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「薩長人にあらざる者は人にあらず。」
藩閥政府の要人は維新の功績により国政を独占し続けていた専制政治の時代だった。
長州出身で吉田松陰に学び、千円札の顔として有名な「伊藤博文」(明治18年(1885)内閣制度を創設、初代総理大臣となった)は、 西郷隆盛(西南戦争)、江藤新平(佐賀の乱)など維新後の参議であった要人を征韓論を利用して排除しているが、近年の調べでは、両者ともに征韓論を唱えてはいなかった事が証明されている。
伊藤博文の藩閥を推進する為の策略であったようだ。また、その後も、自分の意にそぐわない人物は排除、または冷遇していたようだ。
そんな時代であったからこそ、フランス革命の原動力となったルソーなどによる自由民権説が広まりを見せ、専制政府転覆の運動は暫時盛り上がりつつあった。
そう。血の気の多い青年に成長したウメキチは黙ってはいられなかった。
薩長政府が自由民権運動論者に下す弾圧政策に対し「日本を、どげんかせんといかん。」と思ったかどうかは判らないが、知恩院大学館の教授で高松無節という義侠心に強い男に師事する。19歳の時であった。
関西各地の政談演説にでては、藩閥による専制政治を攻撃する弁を振るったとされている。しかし、荒っぽい性格で遂に岡山において警察当局とも衝突して、ご厄介になったようだ。
それを機に、風刺劇により自由民権運動を宣伝する方法を覚え、仲間を集って一座を構えた。自ら之をひきいて乱暴きわまる政治劇を東海道から山陽道に亘って歩いて回っていたようである。
となると、福岡出身で自由民権運動の風刺劇で有名な「川上音二郎」とは10歳ばかり年下となるウメキチ・・・ 影響を受けたのか接触があったのか?記録は残っていないが、同じ時期に自由民権運動の風刺劇一座を構えていたとなると、福岡との縁もあったようだ。