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本山本法寺
京都市上京区小川通寺ノ内上ル本法寺前町617(堀川寺ノ内上東側)
妙顕寺に続いて徒歩にて15時20分より2ヶ寺目に本山本法寺へ約1時間の参詣、

千利久の孫、三代中興の祖・宗旦の遺蹟碑
裏千家「今日庵」の兜門

 千本寺の内一筋東小川通りに面し、本法寺の裏向かいには現在も「今日庵」「不審庵」
(裏千家・表千家家元の茶室)がある。

妙顕寺から境内を抜け裏門より本法寺に入る

日蓮宗本山本法寺。(親師法縁)山号を叡昌山と称する。本尊:十界大曼荼羅。
開基は久遠成院日親上人で、永享八(1436)年に東洞院綾小路に開創される。
 日親上人は時の将軍足利義教に「立正治国論」を献じ、平和の招来を直言したが、これが将軍の逆鱗に触れ投獄、本法寺も焼却された。さらに将軍政教が上人に加えた刑罰は次第に苛酷となり、ある時は焼鍋を頭にかぶせる等の残虐眼を覆う迫害もあった。世に「冠鐺日親上人」と称するのはこの法難を言う。しかし、上人の大慈大悲の法華弘通の大不動心は、遂に後花園天皇の叡感に適い、康正元(1455)年四条高倉辺りに官地を賜り本堂の再建が実現され、※中世から近世初頭には、本阿弥家(本光・光悦・妙秀など)一門の大檀越として外護を受ける。天正15(1587)年豊臣秀吉の帰依を受け現在の土地を与えられ、天正十八(1590)年秀吉の命(聚楽第造営)で現在地に移転再建。豊臣・徳川政権下では権力を慮り、受不施の立場に転じ、徳川政権下の宗教政策に組み込まれる。天明八(1788)年の大火に類焼(経蔵・宝蔵を除く)し、現伽藍はその後の再建による。近世は徳川紀州家及び多くの檀信徒で維持された。

本法寺本堂01前景
本法寺本堂02内陣

冠鐺日親上人
 下総国に生まれる。妙宣寺において父の実弟にあたる日英に学び、中山法華経寺に入門する。1427年に上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う。1433年には肥前国へ赴く。同年に再び上洛し、本法寺を開く。日親は諸寺院を日蓮宗に改宗させ、6代将軍足利義教への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止される。禁に背いた為に投獄され、本妙寺は破却となる。拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、「鍋かぶり上人」・「鍋かぶり日親」等と呼ばれた。1441年の嘉吉の乱で義教が殺されると赦免されるが、その後も八代将軍足利義政の上洛命令などを受け、投獄もされている。1463年には町衆の本阿弥清延の協力を得て本妙寺を再興する。その足跡は全国に及び、他宗との問答は66回、建立した寺院は30有余とも言われている。法難に耐えながら、まさに血みどろの布教の旅であった。日親上人は1488年に82歳で遷化されたが、京都・九州の宗門発展の基礎を創るのみならず、日蓮宗の宗門史の上においても特にその法勲は偉大なものとして伝えられている。

本法寺大涅槃図、撮影禁止の為、本法寺絵葉書より転用掲載

大涅槃図(長谷川等伯作)
 京都三大涅槃図の一つで、総縦約10メートル、総横約6メートルに及ぶ紙本濃彩画で、国の重要文化財指定を受けている。今、この貴重な大涅槃図を目の当たりにして思いをいたす時、嘗ての大本堂に掛けられた400年前の感激を新たにする。阿難尊者が、釈尊の枕辺に悲泣し、天人阿修羅をはじめ、生きとし生けるものどもの、声をあげて泣き叫ぶありさまが、天地を振るわすのを感ずる。
 長谷川等伯は、桃山画壇の覇者、狩野永徳を脅かすほど絵師としての成功を治め、自ら「雪舟五代」を名乗り長谷川派の長として活躍した画家で、天文八(1539)年、能登国の戦国大名畠山家家臣・奥村文之丞宗道の子として、七尾(小島町付近)に生まれ、幼名は又四郎と言った。幼い頃に一族で染物屋を営む奥村文次を通じて染物屋・長谷川宗清の元へ養子となった。養父には絵の心得があり、絵を学び、また雪舟の弟子・等春からも学んだ。名を等春から一字を取り、長谷川信春と名乗り、その頃から仏画を描く絵師として徐々に有名になっていった。親しくした人物の肖像や「大涅槃図」なども描き、本法寺所蔵の「大涅槃図」は、京都三大涅槃図の一つに数えられる大幅で、華やかな描表具を含めると高さ10メートルにも及ぶ。供養を行う前に宮中に持参し、披露したという記録も残っている作品で、「雪舟五代」と「六十一歳」の書き込みがあり、60歳前後から「自分は雪舟より五代目なのだ」ということを強く打ち出し、より長谷川派の結束を固めようとした。注目されるのは、表具の裏には日蓮聖人以下の諸祖師、本法寺開山の日親上人以下歴代住職及び、祖父母や養父母、先立った息子などの供養銘が記されている。等伯70歳の時、親しくしていた本法寺の日通上人が亡くなり、等伯は日通上人の肖像を描いている。また、71歳の時には大徳寺塔頭の高桐院住職・玉甫紹王宗の肖像も描いている。慶長十五(1610)年徳川家康から招きを受け、江戸に赴く。その旅の途中で病を得て、到着後2日目に病死した。享年72歳。

本法寺多宝塔

本法寺多宝塔
 寛政年間(1789~1801)年代再建塔。伽藍は天明八(1788)年の大火で類焼した。今の本堂は寛政九(1796)年の再建と伝えられ、多宝塔もその頃の再建と推定されている。

三つ巴の庭01紅葉盛り前

本法寺の庭園「巴の庭」  国指定名勝
 三つ巴の庭と呼ばれる庭園は、本阿弥光悦の作と言われ、室町期の書院風枯山水の影響を強く残しながらも、桃山時代の息吹を感じさせる名庭である。書院の東側を主体として約600平米の広さ、全体の平面形態は鍵形となっており、東南隅の奥深い部分にはこの庭の主役とも言える枯瀧石組が据え置かれ、中央には大小の立石を用いた三尊石組の形式と手前に配置された縦縞紋様の青石により水流の落ちる様相を表現、縁先間近い位置には、長さ1.5メートル程の切石10本により、十角形に縁取られた蓮池があり、その北部の半円を2個組み合わせた円形石と共に図形的意匠の斬新さを見せてくれた。

三つ巴の庭02





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最終更新日  2007年10月30日 00時01分15秒 コメントを書く


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