旅の途次~ちょっといい景に逢っていきませんか?~

旅の途次~ちょっといい景に逢っていきませんか?~

○妻籠


 ~木曽路徒歩紀行・第10回 妻籠

1997年5月2日

 大妻籠を出てからは、痛みを訴える足との格闘であった。あと一息という気持ちから焦りが出たせいもあったか、はたまた、妻籠に泊まるという、久しぶりのイベント(※1)に浮き足立ってしまったのか、「進め」という意思とは裏腹に、足は全く言うことを聞かなくなっていたのである。

 「そんなに運動不足だったかなぁ」

 などと自問自答してみる。が、痛むのはどうやら「脚」ではなく「足」の裏あたり、特にかかと付近がツライ。通常の疲労によるいたみとはちょっと違う気もする。まぁ、一晩休めば治るだろうと割り切ることにした。

 さて、薄暗くなってきた空に不安を覚えつつ時間を確認すると15:30を回ったばかりだった。東京にいるとたいした時間ではないのだが、こういった「山の中(※2)」にいると、日の落ちるのが本当に早い。懐中電灯を片手に闇の中を行軍するほどモノ好きではないので、少しでも早く一息つきたいものである。しかし、ここで気になるのが宿泊先。実は、今回の旅行では宿の予約を全く入れていないのである。最悪の場合は、近くの駅で野宿するか、「夜行折り返し」の技(※3)を使えばいいが、やはり宿場の風情をかみしめながら布団で眠りたい。いずれにせよ、そういった心配をするのは目的地に着いてからで充分だ。先を急ぐとしよう。

 曲がりくねった自動車道を行く。右手に木曾川の支流にあたる小川の流れが見え隠れしているが、このあたりの川は岩肌が露出した荒々しい大地をすり抜けるように流れている。勇ましいその流れに元気づけられる思いがする。やがて、行く手に巨大な空き地が出現する。妻籠宿を訪れる観光客のための駐車場だ。最早どこぞのアミューズメントパークと何ら変わらないなぁと、少々嘆かわしく思う。こういうところはマイカーで乗り付けるより、バスや鉄道を利用して、のんびりと来てほしいものだと思う。私のように歩けとは言わないので、せめてそれくらいは……と感じてしまう。ひいきの欲目かもしれないが。

 さて、妻籠の入口と言うべきか否かはともかく、とにかく駐車場を過ぎたわけだ。もう付くだろうと思われるだろうが、そうはいかない。ここから宿場の町並みに入るまで数百メートル歩く必要がある。雰囲気を留めるためには、あまり近くに便利なものを設けたくなかったのだろうか。はたまた、単純に土地がなかっただけなのか。私には詳しいことはわからないが、とにかく駐車場から宿場までの道のりが長いのである。橋を渡り、木曾川を今度は左手に見ながら行くうち、一軒、また一軒と木造の古めかしい、そして質素な家屋が見えて来る。やがて道路左側に、多少新しい瓦なげしの大きな塀に囲まれた、茶色系のペンキでゴマかしているものの、あからさまにコンクリートの建物が見えてくる。これが関西電力の変電所。努力は認めるが、かなり違和感がある。ある意味、見処のひとつと言えるかもしれない。ここまで来て、はじめて妻籠に入ったと言っていいだろう。

**/【妻籠】
**/信濃国 筑摩郡
**/宿内人別:418人(男216人、女202人)
**/宿内惣家数:83件(本陣1、脇本陣1、旅籠31)
**/駄賃・賃銭:荷物一駄・乗掛荷人共155文、
**/      軽尻馬1疋101文、人足1人75文
**/※『今昔中山道独案内』に記載の資料
**/ 【『中山道宿村大概帳』(天保14《1843》年頃)】を転載。

 『壬戌紀行』に「妻籠の駅は馬籠とともにひなびたり」とあるように、江戸時代の妻籠はさほど大きな宿駅ではなかったようだが、駄賃・賃銭の類は、すべからく落合のおよそ2倍である。旅籠31という数もさほど少なくはないので、それなりに繁盛はしていたのかもしれない。が、明治に入って中央本線が開通すると、線路は馬籠・妻籠両宿を見捨て、木曾川に沿って左に大きく折れ曲がり、中山道のはるか西側を通ってしまった。合流するのは次の三留野のやや手前からで、峻険な山あいの2宿は完全に時代から取り残されてしまうように過疎化の一途をたどっていったそうである。

 古い家並はそのまま残り、人だけがいなくなっていく。これを逆手にとって、南木曽町が「町並みを保存しよう」と考えたのがきっかけで、昭和43年、長野県がこの企画(?)に賛同、明治百年事業(※4)として妻籠宿保存工事がスタートした。

 「消費は美徳」のこの時代に「保存は全ての開発に優先する」という、当時の考え方に真っ向から挑む大原則をたて、昭和46年『妻籠宿を守る住民憲章』が制定されると、翌47年『妻籠宿保存条例』が制定、町ぐるみで保存活動を行った結果、町並みは見事なまでに復活、ついに昭和51年、国の重要伝統的建造物群保存地区第1号の指定を受けるに至ったのである。

 さて、実際に足を踏み入れてみると、TシャツにGパンという格好はなんとも場違いな感じがする。それこそ時代劇の世界だ。さすがに道路は舗装され、軒先に乗用車が停まっている家もあるにはあるのだが、いわゆる観光地ならではの喧噪がない。どちらかというと、観光客までもがこの宿場の住民に一体化してしまったような印象で、ごく普通の町角で「さざめき」が起こっているという程度なのだ。そして驚くことに空を見上げると電線が1本もない。町並みから外れたところに送電線を通し、各住戸には地下から線を繋いでいるのだろう。見事としか言い様がない。

 ところで、先に触れた『住民憲章』を紐解いてみると、その徹底ぶりは目を見張るものがある。例えば、「旅館・民宿・売店は22:00までに閉店」とか「宿場内の車輌の時速は20km/hまで」など。ほかには「各家庭で使用する石油・ガス類は必要最小限度に留める」「建物の修繕や新・改築に使う色彩は黒か黒褐色」などという決めごとまで設けられている。まぁ、誘惑に弱い人間に、"保存の意志を"固く貫かせるためにはこれくらいでちょうどいいのかもしれない。

 古びた木の薫りと色彩、そして夕暮れの空と建物の影のコントラストを眺めながら町を歩く。土産物屋が多いのは、このご時世では最早仕方がないことだとあきらめる。このあたりは「寺下」と呼ばれる一帯で、妻籠宿の中心部はまだ先にある。江戸の中期に発展した(独案内)せいか、もと旅籠とか長屋とかいった建物が目立つのもこのあたりの特徴だろう。復元家屋が集中している。やがて道路の真ん中に石垣のある、ちょっと広い一角に出た。これが升形である。左に大きく迂回する石畳の道が本来の道「旧道」で、まっすぐショートカットする舗装道路が「新道」である。新旧両道が交差するあたり、右側に『南木曽町役場 妻籠支所』がある。観光案内所を兼ねているので、ここで宿泊の手配をしてもらおう。

 男の一人旅はあまり警戒されないのは世の常か。関所でよく言われる「出女」は、江戸城下に住む大名の妻や娘がひそかに脱走し国許へ向かうのを恐れたからこそ生まれた言葉なのだが、現代でも女性の一人旅は男性の場合と比較してもやはり敬遠されがちだと聞いたことがある。今回、ゴールデンウィークの只中にいきなり飛び込んで「一人で泊まれる宿」を探すのも問題だが、2件目の問合せで見事ヒットしてしまった。宿の名は「下嵯峨屋」といい、升形の「旧道側」にあるという。行ってみると、道路に面した建物には、だだっ広い土間だけがガラーンと口を開けていた(※5)。脇に細い路地がある。矢印のついた木の看板が軒先にぶらさがっており、それによると入口はどうやらその路地の奥らしい。これでやっと痛む足を休めることができる。たかだか1日ぶりのはずなのに妙に懐かしい畳の感触を想像しては待ちきれない思いで引き戸を開いた。

 その晩の御飯は、近くで採れる筍の若芽のお浸しと味噌汁、そして宿のおばあちゃんが裏山で採ってきたという、山菜のてんぷらだった。

 【第11回へ続く】
 【第9回へ戻る】

※1 久しぶりのイベント……私が木曽路を初めて訪れたのは大学4年の冬、1993年2月のことだった。大学のゼミ旅行で塩尻から木曽路に入り、木曽福島の関所跡と資料館を見学、妻籠の民宿「新井筒屋」に宿泊した。翌日は雪の馬籠峠を徒歩で越え、落合宿の先『落合五郎兼行城跡』でバスに乗り中津川へ、といったルートであった。この旅行ではじめて木造の復元家屋に泊まり、囲炉裏を囲んで地酒『七笑』を呑み、江戸時代を満喫した。私の「木曽漬け」は、まさにここから始まったのである。わたしにとって妻籠とは、思い出の宿場なのだ。

※2 山の中……島崎藤村『夜明け前』の書き出し「木曽路はすべて山の中である。」より。

※3「夜行折り返し」の技……高校時代、仲間がよくやっていた荒技。ワイド周遊券などを使っていると便利に使える。宿泊地を発車する夜行列車に乗り込み、途中駅で出発駅に戻る同じ夜行列車に乗り換えて戻ってくるというもの。使い方によってはヘタなビジネスホテルよりも安上がりである。欠点はゆっくり眠れないこと(笑)。木曽路を貫く中央本線には、新大阪発の夜行急行「ちくま」が一往復走っているのだ。ただ、あとで調べてわかったことだが、この列車は下りが名古屋→多治見→木曽福島→塩尻に停車(長野行)、上りが塩尻→木曽福島→名古屋に停車(大阪行)で、乗換は木曽福島でしかできない上に、乗ってしまうと名古屋まで連れていかれてしまうのであった。これでは意味がない。当時の自分の無計画さがうかがえる(爆)

※4 明治百年記念事業……明治元年から数えてちょうど100年目となるこの年、長野県では、県内各地の名物・名所を保存する運動を開始。記憶に間違いがなければ『一駅一名物運動』などもこの中にあったはず。一駅一名物運動の代表は、中央本線上諏訪駅1番線ホームの「露天風呂」だろう。本当に入れる(無料)上に、隣接の売店ではお風呂セット(石鹸とタオルのセット)まで売っている。

※5 土間だけがガラーンと……下嵯峨屋は、もともと長屋であった。その奥半分を民宿としているのである。昭和43年に復元された家屋で、町の文化財に指定されている。


■□その他の読み物□■
 ★伊勢湾一周ツアーを読む★
 ★読んでもかなり無駄な雑学を読む★
 ★とある遭遇(かなり驚いた話)を読む★


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: