折れず曲がらず良く斬れる

折れず曲がらず良く斬れる

2009.08.07
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レイテ沖海戦におけるシブヤン海海戦において、米軍機の雷撃20本、爆弾17発、至近弾20発以上という軍艦史上最多・空前絶後の損害を受けたが、艦前部を主に両舷の浸水がほぼ均等で、当初左右方向への傾斜が僅かまたは復元可能であったこと及び機関部が健在であったことにより、沈没に至る過程において速度は低下したものの回避運動が可能であったため、被弾数に比べて長時間交戦できたものと推測される。ちなみに、米軍はこの戦闘を教訓として昭和20年4月の菊水作戦時の「大和」への攻撃を左舷に集中させたとされる。

 防水作業、復旧作業に従事した人物の手記が残っているが、これほどの被害を受けながら火災の方はすぐに鎮火したようである。後部甲板に兵員を集めて、上部士官より説明があった後に重量物の移動や排水作業を開始したが、角材がマッチ棒のように折れて、鉄板がベニヤ板のようにしなる・・・と水圧との戦いの凄まじさが伝えられている。浸水した機械室も排水作業が試みられたが、浸水は減るどころか増える一方だったと記載されている。

 昭和19年7月24日午後、速度の低下した武蔵は艦隊から落伍。駆逐艦「清霜」に伴われてコロン湾を目指したが、現地時間19時35分頃、ついに艦尾を高々と上げて沈没した。沈没時には大爆発を起こしたという記載もある。

 出撃の時の艦長が4代目、副艦長が2代目で4と2で死に装束、リンガ泊地に於いて武蔵だけが塗装を塗り直した為、一番目立っていた。敵の攻撃を一身に引き受ける覚悟で出撃した?巨艦過ぎて操舵が非常に難しい艦であったと証言がありました。

 19時15分頃航行不能に陥り左傾斜十二度となったため、猪口艦長より"総員上甲板"が発令され、軍艦旗降下後間もなくの19時30分頃急速に傾斜を増したため総員退去命令が発せられ、ついに19時35分頃左舷に転覆し沈没した。

 総員退去命令から沈没までの時間が非常に短かっために武蔵の沈没に伴う戦死者は猪口敏平艦長以下1021名、生存者は1376名。

 悲劇はこれだけでは終わらない。生存者の半数以上はフィリピン守備隊に残され、陸戦隊としてマニラ市街戦に参加させられたりしたが、その多くは戦死してしまった。他にも「隼鷹」で日本へ帰還出来た乗組員もいたが、その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなかった。沈没地点は猪口艦長の遺書を託された副長の加藤大佐が退艦時に記載したものが採用されているが、沈没地点が深海のために船体は確認されていない。ミッドウェー海戦の生き残りに対する処遇と云い、武士の情けを知らぬ大本営の酷い仕打ちには腹が立ちました。

 大和の陰に隠れてちょっと地味ですが新しい塗装の死に装束で出撃、米軍の攻撃を一身に浴びて沈んだいぶし銀の武蔵が好きです。

写真は呉の大和ミュージアムにある「大和」の艦橋です。対空の機銃が多く取り付けられていますが武蔵の場合、急増した為機銃の周りに敵弾を避ける遮蔽物がなくレイテ海戦では多くの機銃手が敵弾の直撃を受け戦死されたそうです。

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最終更新日  2017.11.25 00:53:44
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