相澤嘉久治さんに学ぶ「主体的創造的に生き



 私の半生の中で師と尊敬できる人々のひとりに相澤嘉久治さんがいます。このページでは、私と相澤嘉久治さんとの出会いから今日までの経過を紹介することにしました。私が相澤さんから学んでいる「主体的に創造的に生きること」の記録のひとつになればと書きました。相澤さんには叱られるかもしれませんがどうぞお許しください。 みちのくはじめ

相澤嘉久治プロフィール
相澤嘉久治●
1934年、山形県東村山郡山辺町生まれ。
町立山辺小・中学校卒。
県立山形南高等学校卒、早稲田大学第一文学部中退。
劇団中芸を経て1959年、東京芸術座結成に参加。
東京芸術座文芸部員と『テアトロ』編集部員、『新劇人』編集長とを兼任したのち、1969年同劇団退団。以後フリーの劇作家・放送作家として主に東京地方で仕事をする。
その後、山梨放送、同CAテレビでの専属ライター、番組リーダー、ニュースキャスターを経て1976年、帰郷。地元テレビ局のニュースキャスター、若者向け番組の企画・構成・司会などを務めながら、総合芸術誌月刊『場』を編集・発行、山形を拠点に東北全域を視野に入れた新しい芸術文化運動を起こし始めるが、山形新聞グループの常軌を逸した強烈な妨害により孤立させられ、挫折。その上、NHKを含む県内総てのマスメディアから追放され、放送作家としての道も絶たれる。その体験を基に取材・調査を進めるうちに、山形における諸悪の根源は一資本、というよりも一個人による「マスコミの集中・独占」にあると確信するに至り、その地域マスメディアの独占支配を武器として山形県に君臨する・服部天皇・こと山形新聞・放送社長、山形テレビ相談役の服部敬雄氏批判に踏み切り、「マスコミの集中排除運動」を展開。10年にわたる・死闘・の末、不完全ではあるが服部氏の独占を阻んだエフエム山形とTBS主導のテレビユー山形を開局させて、ついに・開かれた山形・を創ることに成功する。が、「・服部天皇・さ逆らったら生ぎでえがんにぇ」と言われた山形で辛うじて生き残ったものの、その後始末にまた約10年間を要し、2002年の今年4月、新しくゼロからのスタートを切ることとなった。
2002年7月、月刊『素晴らしい山形』を復刊。山形を・日本人の心のふるさと・にしようと訴えつづけている。

戯曲:
「北方の記録」(東京芸術座・京浜協同劇団他上演)
「雨」(民衆劇場他上演)
「若者たち」(山内久氏との共同脚本・青年劇場他上演)
「沖縄の海の底深く」(望月優子と友達上演)
「ベトナムを見ているー沖縄」(東京演劇アンサンブル上演)
「幸先矢」(演劇集団どろんこ・山形演劇研究会・劇団樹氷・フォークグループ驟雨合同公演)
「吹雪(ふき)」(劇団山形上演)
 他
テレビ台本:
「お昼のワイドショウー」(日本テレビ)
「限りなき青春」(日本テレビ)
「遠い道のりを」(山梨放送)
「山梨の祭り」(山梨放送)
「山形の若者たち」(山形テレビ)
 他
著書:
「北越23人衆」(民衆社)
「北方の記録ー相澤嘉久治戯曲集・」(場出版局)
「郷土に生きる」(山形三吉名で・甲陽書房)
「マスコミの集中排除運動の記録」(全5巻・ぐるうぷ場)
  「服部敬雄山形新聞社長・山形放送社長・山形テレビ相談役に問う!?」
  「山形県民に訴える」
  「立ち上がった山形県民」
  「新しい山形の建設は・・・・・・」
  「山形が変わった 一つの時代の終焉」
「草思庵から」(いちい書房)
「そば処山形ーこだわりの店55選」(いちい書房)
「これでいいのか、山形県民!?」(いちい書房)
「続・これでいいのか、山形県民!?」(いちい書房)
 他
相澤嘉久治のホームページ スペースÅ
http://www.space--a.com/



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