小説版・ココロノヤミ・3

アイダホその時の私は、大石がピアノを弾く姿を見て、ただただ胸が締め付けられる思いがしていた。ピアノから流れる音だけが頭の中で響いていた。泣くまいと思っても涙が止まらなかった。私はピアノから一番遠い席に座っていたので、大石は気付いていなかったが、私が泣いているのに気付いた斉藤は、気の毒なくらい狼狽していた。友人達に気付かれないように、そっと店を出た私達は、黙って夏の夕闇の中をただ歩いていた。お互いにどうしたらいいのかわからなかった。私は斉藤の事を気にかけながら、頭の中は大石のピアノが流れ続けていた。そして、ぼんやりと考えていた。「私は、いったい何をしているんだろう」と。どれくらい歩いただろう。あたりはすっかり暗くなっていた。繁華街から少しはずれた、ホテルの立ち並ぶ通りに入ったところで私は斉藤の凄い力で腕を引っ張られていた。

高校を卒業した春、私達は別れた。二人とも疲れ果てていた。私は地元の私大に推薦で入学が決まっており、斉藤も東京の私大に合格していた。卒業式の翌日、私達はデートコースだった港に来ていた。私は斉藤に謝るつもりでいた。けれど、斉藤の方が先に口を開いた。「結局オレはチサトをこっち向かせる事は出来なかったなぁ、絶対オレに惚れ込ませてやる、って思ってたのになぁ」沖合に浮かぶタンカーを見ながら呟く斉藤の頬には涙が光っていた。「やっぱさー、チサトは大石から離れられないんだよ。大石と二人で幸せにはなれないかもしれないけどさ、少なくともチサトは大石のそばにいた方が幸せなんだよなぁ。オレはチサトが辛い思いすんの黙って見てらんなかったから、無理やり大石から引き離そうとしたけどさ、とんだ思い上がりだったよ。何かさー、ヘンな横ヤリ入れて、かえってチサトに辛い思いさせちゃったんじゃないかってさー...」涙声で俯く斉藤を私は思い切り抱きしめていた。けれど、その後、私達は二度と会う事はなかった。

大石は地元の国立大に合格していた。中学の頃に「医学部か法律」と言っていた事を信じていた私は、大石が英米文学科を選んだことに少なからず失望を覚えた。大学は同じ地下鉄沿線にあった為、私達はまたよく一緒に通学するようになっていた。「お医者さんか弁護士ってのはどうなったのよ」となじる私に大石は「英米文学ってさ、軽く見られがちだけど奥が深いんだよ」と答え、志望を変えた理由は言わなかった。ピアノも既にやめていたのだが、どうしてやめたのかという事に関しても「家ではまだ弾いてるよ」と話をそらした。3年間の間に何だか私の知らない大石が増えていた。地下鉄の中でも、大石の知り合いの男子学生に出会うと、私の方が遠慮する事もよくあった。当たり前のことだが、中学生の頃と同じというわけにはいかなかった。けれど私は斉藤が言った「チサトは大石のそばにいるのが幸せなんだよ」を信じたかったし、その時には「これからはもうずっと大石のそばにいよう」と決めていた。

大石が英米文学科を選択した理由はすぐにわかった。地下鉄で頻繁に会った男子学生、太田との会話から推測できた。太田は私と大石が乗る駅から2つ目の駅で乗ってきていた。地下鉄に乗り込んで大石を見つけると「よっす」などと言いながら大石の隣に立ち、私になど気付いていないかのように小難しい話を始めるのだった。太田は、ずんぐりむっくりとしていて、着るものなどには全く無頓着なタイプで、私は「この人、女の子にはモテナイだろうなー」と思い、少し小馬鹿にしていた。大石は「高校入ってすぐ、出席番号が前後でさ、仲良くなったんだ」と言いながら私に紹介する様子はなかった。毎日のように太田が一緒になるようになり私が「太田君ってさ、変わってるよね、女の子に絶対もてないタイプねあれは」と冗談まじりに言った時、私を見た大石の顔を私は忘れられない。「そういう事あんまり言わない方がいいよ」と抑えた声で言った大石は、どう見ても恋人をけなされた時の顔であり、どう見ても憎しみのこもった棘のある顔だった。

何だか釈然としなかった私は、翌日から太田が乗ってきても遠慮しないようにした。いつものように「よっす」と近づいてきて「昨日のさ、ソール・ベローとアップダイクのやつさ、図書館より横山さんとこのがあるらしいぜ」と太田が話し出した時、私が「太田君、私みたいな初心者が読めるシェークスピアってどのあたりかなぁ」と話し掛けると、太田は心底驚いた顔をして「え?さぁ、[じゃじゃ馬ならし]か[ハムレット]あたりでいいんじゃないの」と大石の顔を見てにやにやしながらそう言った。完全に馬鹿にされていると思った私は「あのさー、前から思ってたんだけど、太田君ってちょっと失礼じゃない?」と喰ってかかった。困惑顔の太田の前に大石の顔が被さった。「なんだよ、俺らの話がいやなら一緒に乗ってかなきゃいいだろ!」大石は確かにそう言った。信じられずにいる私に追い討ちをかけるように大石は「悪いな、向こうの車両に行くか」と太田の肩を抱かんばかりにして行ってしまった。ちらっと見えた太田の勝ち誇ったような顔。取り残された私は、たぶん鳩が豆鉄砲を喰らった顔で、頭の中では「今のはいったい何?」がリフレインしていたのだった。


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