椿荘日記

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けむり男と落ちてきたお月様~2



さて、お月様を従え、道具を担いだけむり男は、仕事場へ急ぐ。ところが町の連中の態度が何かおかしい。老若男女皆、けむり男の連れの巨顔巨体のお月様に熱い視線を投げかけているのだ。あるばあさんなど、道端の花壇から花をひん毟って、頬を赤らめながらお月様に差し出す始末。これまた丁寧にお月様、ありがたく受け取り、そしてばあさんの手を恭しく取り上げてキスなどするものだから、近所中の女房や小娘、残りのばあさん共が、我も我もと毟った花を手に押し寄せ、私が先よとつかみ合いの喧嘩にまで発展する有様で、通りはすっかり蜂の巣を突いた様な大騒ぎとなり、けむり男は仕方なく道具とずんぐりとしたお月様の腕を引っつかんで、大慌てで逃げ出すはめになった。

「我輩は人気者じゃ。」けむり男に腕を引かれ、ふうふうと苦しそうに息を吐きながら走るお月様は、騒動など何処吹く風と、ご満悦な表情だ。けむり男は、全くとんでもない奴だと心の中で舌打ちしたが、やっと仕事場に着き、兎に角作業の準備を始める。あの騒動で、すっかり時間が経ってしまったのだ。
最早、躊躇する暇はない。兎に角、用意していた下書きを大きな看板に写し始めたのだが、その様子をお月様は、腕を組みにやにやしながら眺めていた。その気配が面白くなかったのか、注文の趣旨が面白くなかったのか、慣れた仕事の筈なのに、けむり男は次第にいらいらし始めた。実は、注文は一番苦手な、賑やかで派手な、町の居酒屋の看板で、親方は「兎に角楽しくて、踊るような感じで、ぶっ飛んで・・」という極めて曖昧で、感覚的な内容しかけむり男に伝えなかったのだ。
何しろ、けむり男は世間の生業に興味がなく、暗く、面白みのない男なので、人様が楽しむなんぞ想像も出来ない。楽しいだと!踊るように?ぶっ飛んでとは!?快楽とは無縁なけむり男にとって、想像の他の世界だ。
それでも眉根に皺を寄せて、納得行かない下絵とにらめっこで、仕方なく大筆を動かし始めた。額に汗が滲み、只でさえへの字の口が、ますます下に向かってひん曲がる。その時、いきなり、その様子を見ていたお月様が歌いだし、挙句踊り始めた。
「我輩は華麗にして優美なお月様
 このちっぽけな世界にやってきた
 午後の午後のその後に
 それはそれはそっとと素早くその瞬間
 でもやっぱり我輩は主人公
 気付かれて大騒ぎ
 でもやはり帰らねば
 暮れ方にお空に帰らなきゃ」

けむり男はその様子を見て、只唖然としていた。巨顔巨体でふわふわした白いナイトガウンを着、弓なりの顔を上下に動かし、裾を翻しながら軽い足取りで、この世の物とは思えぬがなり声で歌いつつ、有ろうことか悩めるけむり男に向かって踊りながらウインクまでするのだ。けれど、その馬鹿げた踊りを見ながら不思議なことに、けむり男に妙な創作意欲、とでも言おうか、今までだったらくよくよとあれこれ悩んでいたことが一気に吹き飛んでしまった。お月様のふざけた踊りが興が上がると同時に、けむり男の筆も進んでいった。仕舞いには下絵など全く意に介さず、お月様の天衣無縫な動きに従って、楽しげに闊達に、筆はいよいよ機敏に働き、ついには仕事は終わった。
けむり男が仕上げの一筆を終え、額の汗を満足げに拭ったその瞬間、いきなり拍手と喝采が巻き起こった。気が付けば周りには十重二十重と取り巻く観衆が手を叩き、けむり男とお月様の仕事振りに惜しみない歓声を上げていたのだ。
これには流石に小心者のけむり男は仰天し、参った。そして本当なら街中で適当に置き去りにして逃げようと思っていた「厄介者」のお月様の手を引き、自分の家に帰ってしまったのだ。名残惜しげに満面の笑みで観客に手を振り、投げキスまでするとんでもない不信人物を、だ。
けむり男は疲れ果てた腕でドアを開け、相棒の機嫌の良さそうな声を聞いた瞬間、どん底に突き落とされたようにがっくりとしてしまった。

兎に角、一杯遣ろう、歯にしみる様な冷たいビールを一杯遣れば、疲れも吹き飛ぶし良い考えが浮かぶ・・。けむり男が思った瞬間、ジョッキのビールが目の前に突き出されていた。「??」
視線を上げれば、お月様が、何時の間にやらビールのジョッキをけむり男に差し出し(本人は既に口の周りに泡の髭を生やしていたが)、「疲れたであろうが、実に良い仕事であった。皆も喜んでおったし、我輩も実に楽しかった。久しぶりに心地良い動きであったぞ。礼を言う。」唖然としながらも、お月様の人の良い笑みにつられ、けむり男は差し出されるお月様のジョッキに思わず自分のジョッキを突き出し、二人は思い切り飲み干して、つい思い切り笑った。

仕方がない。今晩は。お月様にベッドを再び明け渡し、いつの間にか夕飯を済ませ、満足げに口の周りを舐めている相棒の猫と、再び敷物の上で寝た。
心地良い疲れと共に。





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