幼幻記12 母の笑顔





母の笑顔


 幼幻記 12



 私と母との付き合いは3年9ヶ月しかない。
私が胎児で母のお腹の中にいた月日を足したとしてもわずかである。

 昭和32年10月26日、母は私の弟を産むために陣痛と闘っていた。二階の夫婦の部屋に布団が敷かれ、母はそこに寝ていた。

 私は、父と母にはあまりなついていなかった。自分から父と母の傍に行くことはなかった。

 でも、この日はめずらしく自分から二階に寝ている母のもとに、急な階段を昇っていった。手にはスケッチブックとクレヨンを持っていた。

「あーちゃん、だいじょうぶ?」と母に声を掛けた。
 母はにっこりと笑顔を浮べて、
「はじめ、だいじょうぶ!」とはっきりと答えた。

 私はあーちゃんの笑顔を絵に描きたくなった。そして持っていたスケッチブックを取り出し、母の寝ている部屋の西側の部屋に座って、母の顔を描きだした。

 祖母は私がいないことに気付いて、二階に探しにきた。祖母は私が母の傍で大人しく、母の顔を描いていることに驚いたようだ。母の前で泣かないで「大人しくしているはじめ」は初めてだからだった。

 祖母は母と目で挨拶をかわして、そっとこの場を離れていった。

 だんだん暗くなる部屋で、私はいつまでも母の顔を描いていた。その間、母は笑顔でジッと私を見つめていた。

 この夜に母は帰らぬひとになった。

 生まれたばかりの弟も一緒に。帝王切開による事故死だった。

 それは母と私との、最初で最後のふたりだけの時間だった。
 いまもしっかりと覚えているふたりだけの時間だ。

 2005年9月8日記


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