1997年 の夏 テレビ東京の
夢のオーディションバラエティ ASAYAN という番組の中で
シャ乱Qロックボーカリストオーディション というものが行われた。
ASAYANがこれまでのオーディション番組(70年代のスター誕生や80年代の夕焼けニャンニャン)
と大きく違っていたのは 選考過程を克明におっていたことだ。
(このころからデジタルカメラが普及し そういうことが可能になったことも見逃せない)
このオーディションにおいても 協調性やセンス などを見るために合宿も行った
その結果選ばれたのは 平家充代(現在の平家みちよ)であり
このまま終わればひとつのオーディションでしかなかった
しかし 落選者ののなかに光る素材がたくさんいた
なんとかこの子たちにチャンスを とスタッフやシャ乱Qのメンバーは考えた
そこで 最終選考に残ったうちから
福田明日香 安倍なつみ 飯田圭織 石黒彩 中澤裕子 の5人
をふたたび呼び出し 5人でユニットを組んでインディーズで
5万枚を売り切ったらメジャーデビュー させるという条件で
発売されたのが 愛の種 だった
(現在このCDはとてつもないプレミアがついていて入手は極めて困難)
ASAYANのバックアップやメンバーのがんばりによって
4つ目の会場となった ナゴヤ球場 で
ついに5万枚を完売 しメジャーデビューを果たした
1998年
インディーズで 愛の種 5万枚完売 という常識的にはとても不可能な難題を
福田 安倍 飯田 石黒 中澤 の5人は達成 してしまった
もちろん ASAYAN という高視聴率の番組のバックアップは大きかったが
それだけでは豊富な情報の中で懐疑的になっていたファンは動かなかったろう
やはり ひたむきにがんばる姿 がブラウン管を越えて伝わってきた からだろう
こうして つんく 作詞・作曲による メジャーデビュー曲
”モーニングコーヒー” が発売された。
98年1月28日のことだった。
衣装や曲調は あきらかに CoCo を意識した正統派アイドル路線
久しくこのような作品が世に出ていなかったため たちまち話題になった。
結果はオリコン初登場6位 の 30万枚
という新人アイドルユニットとしては久々の大ヒットを記録 したのである
中澤 石黒 飯田 安倍 福田 の5人の”モーニング娘。” はいわゆるアイドルユニットとして順調にスタートした。
もしかしたら 冬の時代 に終わりをつげる存在になるような気がした
5人という人数も衣装も デビュー曲の曲想もCoCoによく似ていた
ところが 2ndシングルのレコーディングも始まらないうちに ”つんく”がとんでもないことを言い出した
ナニを言い出すんだ せっかく順調にいってるのに それに やっと5人の名前がしれわたったところなのに
(ASAYAN見てたから オイラはだいぶ前から知ってたけどね)
シングルの1枚目と2枚目でメンバーが増えたなんてユニットはないぞ(減ったのはたくさんあるけれど)
そんなわけで 多くの ファン スタッフ そしてメンバーたちのとまどいのなか
の3人を加えて 2ndシングル”サマーナイトタウン” が発売されたのだが
これがまたびっくり 前作と曲想がまるっきり違う!
(ふつう2ndシングルはデビュー曲の曲想に似せることが多い)
それでも ある意味 キワモノとも受け取られかねないこの曲は支持され
オリコン最高位4位のヒット となったのだった
(この時点では3人の中で矢口が目立ち、市井と保田は目立たなかった)
1998年という年はいろんな意味で アイドル史のうえで大きな意味をもつような気がする
ASAYANという番組が はっきりとアイドルシーンの中心として認識された
モーニング娘。以前にも Say a Little Prayer とか 佐々木ゆう子 とか
セールスは別として 話題はじゅうぶん集めただろうし、鈴木あみ などは主役に近い存在であったといってもいい。
いっぽうで 宇多田のブレイクもあったし、kiroro のようなユニットも注目された。SPEED もまだ勢いを保っていた。
コンポーザーに視点を移しても、コムロ イヂチ といったヒットメーカーに
つんく という新しい勢力が割り込んできたという認識だったろう。
だが この 新しい勢力 は予想以上に大きな波紋となって成長していくのである。
そして98年の7月には、モーニング娘。 の待望の1stアルバム ”ファーストタイム”が発売された。
アイドルらしいアイドルのアルバム というのは ほんとうに久々だった
(SPEED は アイドルとしての重要な要素が欠落していた)
アルバム1曲目の Good Morning のイントロが流れてきたとき
長い長い飢餓状態が またたくまに癒されていくのを感じた。
すぐに連想したのが うしろ髪の ”素敵なモーニングドライブ” である
だが 決定的な違いがある。うしろ髪のほうは 男の子のほうからモーニングコールがあって
主人公の女の子は いやいや? つきあってドライブに行くのだが、
娘。のほうは 女の子のほうからモーニングコールして誘っている。
ちょうど 70年代の山口百恵(待っている女)と
80年代の松田聖子(積極的に誘う女) の対比のような違いが見られる。
とにかく この曲には 語りつくせないほどの思い入れがある。
それまでの女性アーチストは、何というか 距離を感じさせる ものが多かった。
衣装や振る舞いなどに どこか 見下したような感じをうけるのだ。
歌唱力 ダンスの切れ ルックス ・・・オーディションでは こういったものが主な選考基準になりがちだが、
ブラウン管のむこうにいる人間の心をつかむのは別にある
それを 多くの人が気づいていただろうし、つんく も ASAYAN のスタッフも考えていたのではないだろうか。
外野から見れば素人に近い女の子を寄せ集めたようにしか思われないユニットが
オリコンの上位にランクインしたのが不思議だったかもしれないが
少なくともASAYANを見ていた人にはじゅうぶん予測できたブレイクだった。
そして98年の9月9日には、モーニング娘。の3rdシングル
”抱いて HOLD ON ME” が発売され、初のオリコン1位を獲得する。
3曲目で1位を獲得するのが理想的 と いわれることが多い。
その意味でも 計算通り だったかもしれない。
このころになるとASAYAN視聴者でなくても モーニング娘。の名前は多くの人に知られるようになる。
ただ今と違って音楽活動主体であり、CMにすら出ていなかった。
その中での1位獲得は楽曲の良さとASAYANの巧妙な煽りによるところが大きい。
この年 ASAYAN では ファイナルオーディションとよばれるものが行われ、
最終候補の5人を 視聴者による電話とインターネットの投票で決める というやりかたであった。
ここで目をひいたのが 鈴木亜美(後の鈴木あみ) もちろん好みのタイプだったから両方で投票した。
結果は 諸隈美幸と大接戦の末鈴木亜美が選ばれた。 のはよかったのだが
よりによって小室・・・・(残念)(2位の諸隈美幸も後に小室プロデュースでデビューするが売れず)
ともかく話題性とルックスだけは抜群だったから 小室のヘンな曲ながら そこそこのブレイクをはたした。
(まだ初期のころは それなりにいい曲は書いていた)
こうして モーニング娘。 と 鈴木あみ は同じASAYAN出身のライバルとして、しばらくASAYANのネタとして利用されることになった。
抱いて HOLD ON ME オリコン1位の余韻がさめない頃、つんく&ASAYAN がまた動いた。
なんと モーニング娘。のなかで もう1つユニットを作る というのだ。
福田と安倍 が 娘。の顔 として成長してきた
中澤はすでに演歌歌手としてソロデビューしている
そこで 飯田 石黒 と 新メンバーの中から3人目を選んで 3人組のユニットを・・・ というものだった。
さっそく 矢口 市井 保田 の3人の中から新ユニットの1人を選ぶためのオーディション?が始まった。
たぶんこれには まだ知名度の低かった新メン3人を認知させる意図もあったろう。
5回あったオーディションの中で なぜか この2期生だけがオーディションの様子を
ASAYAN(5期生はMUSIX!)で あまりくわしく追われていなかったのである。
結果は 矢口が選ばれ 実際はどうかは知らないが見ているほうには
市井・保田 と 矢口のあいだに 微妙な溝のようなものができたように思えたのだ。
こうしてモーニング娘。の 飯田 石黒 矢口の3人からなるユニット タンポポ がデビューした。
こうした場合にもはや定番となった戦略が いわゆる タイアップ である。
タンポポのデビュー曲 ラストキッス も
アニメ
”魔術士オーフェン
”のエンディングテーマとして発売のかなり前から流れていた。
(普通に変換すると 魔術師 と出るのでそう書いていたところ
加辻後 石矢。 さんから 魔術士 だとの指摘をいただきました。)
しかし この曲は そんなタイアップが必要ないほど楽曲がすぐれていた。
むしろアニメのイメージが逆に邪魔になってしまったような気がする。
もしかしたら3人組女性ユニットの記録を塗り替える可能性すらあった曲なのに
そうした戦略のチグハグさが災いしたのか ジャケットに問題があったのか
(それも計画のうちだった可能性もあるが) セールス的には平凡な数字で終わってしまった。
1999年
抱いて HOLD ON ME で オリコン1位 を達成し、すべてが順調にいくかに見えた
モーニング娘。だったが、年が明けた1999年の1月に
全く予期せぬ(だったと思う)トラブルが起きる。
メンバー最年少であった
福田明日香 が”学業に専念する”という理由で脱退 を宣言したのだ
これは ファンにとっても スタッフにとっても計算外のできごとだったろう
そしてこのことがきっかけで いわゆるアーティストとしての
”モーニング娘。”は 違う方向へ動きだしていった ような気がする。
説得して思いとどまらせることは不可能ではなかったろう。しかしスタッフはそれをしなかった。
別の鉱脈 が確かに存在することを感じ取っていたのかもしれない。
そんな中 1999年2月 4thシングルの メモリー青春の光 が発売されたわけだが
この曲 シングルとしては これまで発売された13曲のなかで 最も充実している
まさに モーニング娘。は 少なくとも
音楽的な意味においてこの曲で頂点を迎えた のである
ベースに ウィル・リー ギターに ハイラム・ブロック が参加 した
ジャズ風のサウンドはもう2度と再現できないかもしれない
さらに このシングルには c/wとして
Happy Night と Never Forget の2曲 が収められていて
シングルとしても大変価値の高いものになっている
ライブもこの頃までは生バンドでやっていたようだし、
8人のコーラスワークはかなりの完成度に達していた
そしていまや伝説となった4月18日 ほとんどのメンバーが泣き崩れる中
涙を見せず卒業していった福田明日香だったわけだが
学業に専念 という理由が その後の状況から見て
裏に何らかの内紛?があったことを匂わせている
メモリー青春の光 の直後に
タンポポの2ndシングル Motto がリリースされるのだが
この曲にもハイラムブロック(ギター) とウィルリー(ベース) が参加していて
サウンドはかなりジャズっぽい
この時期は 娘。本体も 内部ユニットの タンポポ も
音楽そのもので勝負 という
戦略に出ているわけだし出来上がった作品もそれを裏切っていない
このことは TANPOPO1 と セカンドモーニング の
2枚のアルバム に収められた楽曲のクオリティの高さにも現れていて、
メンバーの1人1人に しっかりと 役割 が与えられている 。
だが変化は福田の抜けた娘。本体より むしろ内部ユニットのタンポポのほうに先にあらわれた。
TANPOPO1に含まれていた たんぽぽ が
歌詞の1部を変えて 3rdシングルとして発売されたのだ
この曲 決して悪い曲ではないのだが
それまでの路線とは明らかに異なり ありきたりのアイドルポップスだった。
よく 石黒の卒業 および 加護・石川の加入がタンポポの音楽性を変えた
みたいな言い方をされることがあるが それは違う
石黒の卒業するずっと前からタンポポの路線は変わっていた
現在の路線は 3rdシングル以降そんなに変わっていないのだ
そしてこの路線変更は セールス的には成功だったわけで
これ以後 あと1歩でオリコン1位 という成績が続く のである
7人になった 娘。の5thシングルは
明るいアイドルポップス路線の ”真夏の光線” であった。
ちょうど瀬能あづさが抜けたときのCoCoの”夏空のDreamer”を思わせる曲調で
3曲続いた短調から”モーニングコーヒー” のイ長調に戻り
、”青い珊瑚礁”のようなイントロまでついていた。
まさに出発点に戻す という意図であったのだろう。
ジャケットはこの曲のものが1番よくできていると思う
そしてc/wには同じイ長調で これまた名曲の ”恋の始発列車” が収められていたが
この曲は後のアルバムにとんでもない爆弾が用意されていた。
1999年夏 共にトップアイドルとなっていた モーニング娘。と 鈴木あみ が
同じ日にシングルをリリースした。
もちろん 共に ASAYAN出身であり 番組の企画でもあったが
さらに もう1つ仕組まれた部分があった。
ここまで順風満帆で挫折を知らない 娘。 に敗北を経験させる という意図である。
夏場のバラード アルバム先行シングル という 売れない条件 をそろえ
なおかつ 相手は良く知られたカバー曲でタイアップつき という
誰が見ても結果のわかるものだった。
このようなもくろみを秘めて発売された
6thシングル ふるさと は しかしながら大変な名曲であった
シングルとして 音楽性 だけで勝負したのはこの曲が最後だろう
可能な限りの悪条件の中 曲だけは抜群 というこのシングル
は17万枚という大善戦を果たすも オリコンは5位
しかし 本当の敗者は1位になった 鈴木あみ のほう であった
その理由は ASAYAN の放送を見ていた人ならおわかりだろう
この事件がきっかけで あみ は急激に下降線をたどり、
娘。は ラブマの大ブレイクにつながるのである
小さな勝負に負けて 大きな勝負に勝った そんなターニングポイントであった
そして最大のターニングポイントというべき
後藤真希の加入とLOVEマシーンのミリオンヒット である
当然のことながら さまざまな原因が複合しているので短絡的な結論付けをすべきでない
ただ数字だけ見れば 前回のシングルと比べて売上枚数が10倍以上になったのは事実
A級アイドルから超A級アイドルへと登りつめたわけである
結果的に第3期生は後藤真希1人 ということになった。
他のメンバーはオリジナルの1期生も含めてみんな同期生がいるのである
もともと3期生を選抜するための 第2次追加オーディションでは 2人の追加が予定されていた
最終選考に残った5人はASAYANで毎週画面に登場したし さまざまな予想がネットでもなされていた
しかし つんく の発言 ”今回に関しては2人は選びきれない” というのを聞いて
もしかしたら後藤1人かも という予感はあった(3人もしくは0人という予想もあった)
なぜならタレント性が傑出していたのである(歌唱力に関してはあまり高くなかった。)
そしてもっとも危険を感じたのは ユニットの方向性を変えてしまいかねない
ということであった (2期生の増員のときにもきざしはあった)
やがて 後藤真希を加えた8人のメンバーによる 7thシングル
LOVEマシーン は 9月9日に発売され 予想をはるかに超える
ミリオンセラー となり モーニング娘。 は大ブレイクを果たした
その後のことは みなさんもご存知のとおりである。
やがて4期生 石川梨華 吉澤ひとみ 辻希美 加護亜依 が加入し
ファン層は急激に低年齢化し 新しい時代に向かっていった。