山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2019年03月29日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)

三つ子の魂は百まで」というが、学校で教った歴史は、ジソムスイセイ(神武・綏靖)と暗記ものだったゆえ私でさえ、いまだに頭の中にひっ掛っている。どうしても先人感は強いものである。そこへもってきての、前人未踏の八切史観では、とまどわれるかもと知れぬと案じ、順をおって判りやすく解明してゆく為、前もって予告編みたいにアウトラインを古代史入門の一般的手引きにしておく。
 前書きをしてはやや重複をすこしするが、いきなり、ぶっつけに入ってゆくよりは読みやすい。それに、どうしても古代史に入ってゆくにはタブー視の部落史とは切っても切れぬ問題がある。
 なにしろ西暦六六三年に郭務悰が進駐してきて藤原鎌足と、日本名になり唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の古代史研究」に詳しいが、天孫と称したカクさんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賤にされた。二大別とされた賤とは太平洋沿岸に漂着の八のもの。
 次に裏日本から親潮寒流で能登や新潟へ入ってきたのが、獣の四つ足から、四つとよばれる。源・平・藤・橘と四大分するが、藤は唐でカクさんの一万二千のグループ。橘は、その唐を中国大陸で滅ぼし取って変った契丹系ゆえ、大陸人でもトウでナイゆえ、豪(えら)くみられず彼差別とされる。
 彼らは天神信仰だが、源は元ゆえ白山さま信仰。平は今の。ヘルシアと同じで赤旗をふり祇園、八坂信仰で、宮島も紅殻の赤塗りである。藤は墨染の衣をきた坊主が宣教師で先にきたので、「黒住教」さえ残っていて、藤は唐で黒色。しかし四つの姓別は、最底四種以上の複合民族をさすが、勝てば官軍・負ければ賊で賤、黒の他は、次々と体制の変るたび限定居付部落へと追いこみ。
 部将軍に滅ぼされたものの、ナラ王朝と栄え桓武帝より良となったクダラ系は黄色である。しかしエタ非人と一につしたり、また分類し、エツタ島など海軍にそっくり召し上げられると、「江田島」と恰好良くなるのは、そうしたゲツトーヘ次々と敗戦捕虜が入れられ、混同している為だが、四大別ではなく、太古日本人はエ・ケ・セ・テ・ネが姓の上につく処の「雑色」の人々だろう。
「皮剥ぎも皮細工も四つと呼ばれる騎馬民族。判りやすく言えば白筋の馬方は源氏だが、篭かき川越人足や雲助は平家で八つとよぶ赤筋の拝火宗徒。トウナイは唐無いで契丹系の部落民」と、はっきり種族別が分けられる。喜田貞吉は他国の捕虜とか社会の落伍者ときめつけるが、藤原王朝時代に征伐された日本列島原住民。足利時代は散所奉行が新設されて、南朝に味方した者らの反体制子孫を収容。これは「庶民日本史辞典」「野史辞典」「日本部落史料」で明白にされている。
戦国時代の始めの応仁の乱に、部落の者は山狩りで集められてきて足軽とよばれ楯の代りに、しっ払っさせられ、生き残これたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平になると下こく上(下剋上)は明治維新までのびた。が五代徳川綱吉が韓国済州島系で神仏混合令の法令を下し反仏派の原住民は宗門改めの寺社奉行によって、浄土(上等)でない汚れた下等人だと差別され圧迫された。

 ナポレオソが勲章を発明するまで「賜姓」といって、藤原姓をエゾや反乱軍の純友にも与えた。
 つまり実際、産所は足利幕府散所奉行で、反体制だった南朝方子孫を捕え収容したのが、同じ呼び方ゆえ産所と間違えられて伝わる。山所ともなり山椒太夫や山椒魚ともなる。彼差別の習慣が広まってしまった為でもあるが、喜田貞吉説も産所と文字通りにとって誤っている。
 なにしろ唐語のブシソ(不信)つまり信用できぬ輩とし召使われ、それが武力をもってついに公家を押さえつけ、公家対地下といったのが実力で逆転。下こく上の時代と呼ばれたのが文治革命であったり、戦国時代以降となると、かつては非人とか八部とよばれた蜂須賀小六も阿波の大名となる。傭兵が武力でクーデターを起し主権を奪ったのである。関白の一条兼良は足利末期の藤原系で仏派ゆえ、寺を荒す彼らを悪党と呼んでいる。さて、藤原王朝は天孫民族なりというが、どうもこれは妄説である。
藤原基経に廃帝にされた陽成さまの一族一門が山へ逃げこみ木地師となって山がつになりたまいし事実もあるが、高貴の出で良であると証明したくて、自分らを放遂した藤の姓を勿体ぶって付けている。それゆえ、モの姓を本物と思われてしまい誤られている。
 日本には正しい歴史なんかないのだからと、他国のごとき歴史学博士の称号は不可と明治二八年の博士号設定の時リースに言われたごとく、恰好よく美化されているだけで、何も判っていない。部落とは騎馬民族が日本列島へ渡来時に古代海人族を収容し、藤原時代には良でない人口九割の賤の民をとじこめ、反仏派の北条期には源氏の四つを始め赤系でない者を追いこんだ。
 足利幕府になると今度は逆で、赤系の祗の八つも反体制の南朝方と、橋のない川へ入れられたのが実際の処で、喜田博士は日本部落史研究の第一人者とされているが、何も全然ご存じない。
 まだアイマイモコの喜田史観の間違いだらけよりも、明石書店刊高柳金芳の「江戸時代被差別分層の生活史」の方が正確である。そこから逆にさかのぼってゆけば、九対一ぐらいの割合だった征服者と被征服者の悲劇。つまり吾々の先祖の虐げられてきた真相が判りうるといえる。
 「良いことを言われると、ひとは悪い気がしない」という人情のキビを巧く利用して、なんでも美化してしまい、敗戦民族を「国津神」などとしてしまうからして、それを文字通りで読まされては、喜田先生でも訳けが判らなくなる。仕方がないというか、まあ当り前みたいになっている。
 さて拝火宗で「祗」とよばれる「八つ」は、西南渡来系の日本原住民だし、「四つ」は騎馬民族で東北沿海州から日本海を親潮で流されてきた北方民族であるが、治安維持のため徳川時代には施政方針を「四つ」と「八つ」を交互にくりこんで互いに牽制しあわせて被差別。藤ナイは10世紀流入の契丹系をさす。契丹は唐を滅ぼし取って換った国ゆえ大陸系でも御所からは賎民視されていたのである。だが、太平洋側に黒潮で這い上った「八つ」は八母音の原住民で農耕漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされた。が、「四つ」は沿海州北鮮系で遊牧民族ゆえ、討伐されて捕えられる餌戸。
 石岡の部落にしても、夷岡とよばれショウモンと蔑まれ区別されていたというが契丹系で、天慶の乱とされた時の者らの押しこみ限定地。だが「エの戸、つまり江戸」の以北はみな部落ゆえ、一緒くたにされて被差別され、すこしでも反抗すれば徹底的にこらしめて、オカミの言いなりになる奴隷人民に仕立てしまった。だから藤原王朝の鉄武器による権力はえらいものであった。
「その筋の御達しにより喫煙は」と今も映画館にでている。消防とか警察といった危険を伴う仕事は「千金の子は盗賎に死せず」とか「良い人は兵にならぬ」といった唐の教え通り藤原氏が日本へきても農耕をせぬ洞戸奴隷に施行。なお足利時代に散所奉行が旧南朝方の子孫を部落の散所民にしたのが知られていないから、私の「特殊部落発生史」に順に詳しく書いておいた。

 僧へ絶対に近かよらなかった原住民の全体は、この百倍以上が、実際はいた。今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利鞘をとって売りつけていた名残りである。


 さて大正八年秋に25銭(現在なら五百円)にて出された一号は、最後の六頁が発禁となったと喜田先生は最後だけ削除し、奥付を大正九年一月一日にして四倍に値上刊行し、第六版から二二版まで世に送りだしたのは、金あつめのための作為なのかとも感じられる。なにしろ喜田貞吉博士はモの大正八年には南北朝両統問題でりース直系の三上参次らに睨まれ国定教科書編県官を追われ、やむなく自費で、「民族と歴史」の第一号を出した時の事だから、どうも資金繰りで、発禁も値上げ操作のために、オカミに発禁にして貰った裏取引とも考えられる。日本では歴史屋は真実追及よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向があるみたいゆえである。
 部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ彼差別されて地域的だった。全国的に「解放」の美名で広めたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」。それと、この「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すえの「橋のない川」である。
 せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを、本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人を」作ってきたのである。
「天の古代史研究」の本さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄則部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して、奴隷にして被差別した歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。

 というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名をとった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝された土地。特殊部落とはいえ長史岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンヘいっていた。だが当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康とは松平元康の改名せしなり」という故、山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布。(『松平記』として日本シェル出版四八〇〇円)そこで周辺近郊の者らが、世良田の徳川には、これまで冥が米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地許の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。
 そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集ってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。
 しかし当時の学士会は、華族会の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれの華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理をたて、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、さかのぼった奥付年月にした『松平記』を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019年03月29日 07時39分29秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

お気に入りブログ

楽天ブログ StaffBlog 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

ペリズママ @ Re:山梨県の著名人 秋山源兵衛 秋山山谿 秋山嘉吉(03/30) 秋山椿城さんの話しを亡くなった母からよ…
ゴロンゴロン@ Re:武田信玄はホモの達人だった(09/14) ホモ という言葉は差別的侮蔑的なニュアン…
背番号のないエースG @ Re:関東大震災(06/29) 「福田村事件」に、上記の内容について記…
三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…

フリーページ


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: