京の高校生歳時記

京の高校生歳時記

文化祭来てね!


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(一)律令体制以前

a.日本と大陸の交流
 有名なものでは57年に北九州にあった奴国が当時の中国の王朝であった後漢に使節を送り、後漢の光武帝から「漢委奴国王」と刻まれた金印を受けとったことや、5世紀ヤマト政権の時代に中国の南朝に遣使した倭の五王などがあり、古くから日本と大陸の交流は盛んでした。

b.渡来人の来朝
5世紀、ヤマト政権の時代になり、国内の統一がなされると、目は大陸・半島に向いていき、鉄資源を確保するために朝鮮半島南端の加耶諸国と密接な関係を結んでいた倭国は朝鮮半島北部の高句麗の南下に対応せざるを得なくなりました。そして、この朝鮮半島の騒乱の中多くの渡来人が海を渡って日本へやってきたのです。これによって様々な技術や文化が日本に伝わってきました。そして、その中でも有名なのはご存知の通り仏教です。

 こうして渡来人の来朝が活発となった中、重要なのは朝鮮半島中南西部の百済から来朝した王仁(わに)という人です。彼は「記紀」によると「千字文」「論語」を献上したといわれていて、また、日本に儒学を伝え、彼の来朝後漢字の使用が始まったとされています。つまりは日本における漢字・儒教の祖とされているということです。

 また、6世紀の初め以降、五経博士も度々来朝しており、学僧や文化人の来朝がさらに活発となりました。


c.聖徳太子の影響
 6世紀末から7世紀初めにかけて活躍した聖徳太子は、遣隋使を派遣しましたがその背景には大陸文化の吸収という目的も存在したと思われます。
彼は経典の解釈書「三経義疏」を著し、これは日本仏教の原点的意味を持つものとなり、憲法十七条も日本で初めて統一的で道徳的価値観を成文化さして提示したものとなり、後の道徳教育・仏教教育に大きな影響を与えています。

法隆寺において学問修行、学僧・修学者の教育にもあたる・法隆寺学問所とも後に呼ばれる


d.初めての官設学校
 「日本書紀」によると、671年に百済から亡命してきた鬼室集斯が学職頭(ふむやつかさのかみ)(学校長官を意味する官職)に任命されたことは、わが国最初の官設学校の創設を意味しているものと考えられます。




(二)律令体制での学校制度

 大宝律令・養老律令は日本で最初の成文化された教育の制度になるのですが、大宝律令の全文は存在せず、注釈書の「令義解」などからでしか知ることができません。
 それによると、中央官僚養成機関として大学寮、医薬関係に携わる人間を養成する典薬寮、天文・暦・漏刻などに携わる陰陽寮、など他にも様々な分野に携わる人間を養成するための組織がありました。また、中央に大学寮をおいたのに対して地方には国学を設置しました。


(大学寮について)

a.学習教科
 当初は2科制でありました。その2科とは儒学科と副教科的要素を持つ数学科。儒学科は後の明経道、数学科は後の算道です。(詳しいことは後述)

ア)儒学科
 この時代主流だった科目で「本科」とも呼ばれていました。簡単に言えば儒教の経典を学ぶ学科です。以下に学習する経典をあげてみます。
(必修)『孝経』『論語』
(選択)
    (大経)『礼記』『春秋左氏伝』
    (中経)『毛詩』『周礼』『儀礼』
    (小経)『周易』『尚書』
 ただ、これらを学習するときに用いる注釈書にも決まりがあり、『周易』は鄭玄(じょうげん)、王弼(おうひつ)の注釈書を用い、尚書は孔安国、鄭玄の注釈書を用いる、といったようなものでした。
 儒教の経典以外にも法律についてや、中国の典籍、中国語の発音なども習っており、習字を習うこともあったという。



イ)数学科
 文字通り数学を学習する学科であり、
『孫子』・『五曹』・『九章』・『海嶋』・『綴術』・『三開重差』・『周髀』・『九司』・『六章』という数学に関する典籍9部から選択して学習する。


b.大学寮の構成員
ア)事務官
 頭(従五位上相当)・助(正六位下相当)・大允(だいじょう)(正七位下相当)・少允(従七位上相当)・大属(だいさかん)(従八位上相当)・少属(従八位下相当)、各1人

イ)教員
 儒学科:博士(従六位下相当)が1人、助教(すけはかせ)(正七位下相当)2人、音博士(従七位下相当)2人、書博士(従七位下相当)二人の計7人
 数学科:算博士(従七位上相当)が2人。

ウ)学生
 儒学科は400人。数学科は30人。

エ)雑用
 雑役に携わる使部20人、直丁2人。

c.学生生活
ア)入学資格
 1.五位以上の子・孫
 2.東西史部(やまとかわちふひとべ)の子
 3.八位以上の子で特に志願する者
 4.国学生で2経を理解し大学に志願する者

 1~3については13~16歳の聡明な者というのが条件であるだけで「聡明」か否かを決定する選抜試験のようなものはなかったようであります。
 ただし4については、式部省の試験を受ける必要があった。


イ)さぁいよいよ入学!
 学生は入学に際して、酒食や布一端(約15.8m、律令体制での官吏の位階の中で最低の少初位の半年にもらえる布は一端、因みに最高位の正一位では100端)を束脩として師に贈ります。(慣例)
 まず科を問わず学生は『孝経』『論語』の中国音による読みを音博士から学び、そして博士・助教の講義を聞いてそれに通熟する必要がありました。


ウ)学生の生活環境・行事(以下の「月」はすべて旧暦です。つまり)
 10日ごとに旬暇、5月には田暇、9月の授衣暇といった休暇があります。因みに当時の官吏の休暇は月に5日でした。ということは学生の方が休みが少なかったわけですね。
 当然、庸・雑徭は免除されますが、釈奠(せきてん)・束脩(そくしゅう)といった大学寮固有の儀礼には必須参加でした。これは将来、官人となったとき様々な行事に参加しないといけないのでそのための予行演習のようなものだと考えられています。しかし、学生は釈奠・束脩の時以外は勉学の妨げになるからといって使役されることはありませんでした。また。学生は学内で
書籍を自由に借覧することができ、食事も支給されますが、音楽や雑戯にふけることはもちろん禁止されていましたが、琴を弾くこと・弓矢を行うことは禁止されておらず、学生のストレス発散のためだったとされています。
 唯一学生が駆り出された行事について。 
 2月と8月には先述の釈奠が行われます。これは簡単に言えば儒教の祖、孔子を祭ることです。ただ、祭りが終わると、2月には学生が博士に向かって経義について質問したり、詩を作り、討論することがありました。8月の方では内論議と呼ばれる、禁裏において経義を学生と博士が討論するものがありました。 


エ)試験について
 学生が受けていた試験についてです。ここでは本科(後の明経道)の学生が受けていた試験について説明します。

 まず、旬試についてです。旬試とは10日ごとの休暇(旬暇)の前日に博士が学生に課すものです。これは「素読」と「講義」の2分野に分かれていました。
 「素読」の試験は、10日以内に、使用する典籍の中の1000文字を読むことができる(つまり1000文字以上学習した?)ようになってはじめて試験をします。内容は、というと使用している典籍の中から1000文字分を抜き出し、その中の1箇所の3文字を隠します。そして、その3文字をしっかりと含んだ上で全て音読することができたら合格です。無理だと罰があったそうです。この試験はその部分の1000文字全てを暗記していないと解けなかったので非常に難しかったようです。ただ、やはりすごい人がいて文選三十巻を全て暗記していた人がいたようです。ここで、「音読」というのは恐らく漢音で読んでいたものと思われます。なぜなら、桓武天皇の治世には(9世紀前後)仏書・儒書ともに読むときに漢音で読んでいたとされているからです。また、後に仏書は呉音、儒書は漢音で読むようになったそうです。
 「講義」については、使用している典籍の中から6000字の中から3箇所の文意を問う問題だったそうです。そして、3箇所中2箇所答えることができたら合格です。それができなかったら罰があったそうです。
 また、ここで書いてきた「罰」では鞭打ちをされることもあったそうです。

 さて、1年の最後つまり7月に歳試と呼ばれるものがありました。そこでは1年の学習内容から文意を問う問題が8題出題されました。
そこで ・8題中6つ以上正解…上第
    ・5つか4つ    …中第
    ・それ以下     …下第                とされました。

  因みに歳試のときには大学では頭・助の中の、国学では国司の中の芸が達者なものが出題して、問い・答え全て口頭で行われていたそうです。

 卒業試験について
 卒業試験は応挙試(課試?)と呼ばれていました。 
 先述の大経と小経のうちから1つずつを選択するか、中経のうちから2つを選択し、二経について理解すれば卒業試験を受けることができます。(勿論、試験には出ませんが、それに加えて必修分野についても理解していないといけません。)内容は、理解した二経から文意を問う問題が10個出題され、8つ以上正解すると合格です。ただし、三経やそれ以上を理解している者は問題数が増やされたそうです。

 因みに数学科の生徒は9つの問いに対して全て正解すればすれば甲、6つだと乙合格となりました。数学科生徒に対する国家試験はなく、この卒業試験に合格すれば、甲合格は大初位上、乙合格は大初位下に叙位されました。

オ)退学について
 大学寮でも度が過ぎた学生には退学処分はありました。条件は以下の通りです。
    1.先述の歳試がで3年連続で下第とされた者。
    2.大学寮に在籍しているのにも関わらず9年までに卒業試験に合格しない者。
    3.1年の出席日数が100日未満の者
 ただし3年連続で下第をとっていても「もう1歩!」と見込まれれば特別に退学が免除されることもあったそうです。それでも31歳以上になると退学となったそうです。


カ)いよいよ就職
 さて、こうして無事に大学寮を卒業した学生達ですがその次は就職しないといけません、そこで、就職先といえば式部省です。しかし、それにも試験がありました、つまり国家試験です。その国家試験には4種類ありました。その4つとは、明経・明法・秀才・進士です。さて、これらについて簡単に説明してみます。ただし、詳しい説明はもう少し後でさせて頂きます。

1)明経の試験
 無論、応挙試と同じく二経と必修科目を理解していないと受験できません。 
 必修分野から3問、選択分野二経から各4問もしくは3問出題されます。何問正解したらどの評価とかあるの?
 評価は「上上」「上中」「上下」「中上」とあり、その下は全て不合格とされました。
 叙位に関しては「上上」「上中」のみで。「上上」獲得者には正八位下、「上中」獲得者は従八位上の位が与えられました。
 また、二経以上を理解しているものは更に高い位に叙されました。

2)明法の試験
 律令に関する問題が10題出題されました。成績が「甲」か「乙」ならば合格でした。
「甲」ならば大初位上、「乙」だと大初位下に叙位されました。
 ただし、この叙位は、数学科の生徒の応挙試合格後の叙位と同じであり、他の学科よりも低いものでした。加えて、大学寮の教官である、算博士・書博士・音博士は博士・助教よりも位階が低いものでした。
これには、奈良時代前後の律令体制の当時の社会では、実務的な「音」「算」「書」や「律令」より教養的な「明経」、儒学の方に重点が置かれていたことを示していると思われます。
そのうえ、当時の法は少し今から見ると変であったそうです。
というのは
《仏像を盗むより(修行を積み悟りを開いた人を指す「仏陀」の次の地位で、全ての衆生を救済しようという大きな慈悲の心を持った修行者を指す)菩薩の像を盗む方が重かったらしいです。しかも、盗んで、像に物を供えたり、大事に扱うと、つまり供養すると、罪が軽くなったそうです。》ということであったそうです。
 また、明法において特徴的なことは明経も紀伝(後述)も中国の書物を学ぶのにも関わらず、明法では日本の書物を扱うということです。

3)進士の試験
 政治の要務について取り扱います。『文選』『爾雅』などの書物が重要な教材だったそうです。
 試験は政治の要務について論文形式で2題出題されます。成績「甲」で従八位下、「乙」で大初位上に叙位されます。

4)秀才の試験
 論文形式の問題が2題出題されました。成績評価は「上上」「上中」「上下」「中下」とあり、あとは不合格でした。成績「上上」ならば正八位上、「上中」は正八位下に叙位されました。
 ただし、この試験は方略試と呼ばれており、言語に絶するほど難しく、200年有余年の間に僅かに65人しか合格しなかったそうです。因みにのその合格者の中の一人に菅原道真が含まれています。



(三)平安期までにおける大学寮の変遷
 蔭位の制に絡めて考察も入れる

















(四)国学について
(五)私学の誕生



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