第12回 早坂茂三さんの遺言 その5



早坂茂三さんの遺言 5   ふたりの生き方の   「本質とは」


 私と私のご学友の新関寧さんはお湯からあがり、部屋に向かうために玄関口に来ると、玄関傍のホールに相澤嘉久治さんと早坂茂三さんがいました。ふたりは向かい合って椅子に腰掛けていました。

 ふたりは対談直後の疲れもあってか、元気が感じられない表情で私たちに手を挙げてくれました。
「やあ~先ほどは失敬したね」と早坂さんがニコニコ顔で私に挨拶してくださいました。
「よっ、ご学友。元気かい」と相澤さんは新関さんに笑いながら声を掛けました。
「相澤先生、これはどうもです。あっ失礼しました。早坂先生、お久しぶりです。相澤先生のパーティー以来です」と早口でふたりに交互に挨拶を交わす新関さんです。

 新関さんが早坂さんとお会いするのは確か2回目です。前回は数年前に相澤さんを励ますパーティーで、記念講演をしていただいた早坂さんと会場でお話をしているはずです。しかし、プライベートでは今回が初めてでした。

 新関さんは早坂さんに名刺を渡しました。その名刺を見た早坂さんの表情から一瞬ですが笑顔が消えました。名刺には「日中友好協会」と書いてありました。

 早坂さんと新関さんが世間話をしている傍で、相澤さんは私に今日の対談の感想をそっと述べてくれました。
「いや~井上くん、たいへんだったよ。嘉久治さんそれはこうだったろう!!ああだったろう!!!と、僕よりも一生懸命なんだもの。疲れたよ~。早坂さんも相当疲れていると思うよ」とあごを早坂さんに向けて苦笑いする相澤さんでした。

「生まれた時から今日までのふたりの軌跡と活動の検証を、同じ時代背景の中で残していきたい」という相澤さんは数年前からこの対談の案を練っていました。

 私も戦後の日本を作ってきたふたりの生き方に関心を持つようになっていました。特に早坂茂三さんの素顔を知ってからは、あの田中角栄の秘書早坂茂三と、山形のマスコミ集中独占支配の排除に挑んだ相澤嘉久治を結び付けている本質を知りたくなったのでした。
 私には単なる大学時代の先輩後輩の間柄を超えた何かがあると思っています。それだけに今日のおふたりからのお誘いには興味を持って出席しました。

 食事の準備ができたと声を掛けられた私たちは宴会場に向かいました。
早坂さんは私に「新関さんは(お酒は)いけるのかい?」と訊ねてきました。
「いけるなんてもんじゃありません。一晩で相当の酒税を支払っています」と答えると、「はじめさんも相当いけるんですか?」と昼間と同様の質問を受けましたので、「さっぱりです」と手を振って答えました。
「それは非国民だ。あなたはやはり槍専門ですなあ。アハッハッハッ」と冗談で返す早坂さんでした。

つづく

 2004年7月19日記

追記 「素晴らしい山形」の再発見を探求する相澤嘉久治さんのホームページ「スペースA」もあわせてご覧ください。
「スペースA」のトップページへ



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