昨日のブログの続きです
大倉孫兵衛が森村から誘われた頃は、出版社大倉書店は隆々たる
発展途上にあるときだった。その繁盛ぶりは、大変なものだったらしく
多くの人の回顧録の中に記されているくらいである
そのような、軌道に乗っている書店を弟と妻に任せ森村の仕事
に参加したのは森村からの商売の趣旨に共鳴したからであった
その趣旨の内容は以下のようなものであった
これからの日本の金を増やすのは日本内地だけの商売では
右の袂(たもと)の物を左の袂(たもと)にいれるようなもので
日本のお金が増えない。
少しでも外国のお金を輸入しなければない
(これは、もとは、森村に福沢諭吉が説いたことばであった)
この言葉に賛同した大倉は森村に入るやいなや
すさまじい働き振りをみせた
彼は馬車馬の如く働くうえに、商品を見る目利きであり
さらに工夫を重ねたり、アイデアを次々出したり
という能力も、ずばぬけていた
が、もっとも彼を象徴する言葉といえば
あきらめない人であったという事かもしれません
ニュウヨークにいる森村の弟の豊からコーヒーカップを作れと
いわれると、それを作ってくれる所を、次々に捜す
どこからも、 何回も断られても、頼みに行くという具合である
その頃の日本はまだコーヒーも知らないし、もち手を茶碗に
つける事を不思議に思われた時代 である
ニュウヨークの豊は、日本にいる兄(森村)や大倉との連携で
大業績をあげたが、45歳の若さでガンの病で亡くなってしまう
このときの、森村の悲嘆は見ていられないほどであったという
豊は初渡米から亡くなるまでの23年間に、太平洋を42回横断している
計算すると太平洋と大陸横断鉄道の車中に
3年半いたことになる。
大倉親子、森村市左衛門のことを書き始めたら、尽きない
ここでひとつ、まとめ上げるとしたら
日米貿易の始まりはノリタケ であった
ということ と
その頃の品が オールドノリタケ と今日呼ばれている ということ です
美男だった大倉親子

身長162センチ体重49キロだったという森村
華奢な体に、ものすごい才覚を秘めていた


パフケース2点
1920年頃

オールドノリタケに魅せられて パート2 2007年11月07日
オールドノリタケに魅せられて 2007年11月06日 コメント(1)