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2014.01.28
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カテゴリ: カテゴリ未分類

元は天台宗のお寺の境内が、後白河上皇の院政に移り

鎌倉幕府で武家政治と変わり、豊臣・徳川の支配下になりました。

秀吉が三十三間堂にも関わっていたことは、「通し矢の禁止令」の

古文書で明らかで、方広寺には、権威誇張のため、奈良の大仏さん

より大きいものを建てましたが地震で壊れました。再建しても火災にも

会って今は存在しません。

京の童歌 

「京の、京の大仏つぁんは天火で焼けてなあ。三十三間堂は

焼け残った。ありゃどんどんどん、こりゃどんどんどん。うしろの正

面にどなた。お猿きゃっ、きゃっ、きゃっ。」

そして死後近くの阿弥陀が峰の高き場所に遺言で葬られました。

 あの天下人でありながら、辛うじて、墓はあっても、秀吉独自の

菩提寺がないことに、気付きます。

 三十三間堂から

「東山三十六峰」を眺めやりますと、頭を南に大きい

お腹をつきだして、脚を伸ばす姿が、正に人が寝ている姿

にも見えます。

 「布団着て寝たる姿や東山」 服部嵐雪

P1030275.jpg

布団着て寝たる姿や東山

右方が頭で左が伸ばした足にみえます

P1000468.jpg

豊国廟の500段石段下正面

この阿弥陀が峰頂上に

豊臣秀吉が眠っています

 頭が豊国廟のある太閤秀吉の墓で、「吾が屍を都の見下せる

場所に葬れ」と言うことで「阿弥陀が峰」の頂上に置かれています。

石段500余段有り、脚がわらってしまうほどです。石垣に包まれた

五輪塔の石碑があるのみでした。

 ねね夫人は、脚元の「高台寺峰」に、「旦那が高い所ならば、

わたしは地中深く掘り下げたところに」と謙虚に高台寺に眠って

います。お腹は、「清水峰」で、東山区では、代表的な【清水寺】

が有ります。

P1000467.jpg

豊国廟 京都市立札

豊国廟

豊臣秀吉のの廟所である。 慶長三年(1598)八月十八日秀吉は

齢六十三歳を以って伏見城にて葬じた。

遺体は遺命により阿弥陀ヶ峰中腹に葬れ、

墳上には詞病、山麓には社殿が建立された。

翌年四月十八日遷宮が行われ、

後陽成天皇 から  正一位豊国大明神 の 神階と神号を賜り

以後毎年盛大な祭礼(奉告祭)がとりおこなわれた。

しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され、

墳墓に弔する人もなく、空しく風雨にさらされいた。

明治三十年(1897)秀吉三百年忌に際し、

廟宇が再建され、墳上には 巨大な五輪塔が建てられた。

なお、社殿は 明治十三年(1880)旧方広寺大仏殿の地に

豊国神社として再建されている。

                              京都市

P1000473.jpg

豊国神社(とよくにじんじゃ)

伏見城から移築国宝唐門

P1000472.jpg

豊国神社前


【豊国神社】  (とよくにじんじゃ) 太閤秀吉を祭神として祀られて

居ます。徳川家康により焼き払われましたが、明治時代に再建され、

拝殿は伏見城の遺構を持ってきています。

徳川家康は秀吉なきあと支配し、豊臣秀頼に命じて財産を使わすため

青銅の大仏さんを建てさせさせました。

この大仏さんも寛永の大地震で倒壊、「寛永通宝」に化しました。

落慶法要のときに、釣鐘の銘に家康は因縁を付けました。

P1000474.jpg

方広寺の釣鐘

白塗りの部分に「国家安康・君臣豊楽」の銘が書かれています。


【方広寺】  釣鐘に有名な 「国家安康・君臣豊楽」  の銘があり、

徳川家康の曲解で「大阪城冬・夏の陣」と豊臣家は滅びてしまい

ました。

 家康の名を安の字で分断・豊臣が栄えるの意。

P1000475.jpg

方広寺の岩だけ当時のまま残っています。

P1000470.jpg

耳塚供養塔


【耳塚】  「豊国神社」の前の道の側にあり、秀吉が韓国に野望を

広げて攻め入り、韓国の罪無きひとびとの耳や鼻を船で日本に

持ち帰り、その数で論功功賞を図った惨い仕打ちに、目を覆い

たくなるのですが、その被害の霊に対して「供養塔」が建てられて

います。「瑞泉寺」での、豊臣秀次一党身内でも痕跡無くなるまでの

自己防衛の仕打ちと重ね、歴史上真意は如何に。

一方神にまで奉じられている現実、太閤贔屓の方も多いで

しょうが、その蔭も京都には遺されて居ます。人間の神格化。

野望に残忍な犠牲そして、釣鐘によっての大阪城の滅び。

因果報応が、この一画に集められた異様な場所でもあります。

文責もあり 京都市の立札を追記しました。

明日は、その悲劇【瑞泉寺】(ずいせんじ)をご紹介します。






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Last updated  2014.01.28 07:05:02
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