椿荘日記

椿荘日記

ショパンのパリ、椿姫のパリ④


6歳年上のサンドとの関係は、脆弱なショパンを労わる母と、庇護をうける子供といった風に変化していき、事実彼女が親しい友人やショパンの姉に宛てた手紙には度々、「私の子供」という表現が出て来ます。
しかしそれとは違った感情をショパンが持っていたのは言うまでもありません。

「マリ・デュプレシ」と名を変えてからの彼女は、自らの生き方に腰を据えたかのように振舞います。
「出資者」は必要最小限度に抑え、文筆家、音楽家、画家など、芸術家の為に自分のサロンを開放し、彼女の美貌だけでなく、才知に溢れ陽気な性格を慕う青年貴族達も、「お友達」として、マリのショセ・ダンタンの家に訪れました。
芸術家達のなかに、ショパンとサンドのサロンに度々顔を出す、テオフル・ゴーテイエ、バルザック、大デュマがいます。共通の「サロンの客」だった彼らの交えた会話は、どんなものだったのでしょう。
その他、ミュッセ、ジュール・ジャナン(彼はデュマの小説椿姫の序文でリストとマリの最初の出会いを著した)、アルセーヌ・ウッセー、新聞王ジラルダン、バルベー・ドルヴィイーなど、当時の一流の文筆家とも交際がありました。
芸術を愛し、絵画、彫刻は勿論、豪華な晩餐、贅沢な衣装、宝石、流行の馬車、毎晩の観劇に必ず手にしている高価な椿の花束など、湯水のごとく金銭を使うマリに、何人かのパトロンは別離を告げることを余儀なくされました。
一時は、あれほど夢中で愛したペレゴー伯でさえ、彼の懐が先細りし、今までの様に諾々と彼女の我侭をきいてやることが出来なくなったと判ってからは影薄い存在になり、パリの人々に持て囃され、「贅沢で洗練された生活」そのものに取り付かれていたマリに素っ気無く扱われると、黙って姿を消すより他はありませんでした。
けれど奔放で何不自由ない生活にも影は忍び寄ってきます。こういった豪奢な生活の合間にマリは何度となく喀血します。彼女も肺結核を併発していたのでした。

アレクサンドル・デュマが長い間思いつめていた、高級娼婦「マリ・デュプレシ」の贅美を誇る家に迎えられた時、彼女は、もとロシア大使を務めた、巨万の富を持つ老シュタッケルベルク伯爵の「保護」を受けていました。最初は困惑していたマリも青年(この頃デュマ22歳、マリ21歳)の自分を気遣う直向さと真摯さにうたれその愛を受け入れます。
その後11ヶ月に渡る日々が、オペラにもなった、小説「椿姫(椿を持つ貴婦人)」の元となったのです(当HP「椿姫の間」参照)。真剣なデユマの愛に応えるべく、マリも真剣に向かい合い、愛したことでしょう。しかし彼が望む更正の道は遠く(以前から何人かの篤志の人々に呼びかけられても「もう遅すぎるわ」と淋しげに笑って答えるマリでした)、幾度となく立ちはだかられるマリの「金銭上の恋」という壁に挫かれ、苦悩に満ちた別れの手紙を彼女に送り、傷心を抱え、父大デュマと共に世界見聞の旅に出掛けるのでした。

デュマと別れたマリの残り少ない人生の最後の恋の対象となったのが、パリにおいて「ヴィルトォーゾ(名人)」としてショパンとの人気を二分していたリストでした。ジュール・ジャナンに因って書かれた二人の出会いの様子(45年11月)が、小説の序文として残されています。
ともあれ、リストが再び演奏旅行に出掛けるまでの3ヶ月間を親密に過ごし、同行を一心に乞うマリに対し、イスタンブール(一説にはコンスタンテイノープル)に伴う約束をして別れますが、この時彼女の健康は、旅行も難しいほど悪化しかけていたのです。

さて、同じく45年を境に、ショパンを取り巻く状況も徐々に悪くなっていきます。相変わらずの政情不安、健康の悪化、あれほど沸き出る泉の様だった創作意欲も、戸惑いと混乱と体調不良で途絶え気味になります。加えて、サンド家が内包していた家庭争議の火種が年を追うごとに広がり始め、サンドの一人娘ソランジュの結婚問題を得て頂点に達しました。サンドとショパンはこのことについて重大な喧嘩をし、サンド自身の恋愛問題(彼女は政治活動上のパートナーを新しい「恋人」にしていました)、も相俟って、終には8年続いた、夫婦とも言い得る関かわり(サンドとショパンは最後まで「内縁関係」でした)を解消しました。48年7月のことでした。

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