為政者の側から「憲法改正」などという声が出てくること自体がおこがましい。主権者は国民であり、国民の中で「憲法を改正して自らの主権を拡張すべき」と考えたとき、初めて憲法改正の必要性が議論されてもよいのである。
国家と国民は協力し合うような関係ではない。国家は「全体の奉仕者」である公務員の集合体であり、その行動は国民によって規定される。主権者は国民なのである。国家を国民と同列に置き、「役割分担」を求めるなど誤解も甚だしい。しかし、読売が発表した憲法草案では国民に憲法擁護義務を課すなど、権利制限の方向を明確にしている。このような逆流に我々主権者が押し流されるようなことがあってはならない。
前文の部分で「利己主義を排し、『社会連帯、共助』の観点を盛り込むべき」とある。一見良さそうに見える言葉だが、米国の利己主義に世界一迎合しているのはどこの政府か。自国民が外国で拘束された時、全力で救出にあたらなかった政府が「社会連帯」をいうのは、「国民同士で勝手にやってくれ」という責任放棄ではないのか。
「非常事態全般」として災害と有事(=戦争)を故意に同一視する。「公共的な責務」として国家への貢献を要請する。両性の平等を敵視する。社会権(25条、文化的生存権)を守るためと称して国民に責任を負わせ、結果として国家の責任を免罪する。「政治主導の政策決定を徹底」として国民主権を制限。大臣の国会出席義務を緩和し、国会を政府から切り離す。首相の権利を強化し元首的性格を強める。地方自治の推進と称して国家の責任を放棄する。
そして、「改正手続き」の緩和である。現在は国会の2/3が賛成する議決によって初めて憲法改正の提案ができ、さらに国民の承認を得る必要がある。これを、国会の1/2で提案できるように、さらには2/3の賛成ならば国民の意思を問わず改正できる方向を狙っている。もしもこれが実現すれば、「国会で多数さえ占めることができれば」クーデターを起こすことができるわけである。
何が「独自憲法」か。憲法改悪を最も望んでいるのは米国ではないのか。改憲に熱心な者ほど対米従属の姿勢が見えるのはなぜか。
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