIPPERの曲を聴いていれば気持ちは晴れるし(どんだけ好きな訳?って感じ)ま、気持ちを転換できる術を知っている私が受け入れてあげないと健作さんがつぶされちゃうだろうし。。。と、考え直して、気分を転換。肝っ玉母さんになって健作さんも包み込んであげるべきなのかなあ。まだまだ、器が小さいな、私も。
February 26, 2012
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実家の両親から、めーちゃんの入学祝が送られてきた。このごろ、うちの実家の父、アルバイトに勤しんでいるらしい。少しでも仕事を取って、孫たちに小遣いをあげたいと思っているらしい。ふ~ん、ありがたいことだが、その考えをもう少し早く、23年だけ早めにしてもらったら、私は短大に行けたかもしれない。転職を繰り返し、収入が少なかったんだよね、ウチの父。ウチは高校までしか出せない(高校も奨学金もらった)、と言われて進学あきらめた私。ここは、昔の恨みつらみを言うよりも父の遅ればせながらの成長を喜んだほうが、私のストレスにならないよね。
February 23, 2012
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水仕事がつらい →楽しい季節になった。ウチ、井戸水なんだよね。井戸水は夏は冷たく、冬は温かい。以前は村の簡易水道だったため、地下を通って来る距離が長いためか、冬場でもそんなに温かくなかったが、夏に家のすぐ近くに井戸水を掘りなおしたため、冬場になったら、温かい水が出るようになった。実家も井戸水だからね。実家の母は、『井戸水が温かいからね。温水が出なくても皿洗いが苦にならないよ』と言っていた。実家が井戸を掘ったのは大体、40年ほど前のこと。ウチの両親が結婚して、同居をする前のことらしい。ウチの祖父は下駄職人だった。大正3年生まれの祖父。妹が二人いて母の死別にあい、幼いころ、北海道に丁稚奉公にいかされた。その奉公先が下駄やであった。時代の流れに反って、細々と下駄やを続けていたが、父と母が結婚するころになると、これ以上、下駄やを続けていても埒があかぬと職替えを思案、豆腐屋をすることになった。とうふは美味しい水が命。水道水では美味しい豆腐は作れない。と言うわけで、ウチはそのときに井戸を掘り、それ以来、水質検査を受けながら、その水を利用している。実家の水は美味しい。キリンビールと同じ水脈を使っているとか、いないとか。だから、断酒に至る前の私はキリンビールが好きだったのか??(いや、それは無関係だと思う)ウチの祖父は働き者なので、すぐに近所の病院に配達に行ったりするようになった。そして、そのために50歳過ぎてから、オートバイの免許を取ったりしたらしい。一度、凍りついた道路で転んで骨折して、入院したことがあったような。(見舞いに行った記憶がある。)私は豆腐屋の祖父しか知らない。毎日、朝早くに起きると『ごじる』と言って、大豆を煮てすりつぶした状態のものをコップに一杯飲ませてもらった。まだ、おからと分けていないどろどろで、熱いごじる。祖父たちはラジオを聴きながら作業している。ラジオ体操の時間になると、台所にいる母に振り付けを教えてもらってラジオ体操をしたり。味噌汁の具を切っている母が、私の所為で手を切ってしまって怒られたり。そんな光景も私が小学校1年の秋に終わった。祖母が倒れたのである。祖父は豆腐屋を続けたかったが、祖母の介護をしながらでは到底難しい。代わりに母がパートに出て、やりくりを助けることになったっけ。秋も深まり、温かく感じるようになった。井戸水で朝食の片づけをしたり、ひーちゃんのオムツを下洗いしていると、そんな思い出が一つ一つ浮かんでくるのだ。ふと気がついたが、健作さんのお父さんは私の父よりも年上だ。
October 30, 2010
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このごろ、なかなか忙しい。と言いながら日記を書いている自分がいる。これはね、現実逃避だね。やらなければならない事に背を向けている感じ。この日記を書いたら、動こうと思う。今は洗濯機を回している途中だしね。昨日は、ひーちゃんが夜中に遊びだして、今寝ている。私は眠れないっていうのに。 『暑さ寒さも彼岸まで』って言うけど本当だね。このごろ一気に寒くなった。ひーちゃんはあっと言う間に6ヶ月になってしまっているし。去年の今頃はつわりで苦しんでいたのにね。しかも子宮頚管の手術の日付のためにいろいろストレスもあったし。 もう少し、私が若かったら、もう一人子供が欲しいとこなんだけど。なんて、子供のいないオンニたちが多いこの土地でこんなこと言ったら罰が当たるかしらね。でも、言わせて欲しい。私、たくさん子供が欲しかったんだよね。私の親戚には子供のいない人が多いからか。私の母が30代になってから私を産んだからか、私は早めに子供が欲しいと思っていた。『20代のうちの子供は産んどきなさいよ』とは母の言葉。本人が体力的に大変だったから、そういう言葉が出たんだろうなあ。でも、やっぱり私も30代で三人出産。産めただけいいよね。この間、亡くなった叔母は、欲しいけど産めずに終わってしまったのだから。子ども3人産んで、母のことも考えたが、私は叔母の事もいろいろ考えるようになっていたのだ。私も一人7ヶ月で死産した経験があるから。おばの気持ちは少し分かっているつもりだった。私が、子供を失ってつらかったとき、日本でお世話になったオンニが『でも、マキちゃんと健作さんは、ホーバク(死産した子供の胎児ネーム)のオンマアッパであることには変わりないから。』というメッセージをくれて、本当に慰められたことを思い出したのだ。だから、今度、母の日が来たら、死んだ従弟たち(叔母は息子を三人死産、流産している、私から見たら従弟になる)の代わりに、なんかプレゼントでも贈りたいなあと思い始めた所だった。きっと、死んだ従弟たちは自分の母にプレゼントをしたい気持ちもあるだろうなあと思って。 今年の夏ごろにぼんやり考えていたことである。だが、叔母は亡くなってしまった。 子供を産まない選択をした人生もあるし、子供を産まなくてはならないということではないと思うけど、叔母は子供が欲しかったけど、母になれなかった人。水子供養もしていたようだし、私が今頃になっておばの気持ちを考えるようになったのに。 遅かったんだあ。 おばの冥福を祈り、手を合わせる。今はこのくらいしか出来ない。
October 5, 2010
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早い早い。一年ももうこんな風に過ぎていくのね。ウチのひーちゃんは相変わらず風邪を引いている。昨日は愚図って愚図って仕方がないので、健作さんに『ちょっと看て頂戴よ』とばかりに押し付けてしまった。本当は押し付けるつもりはなかったのだが(解熱剤をとりに行く間だけ抱っこしてて欲しいだけだった)、健作さんはひーちゃんを受け取ると、「じゃ、あなたは寝ていいよ」と言ってくれたので、私はそれから6時までぐっすり眠れた。健作さんは本当の意味で育メンだと思う。何だかんだいっても子供をきちんと見てくれる。いま、うちの健作さんはシオモニの部屋に寝ている。一緒の部屋だと、子供達のせいで、眠れないのだ。でも、子供たちは健作さんの寝る所について行く。おかげで私は楽チンだ。そうそう、仙台の叔母が亡くなった。私はその叔母にそっくりである。負けず嫌いなところ。顔。笑い声。そばかすが増えてきたが、それもそっくりだ。違うところは私は色白だが、叔母は地黒だというところ。私が3歳のころまで、叔母と一緒に住んでいて、叔母は私に『住所、氏名、電話番号』をきちんと言えるように仕込んでくれた。姉が幼稚園の面接に行ったとき、ついていった私が、住所を姉の代りに答えてしまったらしい。さばさばした叔母であった。子供のいなかった夫婦で、叔父は5~6年前に叔母を置いて、自殺して以来、叔母は一人で暮らしていた。愛犬のコロちゃんと一緒に。子供代わりだったのだ。子供がいなかったというが、出来なかったわけではない。双子の男の子を、妊娠中毒症で死産し、その後、一人を流産して以来、子供に恵まれなかった。私が三人目を産んだとき、とても喜んでくれた叔母だった。この間、チュソク(韓国のお盆)の前ということで、髪を切ったら、またそっくりになった。鏡を見るたびに「ああ、叔母ちゃんだ」と思う。愛犬のコロちゃんは老犬で、12歳だった。シェルティーを買っていて、今のころちゃんは2代目だった。持病を患っていたコロちゃん、おばの葬儀の間は犬猫病院に預かってもらっていて、どうも引き取り手を探せなかった実家の父がコロちゃんを引き取ろうとした矢先、病院から、コロちゃんが死んだと言う連絡が入った。飼い主を追ったのだろうか??叔母にとっては兄である、私の実家の父に、『迷惑は余りかけられない』と叔母が呼んだのだろうか?叔母より先に亡くなった叔父は5人兄弟の末っ子で、叔母は嫁ぎ先とは余り交流がなかったらしい。子供がいなかったせいだろうか。喪主はウチの実家の父が務めた。いちど、ウチのひーちゃんを見せたかったのにな。。。。
October 1, 2010
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さて、うちの夫婦の場合。私がとっても健作さんに惚れている。昨日はこんなテレビを健作さんがみていたんだけどね。韓国の田舎にも嫁の来手がいなくて、東南アジアの諸外国から嫁さんを向かえて暮している人が多いんだけど。貧しい中で暮しているその家族の家を修理してあげたり、嫁さんの実家の家族を招待してあげたりと言う番組。私が妊娠中に限ってそういう番組をみる健作さん。で、私妊娠中なもんだから、神経が逆立っていることが多くてね。私は滅多に実家にも行けないでいるのに、ほかの嫁さんのことなんか気にするなって言うか、アンタは私に気を使ってくれなくちゃ困るの!!っとプンプンしてしまうわけ。(それでなくても、妊娠中は、実家のことが思い出されるわけ)そういう番組で双方の両親が仲良くしているのを見ていたりすると、ウチのシオモニにいびられたうちの実家の母のこととか思い出したりして、一人で腹が立っちゃったりするのよ。いくら、私がシオモニによくしてあげても、うちの実家の母に健作さんはよくしてくれるだろうか?とか普段考えないこと考えたりしてね。(これも妊娠中によく考えること。)でも、これを切り出したら喧嘩になるから、黙っていたけど。んで、その日の夜、夢をみた。健作さんがベトナム出身の女性にやたら親切にしているのを端で見ていて焼きもちやいているという夢。それを健作さんに話したら、健作さんの顔がほころぶ、ほころぶ。そんなテレビで焼くのか~って感じだった。だから~、妊娠中で感情の調節ができないだけなんだって。と思いながらも、健作さんには、いつも私だけ見ていてほしいなあと思う私だった。
November 23, 2009
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私と同じくらい時期に結婚した人からコメントをもらったことある。別のブログでね。子育てに関しての悩みを書いたときだったんだけど。「子供が大きくなれば、もっと大きなことで悩むようになります」と。そのうちの子達は大きい。一番上の子で10歳くらいかな。そりゃ、その人の子供の問題にしてみれば、うちの子供のことなんてたいした悩みじゃないかもしれないけど。でも、それを聞いて、悔しかった。人生に勝ち負けはないとは言うけれど。私不妊期間が長かったから、だからこういうこと言われると「く~」って来ちゃうんだよね。「私だって、無事に一番目の子供を生んでいれば、あんたの子供と同じくらいのトシだったんだ」といいたくなっちゃう。初めて妊娠が妊娠7ヶ月で早産に終わり、その後、不妊治療を経て7年ぶりに子供を授かった私。不妊の後に恵まれた子供だから、なおさら可愛いとは言うけれど、でも子育てに悩むと、子供がいない人にはこういわれる。「子供いるだけ良いじゃん」と。確かに良いよ。でも、苦労した分可愛いけれど、だからって、子育ての苦労がその分軽減されるわけじゃないんだよね。不妊で泣くだけ泣いた後、また子育てでも手探りで試行錯誤で身もだえしながら子育てするわけよ。ほかの人たちよりもすごく遅くに。確かに子供が大きくなれば、今の悩みは小さいものだと思うかもしれない。でも、今の私には、今の問題も大きいの。昨日、うちのめーちゃんがまた夜遅くまでおきていて、今朝、オリニチブに行きたくないってごねたので、私の気分が悪いのよね。子育てはすぐに結果は出ないから、反復と繰り返しが必要だとは言うけれど、でも、なかなか結果は出ないから、あせってきて。結局、今朝はウチの健作さんが上手くなだめて連れて行った。今日こそは、早くねかせなければ。。。。
August 12, 2009
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私、楽天のブログ以外で、もう一つブログやっているんだけどね。そこで私のブログによくコメント残してくれる人がいるんだけど、私の苦手なタイプの人がいるのよね。それで、後さわりないようにコメントに返事を書いておくのだけどどうも苦手なの。その人を実際に会ったのは一度しかないのよね。でも、その人の性格って、ブログの文面でも出てくるから、強いなあ、って感じなのよね。んで、その人が強いから、周りにも強い人が集まってくるって感じでね。その人のブログの内容を見ると、「強気」な内容が前面に押し出ていて、とっても、疲れてくるのよね。ある日は、カレーの作り方で韓国人の方に怒鳴りつけられたんだって。ニンニクとごま油を使えって。それで、ブログの中で、それをケチョンケチョンにけなしていたんだけど。まあ、韓国人の言いそうなことだけど、でもカレーの隠し味にニンニクを使う人は日本人でもいるし、ごま油は北、西インドの方では純白ごま油と言うオイルをカレーに使うそうだし。一概に日本の知識(常識?)だけで、カレーにごま油を入れるのは邪道だとか、言っちゃいけないと思うのよね。文章を読んでいると、その人の気持ちが読み取れるじゃない?いつもその人の文章は、怒っているか、けなしているか、上から目線か、のどちらかなんだよね。だから、すごく疲れるの。気にならない人は気にならないだろうけど、私はすごくエネルギーが吸い取られて疲れてしまうの。その人を古くから知っている人の話しによれば、「自分も強くなるか、でなけければスラ~と流せるようにならないと、すごく疲れるよ~」とのこと。ときどき、私、心配になってくるのよ。私も、ああいうふうだったらどうしようって。周りの人を疲れさせているんじゃないだろうかって。人のふり見て我がふり直せよね。気をつけようっと。
July 19, 2009
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このごろ、あがいています。韓国の地に、埋もれて年老いていくのかと思うとあがいています。もっと勉強したかったんだけど、家の事情で高校卒業で終わったし、実際、私よりも韓国語出来ない人も、私より学歴があったり、私より少しだけ、田舎じゃないところにすんでいると言うだけで、日本語を教えていたり、するのを見ると、じれったくなるのです。私、このままでいいんだろうか?と思うことがあります。もちろん、今は二人の子供を無事に育てるのが一番の仕事ですが、このままでいいんだろうか??と漠然と不安になったりするのです。私は年老いたシオモニの世話で終わっちゃうのかなあ・・・・・・・こんなこと夫に訴えても、きっとうちのだんなはわかってくれない。田舎の狭い範囲でしか生きてこなかった人だから。「井の中の蛙」ですから。もっと、自分の立つ場所を見つけて、基盤をつかみたいのに、このままではいけない・・・とか思っちゃったりするのです。ほら、映画のトゥルーライズで奥さんが訴えるシーンがあるじゃないですか??あんな感じの私なんです。でも、書いているうちに少しすっきりしてきました。つたない文、読んでくれてありがとうございます。
April 26, 2009
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私が小さい頃、春子おばちゃんという方がたびたびもらい湯に来ていた。おばちゃんといっても私の祖父のおばに当たる人なのだが。訳あって、一人で風呂もないアパートに住んでいたため、うちによくお風呂に入りに来ていた。ちょうど夕方の食事時に来る叔母ちゃん。私は小さい頃なので、記憶にないのだが、うちの祖母はおばちゃんにつれなくしていたらしい。おばちゃんが来ると、夕食のおかずをさっと隠してしまうんだそうだ。うちの祖母、うちの母にだけでなく目上のおばちゃんにもそういうことをしていたのね。ま、うちの姉ちゃんが小さい頃にも(私は生まれていない頃)生クリームのケーキのクリームの部分だけを自分で食べてスポンジの部分だけ、「ほれ食え」ってよこしたことのある人だし。うちの母は、春子おばちゃんが不憫に思えてよく自分のおかずを分けてあげたそうだ。その頃はうちの母、祖父、祖母に食費をもらいながらやりくりしていた時期だから、余分なおかずが作れるほどの余裕はない。だから、春子おばちゃんにおかずを分けてしまうと母は食べるものがないのだけど、でも、お年寄りをひもじい思いをさせてはいけないと、ぐっとこらえて差し上げたそうだ。そうして、春子おばちゃんは、私と姉にウールの着物地を買ってくれた。ありがたいと思ってくれたんだね。うちの祖母は「春子おばちゃんはなんで、うちの娘には買ってくれないで、(嫁の産んだ)孫だけに買うんだ」と面白くないようだったが、でも春子おばちゃんは私たちだけに買ってくれた。(書いていて恥ずかしくなるような祖母だけど。)またこんなことがあった。娘の産んだ孫のほうが、可愛いらしく、祖父祖母は東京に住んでいるいとこだけを可愛がった。夏休みに東京のいとこが一ヶ月遊びに来ていたそうだ。友達も連れて。うちの母、一ヶ月間お世話してあげたけど、礼も何もなかったそうだ。当時私は生まれていなくて、姉が赤ん坊のとき。うちの姉をものすごくないがしろにされたそうだ。いつか、うちの母は祖父に訴えた。(そのときは祖母は寝たきりだった)さすがの祖父もそれからは、外孫内孫平等に扱うようになったと言う。言うことははっきり言わなくてはね。
April 8, 2009
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