第3回 祖母と父


第3回 祖母と父

 私は相澤さんとしばらくの間だが疎遠になった時があった。
 そのことを我が家の祖母はとても気にしていた。それまでは米沢で「相澤嘉久治のにんげん塾」があると、相澤さんは必ず我が家に泊まって祖母の話し相手をしてくれていた。祖母はなかなかハイカラなところがあり、相澤さんの文化的でありながらも気取らない性格が好きだった。また、対等に酒が飲めること(といっても、この頃の祖母は肝臓を痛めて酒は急激に弱くなっていたが)、酒を飲みながら大人の話ができることがとてもうれしかったようだ。
 祖母は、私が結婚後に相澤さんとほとんど連絡を取っていなかったことを心配していた。その理由は…

私の結婚が決まったときに、相澤さんは生き別れになった私の父に面会に出かけている。私の父はひとり娘だった母の養子に入ったが、母が次男を産むときに帝王切開に失敗したために25歳で死去した。その後、父は我が家から除籍した。理由は県庁に勤務していた父が、その勤務地の山形市で愛する人と出会い、再婚をしたからだ。私は祖父母の養子として育てられる。
 相澤さんは結婚という人生の大切な区切りの時だからこそ、父に会ってそれを報告することを薦めた。当時の私はまだ24歳という若さもあり、それほど父に対しての未練も感じておらず、「どうして会わなければならないのですか?お互い自立した人生を尊重して何がいけないのですか?」と生意気な言葉を発して、相澤さんの厚意を不にしてしまった。
 相澤さんはひとり県庁に父を訪ねて、面会をした。県庁の食堂で、相澤さんは父と向き合いながら、私や祖母の近況を報告したという。父は淡々としてそれを聞き、「ばあちゃんはとても料理の上手な方でした」と一言述べたという。その光景に唖然とした相澤さんは「この親子はどうしてこんなに薄情なのだろう。私だけが涙を流して再会を説得しているのに。まるで私はピエロだったよ」と笑いながら私に告げた。私は相澤さんにとても悪いことをしているように思えた。そして父と私が同じ血が流れているために、冷淡な感情で物事を捉えて、相澤さんや周りの人たちに不愉快なおもいをさせているような気がしてならなかった。
「相澤さんごめんなさい」と心で詫びた。

つづく
 次回は12月29日に更新予定です。
 11月24日記

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