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2006.02.10
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カテゴリ: イラン代表
ハシェvsキア


Vflボーフムからハンブルクに移籍したマハダヴィキアは、移籍当初から主力として活躍しスタメンの座を確保する一方、パスクラブ・テヘランからやってきたハシェミアンのハンブルクでの立場は厳しいものであった。ストライカーとしてやってきた彼に課せられたのはサイドでのウインガーとしての役割で、国内で得点を重ねてきた彼にとっては決して受け入れ易いものでは無かった。それでも天性のスピードとドリブル技術でこなしたものの、実力をフルに発揮できぬままマハダヴィキアの古巣で2部へ降格したボーフムへと移籍する。さらにイラン代表としても、海外組にもかかわらず彼に用意されていたのはアリ・ダエイの控えとしてのベンチ席であった。当時マハダヴィキアはブンデスリーガと代表戦の狭間で、そのあまりのオーバーワークの為に椎間板ヘルニアを患っているが、同じようにドイツから召集され出番をまともに与えられないハシェミアンの苦悩に気づく者は少なかった。

そんな折、イラン代表は99年キリンチャレンジ杯の為に来日し、日本代表との試合を行っている。この試合でもダエイやマハダヴィキアが活躍する一方、彼が出場することは無かった。私もこの試合にイラン代表の応援の為に駆けつけ、彼らに声援を送ったのだが、アリ・ダエイやマハダヴィキアは私たちの声援に手を振ってくれたものの、背番号16を背負ったハシェミアンだけはうつむき加減で、まるで声援に応えていなかった事が鮮明に思い出される。その様子は私の写した手元に残る写真を改めて見てもうかがえるほどだ。その後も2000年のアジアカップに召集されるが、彼がサブの域を出ることは無く後半の限られた時間をハンブルク時代と同じように本来のポジションではないサイドで費やすだけであった。この大会で私が覚えているのが、タイ代表との一戦で後半57分にキアと交代で右サイドに入ったハシェミアンが右から一見なげやりなミドルを放った事である。今思うと不動のエースであるダエイの存在が彼をサイドに追いやった事への憤懣がそこに込められていたのではと思わざるを得ない。結局この試合を辛うじてドローに持ち込んだのは皮肉にもアリ・ダエイの豪快なヘッドであった。

そんな彼にストライカーとしての自信を取り戻させたのは、ボーフムでの2部リーグでの厳しい戦いの中でゴールを量産する事であった。21試合で8ゴールを叩き込みチームを昇格に導くと、ボーフムの不動のエースとして一部でも続くシーズンを34試合10得点、さらにイラン人としては最多の32試合16ゴールという偉業を成し遂げる。勿論、この偉業にはかつてのボーフムをヨーロッパの舞台に導き、ヘルタでアリ・ダエイともプレーしたダリウシュ・ボシュッの正確な左足によるサポートも欠かせなかったのだが。こういったドイツでの活躍で自信を取り戻した彼の中で、代表で少ない出番をベンチで待つために帰国することよりも、所属チームでのポジションを失わない事を優先したい気持ちが芽生えるのは、ある意味自然な事だったのかも知れない。同様にマハダヴィキアもインタビューで代表の為に帰国した事で、チームでのポジションを失う事を危惧していたが、それほどドイツでのポジション争いは厳しいと言うことだろう。そして彼はIFFからの代表招集を拒む事になる。

2004シーズン、彼はドイツの最高峰であり、かつてアリ・ダエイの所属したバイエルン・ミュンヘンへと引き抜かれた。そこは代表で越えられなかったダエイの壁を越えるには最適の環境に違いなかった。しかし、結果的に彼がここでゴールをあげることはできなかった。そんな折、イラン代表はホーム、アザディスタジアムでヨルダンに苦杯を喫しワールドカップ一次予選突破すら危ぶまれたままアジアカップを迎えていた。そういった中、彼の代表復帰を期待する国民に対し、メディアにハシェミアンが答えたのは「ドイツの空港で彼らを迎えるつもりだ」という冷たい一言だった。その態度はかつて自分がIFFや監督から受けた代表での冷遇ぶりと代わらぬものだった。そんな彼を説得したのがブランコ・イヴァンコビッチである。奇しくも彼が後に移籍することになるハノーファーでの指揮経験もあるクロアチア人は、ハシェミアンの代表復帰と、フェリドーン・ザンディをチーム・メッリに導くために何度もドイツを訪れていた。W杯出場の為に自らを必要とするブランコの説得は彼らにイラン代表への復帰と選択を決意させる。そして運命のヨルダン戦、ひさしぶりにTMに帰ってきたハシェミアンは終了間際にカゼミアンとのパス交換からダメ押しとなるダエイのヘッドをアシストするなどチームの勝利に貢献。さらに激戦となったカタール戦では2ゴール、そして日本を相手に2ゴールを叩き込み母国をドイツへと導いたのである。彼はバイエルンで失いかけた自信を、ブランコの説得によって復帰した代表で取り戻したのである。そのきっかけをくれたブランコが国民による解任論やメディアの批判に晒される中、「監督を批判し続けるなら私は再び代表を離れるだろう」と真っ先に擁護したのは彼であった。

そして2005シーズン、キャリミと入れ代わるようにバイエルンを去ったハシェミアンはドイツでの4番目のクラブとなるハノーファーへとやってきた。シーズン当初こそ、バイエルンでの実戦不足を露呈しブルダリッチとの2トップの座を若手に脅かされる事もあったが、徐々にチームメイトとの連携を深め、本領を発揮するとスタメンの座をがっちりと手中に収めた。そんな中で、ハンブルクでも、イラン代表でも本来の位置ではないサイドで起用され続け、ボーフムで開花したストライカーが左サイドから切れ込んで決めたこのゴールには彼の特別な想いが込められているに違いない。

ゴール動画





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Last updated  2006.02.10 23:47:42
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