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この道30年 エーススポーツにて購入写真は 湯もみ型付け前私も30年前からショップを利用しております。その時 ローリングスのスパイクと アンダーストッキングとストッキング等々父に連れられて買い物にいった記憶があります。そして、中学からスラッガーを使い出し、エーススポーツにはいつもお世話になっておりました。高校3年から美津濃グラブを使用するようになりましたが、近年はスラッガーを愛用しております。学生時代のグラブは後輩に譲りましたが、大事にとっておけばよかったと少し後悔しております。当時この年齢になって野球を続けているとは夢にも思っていませんでした。できることなら 生涯野球に携わってい(生)きたいものです。
2008.02.27
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鹿児島県高校野球界では伝説となっている 甲子園での一戦1974年全国高校野球 準々決勝 東海大相模VS鹿児島実業 (YouTubu)1974年(昭和49年)鹿児島大会決勝優勝候補は剛腕、堂園喜義の鹿児島商(鹿商→広島カープ)。アンダースローから浮き上がる速球を武器に甲子園に2度出場。堂園の弟が、鹿児島実業に入学していた。兄と同じアンダースローで、堂園対策として、毎日のように、打撃投手をつとめた。甲子園を目指すためとはいえ、兄を倒すための練習台となった気持ちはどうだったのだろうか?定岡「堂園を破らずに甲子園はない」と徹底的に走り込み、ストレートの威力をました。 4回戦で鹿実の正捕手が負傷。これで「組み立てを必死で考えるようになった」と定岡。延長十三回に及んだ準々決勝の鹿児島玉龍戦は被安打1、完封。同校OBは「速球狙いだったが、カーブをうまく使われた」と敗因を語る。 そして鹿商との決勝。定岡が「バックネットが近く、観客の興奮が伝わって気持ちが燃えた」と懐かしみ、堂園が「傾斜が滑らかで投げやすかった」と振り返る県立鴨池野球場のマウンドで両雄が火花を散らす。「2人とも、スラッとした投手らしい体格で際立っていた」。七回 鹿実は無死一、二塁から、送りバントを堂園が三塁へ悪送球した間に先制。さらに犠飛で1点を加え2―0で完封勝利。定岡の胸には「甲子園より堂園に勝った喜び」がこみ上げたという。この試合、鹿実は一丸となって東海大相模戦でも見せたバスター打法で堂園を揺さぶった。「懐かしい、我々もよくバスター打法を練習したものだ。」「選手が(久保克之)監督の作戦を信じ、一心同体で向かってくる強さがあった」と堂園。大一番で開花した全員野球が自信となり、東海大相模との「死闘」につながった。 鹿児島実業のエース、定岡正二。その年の夏の甲子園準々決勝で定岡正二が力投。対するは1年生の原辰徳(現巨人監督)が5番に座る東海大相模(神奈川)。延長十五回、鹿実が5―4で競り勝ち、鹿児島勢初の4強入りを遂げた。 213球を投げ、18三振を奪った定岡。甲子園で見せた底力は、鹿児島でライバルとしのぎを削るなかで培われた。1回戦、2回戦とも「1×0」の完封勝利で勝ち抜き、準々決勝の対戦校は、1年生で3番バッターだった原辰徳を擁する東海大相模。原貢監督との親子鷹としても話題になったチームだ。 後攻の東海大相模が、9回裏、延長14回裏と、2度も同点に追い付く白熱したゲーム展開となり、名勝負と讃えられた。特にこの時の、鹿実のセカンドの選手の起死回生のファインプレーには、「超感動」した。セカンド後方、ライトの手前に上がった、フライをそのセカンドが後ろ向きで飛びついて取った。もし、落球していたら負けていたと思う。 2回戦までの活躍と、スリムな体型、端正な顔立ちで高まりつつあった定岡人気が、この試合で一騎にブレイクし 秋のドラフト会議で、定岡は巨人に1位指名され、さらにその6年後、東海大学の4番打者として活躍した原も巨人に1位指名され入団。二人は巨人の主力選手となり、またもや日本中を熱狂のさせた。http://www.asahi.com/sports/koshien/column/ano_natsu_list_15.html
2008.02.12
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