元MONOZUKIマスターの独白

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第三篇第二十章第九節~


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 ところが、アダム・スミスはあのようなとりとめのない説(ドグマ)を立てているのであって、彼のこの説は、今日に至るまで、社会的生産物価値の全体が収入すなわち労賃・プラス・剰余価値に、または彼の言葉でいえば労賃・プラス・利潤(利子)・プラス・地代に分解する、というすでに述べた形で信奉されているだけではなく、もっと通俗的な形でも、すなわち、消費者は結局は、(ultimately)全生産物価値を生産者に支払わなければならないという形でも、信奉されているのである。これは、今日に至るまで、いわゆる経済学の最も広く承認されたきまり文句またはむしろ永久的真理の一つなのである。

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 年間生産物価値の全体が結局は消費者によって支払われなければならないという文句が正しいのは、ただ、消費者のうちに個人的消費者と生産的消費者という二つのまったく違った種類を含める場合だけであろう。ところが、生産物の一部分は生産的に消費されなければならないということの意味は、それは資本として機能しなければならず収入として消費されることはできないということ以外の何事でもないのである。

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 ここでもまた、アダム・スミスがひき起こした害毒が見られる。というのは、不変資本と可変資本との区別が彼の場合には固定資本と流動資本との区別とごちゃまぜになっているからであり、ラムジの不変資本は労働手段から成っており、彼の流動資本は生活手段から成っている。どちらも、与えられた価値をもった商品である。剰余価値を生産することができないことは、どちらも同じことである。

  第十節 資本と収入 可変資本と労賃
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・・・・・商品買い手として、自分の労賃の支出によって、また買った商品の消費によって、労働者は、自分が売ることのできる唯一の商品である労働力を維持し、再生産する。すなわち、この労働力を買うときに資本家が前貸しした貨幣がその資本家の手に帰ってくるように、労働力も、この貨幣に転換できる商品として、労働市場に帰ってくるのである。その結果としては、ここでは特に1000
1vについては、次のようになる。資本家1の側には貨幣での1000v――これにたいして、労働者1の側には1000価値ある労働力があり、したがって、全生産過程1がまた新たに始まることができる。これが転換過程の一方の結果である。
 他方、労働者1の労賃の支出は、1000cだけの消費手段を2から引きあげ、こうしてそれを商品形態から貨幣形態に転化させた。2は、1から商品=1000vを買うことによって、その消費手段をこの貨幣形態から2の不変資本の現物形態に再転化させ、これによって1にはその可変資本価値が再び貨幣形態で還流する。
 可変資本1は三つの転化を行なうのであるが、これらの転化は年間生産物の転換では全然現われないか、または暗示的に現われるだけである。
 (1) 第一の形態。すなわち貨幣での10001vであって、この貨幣が同じ価値額の労働力に転換される。この転換そのものは1と2とのあいだの商品交換には現われないが、その結果は、労働者階級1が1000の貨幣を携えて商品販売者2に相対するということのうちに現われるのであって、これは、ちょうど、労働者階級2が500の貨幣を携えて商品形態での5002vの商品販売者に相対するのと同じことである。
 (2) 第二の形態。可変資本が現実に変化し、可変資本として機能する唯一の形態。そこでは価値創造力が、それと交換された与えられた価値に代わって現われるのであって、この形態はただわれわれの背後にある生産過程だけに属するのである。
 (3) 第三の形態。この形態では可変資本は生産過程の結果のなかに自分を可変資本として実+証したのであって、この形態は、年間生産物であり、したがって1では1000v+1000m=20001(v+m)である。可変資本の元の価値=貨幣での1000に代わって、その二倍の価値=商品での2000が現われた。したがって、商品での可変資本価値=1000は、生産資本の要素としての可変資本によってつくりだされた価値生産物の半分でしかない。商品での10001vは、総資本1によって最初に1000vの貨幣として前貸しされて可変資本として予定された部分の正確な等価である。とはいえ、それは、商品形態にあっては、ただ潜勢的な貨幣でしかなく(それが現実に貨幣になるのはそれが売れてからである)、したがって、直接に可変的な貨幣資本ではなおさらない。それがついにこのような貨幣資本になるのは、商品10001vが2cに売られることによってであり、やがて労働力が、買える商品として、1000vの貨幣が転換できる材料として、再現することによってである。
 すべてこれらの転換が行なわれるあいだ、資本家1はいつでも可変資本を自分の手のなかにもっている。(1)最初は貨幣資本として。(2)次には自分の生産資本の要素として。(3)そのあとでは自分の商品資本の価値部分として、すなわち商品価値として。(4)最後に再び貨幣として、であって、この貨幣には労働力が、すなわちこの貨幣が転換できる労働力が、再び相対するのである。労働過程の進行中は、資本家は可変資本を、活動しつつある、価値を創造しつつある労働力として、しかし与えられた大きさの価値としてではなく、自分の手のなかにもっている。とはいえ、資本家は、労働者の力がすでに長短の一定時間働いてからはじめて労働者に支払うのが常だから、彼は、この力によってつくりだされたそれ自身の補填価値・プラス・剰余価値をも、すでに、彼が労働者に支払う前から、自分の手にもっているのである。
 可変資本はいつでもなんらかの形態で資本家の手のなかにあるのだから、それがだれかにとっての収入に転換されるとはけっして言うことができないのである。商品での10001vは、むしろ2に売られることによって貨幣に転換されるのであって、この2のためにそれは2の不変資本の半分を現物で補填するのである。

  第十一節 固定資本の補填
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・・・・・建物や機械などのような固定要素の寿命が尽きてもはや生産過程で機能することができなくなれば、その価値は、その固定要素とは別に、完全に貨幣で補填されて存在する――つまり、貨幣沈殿の総額として、すなわち、固定資本からその助けによって生産された商品にだんだん移されて行って商品の販売によって貨幣形態に移った価値の総額として、存在する。次に、この貨幣は、固定資本(またはその諸要素、というのは、そのいろいろな要素はそれぞれ寿命が違っているからである)を現物で補填するために、したがって生産資本のこの成分を現実に更新するために、役だつ。つまり、この貨幣は、不変資本価値の一部分の、その固定部分の、貨幣形態なのである。だから、この貨幣蓄蔵は、それ自身、資本主義的再生産過程の一つの要素なのである。すなわち、固定資本の寿命が終わり、したがってそれが全価値を生産された商品に引き渡してしまって、新たに現物で補填されなければならなくなるときまでの、固定資本またはその個々の要素の価値の再生産であり、積み立て――貨幣形態での――である。しかし、この貨幣は、固定資本の死んだ諸要素を補填するためにその新たな諸要素に再転化させられるときに、はじめてその蓄蔵貨幣形態を失うのであり、したがって、そのときはじめて再び能動的に、流通によって媒介される資本の再生産過程にはいって行くのである。

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 もし再生産の資本主義的形態が廃止されてしまうならば、事柄は次のことに帰着する。すなわち、固定資本(ここでは消費手段の生産で機能しているそれ)のうちのすでに死にかかっていて現物で補填されなければならない部分の大きさは、くる年ごとに変わってくるということである。もしこの部分がある年に非常に大きい(人間の場合でいえば平均死亡率を越えて)ならば、次の年にはおそらくそれだけ小さくなるであろう。それだからといって、消費手段の年間生産のために必要な原料や半製品や補助材料の量は――その他の事情を不変と前提すれば――減りはしない。だから、生産手段の総生産は、一方の場合には増加し、他方の場合には減少することにならざるをえないであろう。このことから救われるためには、継続的な相対的過剰生産によるよりほかはない。すなわち、一方では固定資本が直接に必要であるよりもいくらか多く生産されることによって。他方では、そしてことに、年間の直接必要量を超過する原料などの在庫によって(特に生活手段についてはそう言える)。この種の過剰生産は、社会がそれ自身の再生産の対象的手段を調整するのと同じことである。ところが、資本主義社会のなかではそれは一つの無政府的な要素なのである。
 固定資本についてのこの例解は――再生産の規模が不変な場合には――適切である。固定資本と流動資本との生産における不均衡は、恐慌を説明するために経済学者たちが愛用する論拠の一つである。このような不均衡は、固定資本がただ維持されるだけの場合にも起こりうるし、また起こらざるをえないということ――これは彼らには耳新しいことなのである。すなわち、それは、観念的な正常生産を前提する場合にも、すなわちすでに機能している社会的資本の単純再生産の場合にも、生じうるし、また生ぜざるをえない、ということである。

  第十二節 貨幣材料の再生産
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 これまでは一つの契機がまったく考慮されていなかった。すなわち、金銀の年間再生産がそれである。単なる奢侈品や鍍金などの材料としては、ここで特にそれについて述べる必要がないことは、どれかほかの生産物についてその必要がないのと同じことであろう。ところが、金銀は、貨幣材料として、したがってまた潜勢的な貨幣として、重要な役割を演ずる。貨幣材料としてはここでは簡単にするためにただ金だけを取ってみよう。・・・・・
 資本主義的生産の優勢な諸国のうちでは、アメリカ合衆国だけが金銀生産国である。ヨーロッパの資本主義諸国はその金のほとんど全部とその銀の非常に大きな部分とをオーストラリア、アメリカ合衆国、メキシコ、南アフリカ、ロシアから受け取っている。
 しかし、われわれが今その年間再生産を分析している資本主義的生産の国に移して見ることにする。そして、それは次の理由からである。
 資本主義的生産はおよそ外国貿易なしには存在しない。しかし、ある一定の規模での正常な年間再生産が想定されるならば、それと同時に次のことも想定されていることになる。すなわち、外国貿易はただ国内生産物を使用形態や現物形態の違う物品と取り替えるだけで、価値の割合には影響を及ぼさないということ、したがってまた生産手段と消費手段という二つの部類が互いに取り替えられる価値の割合にも、またこれらの部類のそれぞれの生産物の価値が分解できる不変資本と可変資本と剰余価値との割合にも、影響を及ぼさないということがそれである。だから、一年間に再生産される生産物価値を分析するときに外国貿易を引き入れることは、ただ混乱を招く恐れがあるだけで、問題やその解決のなんらかの新たな契機を提供するものではないのである。だから、外国貿易はまったく捨象されなければならないのであって、ここでは金も年間再生産の直接的要素として取り扱われるべきで、交換によって外から輸入される商品要素として取り扱われるべきではないのである。
 金の生産は金属生産一般と同じく部門1に属する。すなわち生産手段の生産を包括する部類に属する。年間の金生産を30と仮定しよう(便宜上そうするのであって、実際には、われわれの表式の数字に比べてはるかに課題である)。この価値は20c+5v+5mに分解できるものとする。20cは、1cの他の要素と交換されるべきもので、このことはもっとあとで考察されることになるが、5v+5m(1)は、2cの諸要素すなわち消費手段と交換されるべきものである。
 5vについて言えば、どの産金業もまず労働力を買うことから仕事を始める。自分で生産した金でではなく、現に国内にある貨幣の一部分でそれを始める。労働者たちはこの5vで2から消費手段を買い、2はまたこの貨幣で1から生産手段を買う。仮りに、2が1から2だけの金を商品材料など(2の不変資本の成分)として買うとすれば、2vは金生産者1に貨幣で帰ってくるが、この貨幣はその前からすでに流通にはいっていたものである。もし2がそれよりほかには1から材料を買わなければ、1は自分の貨幣として流通に投ずることによって2から買う。金はどんな商品でも買うことができるからである。違う点は、ただ、ここでは1が売り手として現われないでただ買い手としてのみ現われるということだけである。1の産金業者は自分の商品をいつでも売りさばくことができるのであり、彼らの商品はつねに直接に交換可能な形態にあるのである。
 ある紡績業者が5vを自分の労働者たちに支払い、そのかわりに労働者たちは――剰余価値は別として――紡糸を生産物=5として彼に提供するものと仮定しよう。労働者たちはこの5で2cから買い、2cは貨幣での5で1から糸を買い、こうして5vが貨幣で紡績業者に還流する。ところが、ここで想定した場合には、1g(金生産者をこう呼ぶことにしよう)は5vを自分の労働者たちにその前からすでに流通していた貨幣で前貸しする。労働者たちはこの貨幣を生活手段に支出する。しかし、この貨幣は5のうち2だけが2から1gに帰ってくる。しかし、1gは、あの紡績業者とまったく同じように、再生産過程をまた新たに始めることができる。なぜならば、1gの労働者は金で5を1gに供給し、1gはそのうち2を売って3を金でもっており、したがって、ただそれを鋳貨にするか銀行券に換えるかしさえすれば、直接に、つまりそれ以上に2の媒介によることなしに、1gの全可変資本が再び貨幣形態で1gの手にあるわけだからである。
 しかし、すでにこの年間再生産の最初の過程でも、現実的または可能的に流通に属する貨幣量に一つの変化が起きている。われわれの仮定では、2cは2v(1g)を材料として買い、3は1gによってやはり可変資本の貨幣形態として2のなかで投下されている。したがって、新たな金生産によって供給された貨幣量のうちから、3は2のなかにとどまっていて、1に還流していない。前提によれば2は金材料にたいする自分の需要をすでにみたしている。3は蓄蔵金として2の手にとどまっている。この3は2の不変資本の要素になることはできないのだから、さらにまた、摩滅要素を別とすれば、2cの一部分と交換されたこの追加の3gは、2cのなかではなんの機能を果たす必要もなく(それは、ただ、2c(1)が2c(2)よりも小さいという偶然の場合にそれだけ摩滅要素を補充するのに役立つことができるだけであろう)、しかも他方、ちょうど摩滅要素だけを別として、全商品生産物2cが生産手段1(v+m)と交換されなければならないのだから、――そういうわけだから、この貨幣は全部2cから2mに、いまこの2mが必要生活手段として存在するか奢侈手段として存在するかにかかかわらず、移されなければならないのであって、そのかわりにそれに相当する商品価値が2mから2cに移されなければならないのである。結果は剰余価値の一部分が蓄蔵貨幣として積み立てられるということである。

  第十三節 デステュット・ド・トラシの再生産論
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 つまり、資本家がもうけるのは、第一に、剰余価値のうち自分の個人的消費にあてる部分、すなわち収入として消費する部分の転換において彼らがみな互いにもうけ合うことによってである。つまり、もし彼らの剰余価値または利潤のこの部分が400ポンドならば、400ポンドの分有者たちがそれぞれ自分の持ち分を25%だけ不当に高く他人に売ることによって、この400ポンドは500ポンドになるのである。みなが同じことをするのだから、結果は、彼らが互いに正当な価値どおりに売り合うのと同じことである。ただ、彼らが400ポンドの商品価値を流通させるのに500ポンドの貨幣量を必要とするだけであって、これは、富を増すよりもむしろ貧しさを増す方法であるように見える。というのは、彼らは自分たちの総財産の大きな一部分を流通手段という無益な形で不生産的に保存しなければならないからである。このようなことの帰着するところは、資本家階級は、自分の商品の価格の全面的な名目的引き上げにもかかわらず、自分たちの個人的消費のために互いに分け合うものとしては400ポンドの価値の商品しかもっていないということであり、しかも、500ポンドの商品価値を流通させるために必要な貨幣量で400ポンドの商品価値を流通させながら互いにそれで満足し合っているということである。

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 資本家が労働者に賃金を前貸ししたときの形態である貨幣資本が資本家の手に還流するということは、デステュット氏によれば、このような資本家の致富の第二の源泉をなすのである。
 つまり、資本家階級がたとえば100ポンドを労働者たちに賃金として支払い、次に同じ労働者たちが同じ資本家階級から同じ100ポンドの価値の商品を買い、こうして、資本家が労働者の買い手として前貸しした100ポンドという金額が、労働者に100ポンドの商品を売ることによって資本家の手に還流すれば、それによって資本家はもうけるのだ、というのである。常識の立場から見れば、この手続きによって、資本家は、自分がこの手続きの前から持っていた100ポンドを再びもつことになるように見える。この手続きが始まるとき彼らは100ポンドの貨幣をもっており、この100ポンドで彼らは労働力を買う。買われた労働は、この100ポンドのかわりに、ある価値の商品を生産するが、この価値はわれわれがこれまで知っているかぎりでは100ポンドである。100ポンドの商品を労働者に売ることによって、資本家は100ポンドの貨幣を取り返す。こうして、資本家は再び100ポンドの貨幣をもっており、また労働者たちは彼ら自身が生産した100ポンドの商品をもっている。そのさいいったいどうして資本家がもうけることになるのかは、いっこうにわからない。もし100ポンドの貨幣が資本家の手に還流しなければ、彼らは、まず第一に労働者にその労働の対価として100ポンドの貨幣を支払い、そして第二にこの労働の生産物である100ポンド分の消費手段をただで労働者にやらなければならないということになるであろう。だから、この還流で説明がつくのは、せいぜい、なぜ資本家がこの操作によってより貧しくならなかったのかということだけで、けっして、なぜ資本家がそれによってより豊かになるのか、ではないでだろう。・・・・・
 つまり、資本家は労働者に100ポンドの賃金を支払い、それから労働者に彼ら自身の生産物を120ポンドで売り、こうして彼らの手には100ポンドが還流するだけではなく、そのうえに20ポンドもうかるというわけか?これは不可能である。労働者たちは、ただ自分たちが労賃の形で受け取った貨幣で支払うことができるだけである。もし彼らが資本家から100ポンドの賃金を受け取るとすれば、彼は100ポンドだけ買うことができるだけで、120ポンドだけ買うことはできない。だから、このやり方ではうまく行かないだろう。・・・・・だから、もし資本家階級が労働者たちに80ポンドを支払うとすれば、前者は後者に80ポンドの商品価値をこの80ポンドと引き換えに引き渡さなければならないのであって、80ポンドの還流は資本家階級の富を増すものではない。もし資本家階級が労働者に貨幣で100ポンドを支払い、そして彼らに80ポンドの商品価値を100ポンドで売るとすれば、資本家階級は彼らに彼らの正常な賃金よりも25%だけ多く貨幣で支払ったのであり、そのかわりに商品では25%だけ少なく彼らに引き渡すわけである。
 言い換えれば、資本家階級一般が自分の利潤を引き出す財源は、正常な労賃からの引き去りによって、労働力にその価値よりも安く支払うことによって、すなわち賃金労働者としての労働力の正常な再生産に必要な生活手段の価値よりも安く支払うことによって、形成されることになるであろう。だから、デステュットによれば当然支払われるべきだという正常な労賃が支払われるとすれば、利潤の財源は、産業資本家にとっても不労資本家にとっても存在しないことになるであろう。・・・・・
 だから、賃金削減の場合にも、資本家のもうけは、彼らはまず労働者に貨幣で100ポンドを支払っておいて次にこの100ポンドの貨幣と引き換えに商品で80ポンドを引き渡すということ――つまり事実上は80ポンドの商品を100ポンドという25%だけ大きすぎる貨幣額によって流通させるということ――から出てくるのではなく、資本家が労働者の生産物のうちから、剰余価値を――生産物のうち剰余価値を表わす部分――のほかに、さらに、労賃の形で労働者のものになるべき生産物部分の25%をも自分のものにするということはら出てくるのである。デステュットが事態を考えているようなばかげたやり方では、資本家階級は絶対になにももうけはしないであろう。

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 こういうわけで、当面の問題にとっては、不労資本家と彼らが直接に使用する賃金労働者との間での100ポンドの分割をなんらかの仕方で持ちこむということも、明らかにまったく余計なことである。事柄は簡単である。彼らの地代や利子、要するに剰余価値=200ポンドのうちから彼らのものになる分けまえは、産業資本家から100ポンドの貨幣で彼らに支払われる。この100ポンドで彼らは直接または間接に産業資本家から消費手段を買う。つまり、彼らは100ポンドの貨幣を産業資本家に払いもどして100ポンド分の消費手段を産業資本家から引き出すのである。
 こうして、産業資本家から不労資本家に支払われた100ポンドの貨幣の還流は行なわれた。この貨幣還流は、デステュットが妄信しているように、産業資本家にとって致富手段なのであろうか?取引の前から彼らは200ポンドという価値額をもっていた。貨幣での100ポンドと消費手段での100ポンドとを。取引のあとでは彼らは最初の価値額の半分しかもっていない。彼らは再び貨幣で100ポンドをもっているが、消費手段での100ポンドを彼らはなくしており、それは不労資本家の手に移っている。だから、彼らは100ポンドだけもうけているのではなく、100ポンドだけ貧しくなっているのである。・・・・・現物支払の方法でならば、事柄は簡単に、彼らが200ポンドの価値の剰余生産物のうちから半分を自分にとっておき、あとの半分を等価なしで不労資本家にやってしまうというふうに、現われたであろう。デステュットとしても、こんなことを致富手段として説明することに誘惑を感ずるようなことはありえなかったであろう。


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