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秋晴れの快晴の日が続きます。京都は、朝最低気温10.3度でした。
本日は、一昨日の三十三間堂の直ぐ側にある、豊臣秀吉に関係する
遺跡をご紹介します。
秀吉が三十三間堂にも関わっていたことは、「通し矢の禁止令」の
古文書で明らかで、方広寺には、権威誇張のため、奈良の大仏さん
より大きいものを建てましたが地震で壊れました。そして死後近くの
阿弥陀が峰の高き場所に遺言で葬られました。
あの天下人でありながら、辛うじて、墓はあっても、秀吉独自の
菩提寺がないことに、気付きます。
明日は、身内の豊臣秀次の菩提寺「瑞泉寺」をご紹介します。
京都駅から、七条通りを東へ、「七条大橋」西詰めから、車を
停めて「東山三十六峰」を眺めやりますと、頭を南に大きい
お腹をつきだして、脚を伸ばす姿が、正に人が寝ている姿
にも見えます。
「布団着て寝たる姿や東山」 服部嵐雪
布団着て寝たる姿や東山
豊国廟の500段石段下正面
この阿弥陀が峰頂上に
豊臣秀吉が眠っています
頭が豊国廟のある太閤秀吉の墓で、「吾が屍を都の見下せる
場所に葬れ」と言うことで「阿弥陀が峰」の頂上に置かれています。
石段500余段有り、脚がわらってしまうほどです。石垣に包まれた
五輪塔の石碑があるのみでした。
寧々夫人は、脚元の「高台寺峰」に、「旦那が高い所ならば、
わたしは地中深く掘り下げたところに」と謙虚に高台寺に眠って
います。お腹は、「清水峰」で、東山区では、代表的な【清水寺】
が有ります。
豊国神社(とよくにじんじゃ)
伏見城から移築国宝唐門
豊国神社前
【豊国神社】(とよくにじんじゃ) 太閤秀吉を祭神として祀られて
居ます。徳川家康により焼き払われましたが、 明治時代に 再建され、
拝殿は伏見城の遺構を持ってきています。
徳川家康は秀吉なきとあと支配し、豊臣秀頼に命じて財産を使わすため
精銅の大仏さんを建てさせさせました。
この大仏さんも寛永の大地震で倒壊、「寛永通宝」に化しました。
落慶法要のときに、釣鐘の銘に家康は因縁を付けました。
方広寺の釣鐘
白塗りの部分に 「国家安康・君臣豊楽」 の銘が書かれています。
【方広寺】釣鐘に有名な「国家安康・君臣豊楽」 の銘があり、
徳川家康の曲解で「大阪城冬・夏の陣」と豊臣家は滅びてしまい
ました。
家康の名を安の字で分断・豊臣が栄えるの意。
方広寺の岩だけ当時のまま残っています。
耳塚供養塔
【耳塚】「豊国神社」の前の道の側にあり、秀吉が韓国に野望を
広げて攻め入り、韓国の罪無きひとびとの耳や鼻を船で日本に
持ち帰り、その数で論功功賞を図った惨い仕打ちに、目を覆い
たくなるのですが、その被害の霊に対して「供養塔」が建てられて
います。「瑞泉寺」での、豊臣秀次一党身内でも痕跡無くなるまでの
自己防衛の
仕打ちと重ね、歴史上真意は如何に。
一方神にまで奉じられている現実、太閤贔屓の方も多いで
しょうが、その蔭も京都には遺されて居ます。人間の神格化。
野望に残忍な犠牲そして、釣鐘によっての大阪城の滅び。
因果報応が、この一画に集められた異様な場所でもあります。