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誰もがテレビに出たいと思っているわけでもないし、有名になりたいわけでもないのです。そんな人物がビートルズを語る上で欠かせない人物になってしまったがゆえに、様々な伝説が生まれることとなったのです。まだビートルズがデビューする約1年前の1961年10月28日、のちにビートルズのマネージャーになるブライアン・エプスタインが経営するNEMSレコード店にジョン・レノンより一つ年下となるレイモンド・ジョーンズという20歳の男が、誰が歌っているかわからない「マイ・ボニー」を買いに来ました。キャバーン・クラブから歩いて約5分ぐらいの小さな印刷工場で働いていたジョーンズは、クラブのランチタイムショーの常連だった。キャバーンのDJだったボブ・ウーラーは、その青年にチケットをタダでくれたりしていた。どうしてジョーンズがそのレコードを知ったかというと、以前の義兄だったバンドをやっていたケニー・ジョンソンから聞いたのだという。そして、ジョーンズの父とジョージの父が同じバスの運転手だったことから、ビートルズと知らずにリバプールのドヴコートにある「トラムウェイ・ソーシャル・クラブ」というパブで彼らに話しかけたことが何度かあったという。ビートルズがテレビのショーに出るようになってからは、彼らには近ずくことさえできなくなり、ジョーンズはキャバーンに行かなくなったという。その後ブライアン・エプスタインは新聞に、ジョーンズを18歳のみすぼらしい皮のジャケットを着た若者として描いていたので、ジョーンズはNEMSに、そのころはスーツなんか仕事で必要な人しか着てなかったと手紙を書いて出しました。エプスタインはここぞとばかり商魂を発揮させるのです。自分の事務所に呼び出し、謝罪すると同時にジョーンズに様々な質問を投げかけたのです。しばらくしてジョーンズは、近所の人が出した手紙によりエプスタインの本を受け取ることになるのです。これが分かったのは、なんと2010年8月になってからです。きっかけは、レイモンド・ジョーンズ自らがビートルズを紹介するサイトにコメントを残したことからでした。
2016年10月28日
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きょうのビートルズもまた1965年です。10月13日は「ドライブ・マイ・カー」の録音でした。ジョージ・ハリスンのアイデアが採用され、オーティス・レディングの曲をヒントとしました。彼が8月15日に発売した「リスペクト」の影響を受け、ベースのヘビーな音を真似ているようです。ジョージはポールと基本のリズムトラックを録り、ベースと低音のギターリフを重ねました。リード・ギターはジョージとポール。
2016年10月13日
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きょうのビートルズは1965年です。10月12日に『ラバー・ソウル』の収録曲の録音が始まりました。ジョンはそれをpot album(大麻のアルバム)と呼んでいたそうです。「ミッシェル」は1967年のグラミー賞の最優秀楽曲賞に選ばれたようです。この日は「ノルウェイの森」の第1テイクと最初に録音された「浮気娘」が完成したようです。このときからポールは新しいギターを使用しています。前年の2月、最初のアメリカ公演の際ニューヨークのサボイ・ホテルの1室でリッケンバッカーの社長、フランシス・C・ホールにより4001Sに触れることができましたが、へフナーから新しいベースを貰ったばっかりなので、受け取りませんでした。1965年の8月シェア・スタジアムの公演でビートルズがロサンジェルス滞在中にホールは息子のジョン・ホールと一緒に来た時、ポールはそこで受け取ったようです。5日間のオフでジョンとジョージがポールとリンゴに薬を進めたのはこの頃だったのでしょうか。リンゴはそれを試したけれど、ポールはその誘いには乗らなかったようです。ちなみにリッケンバッカーの創始者の1人のアドルフは、撃墜王のエドワード(エディー)・リッケンバッカーの従兄だそうです。
2016年10月12日
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