今朝の黙想 2



「彼は私の勧めを受け入れ、非常な熱意をもって、自分から進んであなたがたのところに行こうとしています。」(2コリント8:17)
『自分に何ができるか』と問う人生は、その人に大きな豊かさをもたらします。何をして貰えるかと思うと、つい不平不満で満ちますが、その状況で自分のできることを考え、探してみると、その時、その状況でなければならない道、方法は必ず見つかるからです。そんな生き方をしたいですね。

昨日のゴスペル練習を終え、家路に着こうと車にエンジンをかけたその時、
ショッキングなメールが届いた。内容をここでは記さないが、主が私に何をしなさいと語っているのか、まだわからない・・・。
わからないから、必死で祈るしかなく、祈っている。
祈って、今日一日様子を見よう・・・。
主よ、どうかあの方を守ってください。主は死の力を打ち破られた勝利の主です!主が必ずやよいところに導いてくださることを信じます。



11月27日(土)

「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(イザヤ53:5)
星野富弘さんの詩。『私は傷を持っている。/でも、その傷のところから/あなたのやさしさがしみてくる』 あなたの傷はキリストの優しさを感じる接点です。十字架によって傷は星に変わります。


hallelujah!!アーメン!!
私はいっぱい傷ついた(笑) しかし、その傷の分、主の愛がしみている。
苦しんだからこそわかったこと、のた打ち回ったからこそ悟ることができたこと・・・。それだけだ!
なんと幸いなことであろう。
自分の力で歩けない時、主は背負って私を導いてくださる。
私が自分のことを自分が知ってる以上に、私をつくられた方が私のことを知っていてくださる。なんと心強く、平安なことであろう。
主よ、感謝します!



11月29日(月)

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」(ヨハネ20:21)
疑い深いトマスは、他の弟子達が復活のイエスを見たと証言したにも拘わらず、それを信じませんでした。しかし傷ついた主の手とわきを見た時、「私の主、私の神」と告白したのです。今日、十字架上の主のお姿に思いを馳せましょう。キリストの十字架は今日のあなたのためでした。


トマスの姿は、自分の姿だなぁ・・と思うときがある。
イエスこそ我が主と告白しながらも、主を信じている者だと言いながらも、苦しみの時、試練の真っ最中にいる時、自分は主に愛されていないんじゃないだろうかと疑う時がある。。
そんな私さえも、主はお見捨てにならず、主の道へ引き戻してくださる。
イエス様が十字架にかかられた時、その両脇に、もう二人の極悪人が十字架刑にされていた。
一人は「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と叫んだ。
もう一人は、その極悪人をたしなめながら「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。イエス様、あなたの御国の位にお着きになる時には、私を思い出してください。」
イエス様は彼に言った。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます。」
これが鍵だと思う。
自分の罪の姿に泣く時、主を呼び求めることができるかどうかにかかっているのだと思う。
神は人間がつくりだしたものだと考える人たちがいる。
わたしには、その姿が最初にイエス様に絡んでいった極悪人の姿とダブる。
そして、私もかつては、その極悪人と同じであった。神がいるなら、なんでこんなことが起こるのだと言っていた一人である。
死を目前にした時ではなく、命のある今、自由意志によって、後の極悪人の告白をして欲しいと願います。そして、一人でも多くの方がこの意味を受け取ることができますように・・と祈ります。
そして、私自身がイエス様の十字架だけを誇りとして生きることができますように。


11月30日(火)

「強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられる故恐れてはならない。」(ヨシュア1:9)
過ちや失敗を犯すことよりも、むしろ過ちや失敗を犯すまいと"何もしない"ことを恐れるべきです。過ちや失敗を犯すことを恐れる余り、何の行動も起こさない人は、学ぶことも成長することもないのです。もし、過ちや失敗を犯しても、責任転嫁せず、自分開発のチャンスと捉えましょう。


アーメン!hallelujah!!
ヨシュア記きたーーー(笑)
ここの聖書箇所は、云わば私の生きていく上での指針である。
そして、ここの箇所をいつもいつも口ずさむ。
その時、頭の中で流れる曲は、小坂忠の「勝利者は~いつ~でも~、傷つきー悩みなーがら~、そ~れでもー、前に進む~♪」という曲である(笑)
本当に主の声を聴く時というのは、孤独にさせられる。
主と私だけ。
今、また、ヨルダン川に一歩足を踏み入れる決断を迫られている。
私のほうが、足を川に一歩入れたときに、川の水がせき止められ、道ができる。私のほうが、信仰を持って、一歩踏み出すという行動を起こさなければ、川の水はそのままである。
さぁー!いよいよ時がきたのか・・・
主よ、どうか、私がはっきりとわかるように、主の示しを与えてください。
人を見るのではなく、主の声に従う者とならせてください。
あの人生の苦しみの日、私は主に祈った。
「私と私の家とは、主に仕える。」ヨシュア記24:15
わかりました、主よ。
私の持っているものは全てあなたのものでした。
主よ感謝します!



12月1日(水)

「町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう」(ゼカリア8:5)
私達の日常生活でイエス様を口にすることは難しいと思ってしまうことはありませんか?でも、クリスマスなら大丈夫。以前から教会に誘いたいと思っていたあの人に声をかけてみましょう!神様を信頼して、あの人にイエス様を伝える機会が与えられるように祈りましょう。今日は誰に声をかけよっかな!


今年のクリスマス礼拝とクリスマスコンサートは、ゴスペル三昧の予定だ(笑)
私のもっかの祈りは、ゴスペルを歌っている人々が、「誰に対して、誰に感謝して、誰をほめたたえているのか」を、このクリスマスのメッセージ(救い主がお生まれになった意味)を通して、知って欲しいということである。
クリスマスのこの時期、町中が華やぐ。
クリスチャンでない家庭でも、クリスマス用の飾りつけをしたり、心が楽しくなる感じがしてくるのではないだろうか。
私は、この感覚、実は好きである。(町全体がクリスマスの雰囲気になること)
スーパーでも、BGMに賛美歌が流れ(笑)あちこちで美しいイルミネーションがなされ、お店がクリスマス一色になり(笑)
この雰囲気になっていく時、私は「人類全体のために生まれてくださった救い主」という感覚が、ばぁ~っとやってくる(笑)
そして、イースターはクリスマス以上に、ペンテコステはイースター以上に華やいで欲しい(笑)
クリスマス→イースター→ペンテコステ
この深い意味をどうか多くの方々が知ることができますようにっ!
主よ感謝します!hallelujah!!


12月2日(木)
「心の一新によって自分を変えなさい。」(ロマ12:2)
彫物師の看板に、絵や標語、いろいろな言葉が書いてあり、その中に「負け犬」とありました。「えっ、この言葉を彫る人がいるのですか?」と尋ねると、「ええ、時にいますよ」と言います。「なぜ、こんな否定的な言葉を?」と言いますと、年老いた彫物師は「身体に彫る前に、既に心に彫り込まれているのですよ」と言いました。人は心にあることを表現するようです。


なるほどなぁ~。
そこなんだよなぁ、「心にあることを表現する」
私は、主とお出会いする以前、「疲れた~、なんかいい事ないかなぁ~」というのが口癖だった(笑)
心の中が、疲労と不満で満ちていたのであろう(笑)
今朝は、自分の心の中を点検してみようと思う(笑)
まず、この朝、私のコンディションは悪い(笑)
頭痛(気圧の変化に左右されるため、肉体が疲れていると、すぐに反応してしまう)
意識(理性)は、自分で言うのもなんだが、とても真面目である(笑)
だから、「大病のあと、この頭痛とは、上手に付き合っていくしかないのだから、具合悪かったら休息を上手く取り、心の中が否定的な思考回路でやられてしまわないように気をつけよう・・・」と、働いている。
心の中を探ってみると・・・・
あぁ・・・なるほど・・・私の心は、やはり、弱点であるところの「人を意識する」というところにひっかっかってきている。
「なんとか頑張って仕事しよっか~」と言う思いの底には、「自分の評価が下がらない為」というものが強くあることに気がつく。
さて、ここで結論。
頭痛薬が効くように、11時まで横になってきます。(笑)
その後、精一杯、頑張って仕事します。(笑)
主よ、どうか頭痛を取り去ってください。
あ、ここで思い出した・・・
大樹のお弁当を届けてあげなきゃだった・・・
朝、、辛かったので、あとで届けるってことにしたんだった・・・
大樹、ごめんっ。既製品だわ・・・買って、もってくわ・・・許してちょっ。


12月3日(金)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3:23)
野の草一つ一つにも名前があり、「雑草」という名の草がないように、仕事にも無駄な仕事は何一つないはずです。私達は「雑用に追われて」と言いますが、小さなこと、繰り返ししなければならないことを、雑に扱うので雑用になるのでしょう。しかし、どんなことにも心を打ち込む時、すべてが生かされるのです。


アーメン!
マルタの仕事も、心から行ったなら、きっと主はそれを祝福したのだと思う。私の口が文句をいいながら、仕事をすることのないように、心を込めて一つ一つの事をすることができますように。
いつも喜び絶えず祈り全てのことを感謝することができますようにっ。
人からの評価を得るためではなく、主が喜ばれることに目を向けて、主に対してすることができますようにっ。
あ~んっ、今日の箇所、今の私に対して、そのものズバリだわぁ・・・(笑)
主よ、すみませんでしたー!
「雑用に追われて」って毎日言ってしまってましたー(笑)
悔い改めに導かれたことを感謝します!
さーて、もう11時過ぎてしまいました(笑)
さっきまで、家事をしながら、「雑用に追われて」という感覚でいましたが、今からは違います(笑)
これから残された時間、今日一日、心を込めて仕事しまーす!!
hallelujah!!感謝しますー!!


12月4日(土)

「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。」(伝道7:16)
内村鑑三は「真理は楕円の中にある」といいました。楕円とは中心を二つ持ちます。人は二つの目で、違う角度方から見る時に、事物がはっきりと見えてくるように、一見,相反する意見のバランスの中に真理が浮かび上がって来ます。人間関係のトラブルは、このバランス感覚がなくなり、偏った時に起こるのかも知れませんね。


なるほどなぁ・・・
何事もバランスだなぁ・・・
「いい加減」とは「良い加減」ということと似ているかもしれない。
私は最近まで、「意識(理性)」と「無意識(心の奥の本心)」のバランスが、すごく悪かった(笑)
ここのバランスがとれてきたのは、神様によって、無意識下にあった心の傷が癒されてきているからだと思う。
肉体も精神も、益々健康にされ、聖霊が働きやすい、聖霊のとおり良き管になりたいと切に願います。
内村鑑三の例想のところで、ふと思った。
私たち夫婦は、案外バランスの取れた夫婦なのかもしれない(笑)
マイケル(夫)とは、よくぶつかり合う(笑)
特に、教会のことでぶつかり合う(笑)
きっと、主の御手の上で、私たちは転がされ、主の御心が成就していくための道程にしか過ぎないのだ。
このぶつかり合いの中で、私たちは、主によって練られ、聖められ、練達されていくのだ。
マイケル、これからもよろしくねっ(笑)
そして主よ!!
どうかどうか、これからも我らを主の道に導いてください。
感謝しますー!!

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