馬上金山は、水との戦い

国東半島 ゴールドラッシュの歴史

≪   山香町 馬上金山の歴史   ≫

【 鉱山採掘は、地下水との戦い】
  鉱山採掘の歴史は、水との戦いと言っても 過言ではない。

  採掘するのには、まず抗内の排水をしなければならない。
山香町誌 によると 排水に苦労していた事が、下記のように 日出藩資料 の中に出てくる。
カンテラの明かりを頼り に、手押しポンプ (昔はふいごといっていた) を使って排水するのである。

 ※手順は、こうである。
  抗内から、手押しポンプで 上層の第1水槽まで上げる。
  その上げた水を次の上層部の第2水槽まで上げる。またその水を上層へ・・とこの繰り返しである。
  ひとつのポンプに鉱夫が2~3人ずつ付いて 排水作業を半日掛りで繰り返し その後採掘する。
  ・ ・ ・ ・といった事をみると、昔の金山経営は  『水との戦い』 であったといえる。

  採掘場所が、深くなればなるほど 水を汲み上げるだけでも 10丁・20丁もの手押しポンプが  
  必要となり、そのポンプを動かす人力、鉱夫も必要で 排水は 大変な作業であったのだ。

                      (参考文献 山香町誌 第四編 第五章 鉱業 第三節 鶴成金山より)
【排水作業の機械化】
   明治29年 (1896年)  馬上金山の鉱区権 が、 帆足義方 氏 へ移ってからも
  やっぱり 採掘は  『水との戦い』 であり、苦悩は続いていたのである。

   馬上金山は、湧水が多く 幾度となく 採掘を進める上で 苦しめられてきた。
  坑道が深くなるにつれて なおさら 排水に対し、効果的な対策の必要性に迫られる事となる。

  採掘の機械化や揚水機 「 排水ポンプ」 の登場であろうと思われる。

帆足義方 氏 は、福岡県 香月炭坑を 明治12年 (1879年)に開鉱した人物とある。
  麻生セメント含む  麻生グループ (創業者 麻生太吉氏) 『麻生百年史』 の中にも登場する 。
【排水ボイラー (排水ポンプ)  の歴史】

  排水ボイラーについて 『麻生百年史 最初の機械化』 の中に
  非常に興味深い内容が、記されている。

  日本最初の 排水ボイラー (排水ポンプ) の試運転 が施されたのは  明治8年 (1875)の事である。
  この時は、失敗に終わってしまったが、当時の試運転状況を詳しく掲載されている。

詳細は、こちら⇒ 麻生百年史 燃える石「6 最初の機械化」
 炭坑採掘で、一番頭を悩ませていたのが 坑内に出てくる湧水である。
 明治初期までは、この湧水を処理する画期的な排水処理設備もなく、掘り進める事が
 非常に困難を極めていた時代であった。

 そこに登場したのが、 「 排水ボイラー 」 である。 (排水ポンプに蒸気汽缶を取りつけもの)
 明治8年に最初にこの機械の実験が 行われている。これを手がけたのは、 片山逸太 氏 である。

 その実験たるや、大勢の見物客が見守る中で 実験は2日間行われた。
 一日目は失敗、二日目の夕刻、水が少しずつ吹き出し始めたのである。
 しかし、そう長くは続かず、小一時間ほど続けたのち、「シューッ」と音を残し止まってしまった。
 その後、必死にあれこれと動かしてはみたものの、再び動き出す事はなかった。

 その後も、直方炭坑、香月炭坑で実験を繰り返したが、失敗。
 筑豊で 成功の日の目を見たのは、最初の実験から6年目の事である。
長崎の旧大村藩士 杉山徳三郎 氏 によって、目尾坑 (のちに河目尾鉱) で実施した実験であった。
 (杉山氏が長崎でオランダ人などから、学んだ技術が大きな助けとなった) 

 従来の熱量損失を耐火れんがを使用する事で防ぎ、ようやく成功したのである。
明治14年 (1881年)の事、蒸気ポンプによる坑内排水の成功である。
 このように機械化が進むにつれて、炭坑規模を拡大 従来の炭鉱の様相を一新していった。
麻生グループ「麻生百年史」記述より抜粋・要約

※記述掲載・リンクにおいては、麻生グループ殿へ 事前確認をさせて頂いた上で、掲載させて頂いております







© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: