今朝の黙想25



「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(1テサ5:16)
一生というものは、ぶつぶつ不平を言っていても時間が経つし、そうでなくても時間が同じように経つので、とにかく自分らしく生きることが大切です。与えられた人生という時間を生産的に用いましょうよ。


はぁーーいっ!!
アーメンっ!!
順風満帆の時には、信仰がなくても感謝できる。
しかし、感謝できない状況のなかで、「この試練の中には意味があり、神様が私を愛してくださっているゆえに、訓練してくださるために、成長するために、与えてくださっている試練である」と感謝することが信仰だ。
その信仰を発動させた時、どんな状況のなかでも喜ぶことが出来る。
そして、たとえ不信仰に陥り、感謝できなくなっても、喜べなくなっても、決して神様はわたしを見放さず、捨てない。
そこに立ち返ったなら、神様の愛がまたわかって、そして立ち上がって前に向かうことが出来る。
なんという幸いなことだろう。
この素晴らしい循環の中に招き入れられたことに、今朝また感謝が溢れた。

主よ、感謝します。
主を喜びます。主に愛されている喜びを歌をもって踊りをもって、主に捧げます。両手をあげて、主にすべてを明け渡して、主を喜びます。
手を叩いて主を讃美します。
hallelujah!!

5月10日(火)

「親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする。」(箴言16:24)
言葉にはどれほどの力があるでしょう。さりげない言葉でも人の心を沈めることも、高く上げることもできます。親切な言葉は誰が聞いても嬉しくなるものです。励ましや優しさを感じさせるなら、それは心からの言葉です。そのような言葉を待っているよりも、あなたからかけてみてはいかがでしょうか?


あーめん!!
そうそう、例想にあるように、ここが肝心なのよ。
「励ましや優しさを感じさせたか」ここ、ここ。
根っこに愛がないと、なかなか感じ取ってもらうことが出来ない。
愛されることを求めていると、常に受動的になってしまう。
人間は誰しも、「愛されたい」と思って生きている。そして、成長していくにつれて、「愛する」ことが出来るようになってくる。
先日、夜中の3時まで語り合った姉妹は、ご主人と生活している頃、いつも、相手が優しい言葉をかけてくれるのを期待しながら待っていて、それがしてもらえなかった・・・と傷ついていた。離婚にまで至った経緯は、それ相応の理由があるわけだが、その問題を生み出していったお互いの心の状態というのは、おそらく、お互いが「愛されたい」と張り合ったのだと思う。

っと、ここまで書いて、またもや、黙想がぶっとんでしまった私に気が付いた(笑)
彼女のことを祈っている最中なので、ついつい思考回路がそっちにいってしまったわ(笑)
黙想ってのは、自分への適応でなきゃダメなんだった(笑)
いかんいかん。

愛する家族に、励ましの言葉、優しい言葉をかけることが出来ますように、聖霊様、わたしをあなたの聖い御霊で満たしてください。そして、言葉だけでなく、喜びに溢れて、家族のために美味しいご飯をつくり、家事を雑務と思わず(笑) 楽しみ喜んですることができますようにっ。
もし、今日、励ましを必要としておられる方がいたら、主が出会わせてくださいますように。また、ピアノの生徒さんに対しても、誠意と真心で接する事ができますように、主よ助けてください。
主よ、感謝します~♪


5月11日(水)

「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。」(詩37:23-24)
いったん落ち込んでもかまいません。重要なことは、その落ち込んだところから立ち上がる術を持っているかどうかです。信仰は正にその術です。主はあなたを守り、立ち上がらせて下さいます。


あーめん、あーめん!!
hallelujah!!
もうさ、なにが凄いって、ここよっ。
確かに主は今も生きて働いておられ、イエス様の十字架が私のためであったことを信じ受け入れた者を、神様のほうが見放さないってとこよ。
どんなにその人が神様から離れ、罪にまみれ続けても、イエスを主と告白した者に主はチャンスを与え続けてくださる。チャンスとは悔い改め(方向転換)のチャンスだ。

私のなかにあるイメージ・・・
どんな試練が自分をおそってきても、一番下に、イエス様の手があるの。
神様があまりにも私達を愛してくださってるので、私達の存在そのものを愛してくださるだけでなく、成長させようと働きかけてくださる。
そして、時には激しい主の取り扱いを受けるときがある。
私にとっては、この3年間は特別に取り扱いを受けた期間であった。
しかし、主から見捨てられたとは全く思わなかった。
家出をした時も、聖書を壁に投げつけた時も、牧師先生が私にプレゼントしてくださった、内なる癒しについて書かれた本を床に投げつけた時も・・・・。
枕を引き裂き、シーツを引き裂き、タオルケットを引き裂いて、とうとう自分は気が狂ってしまったのかもしれないと思った時も・・・(笑)
いつもいつも、どんな時でも、私がイエス様に背を向けた時でも、イエス様の手は私を支え、一番下にあった。
イエス様の手の上で、全てが行われているんだと・・・本当に感じた。

よって、何が起ころうと、感謝しかないのだ。
自分のほうが感謝できないだけで、神様は無駄をなさらないのだ。
時には落ち込んだりするし、鬱状態になったりもする。
それでも神様は私を見捨てない。
主よ、感謝しかありません。
今日も主の御手のなかで生かされている幸いを感謝します。
hallelujah!!


5月12日(木)

「喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」2コリ9:7
人生を豊かにする秘訣は「余分にひとつやることを考える習慣」ではないでしょうか。言われたことだけ、決められたことだけをしていては、発展もなく喜びも出てきません。ひとつ余分にすることを考え実行する時に喜びややり甲斐が出てきます。さあ、今日のひとつ余分にやることは何でしょうか。


(¨)(..)(¨)(..)ウンウン
あーめんですー!
主よ、今朝の御言葉を聞くだけでなく実行しようと日々過ごしていますが、傷ついている人が相手の場合、逆恨みされちったりして、やんなちゃいますよ(涙)
時は金なりという言葉があるように、時間と心と労力を主の御用のために捧げようと努力してるんですが、昨夜から、ちょいとくじけてますw(泣)
そうしたら、今朝、この御言葉・・・・
はぁ・・・主はお見通しだw
主よ、「余分にひとつ」どころでは、色んなことが回らない現状です。
助けてください!!

もう一回、御言葉を読み直した。
「喜んで与える人を・・・」となっている。
愚痴りながらやったんじゃ、神様は全然喜ばれない。
主よ、どうか私自身を癒して潔めてください。
昨夜の出来事はイエス様に預けます。
御血潮によって、私を洗い流してくださり、新たにしてください。
そして、今日成すべき事を、前向きに、喜んですることが出来るように助けてください。
今日は、会計の姉妹のお手伝いをする約束をしています。
そこに主が共にいてくださり、その仕事を心豊かにすることが出来ますようにっ。
主よ、感謝します。イエス様の御名によって祈ります。あーめん。


5月13日(金)

「そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、『わたしはここにいる。』と仰せられる…」(イザ58:9)
祈りながら、神様が本当におられるのかと疑問に思ったことはありませんか。そのような疑いが生じた時には、もっと祈り続けてみましょう。正直にその疑問を祈ってみよう。すると神様は「あなたはひとりではない」という確信を与えてくださるでしょう。


あーめん!!
そういえば最近は、「神様が本当におられるのか・・・」と疑問に思う事が無くなった(笑)
よく考えてみると、これって凄いことだと思う(笑)
そして、今朝の例想にあるように、そう思えるようになったのは、神様の前に正直になって、祈り続けたからだと思う。
神様の前でいい子ぶってるうちは、この疑問がついてまわっていたように思う。神様の前では正直に全てを告白して祈る、、ということが、解放の鍵だと思う。
聖書のこと、神様のことが「わかったー!もうバッチシ!」なんてことは、ありえない。地上で生きている間、命のある限り、新しい発見をし続けていくのだろうな~と思う。
5年前に読んだ聖書の箇所を、今読むと、違った視点で受け取っている自分がいる。
こういうことが、聖書に書かれてある、
「私たちはみな、顔のおおいを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」第一コリント3:18
なのだろうな~と思う。

今朝、エリからメールがきた。
エリが主と共に、病と戦っている。がん細胞と戦っている。痛みと戦っている。
私の日常のちっぽけな事でクヨクヨしてる場合じゃーないっ!!
エリの戦いに、祈りによって参戦しよう!!

主よ、エリの痛みを取り去ってください。
エリがご主人と手を繋いで必死で戦っています。二人で祈る祈りは倍になるどころではなく、何十倍何百倍の力が与えられます。
主よ、エリとご主人の祈りに働いてください。
そして、私達も、とりなし祈ります。
主よ、エリの上に奇跡を起こしてください。あなたの栄光をエリをとおして顕してください。エリを癒してください!!
主を待ち望みます。hallelujah!!


5月14日(土)

「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。」ヨハネ16:17
のび太君は何故自立できないのでしょう?それは目に見えるドラえもんが側にいるからです。イエス様は復活後、天にあげられました。その代わり目に見えない聖霊が来られたのです。聖霊は私達の意志的行動と共に働き、助けて下さるお方。聖霊は私達を自立させ、私達を真のパートナーとして扱って下さいます。


あーめんっ!!
今朝の箇所、よぉ~~くわかる。
のび太 ○ー○へ・・・・・へ(εoεへ))))ドラえも~ん
の例え、(≧∇≦)ъ ナイス!


私も、今までの信仰生活のなかで、幾度となく「イエス様が目に見えて、手で触れて、私の隣に肉体をもって存在していてくれたら、どんなに幸せだろう・・・」と、泣きながら、そう祈ったことがある。
今思うと、きっとそう祈っているその場にも、聖霊様は共にいてくださり、目には見えないけれど、私を抱きかかえてくださり、私を励まし導きを与えてくださっていたのだと思う。
だから、今日、こうして私は生きている。

神様が目に見えないのは、大きな恵みなのだという話を聞いたことがある。
もし、神様が見えたなら、日常の罪にまみれた自分をも、目に見える神様が見ているということなのだ。
そして、もしそうだったなら、目に見える神様の前に立ちおおせる人は誰もいないだろう・・・そういう話だった。

今朝の例想の、「聖霊は私達の意志的行動と共に働き、助けてくださる」
これは、計り知ることが出来ない、ものすごい恵みなんだと思う。
昨日の黙想とも繋がって、「聖霊がいつも共にいてくださる」ことを体験していくことが、そこに目が開かれていくことが、信仰の成長なのだろうな~と思う。

聖霊様、どうか聖霊様と共に、聖霊様の喜ばれる事を一瞬一瞬選択していくことが出来ますように。
主よ、感謝します。

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