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春から楽しみにしていた吹奏楽コンクールに行ってきました。我が家の初マゴッチSくんに続きセカンドマゴッチAくんも中学生になりお兄ちゃんと同じブラスバンド部に入部しました。運よくトランペットになった”と喜んでいました。 夏休みが始まって 弁当持ちで 朝9時から4時まで集中練習だつたようです。 2年前Sくんが入部した時は全員女子部員。。次の年2年生になった時も男子は入部なし。。2年間白一点。。(笑)今年は弟のAくん含め3人の男子新入部員があり4人の男子部員誕生。 いつだったか。。チューバを吹くSくんに”チューバ吹いてて面白い?ヴォワ~ヴォワ~って楽しい??” って意地悪な質問をしたことがあります。すると ”ウン 自分の吹いたベースになる音に他の楽器の音が乗ってひとつの旋律になっていく。。その過程が楽しいし 旨く演奏できた時のすごい満足感がいい~ と。。”なんと みごとなお返事~(チャンリ~ン♪)さて 今回 中学校最後のコンクールは満足の演奏が出来たのでしょうか。2年前 チューバが大きくて彼の胸くらいまであったのですが、今年は腰の辺りになっていました。一年生で初出場のAくん ステージは遠くて表情は分かりませんでしたが、演奏が終わり会場の廊下ですれ違うときVサインをしてくれました。はにかみやの彼も頑張ったんでしょう~☆ 二人のマゴッチの成長を感じたひと時でした。 (2008.ougust 2年前の日記にも書いています)
2010.08.12
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台風4号はわずかな雨だけで東日本へ去ってゆきました。通過地方に大きな被害が出ませんように。。 今日から16日までお盆休みに入りました~♪♪今年は義弟の初盆なので先週早めにお墓掃除をして白い盆灯篭も供えてきました。お寺さんも忘れず盆供養のお参りに来られました~う~んさすが。。これでゆっくりお盆休みができます。 明日夕方は中学校のクラス会です。仲良し学級?だったのかなぜだか もう20年位毎年クラス会をしています。私は3年ぶりの出席。。先生が叙勲されたそうでお祝いを兼ねてるそうです。懐かしいお顔に会えるでしょうか。
2010.08.12
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昨夜 8月5日 ドームの夜景です。 今夜 この川いっぱいに鎮魂の灯ろうが浮かんでることでしょう。 「母の原爆被爆時の記録が見つかったので送ります。 新聞折込の裏白用紙が使用されているところから、母が記録を始めたのは平成7年夏頃からではないかと推察されます。。」こんな書き出しの兄からの手紙と一緒に新聞広告の裏に書き綴られた20枚もの下書き記録が入っていました。亡くなった母の被爆した時のメモ書きです。私はメモを読みながら泣きました 泣きながら一気に読みました。想い出しながら書き綴るのは辛い作業だった事でしょう。そして叔母からいろいろと被爆当時の様子を聞いていたので大部分は理解できました。お母さんお母さんが逝ってもう7年も経ってしまいました。元気だったら来年は卆寿のお祝いです。心臓病や糖尿。。入退院を繰り返しながらも82才まで好く頑張ったよね。でもまだまだお母さんが死ぬなんて思ってもいなかったよ。それも8月5日 あの原爆記念日の前の日が命日になるなんて。。おかあさん 被爆したことで大変苦労な生涯になってしまったね~。手にはケロイドが残るほどの火傷を負い 胸や背中に傷をして左の頬は鏡が飛んできて生涯きえない そして隠すことの出来ない大きな傷跡が残ってしまったね。22.3歳の嫁入り前の娘なのに 辛かったでしょ。想いを寄せてた好きな人はおらんかったん?乞われたからとはいえ 被爆死した姉婿さんのとこへ後妻としてお嫁に行ったのはどうして?顔の傷や火傷の痕があったからなん?甥と姪だったお姉さんの子供を育てるのは大変だったでしょ。おばあちゃんも気難しい人だったよね~私 子供心にも覚えているよ。でもお父さんはやさしい人じゃったねぇ。私が産まれることに心配はなかったん?五体揃ってて安心した?嬉しかった?苦しい中 私を産んでくれてありがとう。小さい頃はしょっちゅう熱を出して心配掛けたよねぇ集団疫痢にもなって 自分でも死ぬのかと思ったんよ。。ひがみっぽく我がままばかりしてごめんね。。お母さんが心配してくれてること心に突き刺さるほどよく分かってたんよ。お母さん ごめん ほんとうにご免なさい。 叔母さんから聞く被爆時の話の中からお母さんがどれほど痛い思い 辛くシンドイ体験をして来たか。。それをあまり話そうとしなかったお母さん。。聞こうとしなかった私。。広島で生まれ 広島で育った被爆2世なのに不勉強でなんにも知らなかったことばかり。。当時のことを知れば知るほど お母さんのことが愛おしく懐かしく想い出しますそして 深い後悔の気持ちでいっぱいです。お母さん お母さんに会いたいよ~会って話たいことがいっぱいあるんよ。聞いておかなくちゃいけないことがいっぱいある。。それから 誤りたいことや報告しなくちゃいけないこともいっぱいです。あの頃 自分なりに精一杯だと思っていたけど 今になれば まだまだしてあげられる事はあったのに。。お母さんは気兼ねしながら暮らしてたのに 自分の立場として お母さんに嫌な事ばかり言う役目が辛かった。。ごめんね。。お母さんの体験したことを知らなくてはいけない それを残さなくてはいけないそう思いました。そんな気持ちを持ちはじめた頃 広島原爆資料館のボランティアを公募していたので研修を受け資料館のピースボランティアとして活動を始めました。もう4年続けています。これからも学びながら続けていこうと思っています。今この時期に手記のメモが見つかったことは お母さんの気持ちに動かされているような気がしてならないのです。これから私はどうしたらいいん?この貴重なお母さんの手記をどう生かせばいいのか。。考えつきません。お母さんから大きな宿題を与えられた様な気がしています。お母さん あの原爆の惨禍から生きていてくれてありがとう。私達姉妹を産んでくれてありがとう。私 もう還暦を過ぎました 何とか元気に暮らしています。あんな大病をしたYちゃんも元気になりましたよ。Yちゃんの病気をお母さんには言わなかったけど お母さんが守ってくれたんでしょ。Yちゃんもお母さんの命を貰ったって思ってるよ。大事な私のたった一人の妹です お母さんの命は私たち姉妹から孫、 ひ孫と18人につながりました。これからも皆を見守ってくださいね。愛しいお母さんへ 65年目の夏 K子追記応募した”被爆者への手紙” ボツ”だったそうです。”母への手紙”拙い文ですが自分なり精一杯の気持ちです。文章は一部前後したり省略したりで同じではないのですが 自分の日記にして残すことにしました。嫌な思いで読まれた方もおありでしょうか。。ご勘弁のほど。。
2010.08.06
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先月 暫らくぶりに中学からの友人大阪に住むK子さんと会いました。一人暮らしのお母さんを気遣い時々広島に帰って来ているようです。会えばいつも尽きないおしゃべりに時間を忘れそうになってしまいます。最近K子さんのお母さんが被爆前後の話をされるようになられたそうです。洋裁店を営みながら 書道を教えたり 車の運転 ソシアルダンス。。ととても活動的な方でしたが90歳近くなり少し気弱になられたのでしょう。いつか広島にも爆弾が落とされ焼けてしまう時が来るからと 大切な物や日常食器の一部などを土の中の埋めたそうです。そして被爆。。家の柱に挟まれ怪我をしながらも1歳にならない息子(K子さんの兄)と逃げて生き延び生活が少し落ち着いた数年後 土を掘り起こし出てきた食器です。この前会った時 少し分けて頂きました。戦争の足音が聞こえ始めた昭和初期から今まで壊れず 割れず残った食器。何かを語ってくれるような そんな食器たちです。
2010.08.06
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他の言葉が見つからないほどに”熱いですね~ 暑いです~”と言いまくりの毎日。 そんな暑い最中の先週木曜日 事務所の引越しを敢行しました。電話とコンピューターの移設日が決まったのでそれに合わせての移動。週末も片付けたり整理したり。。月曜日から始動していますが 何だか疲れが溜まっています。 暑くても元気なのはコリウスちゃん”玄関脇でスクスクと育っています~♪
2010.08.03
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