ドキュメント小説 吹雪の如く



職域生協からの出発
 米沢生活協同組合(以後米沢生協と称す)が誕生したのは昭和37年であるが、それより10年前に生協の前身として地区福祉対策協議会(山形県労政課が呼びかけて組織された)があった。生協の在り方や形態などは、その時代その時代によってずいぶん変化している。
 米沢生協も、何度かの変身をとげて今日に到る。
 米沢生協は労信販(業者を斡旋し、手数料をもらっていた)として誕生した。1962年当時の勤労者の暮らしは大変な貧困な暮らしであり、社会的信用はほとんど無いに等しかった。しかし、高度経済成長には米沢地域も例外なく影響を受けてきた。特に「フォード式大量生産、大量消費」である。東京オリンピックを境に白黒テレビや洗濯機の普及宣伝が、労働者にも浸透していく。

りんご


 米沢生協と労働金庫は労働組合員が主なるメンバーであり、労働組合員は生協に加入することで市内の生協契約小売店から月賦で品物が買えたのである。そしてその支払は労金からの借り入れによるものだった。
 しかし、悲しきかな労働組合員と米沢生協提携業者は何度か交流後、生協抜きの直接販売を行ってしまう。そこには労働組合員は存在しても米沢生協組合員は存在しない。だから、米沢生協は出発当時から1975年倒産までの13年間の間に黒字決算は1回しかない。しかも職員は低賃金で定着しない。消費者運動もなければ、事業運営も火の車の毎日だった。
 約3000人いる組織労働者が、出資者、運営者、利用者としても未成熟のまま、一部の事務員を虐げながら12年間にわたり赤字だけを作ってきた。
 しかし、彼等が初めて方針を出した。昭和50年(19975年)秋、一人の生命を代償にした結果…。

つづく

 次回は11月18日に更新予定です。お楽しみに。


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