吹雪の如く 第2回 ひとりの専務理事のこ


 なお、氏名はすべて架空の氏名にさせていただきました。

ひとりの専務理事のこと

 昭和50年(1975年)10月のある日、突然山形県生協連合会の、会長席の卓上電話のべルがけたたましく鳴った。
受話器のむこうの声は、せきこんだ早口で言った。
 「今、米沢から電話があって、多田専務が事務所で倒れ、意識不明のまま舟山病院へ運んだ!」と。
 会長の高橋惣一は、
 「ヱッ!!」と息を呑んだ。
 電話の相手は山形県生協連の常務理事、松田拓氏であった。
 「鶴岡へ電話して、加藤月男君にすぐ来るようにいってくれ!! すぐ行こう」と高橋は電話を切った。
 こうして三人は、古い歴史のある山形県南の福島県との県境に近い城下町、米沢市へとんだ。
 秋晴れの、いかにも東北地方の秋らしい澄みきった天気が天地にみち、空際の東側の奥羽山脈の連峰、西側の越後山脈の山なみをくっきりと浮かせて、裾野の村落のかたまりがすっきりと見渡せる日だった。
 「こんな天地豊饒の秋に、苦しみぬいて倒れたとは!!」との感慨が胸をふさいだ。

 三人とも、永年の多田昭男専務理事の苦闘を知りぬいていただけに、殆んど言葉もなく特急列車から降りたった。

 米沢生協の大町店は、名だたる豪雪地であるこの辺の民家特有の、軒の低い二階屋で、階下が店舖に二階が事務室になっていた。
 店の戸は半開きで、薄暗いために一層みすぼらしく見えた。
 狭く暗い梯子段を上ると、屋根裏部屋同然の天井の低い、採光の悪い畳敷きの部屋が事務所であった。
 「こんなところで……」と、なんともいえない痛烈な悲しさが、胸をふさいだ。

手帳


 その薄暗い片隅に、呆けたようなうつろな眼をして、油気のない蓬髪の佐藤学理事長が影のように坐っていた。
 「お待ちしていました」と彼はポッンといった。
 突然降って湧いたような事態に、どうしていいかわからない。という困惑の情を身一杯に示して。
 「とにかく見舞おう。話はそれからにしよ」と理事長の案内で多田専務が収容された舟山病院へむかった。
 みちみち斉藤理事長は、
 「朝、出勤して間もなく便所で倒れた。昏睡状態のまま病院へ運んだ。病院のベッドで、一時意識を回復すると、この……(と彼は胸のポケットの上を指さした。そして、突然かおを歪めると、ドッと涙が頬をしたたり落ちた)…手帳と、小切手帳を私に渡して、また意識を失い、そのままなのです……」といった。
 米沢生協は、地区労生協のひとつで、昭和30年代の危機はどうにかもちこたえたが、ここに来て、スーパーマーケットとショッピングセンターの挟撃にあって、経営が行きづまっていた。
 県生協連をあげて、再建に奔走している最中のことであった。
 現地米沢生協の理事会は、いったん組合解散を決めたものを、県生協連の理事会が乗りこんで、翻意させたいきさつがあった。
 手帳には、落さねばならない約束手形の支払日と金額が、ギッシリ書き込まれていた。 通帳は労働金庫の預金通帳で、その残高は少なく、到底おとす(手形に表示された額の通貨を手形所持人に渡し、それと引き換えに手形を回収すること)見込みのない手形の金額であった。その心労が、多田昭男専務理事を倒したのだった。

文・田中利一(たなか・としかず)「理事についての小論」より
大正8年、東京都日本橋呉服町に生れる。昭和20年東京都港区赤坂で空襲をうけ山形へ復員。以後山形県において生活協同組合運動・労働運動にかかわる。
1953年/山形県勤労者福祉対策協議会会長、全国労働者共済生活協同組合山形県本部
1960年~1977年度/山形県生活協同組合連合会初代理事長、その後同会顧問

つづく

 次回は11月25日に更新予定です。お楽しみに。


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