椿荘日記

椿荘日記

ショパンのパリ、椿姫のパリ⑤


そして彼女の「たっての願い」で、この時代ではあり得ない身分違いの「結婚」を、イギリスで行います。このことは全パリ中の人間を驚かせました。無謀とも言えるこの結婚劇の影には、マリの狡猾な企みがあったという説もありますが、どれほど「貴婦人」らしく見えても称号がないゆえ(社会的に認められず)何度も誇りを傷つけられ、悲しい思いをしていたマリの最後の望みだったのではないでしょうか。

手元不如意な新郎は、花嫁との新婚生活を諦めイギリスに残り、「伯爵夫人」となった新婦(とはいえ差し障りのある公の場では、ペレゴーとの約束通り~彼は結婚直後マリとの婚姻を白紙撤回すると申し入れ、彼女も承諾しました~、「未婚」の身分を守っていましたが)の方はパリに帰ってこれまで通りの生活に戻りました。リストを待つゆえなのか、出資者達とも疎遠になって、経済状況は悪化の一路を辿りましたが、マリのサロンに出入りしていた彼女の信奉者、楽しい「お喋りの相手」であった青年達が、彼女の暮しを支えました。
しかし健康状態は悪くなる一方で、それでも待ちに待った歴史に残る「北部鉄道開通式(フランス~ベルギー)」の一大レセプションに名誉ある招待客として列席し、美しい姿で人々に感銘を与えましたが、パリに帰ってからは、完全に衰弱し床を離れることが殆ど出来なくなりました。懐かしい故郷での静養も、温泉地での療養も甲斐なく、激しい咳きと喀血に苦しみ続け、47年の新年を迎えて、その心優しい崇拝者の青年達の一人のエスコートで最後の観劇に出掛けた後、彼女が家から出たのは冷たい遺骸として、棺に納まっての姿でした。
デュマの記述通りの孤独な死ではなく、苦しみながらも実際は数人の親しい人に看まわれての臨終でした。
1847年2月3日午前3時、23歳を迎えたばかりの、若すぎる死でした。
葬列に加わった人々の中に、死の直前に和解したペレゴーの慙愧の涙に咽ぶ姿がありました。

マリの死はパリ中に衝撃を与えました。彼女の死は生前と同じく新聞、雑誌に書き立てられ、相次いで追悼記事が載せられ、当時の二大日刊紙「時代」、「世紀」も一覧を割き、一部の道徳論者が憂慮するほどの大きな事件でした。旅先から戻り、マルセイユに着いていたデュマもそうした報道で知ったのでした。
同じくパリの人気者で、共通の友人を持ち、同様の病に苦しむショパンは、このことをどう受け止めたのでしょうか。
その半年後、ショパンは精神の死とも言えるサンドとの決定的な別離を迎えたのです。
翌48年2月、ショパンはサル・プレイエルでパリに措ける最後の演奏会を開きます。
サンドとの別離で、それまでぎりぎりのバランスで保っていた心身の均衡を失ない、衰弱してしまった彼は、作曲の仕事も捗々しくなく、友人達の計らいで経済状態の回復と、孤独を慰める為に企画された演奏会は、切符も常識はずれの高価な価格で販売されたのにも関わらず、一週間で完売、ショパンの友人である演奏家達の協賛を得て行われ大成功を収めましたが、その興奮も冷め遣らぬ一週間後、パリを暴動が襲います。
「二月革命」の勃発でした。

不満を溜め込んでいた労働者達を、パリの反政府派(社会主義者)が煽動する形で行われた暴動は、市民、学生を巻き込み、そのまま議会占拠、国王退位、臨時政府発足と続きましたが、不穏な情勢は続きます。有数の貴族、ブルジョア階級は近隣諸国に避難し、ショパンも、教え子でイギリス貴族のスターリング嬢の招きでイギリスに渡り、演奏活動と社交生活に明け暮れる毎日を半年間送りました。信奉者である貴族達に手厚い庇護を受けた生活でしたが、作曲は出来ず、寒冷な彼の地で病状も悪化、郷愁と孤独と失意の中、パリに戻ります。
パリに漸くもどったショパンは激しい咳きと喀血ですっかり衰弱してしまい、作曲はもとより、レッスンもままならず、経済的にかなり追いこまれていましたが、スターリング嬢、ロスチャイルド家などの貴族達が多額の生活費を匿名で寄贈、シャイヨ―宮の側の気持ちの良い夏の住まいも、実際は支援者が借りてくれたものでした。
スクアール・ドルレアンを引き払い、再起を望んで移り住んだヴァンドーム広場の快適な家も、結局ショパンを回復させてはくれませんでした。ポーランドから駈け付けた姉ルドヴィカや、友人達、ポトツカ伯爵婦人などの支援者達に看取られる中、静かに息を引き取りました。1849年10月17日午前二時、フレデリック・F・ショパン、39歳の早過ぎる死でした。
本人の希望で遺体は医学への貢献の為解剖され、心臓は故国ポーランドに持ち帰られました。


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