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きょうのビートルズは1968年です。7月30日はEMI第2スタジオで『ヘイ・ジュード』のリハーサル。短編ドキュメンタリーの撮影のため、初めてカメラクルーが入っています。この日、ジョージが歌の合間にギターリフ(オブリガード)を入れていたが、ポールは「弾かないでくれ」と言いました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%89
2019年07月30日
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今の日本では、吉本興業が大変ですが、1966年にビートルズも危機的状況に直面しました。ビートルズが殺害予告まで受けることとなった発端は、皮肉にもメンバーの中で特にジョンと親しかったジャーナリスト、モーリーン・クリ―ヴのインタビューでのジョンの「キリスト発言」だった。7月29日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のその記事を引用してアメリカの雑誌「デイトブック」に掲載された。ティーン向けの雑誌だったが、深刻な社会問題や政治も扱っていたので、ビートルズも好意的で全米ツアーに同行したり、イギリスからビートルズの独占記事を買うこともできた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E7%99%BA%E8%A8%80https://rollingstonejapan.com/articles/detail/26495/2/1/1https://www.udiscovermusic.jp/stories/the-beatles-ep-that-coincided-with-controversy
2019年07月29日
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きょうのビートルズは1967年です。有名になってお金持ちになった彼らは、プライバシーの侵害にも頭を悩ませていた。そこでジョンはスタジオで自分が描く壮大な夢を披露した。それは、鉄骨のガラス張りのドームを拠点にした広大な土地に、ビートルズとマネージャーのエプスタイン、そしてそのスタッフが一緒に住むということだ。ジョンはビートルズ全員が一生そこで暮らすべきだと思っていた。その候補地には、イギリス東部のノーフォーク近辺が挙がっていたが、ジョンがその夢を語っていたスタジオには、ギリシャ人のアレクシス・マーダスが居合わせていたのだ。そのギリシャ人はジョンがローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズから紹介された。ジョンは「マジック・アレックス」とあだ名をつけ、合法的にイギリスに移住できるように弁護士の手配までした。そこまでしてもらったのに、マーダスはビートルズがギリシャに入国することを、事前にアテネ観光庁に連絡していたのです。日程はテレビやラジオで公開されることとなりました。7月22日、2日前にアテネに飛んだリンゴとジョージらに続き、ジョンとポール、ジェーン、シンシア、ジュリアンもギリシャ・エーゲ海のレスロ島に向かった。https://blog.goo.ne.jp/cowcow99/d/20110802https://blog.goo.ne.jp/cowcow99/d/20110801ダヒ ヨーグルト 種菌 5包 ネコポス送料無料 豆乳 ヨーグルトにも最適(カスピ海・ケフィア 用 ヨーグルトメーカー も使える)・ギリシャヨーグルトも 酸味控えめ インド料理・インドカレーに最適・飲むヨーグルト・ラッシー・アイラン に
2019年07月22日
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【中古】 スペイン フランコの四〇年 / J.ソペーニャ / 講談社 [新書]【宅配便出荷】きょうのビートルズは1965年です。6月20日から始まったヨーロッパ・ツアー中にジョンの2冊目の本「ア・スパニアード・イン・ザ・ワークス」が出版されました。最終日の7月3日はスペインのバルセロナでの公演でした。前日のマドリッド公演では収容人数2万3798人のところ観客はたった5000人。チケットの価格は当時の最低賃金日当が83ペセタのところ75~400ペセタとという高額なものでした。彼らの人気がなかったわけではもちろんありません。1975年まで続くフランコ独裁政権下にあったからです。清く正しいカトリック教徒に作られたスペインは建前になりつつも存在しており、政府による文化思想統制があり、軍部警察が未だに幅を利かせていたのです。おっぱいペロン映画などはとんでもないということで、フランスに国境を越えてポルノ映画を観に行くツアーも実在していた。ヨーロッパの孤島はラジオだけが頼りだった。そういうとこだから、売り上げ枚数もイギリスで最新盤が90万のところ3500枚。ビートルズ側もスペインに行くのを渋ったと言います。プロモーターは熱狂的なファンのために説得しました。「スペインでレコードプレーヤーは今年1500台売れました。ということは、3500枚中の2000枚は聴けるアテもないのにファンが買ったのです!」宿泊先はエルアベニーダパレスという、とても豪華なホテルだったようで彼らもきっと満足したでしょう。https://blog.goo.ne.jp/albamichiko/e/b987075ba3f95de0066294947e1c240e
2019年07月03日
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ジョンがビートルズ解散を口にしたのは少なくとも1966年だったのではないか。7月2日午後0時、ビートルズを唯一単独で取材することができた『ミュージックライフ』誌の星加ルミ子編集長と長谷部宏カメラマンは日本公演時の宿泊先の東京ヒルトンホテル10階(最上階)にある部屋(プレデンシャル・スイート)を訪れた。リンゴは「こんなに稼いでいるのにいったいどこで金を使えばいいんだ」と言いジョンは「世界中に行っても窓から見る景色しか知らない。もう解散だ!」とヒステリーを起して叫んだ。エプスタインはその発言を書かないよう頼んでいた。この日も昼夜2回公演で、夜の部ではジョンは丸いサングラスをかけていた。午後10時には音楽評論家の湯川れい子が週刊読売の契約記者として、「武道館」と書かれた腕章を渡すという名目で部屋を訪問することができた。ジョンだけは端っこで無愛想にしていた。しかし、ジョンは同じ日に「おそ松くん」のイヤミのポーズ(シェー)をやってみせた。http://www.yunioshi.com/beatlesinjapan.html私が会ったビートルズとロック★スター/星加ルミ子【1000円以上送料無料】
2019年07月02日
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きょうのビートルズは1963年です。7月1日、彼らの4枚目のシングル「シー・ラヴズ・ユー/アイル・ゲット・ユー」が録音されました。リンゴのドラムのフィルインに続きサビから曲が始まるのはジョージ・マーティンのアイデアでした。当時としては斬新な構成だったそうです。この曲はイギリスではビートルズ最大のヒットを記録して166.7万枚を売り上げました。ポールが1977年にウイングスの「夢の旅人」で219.3万枚を売り上げるまでその記録は破られませんでした。この曲はステレオ・ヴァージョンが作成される前にマルチトラック・セッション・テープが破棄されているので、疑似ステレオしか存在しない。ビートルズの疑似ステレオ・ヴァージョンがあるのはアメリカ・キャピトルが当時モノラルとステレオのLPを発売していたためだそうです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%BChttps://blogs.yahoo.co.jp/odeonrecords/64576290.htmlザ・ビートルズ・LPレコード・コレクション 8号 プリーズ・プリーズ・ミー[本/雑誌] / デアゴスティーニ・ジャパン
2019年07月01日
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