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〓 シャーロックホームズ2 シャドウゲーム 〓夕刻1720から、暇だったので2回目鑑賞。夕食ぬきで頭は冴えた? 【感想・口コミ・クチコミ】■原作とは別物と言う触れ込みですが所々原作を思わせるシーンもあり、本の読者も楽しめると思います■教授は見た目はもっと悪役顔みたいな人を使うのかなと想像してたので、意外に人が良さそうな本当に英国紳士という感じの方で逆にリアリティがあって良かった! ヤング シャーロック ホームズ ~対決×モリアーティ教授~ [DVD]... <楽天サイト提供>■そろそろ終盤なのかな?と思ってみてたらすぐ次の展開になったりして観てる人を飽きさせないスピード感!すっごくよかったと思います!!■ジュードロウ!!とにかくかっこいい!素敵!!もちろんロバートダウニーも!!!■前作が好きなら今作も楽しめると思います■ホームズのお兄ちゃん・・・いい味出してます♪
2012.04.19
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ストーリー [編集]--------------------------------------------------------------------------------注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。免責事項もお読みください。--------------------------------------------------------------------------------コネで就職を決めていた教立大学生・山本秋平は、卒業に必要な単位を卒業論文の指導教員である穴山教授に無心したところ、「アルバイト」に大学相撲部の一員として大会に参加することを求められる。秋平は穴山研究室に属する大学院生で相撲部マネージャーを務める川村夏子の頼みもあり、渋々ながらこれを承諾した。相撲部には留年を重ねた青木富夫一人しか正規の部員はおらず、秋平と青木は苦労して出場に必要なメンバーを集める。しかし、素人集団の悲しさで、大会では惨敗。慰労会でOBから痛罵されたことに秋平は反発し「次は勝ってやる」と言い放ってしまう。秋平たちは改めて相撲に取り組むことになり、夏休みに相撲部監督である穴山の実家で合宿を行うが、それはなぜか練習らしい練習もせずに、ひたすら食べては寝るだけという内容だった。合宿も終わりに近づいたころ、秋平たちは近所の小学生相手に練習試合を行う。だが、大人気なく全力で小学生たちと戦う秋平たちの姿を、他大学の相撲部員たちに嘲笑され秋平たちは奮起する。次第に力をつけた秋平たちは見事に次の大会に勝ち、さらに上の大会に駒を進める。ところが、その本番で思わぬアクシデントが発生し……。登場人物 [編集]山本秋平:本木雅弘教立大学4年生。卒業に必要な穴山教授担当の講義の単位を取るために相撲部に入ることになった。相撲部に入る前は、シーズン・スポーツ同好会に所属していた。川村夏子:清水美砂教立大学相撲部マネージャー。相撲部顧問の穴山教授の研究室に属する大学院生。青木富夫:竹中直人教立大学相撲部。浪人して教立大に入学。今、8年生。相撲では公式戦で一度も勝ったことがない。緊張すると下痢を催す。得意技は内無双。田中豊作:田口浩正教立大学学生。体はでかいが気が小さい。穴山冬吉:柄本明教立大学相撲部の顧問。秋平の卒業論文指導教員でもあり、元学生横綱。秋平に相撲部入部を持ちかける。山本春雄:宝井誠明教立大学学生。秋平の弟。プロレス部に入っていたが、後に相撲部に入る。間宮正子:梅本律子教立大学マネージャー。巨漢。ジョージ・スマイリー:ロバート・ホフマン英国オックスフォード大学から教立大学経済学部へ来ている交換留学生。家賃を理由に、相撲の寮に入る形で相撲部に入る。臀部をさらすことを嫌がり、廻しの下にスパッツをはいていた。堀野達雄:松田勝教立大学アメフト部。相撲部の助っ人もしている。北東のケン:宮坂ひろし北東学院大学相撲部の主将。峰安二郎:村上冬樹教立大学相撲部OB会会長。穴山ゆき:桜むつ子穴山冬吉の母。熊田寅雄:六平直政教立大学相撲部のOB。朝井知恵:水島かおり教立大学相撲部を取材に訪れたリポーター。林:片岡五郎相撲大会の主審。スタッフ [編集]監督/脚本:周防正行プロデューサー:桝井省志製作者:山本洋 / 平明暘助監督:高野敏幸企画:島田開 / 石川勝敏撮影:栢野直樹美術:部谷京子音楽:周防義和 / おおたか静流編集:菊池純一主題歌:おおたか静流「悲しくてやりきれない」「林檎の木の下で」受賞 [編集]第66回キネマ旬報ベストテン委員選出日本映画部門第1位/読者選出日本映画部門第1位/監督賞第35回ブルーリボン賞作品賞/監督賞/主演男優賞第16回日本アカデミー賞最優秀作品賞/最優秀監督賞/最優秀脚本賞/最優秀主演男優賞/最優秀助演男優賞/優秀助演女優賞第17回報知映画賞最優秀作品賞/最優秀主演男優賞/最優秀主演女優賞第7回高崎映画祭最優秀作品賞/最優秀監督賞/最優秀新人賞その他第5回日刊スポーツ映画大賞 作品賞第47回毎日映画コンクール 日本映画大賞エピソード [編集]主演の本木雅弘は、周防監督の前作『ファンシイダンス』に続く主役起用であったが、坊主頭の僧侶役の前作に続き、まわし姿を披露した役者根性が高く評価されることになった。舞台となった大学(教立大学)は名前からもわかるように、周防監督の母校である立教大学がモデルで、実際に立教大学構内でも撮影されている。劇中にはその他にも本日医科大学や北東学院大学、応慶大学、衛防大学、波筑大学など、実在大学のパロディが多く登場する。竹中直人演じる青木富夫の名前は、「突貫小僧」の名で小津安二郎作品に出演した青木富夫にちなむ。竹中はその後の周防監督作品である『Shall we ダンス?』『それでもボクはやってない』でもこの役名のキャラクターを演じた。冒頭で柄本明演じる穴山が読み上げるジャン・コクトーの相撲観戦記は1936年の来日時のもので、彼のエッセイ『僕の初旅』(Mon Premier voyage)に収録されている。間宮正子役は一般からのオーディションで役者が選ばれた。週刊明星、月刊明星との合同企画で募集記事を掲載。記事には「映画で本木雅弘と共演出来る」と銘打っていたが、ストーリーや役どころなど具体的な内容は一切記載されていなかった。ただ「極度の肥満体型」「若い女性」のみが応募条件であった。
2012.04.10
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この映画も1と同様、はやくて、内容が複雑で2回観ないと理解されないとおもわれる。スイスかオーストラリアの山荘が出てくるが、石ずくりの建物の下を河が流れて滝のように落ちるもので、ワンショットでフラッシュバックしたが、かの有名な、ヒットラーの屋敷だから、オーストりーなんだろうな。よくわわからないが、あの当時からゲルマンぎらいのイギリスなんだなと、感じずにはおかない。我々と同じ敗戦国民ドイツ人はこの映画をどう観るか聞いてみたい。なとドイツ人には、日本人に見られるような、シャーロキアンはいないだろう。
2012.04.08
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マーガレット・ヒルダ・サッチャー(英語: Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC、旧姓:ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日 - )は、イギリスの政治家。イギリス史上初の、女性保守党党首、英国首相(在任:1979年 - 1990年)。1992年からは貴族院議員。保守的かつ強硬なその性格から 鉄の女(the Iron Lady)あるいはアッティラ(Attila the Hun)の異名を取った。認知症のため現在は表舞台には姿を見せていない(2012年初頭現在)。概要 [編集] 略歴 [編集] 生い立ち [編集]1925年、リンカンシャー州グランサムの食糧雑貨商の家に生まれる。父・アルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。サッチャーの生家は代々メソジストの敬虔な信徒であり、生家の家訓であった「質素倹約」「自己責任・自助努力」の精神はサッチャーにも色濃く受け継がれた。父・アルフレッドを非常に尊敬し、サッチャーは「人間として必要なことは全て父から学んだ」と度々口にした。オックスフォード大学で化学を学び、1947年に卒業。その後、研究者の道に進み、ライオンズ社に就職した研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究した事がある。コロイド化学が専門であり、Langmuir- Blodgett膜の研究を行っていた時期もある。一方、大学時代にはフリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していた。この頃に培われた経済学に対する思想が、後の新自由主義的な経済改革(所謂サッチャリズム)の源流になった。下院議員 [編集]1950年、保守党から下院議会議員選挙に立候補するが、落選。翌1951年には10歳年上のデニス・サッチャーと結婚し、法律の勉強を始める。1953年には弁護士資格を取得。なお、この当時は女権拡張について強く訴えていた。1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からヒース内閣で教育科学相を務める。この時、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは学校における牛乳の無償配給の廃止を決定し、「ミルク泥棒」と謗られるなど、猛烈な抗議の嵐を巻き起こした。保守党党首 [編集]1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌1975年2月に保守党党首選挙が行われる。当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念してしまった。そのため、右派からはサッチャーが出馬する。教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。同年、イギリスを含む全35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。これに対し、ソビエト連邦の軍事新聞「赤い星」は1976年1月24日号の記事の中で、サッチャーを鉄の女と呼び、非難した[1]。皮肉にも、この「鉄の女」の呼び名をサッチャー自身も気に入り、またその後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞として定着した。英国首相 [編集]1979年の選挙ではイギリス経済の復活、小さな政府への転換を公約に掲げ、保守党を大勝に導く。同年、女性初のイギリス首相に就任した。イギリス経済の建て直しを図り、政府の市場への介入を抑制する政策を実施。こうした経済に対する思想は新自由主義(ネオ・リベラリズム)あるいは新保守主義と呼ばれ、理論的にはフリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンの経済学を背景にしていると言われる。1982年には、南大西洋のフォークランド諸島でフォークランド紛争が勃発。アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵略に対し、サッチャーは間髪入れず艦隊、爆撃機をフォークランドへ派遣し、多数の艦艇を失ったものの2ヶ月の戦闘の結果6月14日にイギリス軍はポート・スタンリーを陥落させ、アルゼンチン軍を放逐した。サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還は、イギリス国民からの評価が極めて高い。この際、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意)と述べた。イギリス経済の低迷から支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率は73%を記録する。フォークランド紛争をきっかけに保守党はサッチャー政権誕生後2度目の総選挙で勝利し、これをきっかけにサッチャーはより保守的かつ急進的な経済改革の断行に向かう。保守的かつ急進的な改革を断行する強い姿勢から、3度の総選挙を乗り切ったサッチャーだったが、任期の終盤には人頭税(community charge)の導入を提唱してイギリス国民の強い反発を受け、また欧州統合に懐疑的な姿勢を示したために財界からもイギリスが欧州統合に乗り遅れる懸念を表明する声が上がり、1990年の党首選では1回目の投票で過半数を獲得したものの、2位との得票数の差が15%以上に達せず、規定により第2回投票が行われることとなったために求心力がさらに低下し、結局11月22日に英国首相、保守党党首を辞職する意向を表明した。1992年からは貴族院議員を務める。2008年に長女のキャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かし、2008年8月24日付の英紙メール・オン・サンデーが詳報を掲載した。それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「詳細を思い出せなくなってきた」としている[2]。サッチャリズム [編集]サッチャーは新自由主義に基づき、電話・ガス・空港・航空・水道等の国有企業の民営化や規制緩和、金融システム改革を掲げ、それらを強いリーダーシップで断行。さらに改革の障害になっていた労働組合の影響力を削ぎ、所得税[3]・法人税[4]の大幅な税率の引き下げを実施。一方、付加価値税(消費税)は1979年に従来の8%から15%に引き上げられた。インフレーションを抑制するためにイングランド銀行が大幅な利上げを行ったため、サッチャーの公約であったインフレの抑制には成功した。しかしながら、首相就任から間もなくイギリスの失業者数は倍増し、1982年には300万人を上回る。失業率はその後も1986年半ばまで減少せず、これによりサッチャーの支持率は低下。そのため小さな政府の柱の一つであった完全マネタリズムを放棄し、リフレーション政策に転じる。その結果、イギリス経済は回復した。フリードマンら新自由主義を唱える経済学者はサッチャーの変節を非難したものの、総じてイギリス国民からはこの転換が受け入れられ、支持率も回復の兆しを見せた。1988年、教育法を改定。イギリスの教育機関は独自性が強く、カリキュラムも学校別の独自性が強いものだった。サッチャーは、使用されていた教科書の一つ「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか」(イギリスの人種差別や、植民地支配の歴史を批判的に扱う内容)が自虐的な内容であるとして使用を止めさせようとしたが、政府に教科書の使用を制限する法的権限が存在しなかった。そのためサッチャーは教育界の反対を押し切り、「(1)全国共通のカリキュラムを作り、非キリスト教徒に対してもキリスト教の授業を必修とするなど「自虐的」内容の是正」「(2)全国共通学力テストの実施」「(3)学校当局に、地方教育委員会からの離脱を認め、その場合は政府直轄とする(政府と共に、親の発言力を強める)」という内容の法改正案を成立させた。評価 [編集] イギリスでの評価 [編集]その非常に強硬な政治方針と信念から、在任中も、またその後も英国内では非常に毀誉褒貶の激しい二分された評価がある。財政赤字を克服しイギリス経済を立て直した救世主として国内外の新保守主義・新自由主義の政治家・経済論者からは未だに高い評価を受けているが、一方で失業者を増大させ、地方経済を不振に追いやった血も涙もない人間としての評価もある。医療制度を機能不全に陥らせたり金持ち優遇政策を採ったことから左派からの評価は低い。また、旧来の保守勢力からも古き良き英国の伝統を破壊した政治家として批判されることがある。その後、保守党から政権を奪取した労働党のトニー・ブレア政権が成立すると、サッチャーによって廃止された地方公共団体や公企業が復活し、民営化によるサービス低下への対策がはかられた。医療予算は大幅に増額され、サッチャー政権のもとで機能不全に陥ったNHS(国民医療サービス)の立て直しがはかられた。また教育政策においてもサッチャー政権が導入した競争型の中等学校が事実上廃止され、公立学校の地位向上がはかられるなど、サッチャリズムの弊害除去が国の重要な政策になった(第三の道)。日本での評価 [編集]サッチャーの首相就任から間もなく、1980年に選出されたアメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガンも新自由主義的な政策を数多く打ち出した。さらにニュージーランドでもデビッド・ロンギが新自由主義を主導し、80年代はアングロサクソン各国において新自由主義が台頭する時代となる。また、この時期、日本においても、1982年に首相に就任した中曽根康弘により、行政改革や国鉄分割民営化(1987年)などが行われた。また日本では、安倍晋三、平沼赳夫、藤岡信勝など、現在の歴史教育は「自虐的」と考える論者から、「偏向自虐歴史教科書を克服した先例」とされた[5]。2006年に行われた教育基本法改正や教育バウチャー制度導入の動きは、サッチャーを模範としたものである。授爵・叙勲 [編集]1992年、一代貴族として男爵位を授爵し、女男爵(Baroness)として貴族院議員になる。1995年、ガーター勲章を受ける。また、2007年2月21日、在世中の元首相では初めて、英国国会議事堂内に銅像が建立された。なお、建立に際しサッチャーは、「鉄の像(「鉄の女」にかけている)になるかと思ったが、銅像ですね。……銅もいいですよね、錆びないから。」と述べ、人々の笑いを誘った。家族 [編集]夫のデニス・サッチャーとの間に娘キャロル、息子マークの双子の子供がいる。デニス・サッチャーは、1991年に準男爵(Baronet)になり、サーと呼ばれる。マーガレット・サッチャーの政治活動についても助言を行い、妻は夫の助言に素直に従っていたが、あくまで家庭内での夫婦関係に留め、これを公にせず、賢い妻に対して愚かな夫であるように演じていたと言われる。その他 [編集]1979年の総選挙の際、2週間で体重を9kg減らすダイエットを実施していたことが、サッチャー財団の保管していた資料から明らかになっている。仮に首相に就任すれば報道への露出が増すことを想定し実施したと推測されている。ダイエットの中身は食事のコントロールが主で、卵を1日に4個から6個食べる、肉や穀類を減らす、好きなウイスキーなどのアルコール飲料は週4日までに制限、間食を絶つといった内容だった[6]。1984年10月12日保守党党大会開催中のブライトンで、投宿していたホテルでIRAによる爆弾テロに遭っている。議員やその家族など5人が死亡、30人余りが負傷した。語録 [編集] ウィキクォートにマーガレット・サッチャーに関する引用句集があります。 「あなたの旗は赤旗でしょう? わたしの旗はユニオンジャックです」「われわれは核兵器の無い世界ではなく、戦争の無い世界を目指すべきです」「社会というものはありません。あるのは個人と家庭だけです」「私はコンセンサスというものは、さほど重要なものであるとは思いません。あれは時間の浪費の原因のようなものですから」(議会で動物擁護法案が通過する際、野次を飛ばす野党議員に対し)「お黙りなさい!これはあなた方のためにもなる法律なんですからね!」(「長期政権は民主主義に反するのでは」と質問した記者に対して)「あなたはミッテランのことを批判するのですか?」(フォークランド紛争開戦に反対する閣僚たちにむかって)「この内閣に男は一人しかいないのですか!?」「言ってほしいことがあれば、男に頼みなさい。やってほしいことがあれば、女に頼みなさい」
2012.03.17
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ストーリー [編集]1930年代のフランス。パリのリヨン駅の時計台に隠れて暮らす孤児ヒューゴ・カブレは、不思議な少女イザベルと出会い、彼女や駅の玩具店の主人とともに父が遺した謎の追究を始める。キャスト [編集]役名 俳優 日本語吹替 ヒューゴ・カブレ エイサ・バターフィールド 橘敏輝 イザベル クロエ・グレース・モレッツ 山口愛 鉄道公安官 サシャ・バロン・コーエン 村治学 ジョルジュ・メリエス ベン・キングズレー 坂口芳貞 ヒューゴの父 ジュード・ロウ 加瀬康之 クロードおじさん レイ・ウィンストン 辻親八 ラビス氏 クリストファー・リー 長克巳 ママ・ジャンヌ ヘレン・マックロリー 野沢由香里 フリック リチャード・グリフィス 村松康雄 エミーユ夫人 フランシス・デ・ラ・トゥーア 立石涼子 リゼット エミリー・モーティマー 高橋理恵子 ルネ・タバール マイケル・スタールバーグ 大川透 ジャンゴ・ラインハルト エミル・ラジェ 撮影技師 エドマンド・キングズリー 製作 [編集]2007年2月、『ディパーテッド』のアカデミー作品賞受賞直前、同作を製作したワーナー・ブラザーズとグレアム・キングはスコセッシの監督を想定して刊行されたばかりの『ユゴーの不思議な発明』の映画化権を購入し、『アビエイター』でスコセッシ、キングと組んだジョン・ローガンに脚本化を依頼した[3]。撮影はデジタル3DカメラArri Alexaを用い[4]、2010年6月29日にロンドンで開始され、以降ロンドンとパリで行われた[5]。2011年3月、フランスの新聞『ル・パリジャン』が「ルーロー氏 (M. Rouleau) 役のジョニー・デップ」という付記とともに、くちひげを生やした男が写った映画のセット写真を掲載した[6]。しかしパラマウントは、写真の男はデップではなく、またデップは映画に一切出演していないとした[7]。 映画は原作の原題『The Invention of Hugo Cabret』に反し単に『Hugo Cabret』と呼ばれていたが、のちに『Hugo』とさらに縮められた[9]。2011年10月10日、本作はニューヨーク映画祭(英語版) (NYFF) において編集が中途段階の状態で上映された。NYFFにおける未完成の映画の上映は1991年の『美女と野獣』以来であった[10]。評価 [編集]ジェームズ・キャメロンは2011年11月6日、全米監督協会がロサンゼルスで開いた試写の後で質疑に応え、本作を「傑作」("masterpiece")、「ようやくできた子供たちを連れて行けるスコセッシ映画」と称え[11]、また「私が見た中で間違いなく最高の3D映像で、それは君 (スコセッシ) のやることを常に支え、決して損うことがない」と述べた[12]。本作は批評家から絶大な支持を集めている。映画のレビューを集積するウェブサイトRotten Tomatoesによると、集計されたレビュー98件のうち95件、97%が作品に対し好意的な評価を寄せており、評価の平均は8.4/10、批評家の総意は「『ヒューゴの不思議な発明』は、近頃の子供向け映画の多くが欠く純粋さをもつ、贅沢で洗練されたファンタジーであり、映画のマジックに対する大胆な愛を発するものでもある」であった[13]。有力媒体の批評から100点満点の加重平均値を導くMetacriticは36件の批評を基に85という「全面的支持」の値を示している[14]。『シカゴ・サンタイムズ』のロジャー・イーバートは4個満点の星をつけ、「『ヒューゴの不思議な発明』はこれまでのどのマーティン・スコセッシの映画とも異なっており、しかもおそらく彼の心に最も近い。ビッグバジェット、家族向け、3Dの大作で、かつある意味においては彼自身の人生の鏡である。我々は偉大なアーティストが必要なツールとリソースの権限を与えられたと感じる—映画についての映画を作るために」と書いた[15]。
2012.03.11
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現代アメリカの都市ニュウヨーク さまざまの人生模様。アメリカ人孤独。
2012.03.01
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3社制作による同一テーマの劇場映画が相次いで公開となる、探査機「はやぶさ」の物語。2011年10月の「はやぶさ/HAYABUSA」(20世紀FOX)に続いて2月11日に封切りとなるのが、山根一眞氏のドキュメンタリー本「小惑星探査機はやぶさの大冒険」を原作とした「はやぶさ 遥かなる帰還」だ。プロジェクトマネージャのリーダー像や技術者たちの葛藤を軸にした、東映らしい骨太な作品となっているのが特徴だ。プロジェクトを追う新聞記者の視点も取り入れて、各人の「はやぶさ」へのさまざまな思いを統一感をもって紹介している。フルレビューは月刊「星ナビ」2012年3月号で。■ タイトル:はやぶさ 遥かなる帰還■ 監督:瀧本智行■ 原作:山根一眞「小惑星探査機はやぶさの大冒険」■ 出演:渡辺謙、夏川結衣、江口洋介、藤竜也、山崎努 ほか■ 配給:東映■ 協力:JAXA■ 公式サイト:はやぶさ 遥かなる帰還
2012.02.16
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あらすじ ニコラス・ケイジっていがいとナイス元歴戦の兵士であるキャメロン・ポー(ニコラス・ケイジ)は、身重の妻トリシア(モニカ・ポッター)を守ろうとしてはずみで人を殺してしまった時から、人生の歯車が狂いだした。殺人罪で服役中に娘が誕生し、1日も早く家族と再会することだけを心の拠り所に、彼は苦難に満ちた獄中生活を耐え忍んだ。8年の歳月が流れ、模範囚として晴れて仮釈放となったポーは、連邦保安局の空システム〈コン・エアー〉に乗り込む。そこには、新設の超厳重警備施設に移送するため、冷酷な知能犯サイラス・グリサム(ジョン・マルコヴィッチ)、黒人ゲリラ軍将軍のダイヤモンド・ドッグ(ヴィング・レイムズ)ほか、全米刑罰史上最も凶悪な囚人たちの一団が乗せられていた。カーソンで6人が降ろされ、新たに10人が乗せられることになっていた。この10人の中には大物麻薬密売人の息子シンディーノがおり、彼から情報を引き出すために機内には、囚人を装った捜査官シムが潜入していた。離陸後、ほどなくしてサイラスの指揮の下、凶悪犯たちは機内を制圧してしまう。彼らの次なる目的はシンディーノを父親に送り届け、莫大な礼金を手に入れること。地上の連邦保安官に気づかれぬよう、カーソンでは予定どおり6人の囚人を降ろさねばならない。ポーにとって、この悪夢を終わらせる絶好の機会だったが、機内に残ることを選ぶ。長年の同房仲間で、思い糖尿病を患っているベビー・オー(ミケルティ・ウィリアムソン)の注射器が、暴動騒ぎで割れてしまい、彼に死が迫っているからだ。さらに、機内には唯一の女性護官ビショップ(レイチェル・ティコティン)が人質となっており、23人の女性を強Xした異常犯罪者ジョニー23(ダニー・トレホ)が彼女を狙っていたことも、ポーを機にとどまらせた。カーソンではシンディーノと共に、37人を惨殺した快楽殺人魔ガーランド・グリーン(スティーヴ・ブシェミ)が乗り込んできた。機はアラバマに向かうと見せ掛け、シンディーノのジェット機が待機するラーナー飛行場へと向かう。地上では異変に気づいた連邦保安官ラーキン(ジョン・キューザック)と、シムの同僚の麻薬捜査官マロイ(コーム・ミーニー)が追跡を開始。殺されたシムの復讐に燃え、コン・エアーごと爆破しようとするマロイは、戦闘ヘリで機を追尾する。一方、囚人たちのデータを調べたラーキンは、なぜ自由の身であるポーがカーソンで降りなかったのか疑問を抱き、彼の妻トリシアと8歳になる娘ケイシーに会う。今も夫を深く愛する彼女はラーキンの誠実な態度を信頼し、夫へのメッセージを託す。無線を通じてラーキンの存在を知ったポーは、死体を機外に捨てる前に、ラーキンに宛てた「機はラーナーに到着」とのメッセージをシャツに残した。警官から"空から降ってきた死体"の報告を受けたラーキンはマロイに連絡し、警察隊に出動要請をし、ひと足先にラーナーに到着する。シンディーノの仲間によって、ラーナーの職員は殺害されていた。やがて荒涼とした砂漠の飛行場にコン・エアーが着陸。無理な飛行のために機体は傷つき、修復作業にかかりきりの囚人たちの隙を突いて、ポーは脱出の機会をうかがう。彼はついにラーキンと出会うが、ベビー・オーやビショップを残しては行けない。サイラスは一人でジェット機で逃げようとしたシンディーノを冷酷に処刑し、囚人たちは警官隊と戦闘体制に入り、彼らに圧勝した。ポーが機内に戻った時、コン・エアーは離陸してしまう。連邦保安局の動きから機内の通報者の存在を知ったサイラスは、ビショップの命と引き換えに裏切り者の自白を迫る。ポーを庇って自白したベビー・オーの体を、サイラスの銃弾が貫く。耐えに耐えた感情を爆発させたポーは、サイラス一味と戦いを繰り広げる。一方、マロイの乗るヘリがコン・エアーに照準を合わせて迫っていた。ポーは失速する機を操縦して、ネオンきらめくラスベガスの大通りに不時着させるとサイラスと対決し、相手を倒した。地上に降りた彼は、愛する妻子とようやく再会した。
2012.02.12
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【人種差別・意訳 ENGLISH/JAPANESE】実際にあった話50代とおぼしき妙齢の白人女性が機内で席につくと彼女は自分の隣が黒人男性であるという事に気がついた周囲にもわかる程に激怒した彼女はアテンダントを呼んだ... アテンダントが「どうなさいましたか?」と訊くと「分からないの?」とその白人女性は言った「隣が黒人なのよ。彼の隣になんか座ってられないわ。席を替えて頂戴」「お客様。落ち着いていただけますか」とアテンダント「当便はあいにく満席でございますが 今一度、空席があるかどうか、私調べて参ります」そう言って去ったアテンダントは、数分後に戻って来てこう言った「お客様、先ほど申し上げましたように、 こちらのエコノミークラスは満席でございました。 ただ、機長に確認したところ ファーストクラスには空席があるとのことでございます」そして、女性客が何か言おうとする前に、アテンダントは次のように続けた「お察しとは存じますが、 当社ではエコノミークラスからファーストクラスに席を替えるという事は 通常行っておりません しかしながら、或るお客様が 不愉快なお客様の隣に座って道中を過ごさざるをえない、という事は 当社にとって恥ずべき事となると判断いたしますので 当然事情は変わって参ります」そして黒人男性に向かってアテンダントはこう言った「ということで、お客様、もしおさしつかえなければ お手荷物をまとめていただけませんでしょうか? ファーストクラスのお席へご案内します」近くの乗客が、歓声をあげるのをその白人女性は呆然と眺めるだけであったスタンディングオベーションを送る者もいた【人種差別に反対の人はシェアしよう】コメントを日本語に訳されたのは宮X端さんです。
2012.02.03
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Always
2012.01.23
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多くのファンからの要望に応え、『ALWAYS 三丁目の夕日』が再びスクリーンに。前作で淳之介を取り戻した茶川が芥川賞に挑戦していく。今回もまた当時の東京の風景をVFXを用いて、目を疑うようなリアルさで再現している。完成したばかりの東京タワー、日本橋などの街並みに加え、東京駅、羽田空港、開通直後の新幹線こだま号など、その時代を知る人にとっては懐かしい映像が続く。また、この映画の魂でもある三丁目の人々の温かさも健在。古きよき“昭和”の世界を再び味わって欲しい。出演は、堤真一、薬師丸ひろ子、吉岡秀隆、須賀健太ら、お馴染みの顔ぶれに加え、上川隆也、マギー、渡辺いっけい他。監督は前作と同様の山崎貴。解説 - ALWAYS 続・三丁目の夕日2005年度の日本アカデミー賞で作品賞など13部門を受賞、興収35億円の大ヒット作となった「ALWAYS 三丁目の夕日」のパート2。前作の結末から4ヶ月後となる昭和34年の春から翌年までの、三丁目で暮らす人々の悲喜こもごもな暮らしを描く。原作は「ビッグコミック オリジナル」で現在も連載されている西岸良平の国民的コミック。「リターナー」の山崎貴が前作に引き続いて脚本・監督。出演者も前作からそのままで、吉岡秀隆、堤真一、小雪、堀北真希、三浦友和らが続投。あらすじ - ALWAYS 続・三丁目の夕日昭和34年、春。鈴木オートに新しいファミリーが増えた。事業に失敗した親類から、しばらく娘を預かって欲しいと頼まれた則文(堤真一)が快諾したのだ。しかし、その娘・美加(小池彩夢)は根っからのお嬢さん育…>>『ALWAYS 続・三丁目の夕日』あらすじ全文 ※ストーリーの結末が記載されていることがあります。ご注意ください昭和34年、春。鈴木オートに新しいファミリーが増えた。事業に失敗した親類から、しばらく娘を預かって欲しいと頼まれた則文(堤真一)が快諾したのだ。しかし、その娘・美加(小池彩夢)は根っからのお嬢さん育ちで、下町での生活に馴染むことができなかった。トモエ(薬師丸ひろ子)や六ちゃん(堀北真紀)、そして一平にも反発してしまう美加。小説家を目指す茶川(吉岡秀雄)は、淳之介(須賀健太)と親子のような生活を続けていたが、淳之介の実の父親である川淵(小日向文世)は引き取りたいと再三、申し出ていた。大学の同窓会で肩身の狭い思いをして、踊り子のヒロミ(小雪)にも堂々とプロポーズできない茶川は、一念発起して新作を書き上げる。その短編は、芥川賞を狙ったものだった。そんな日々の中、六ちゃんは一緒に上京してきた幼なじみの中山(浅利陽介)と再会する。ほのかな思いを六ちゃんに寄せる中山だが、仕事の方はうまくいかず、悪い先輩にそそのかされて詐欺まがいの手口の片棒を担がされていた。そんな中山の行状を知って六ちゃんは心配する。茶川の小説は、芥川賞の候補として選ばれた。大騒ぎになる三丁目に、受賞するためには審査員を接待する必要があると語る男が現れる。その口車に乗せられて、なけなしの金額を出してしまう則文たち。しかし、それは中山が関わった詐欺だった。芥川賞には落選して、深く落胆する茶川だが、彼を待っていたのは裕福な男からのプロポーズも断ってやってきたヒロミだった。これからは三人で暮らせることに、淳之介も大喜びする。その一方で、父親が迎えにきて、鈴木オートから美加が別れを告げる日がやってきた。ようやく彼女と心が通じあってきた一平は残念でならない。別れの言葉を交わす一平と美加を、三丁目の夕日はやさしく照らし続けていた。--------------------------------------------------------------------------------
2012.01.20
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年齢は1805年時点。ピエール(ピョートル・キリーロヴィチ・ベズウーホフ)伯爵本編の主人公。莫大な財産を持つキーリル・ウラジーミロヴィチ・ベズウーホフ伯爵の私生児の一人。父に愛され、その財産を継ぐ。フランス帰り。力自慢の偉丈夫。意志が弱く放蕩に耽りやすく、肥満している。物語中盤でフリーメーソンに加入。アンドレイ・ニコラーエヴィチ・ボルコンスキィ公爵27歳。青年士官。ピエールの親友。優秀な実務家。アウステルリッツ以降の対ナポレオン戦争に従軍。父ニコライ老公爵の友人クトゥーゾフ将軍の副官などを務め、オーストリア王宮への使者の任にも就いた。マリヤ・ニコラーエヴナ・ボルコンスカヤアンドレイの妹。兄と違い、信心深い。決して美人とはいえないが、美しい瞳を持つ女性。父と共に生活している。ニコライ・イリーイチ・ロストフ伯爵イリヤ・ロストフ伯爵の長男。青年士官としてアウステルリッツに従軍する。軟弱な青年だったが、軍に馴染み、成長していく。浪費癖がある。ナターシャ・ロストワ12歳。ニコライ・ロストフの妹。無邪気で天真爛漫な少女。多くの男性を惹き付ける。ペーチャ(ピョートル・イリーイチ・ロストフ)8歳。ニコライの末の弟。皇帝に心酔し、1812年ごろ、軍に仕官する。ソーニャ14歳。ニコライの又従兄妹。ロストフ伯爵家の居候。幼少の頃からニコライを一途に愛する。ボリスニコライ兄妹の幼馴染。上昇志向が強い。様々な人脈を駆使して出世を遂げていく。幼い頃はナターシャに恋心を抱いていた。ワシーリィ・ドミートリチ・デニーソフロシア軍の士官。歴戦の勇士。アウステルリッツ以来のニコライの戦友。ナターシャに求婚するも受け入れられず。アナトーリ・ワシーリエヴィチ・クラーギン公爵ピエールの親戚にして放蕩仲間。数多の浮名を流す。享楽的。エレン・ワシーリエヴナ・クラーギナアナトーリの姉。絶世の美女にして社交界の花形。弟同様に享楽的な人物で、他者を堕落させる力を有する。財産を欲し、ピエールの妻となる。結婚後も、その放蕩生活は変わらない。ドーロホフアナトーリの友人にして放蕩仲間。アナトーリを金蔓として利用している節がある。対フランス戦にもたびたび参加。活躍は多いが、その気性がたたり、昇格と降格を繰り返している。ミハイル・イラリオーノヴィチ・クトゥーゾフロシア軍の元帥。該当項目参照。作中での評価は高い。「神の意思を見きわめながら、それに自分の個人の意思を従わせる、数少ない、常に孤独な人間」。ナポレオン・ボナパルトフランス皇帝。該当項目参照。優秀な人物と描かれてはいるが、それ以上に「巨大な歯車を前にした英雄の無力」をあらわす好例としての扱いのほうが強い。アレクサンドル1世ロシア皇帝。該当項目参照。作中に度々登場するがその描かれ方は没人格的。各章の概要 [編集] 第一巻 [編集]第一部1805年。ベズウーホフ老伯爵の遺産を巡る争い。第二部アンドレイ及びニコライ・ロストフ、オーストリア戦線に参加。第三部ピエール、エレンと結婚。アウステルリッツの三帝会戦、アンドレイ負傷・フランス軍の捕虜に。第二巻 [編集]1806年から1811年まで。戦場の描写は少なく、詩的な場面が多い。第一部:1806年:ニコライの休暇ニコライ、休暇で戦友デニーソフと共に帰郷。ピエール、エレンの不義を疑い、ドーロホフと決闘、エレンと別居。アンドレイ、捕虜生活から領地に帰還するも、妻リーザは出産後に死亡。デニーソフ、ナターシャに求婚するも拒絶される。ドーロホフ、ソーニャに求婚・拒絶される。その意趣返しにニコライをカード賭博で43000ルーブリ負かす。第二部1807年。ピエール、ヨーシフ・アレクセーエヴィチ・バズデーエフに誘われ、フリーメーソンの結社に入会する。ピエール、アンドレイをフリーメーソンに誘うも、断られる。デニーソフ、隊の物資不足に悩み、友軍の補給物資を強奪。ニコライ、デニーソフ弁護の為に奔走するも果たせず。デニーソフ、負傷し、野戦病院に。第三部1809年8月、アンドレイ、禿山での隠棲を終え、ペテルブルクへ。スペランスキィと親交を持ち、軍規制定委員会・法律制定委員会の一員に。1809年11月。ピエール、エレンと同居再開。ボリス、人脈を得る為フリーメーソンに参加。ニコライの姉ヴェーラ、ベルグと結婚。アンドレイ、ナターシャと婚約。父は結婚に反対し、一年間アンドレイが外国で過ごして互いの気持ちが変わらなければ許可する、と条件を出す。アンドレイ、外国へ。第四部1810年。ロストフ伯爵家の狩猟、仮装パーティなどの余暇を描く。ニコライ、ソーニャに告白するも親の反対に遭う。第五部マリヤ、老ボルコンスキィ公と仲違いする。ナターシャ、エレンに感化され、社交界に足繁く通うようになる。アナトーリ、ナターシャを誘惑し、誘拐を図る。ナターシャ、独断でアンドレイとの婚約を破棄。ピエール、アナトーリを追放、ナターシャに告白。第三巻 [編集]1812年、ナポレオン軍のロシア侵攻。第一部1812年5月。アンドレイ、戦場に復帰。ニコライ、勲功を上げ、軽騎兵隊長に昇進。ナターシャ、一連のスキャンダルの心労から病に。第二部1812年7月。スモレンスクが陥落し、ボルコンスキィ家領にも戦争が迫る。1812年8月15日。老ボルコンスキィ死去。領民の暴動。ニコライの救援により、マリヤ、辛くも脱出する。8月26日、ボロジノ会戦。ピエール、義勇軍を率いて参戦。アンドレイ負傷し、同じく負傷したアナトーリと再会する。アナトーリ死亡。第三部ロシア軍、モスクワ放棄。モスクワ、混乱に陥る。9月1日、ロストフ家疎開。フランス軍、モスクワ略奪、大火へ。9月2日。ナターシャ、疎開中に負傷のため後方に送られるアンドレイと再会、赦される。9月3日。ピエール、幼女を火災から救う。略奪兵の暴行を阻止しようと争い、フランス軍に逮捕される。第四巻 [編集]1812年、ナポレオン軍のモスクワ放棄、撤退、壊走。第一部エレン、誤って服毒死。ロストフ伯婦人、ニコライとマリヤの結婚を望み、ソーニャにニコライへの想いを諦めさせる。ピエール、見せしめの銃殺に立会い、絶望する。しかし同じく捕虜であるプラトン・カラターエフの人格に希望を見出す。マリヤ、死に瀕した兄と再会。アンドレイ死亡。第二部10月6日、フランス軍、撤退開始。タルーチノの戦い。ロシア軍、反撃開始。ピエール、捕虜生活の中に完全な心の安らぎと内的自由を得る。第三部デニーソフ及びドーロホフ、パルチザン部隊長としてフランス軍追撃。仕官したペーチャ、デニーソフと再会、部隊に同行する。夜襲に参加するも戦死。その戦いでピエール救出される。(救出前)ピエール、同じ捕虜カラターエフの中に「真の信仰」を見出し、精神的な革新を遂げるが、カラターエフは落伍、銃殺される。第四部マリヤ、アンドレイの死の悲しみから立ち直り、現実生活に回帰。1812年12月末。ナターシャ、ペーチャの訃報により半狂乱をきたした母を看病する為、「生」に回帰。1813年1月、マリヤ、ナターシャと親友に。ナターシャの気分転換のため、共にモスクワに向かう。(時間前後)1812年11月5日から8日、クラースノエ付近の会戦。追撃するロシア軍の描写。ペレジナ会戦。11月29日、クトゥーゾフ、ヴィルナ入城。12月12日、前日に到着したツァーリから勲一等ゲオルギィ勲章を授与されるも、次第に実権を奪われていき、その役目を終える。解放されたピエール、オリョールで発病、三カ月寝込む。捕虜生活の内に真の「信仰」を得た彼は誰からも好かれる人間に変わる。エレンの遺した負債処理の為、モスクワへ。1813年1月末、ピエール、モスクワ着。五日目の夕方、訪問したマリア宅でナターシャと再会。ナターシャ、アンドレイの死の様子を語り、心の整理を付け、笑顔を取り戻す。ピエール、ナターシャ、互いの愛を悟る。エピローグ(第一部)ピエール・ナターシャ夫妻、ニコライ・マリヤ夫妻のその後を描く。社交界の内外で人望を集めるピエール。ロストフ家の財政を何とか立て直したニコライ。魅力的な少女から善良なる母へと姿をかえたナターシャ。エピローグ(第二部)著者による総括。
2012.01.18
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あらすじ - 姉妹(1955)リンクするにはあらすじ圭子と俊子の姉妹は、山の中の発電所の社宅に住む両親のもとをはなれ、学校に通うために、都会の伯母の家に厄介になっていた。姉の圭子は十七歳、五人姉弟の長女のせいか家庭的な大人しい性質だが、妹の俊子は三つ年下の天真らんまん型。年の割に背が低いので、「近藤のちび」すなわち「こんち」というあだ名で呼ばれていた。姉妹の伯母お民のつれ合いの銀三郎は大工の棟梁で大の酒好きである。時にはいさかいもあるとは云え、夫婦は至って好人物で、姉妹はこの庶民的な伯母夫婦に愛されながらすくすくと成長していた。俊子はある日、同級生のとしみの家へ遊びに行き、としみの姉と弟が二人共障害者なのを知って、幸福は金で求められるものでないと思った。冬休みが来て、二人の姉妹は山の中の父母のところへ帰り、久し振りで戻ったわが家で近所の青年男女と共につつましく楽しい正月をすごした。新学期が来て、姉妹は伯母の家の近所に住む貧しいはつえ一家と知り合ったり、花札とばくで伯父が警察へ連れて行かれたりするような経験にめぐり合った。やがて圭子は学校を卒業し、俊子は寄宿舎へ入った。山の発電所にも人員整理の波が押し寄せ、真面目な父親の健作は、周囲の人達の苦しい生活をはばかって、俊子の修学旅行をも控えさせたが、俊子はそうした悲しみにも耐えた。やがて圭子の嫁ぐ日が来る。俊子は姉が正月のかるた会で一緒だった岡青年と好き合っていたものと思い、ひそかに気をもむのだった。
2012.01.17
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あらすじ東京山手に住む会社員間宮敬介は妻あき子、妹文子と仲のよい三人暮し。だが敬介は最近、部長の碁の相手で帰宅が遅いのであき子と文子はお冠り。同僚行田も親切ごかしに注意するが敬介は平気である。文子は外国人商社に英文タイピストとして勤めている。一昨日、会社へ遊びに来た道夫という青年は、文子が英語に熟達とも知らず、支配人に向って英語で文子のことをこきおろし、種明しに慌てて逃げ出した。その彼が今日も現われて、先日は大へん失礼と食事に誘ったが、デマカセに主人が待っているからと断って来たとあき子に報告。未婚の女性にとっては大事件である。数日後の文子の誕生日、早く帰ってほしいとの電話にも、部長に碁をさそわれている敬介は大弱りである。家では文子の友達たちが集って、ささやかな誕生祝い。そこに道夫から贈り物の花が届く。ある日、敬介は部長の甥が文子をもらいたいといっていると聞く。部長の甥とは道夫青年。妹の意志を聞こうと敬介は食堂で待ち合せを約束したが一足先に来た文子は、敬介に対する同僚達の嫉妬の言葉を小耳にはさむ。日曜日、久しぶりに揃ってピクニックに出た敬介達。昼食の時、縁談を切り出す敬介に、兄の立場を考えた文子は断ってほしいという。翌朝、出勤した敬介は意外にも部長に呼ばれて係長に任命される。だが喜んで部屋に戻ると先日、課長から係長に左遷されたのを敬介の策動と誤解した林に殴りつけられ、憤然として辞表を書き、会社を飛び出す。事件を知るよしもないあき子は、本当は道夫が好きらしい文子の気持を察し、三人で一度話し合おうと諭す。興奮もさめた敬介は夜の街をさまよう中、親友内海の経理事務所を訪れ、彼の仕事を手伝うことになる。生色を取戻した敬介は、新しい職に就いた以上、妹も嫁に行けると喜んで終電で帰って行った。--------------------------------------------------------------------------------
2012.01.16
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あらすじ京都の春。祇園の芸妓や舞妓たちが総出演する都踊りが今年も、歌舞練場で催されていた。なじみの客から「三つ揃え」と呼ばれる美津次、美津ひろ、美津丸の三人は姉妹芸者で通っていたが、実は舞妓の美津丸は美津次の子だった。美津次と美津ひろは二人で一軒の家を持ち、自前芸者として働いていた。その夜、美津次の前の旦那で坊んち育ちの古沢が無一文になって居候に転がり込んできたことから、美津次と美津ひろは争いを生じた。若い世代の女性として芸者という存在に疑問を持つ美津ひろは、美津丸の父古沢への美津次の愛情を旧いときめつけ、早く新しい旦那をつくれと迫るのだった。美津ひろは呉服屋の若い番頭木村が自分に寄せる好意を利用して姉の衣裳を作らせ、さらに古沢の分家岡西が姉に気があるのを察して古沢への手切金を出させ、姉の留守に古沢を追い出した。木村が美津次への衣裳を内密に作ったことがばれて、主人の工藤は美津ひろに文句を言いに来たが彼女にまるめ込まれ、却って旦那になろうと申し出た。ある夜、南禅寺の料亭で二人の祝言の席が設けられた。だが突然現われた木村の姿に、妻文子に知られるのを恐れた工藤はあわてて帰ってしまった。古沢追い出しの真相を知った美津次は、料亭から戻った美津ひろに怒りをぶちまけ、美津丸を連れて古沢の許に移った。木村は美津ひろを誘い出し愛情を打ち明けたが沈黙する彼女を怒って崖から突き落した。一方、美津次は東京に職の見つかった古沢に去られ茫然としたが脚を骨折した美津ひろを病院に見舞い、二人の間には血肉の情がよみがえった。謝罪する木村に美津ひろは結婚を誓い、美津次と美津丸は涙をかくして客の前で踊っていた。--------------------------------------------------------------------------------
2012.01.12
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『暖流』(だんりゅう)は、『朝日新聞』に掲載された岸田國士の長編小説、またこれを原作とした映画・ドラマ化作品である。目次 [非表示] 1 小説2 映画 2.1 1939年版 2.1.1 キャスト2.1.2 スタッフ2.2 1957年版 2.2.1 キャスト2.2.2 スタッフ2.3 1966年版 2.3.1 キャスト2.3.2 スタッフ3 TVドラマ 3.1 1960年版 3.1.1 キャスト3.1.2 スタッフ3.2 1964年版 3.2.1 キャスト3.2.2 スタッフ3.3 1967年版 3.3.1 キャスト3.3.2 スタッフ3.4 1976年版 3.4.1 キャスト3.4.2 スタッフ3.4.3 主題歌3.5 2007年版 3.5.1 登場人物&キャスト3.5.2 スタッフ3.5.3 主題歌小説 [編集] この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 映画 [編集]1957年版 [編集] キャスト [編集]日疋祐三:根上淳石渡ぎん:左幸子志摩啓子:野添ひとみ志摩泰彦:船越英二志摩泰英:小川虎之助志摩滝子:村田知英子(村田知栄子)志摩三喜枝:清水谷薫笹島:品川隆二相良:山茶花究金谷内科部長:大山健二田所外科部長:小杉光史津留博士:春本富士夫風間博士:伊東光一榊博士:高村栄一小田:潮万太郎真岡:杉田康和久井:小原利之熱馬秋子:住友久子篠田高子:金田一敦子中川冴子:南左斗子松下達子:小泉順子安達和子:松平直子看護婦・堤:下平礼子看護婦・恵美:久保田紀子看護婦・秀子:叶順子看護婦・栄子:半谷光子看護婦・邦江:楠よし子看護婦・徳子:響令子婦長橋本:村田扶実子藤休丹後:吉井莞象雪枝:目黒幸子咲子:高野英子煙山弁護士:星ひかる副婦長:加治夏子守衛:伊藤直保テレビ出演の歌手:丸山明宏(現・美輪明宏)スタッフ [編集]監督:増村保造脚本:白坂依志夫撮影:村井博
2012.01.11
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有吉佐和子原作の同名小説を「天国と地獄」の久板栄二郎が脚色、「暖春」の中村登が監督した文芸もの。撮影はコンビの成島東一郎。 (作品資料より)解説 - 紀ノ川有吉佐和子原作の同名小説を「天国と地獄」の久板栄二郎が脚色、「暖春」の中村登が監督した文芸もの。撮影はコンビの成島東一郎。あらすじ - 紀ノ川◇第一話・花の巻・明治三十二年、二十二歳の春を迎えた紀本花は紀州有功村六十谷の旧家真谷家に嫁いだ。夫敬策は二十四歳の若さで村長の要職にあった。婚儀は盛大なものだったが、花を好いていた敬策の弟浩策はう…>>『紀ノ川』あらすじ全文 ※ストーリーの結末が記載されていることがあります。ご注意ください◇第一話・花の巻・明治三十二年、二十二歳の春を迎えた紀本花は紀州有功村六十谷の旧家真谷家に嫁いだ。夫敬策は二十四歳の若さで村長の要職にあった。婚儀は盛大なものだったが、花を好いていた敬策の弟浩策はうかぬ顔たった。翌年の春、ようやく真谷家の家風に慣れた花は妊った。そして花は、実家の祖母豊乃に教えられて慈尊院へ自分の乳房形を献上し、安産を祈った。紀ノ川が台風に荒れ狂う秋、長男政一郎が産れた。長男穣生の報に喜んだ敬策は紀ノ川氾濫を防ぐ大堤防工事を計画するのだった。日露戦争が始まった年、浩策は持山全部をもらって分家し、敬策は県会議員に打って出ようと和歌山市内に居を移した。やがて花は、日本海海戦大勝利の中で長女文緒を産んだ。 ◇第二話・文緒の巻・十七歳の文緒は和歌山高女に学び、新時代に敏感な少女に成長した。そして、新思想の教師が追放されると学校当局と派手に渡りあったりして花を嘆かせた。東京女子大に進学した後も、男女平等を標榜しカフェに出入りしたり、「女権」という同人雑誌の編集に参加したりして敬策や花を心配させた。文緒には真谷家という家門や昔風の美徳に生きる花に対する反撥があったのだ。卒業後文緒は同人仲間の晴海英二と結婚した。晴海は日本正金銀行の社員で家柄もよく、二人の結婚は花や敬策の望むものでもあった。昭和初年、真谷敬策は中央政界に進出した。一方、夫の転勤と共に上海に渡った文緒は生後間もない長男を失い、二度目の出産のため日本に帰った。文緒はすっかり変っていた。以前はことごとく花に反撥した彼女が、花とともに乳房形を作って慈尊院へ詣でるのだった。昭和七年、文緒は長女華子を生んだ。そして大戦が始まる少し前、長年政界にあった敬策が急逝した。花の表情はうつろだった。そんな花を見て、文緒は華子に、真谷家の明治・大正時代がこれで終るのだとささやくのだった。花は真谷家を守ろうと六十谷へ戻った。やがて華子が花のもとに疎開してきた。華子は母と違って琴や古い道具を好み、花に可愛がられた。華子が空襲で炎上する和歌山城を眺めていると花は、和歌山は燃えても華子の祖父の事業は残っている、というのだった。終戦を迎えて真谷家は地主の地位を失った。そして、文緒は今では世間の常識を身につけた中年女性になっていた。夏の日、古くから家に伝わる道具類を虫干ししている時、真谷家のために生きた花、家風に反抗した自分、真谷家に素直になじんでいる華子と、三代にわたった母娘のことを感慨深く思うのだった。ある日、敬策の何回目かの法事を迎えた花は突然、真谷家の家財を売り払い、お祭り騒ぎの宴会をやってのけた。文緒は花の人間復活だと喜んだが、翌日花は床についた。そして、晩春のある日、花は峯子に髪を梳いてもらいながらその生涯を閉じた。明治、大正、昭和と三つの時代を生きぬいた花の臨終だった。--------------------------------------------------------------------------------
2012.01.10
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主人公の渡辺勘治は市役所で市民課長を務め、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民の要望はたらいまわしにされるなど、形式主義がはびこっていた。ある日、渡辺は自分が胃癌で余命いくばくもないことを知る。不意に訪れた死の宣告によってこれまでの自分の人生の意味を見失った渡辺は、市役所を無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよう。そんな中、飲み屋で偶然知り合った小説家の案内でパチンコやダンスホール、ストリップなどを巡る。しかし、一時の放蕩も虚しさだけが残り、事情を知らない家族には白い目で見られるようになる。その翌日、渡辺は市役所を辞めて玩具工場に転職していようとしていた部下の小田切とよと偶然に行きあう。何度か食事を共にし、一緒に時間を過ごすうちに渡辺は若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分が胃癌であることを渡辺がとよに伝えると、とよは自分が工場でつくっている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」といった。その言葉に心を動かされた渡辺は次の日、市役所に復帰する。それから5ヶ月がたち、渡辺は死んだ。渡辺の通夜では、同僚たちが、役所に復帰したあとの渡辺の様子を語り始める。渡辺は復帰後、頭の固い役所の上司らを相手に粘り強く働きかけ、ついに住民の要望だった公園を完成させ、雪の降る夜に完成した公園のブランコに揺られて息をひきとったのだった。渡辺の通夜から助役など上司たちが退出すると、市役所の同僚たちは実は常日頃から感じていた「お役所仕事」への疑問を吐き出し、口々に渡辺の功績を讃え、これまでの自分たちが行ってきたやり方の批判を始めた。通夜の翌日、市役所では通夜の席で渡辺を讃えていた同僚たちが相変わらずの「お役所仕事」を続けている。しかし、渡辺のつくった新しい公園は、子供たちの笑い声で溢れていた。--------------------------------------------------------------------------------以上で物語・作品・登場人物に関する核心部分の記述は終わりです。--------------------------------------------------------------------------------キャスト [編集]志村喬 - 渡邊勘治(市役所市民課長)金子信雄 - 渡邊光男(勘治の長男)関京子 - 渡邊一枝(光男の妻)小堀誠 - 渡邊喜一(勘治の兄)浦辺粂子 - 渡邊たつ(勘治の兄嫁)南美江 - 家政婦小田切みき - 小田切とよ(市役所臨時職員)藤原釜足 - 大野(市民課係長)山田巳之助 - 齋藤(市民課主任)田中春男 - 坂井(市民課職員)左卜全 - 小原(市民課職員)千秋実 - 野口(市民課職員)日守新一 - 木村(市民課職員)中村伸郎 - 市役所助役阿部九洲男 - 市会議員林幹 - 土木部長小川虎之助 - 公園課長清水将夫 - 医師木村功 - 医師の助手渡辺篤 - 患者伊藤雄之助 - 小説家丹阿弥谷津子 - スタンド・バーのマダム永井智雄 - 新聞記者村上冬樹 - 新聞記者青野平義 - 新聞記者宮口精二 - やくざの親分加東大介 - やくざの子分堺左千夫 - やくざの子分(ノンクレジット)広瀬正一 - やくざの子分(ノンクレジット)宇野晃司 - やくざの子分(ノンクレジット)千葉一郎 - 焼香する警官三好栄子 - 陳情の主婦菅井きん - 陳情の主婦一万慈多鶴恵 - 陳情の主婦(ノンクレジット)上遠野澄代 - 陳情の主婦(ノンクレジット)谷晃 - 飲み屋の親父長濱藤夫 - 下水課職員河崎堅男 - 土木課職員勝本圭一郎 - 公園課職員瀬良明 - 市役所職員光秋次郎 - 市役所幹部(ノンクレジット)鈴木治夫 - 衛生課受付職員(ノンクレジット)今井和雄 - 予防課受付職員(ノンクレジット)加藤茂雄 - 防疫係受付職員(ノンクレジット)安芸津広 - 虫疫係受付所職員(ノンクレジット)川越一平 - 道路課受付職員(ノンクレジット)津田光男 - 都市計画部受付職員(ノンクレジット)榊田敬二 - 区画整理課受付職員(ノンクレジット)熊谷二良 - 消防署職員(ノンクレジット)夏木順平 - 病院待合所の患者(ノンクレジット)深見泰三 - 野球場の男小島洋々 - 総務課長登山晴子 - 焼香の客安雙三枝 - 焼香の客小泉博 - ジャズバーの客(ノンクレジット)向井淳一郎 - 映画館の客(ノンクレジット)以下の3人は「特別出演」としてクレジットされている。市村俊幸 - ジャズバー・ピアニスト倉本春枝 - ジャズバー・ダンサーラサ・サヤ - ヌード・ダンサー特記事項 [編集]作中に引用された『トウ・ヤング』『カモナ・マイ・ハウス』など、アメリカのポップスの著作権をめぐってトラブルが起こり、1974年(昭和49年)までリバイバル上映が出来なかった。
2012.01.09
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あらすじ [編集]--------------------------------------------------------------------------------注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。免責事項もお読みください。--------------------------------------------------------------------------------お鹿婆さんこと向山鹿は、釜ヶ崎で1泊60円の簡易旅館「釜ヶ谷荘」を営む一方で高利貸しも行っている。がめつい性格は周辺の人々にも有名だが、戦災孤児のテコを引き取って育てる一面もある。「釜ヶ谷荘」に定住している人々は多く、ポンコツ屋の熊吉と占い師のおたか、マッサージ師の圭子、鹿の娘である咲と共謀して美人局をしている「通天閣の雄」、ニコヨンの世話人である「播州の鉄」、麻薬屋の源さん、かつては女形の役者として活躍していた実川深之丞、千三つ屋の神田に加え、ホルモン料理の屋台を出している小山田初枝と絹の姉妹もいる。かつて、小山田姉妹の父は「釜ヶ崎荘」周辺の土地を所有していたが、家族で疎開している間に、鹿を始めとする人々に勝手に使われてしまった。妹の絹は鹿の息子の健太と親密な仲だが、姉の初枝は鹿から土地を取り返したいと強く望んでいる。そんな初枝に熊吉がおたかの目を盗んで接近し、手を貸すと告げる。戸惑いながらも初枝は熊吉の申し出を受け入れる。そんなある日、鹿の亡くなった夫の弟だという彦八がやって来て、鹿が3000万を貯め込んでいることを知っていると暗にほのめかす。土地を返すように頼み込んでもまともに取り合おうとしない鹿に、初枝は訴訟を起こすことを告げる。そこに熊吉がやって来て、弁護士を料理屋に連れて来たから会おうと初枝を誘い、宿を出る。初枝の体を奪うとともに土地の権利書を取り上げた熊吉は、次の日に健太たちに土地の売買を持ちかけるが、鹿に拒絶され、話はなかったこととなる。熊吉が出て行った後に戻って来た初枝は、2人から権利書を売りに来たと教えられて驚き、熊吉を探しに出かける。鹿が梅干しの瓶に入れてしまい込んでいた金を勘定していると、健太がやって来て、絹と結婚するから財産の半分をくれと頼み込む。断る鹿ともめているうちに、健太は鹿の首を絞めてしまう。騒ぎに驚いて集まった住人の1人である風船売りの「閣下」の人工呼吸によって事なきを得たところにテコがやって来て、自分の知らない男たちが「釜ヶ谷荘」を取り壊すと言っていたことを住人に告げる。あわてて出て行った住人たちと入れ違いで入って来た彦八が鹿の金の入った瓶を探していると、テコに見つかってしまう。彦八は、梅干しが好きだから800円で瓶を売ってくれと、テコに頼む。本当に梅干しが好きなのかと念を押した上で、テコは彦八に梅干しの瓶を1つ渡す。改めて彦八が瓶の中を確認すると、そこには金はなく、ただ梅干しが入っていた。権利書を土建屋に売った熊吉がカフェーでホステスをからかっていると、初枝がやって来て権利書を返して欲しいと頼み込む。馬鹿にする熊吉を初枝は隠し持っていたナイフで刺し、逃げる熊吉をなお追いかける。一方、鹿と健太は、権利書を手にした土建屋の升金と土地の売買について話し合う。熊吉が刺されたのを見た鹿は、土地を買う方が得だとわかっているものの、立ち退けば初枝と争うこともなくなり、絹も健太と幸せになれると考え、升金に立退き料を支払ってもらうことにする。そして、亡くなった熊吉の身包みをはいで近所の空家に埋めた住人たちに立退き料を払った鹿は、絹を健太の嫁にもらいたいと、初枝に頼む。警察に自首すると言う初枝に、絹は熊吉のような悪人は殺しても罪にならないと反対する。しかし、初枝は普通の世間に出るためにはそう言う態度は通じないと諭し、さらにパン屋を営業していたこともあるおたかに、自分が出所したら一緒にパン屋をやろうと言う。やがて「釜ヶ谷荘」は取り壊され、空地になる。結局、鹿のもとから金を得られなかった彦八はやりたい事業も出来ず、大阪の千三つ屋から制裁を受け、そこを通りかかった鹿とテコにも邪険に扱われる。簡易旅館の経営を辞めてからの鹿は、お金を貯め込んでいるにもかかわらず、テコと乞食を始めていた。一方、健太と絹は玉3つを5人前にして売るうどん屋を始め、咲は雄と一緒に美人局を続けている。制作の背景 [編集] 芸術祭主催公演作品 [編集]芸術座が開場した1957年頃、当時東宝の演劇担当取締役であった菊田を中心に、月に1度企画委員会が開かれた。この会合では観客増員を議題にしていたが、「大阪におもしろい婆さんがいる」[2]と、実在の女性アパート経営者に関する話が出たことがきっかけとなって、作品が作り込まれていった。そして、文化庁から委嘱されて芸術祭の主催公演を目的に書き下ろしたため、ある程度は格調を保った脚本にすることが求められたが、委嘱作品であるために作者は芸術祭関連の賞を受賞することはないとされていた。そのため、菊田は賞を狙おうと考えることはなく、ただ面白い芝居を制作することを考えていたと証言している[4]。形容詞「がめつい」の造語 [編集]この作品で菊田が造語したとされているのが「がめつい」という言葉である。「がめつい」は、強欲で抜け目のない、ごまかすの意味の「ガメル」に「ツイ」をつけた形容詞[5]だが、戦前の広辞苑には掲載されていない[6]。菊田が作品で使う前には、大阪でも一般的に使われず、関西出身の家族でさえこのような言葉は聞いたことがない[7]と、谷崎潤一郎は自身のエッセイ『当世鹿もどき』で述べている。この言葉の語源については、南河内や神戸の一部の地方で使われた「がみつい(=南河内では因業な様を、神戸では乱暴な様を指す)」と「がめる」を重ね合わせたとする説[8]と、大阪弁の「がんまち(=自分勝手、欲深く出しゃばる様を指す)」と「がめる」を重ね合わせたとする説[9]がある。ロングラン公演の影響 [編集]272日の上演日数の中、およそ370回の上演を行い、20万8600人もの観客を動員した。フジテレビ・KRテレビ・日本テレビ・NHK総合テレビの4局が、公演を順次中継放送するほどであった。客席が少ない芸術座の採算を軌道に乗せるためにも、このようなロングラン公演は菊田の念願であったが、この成功により、芸術座の秋の公演はほぼ芸術祭主催公演に当てられることが慣例となった[10]。翌年から上演され、後々まで上演されるようになった『放浪記』もまた、芸術祭主催公演用に書き下ろされた作品である。好評であったことから菊田は続演を決めたが、そのために本来ならば次に芸術座で行おうとしていた公演を中止したので、俳優から裏方に至るまで、次の公演に関係する全ての人々にキャンセル料を支払うことになった。中止の采配を振ったのは東宝で演劇関連を担当していた横山清二であったが、横山は次の公演の主役からも苦情を言われただけでなく、出演していない俳優には別の仕事を与えなければならなくなったと、俳優管理の面でも支障が生じたことを証言している[11]。キャスト・スタッフ [編集] 主なキャスト [編集]芸術座公演の際には以下の俳優が演じた。複数の俳優がリレーして演じた役もある。向山鹿 - 三益愛子健太 - 中村扇雀・林成年・高島忠夫・太刀川寛・藤木悠お咲 - 高岡奈千子・表泰子小山田絹 - 八千草薫・司葉子・浜木綿子・原知佐子・峯京子向山彦八 - 榎本健一テコ - 中山千夏おたか - 浦島千歌子小山田初枝 - 森光子・乙羽信子熊吉 - 田武謙三・井上孝雄主なスタッフ [編集]演出:菊田一夫装置:伊藤熹朔音楽:古関裕而
2011.12.28
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源氏物語 千年の謎監督: 鶴橋康夫 出演: 生田斗真、中谷美紀、東山紀之、真木よう子、田中麗奈、窪塚洋介、多部未華子、芦名星、蓮佛美沙子、榎木孝明、甲本雅裕、東儀秀樹 公開: 2011年12月10日 劇場予告を観た時から、斗真の美しい源氏にウキウキし、楽しみにしていた当作品・・・。有楽町朝日ホールにて試写会鑑賞。まず・・・映画に予習は要らないと常々言いつつも・・・この映画に関しては、「源氏物語」をある程度でも知っておく必要がありそうだ。「観に来る人は「源氏物語」を知っている」という前提の上で作られているとしか思えません。その他、この時代における男女関係のあれこれ。。。も、知っておいた方が良い。この時代において、位の高い方の夜這いは犯罪じゃないんで、そこんとこよろしくあとは、藤原道長という人がどういう人かも解っておいた方が良い。そうしないと、「何、誰、この唐突な展開・・・」と驚くことになるシーンあり(知ってても唐突過ぎてビックリしたけどな)あとは、この時代の風習とか。道長と紫式部と「源氏物語」の関係とか。亡霊や鬼が出てきたとしても「なにこれ」と思わない心構えが必要である。だって、この時代には鬼は本当に日本にいたのである。多くの書物がそう書いているのだから、仕方が間違いない。病気なども「もののけ」の仕業なこの時代。治癒を願うには医師よりも「ご祈祷」の時代なのだ。(だから死亡率もハンパなかったわけである。)鬼が人を襲い、呪いと占いが横行し、もののけが歩き回る・・・平安時代とは、何ともファンタジックな時代なのだ。それを理解した上で観た方が、現実主義頭で観るよりも数段面白い。ストーリーは、紫式部が「源氏物語」を書いている現実世界と、「物語」の中を行ったり来たりする。私は生田斗真が主役なのだとばかり思っていたけれども、これの主役はどう見ても中谷美紀演じる式部と、藤原道長、すなわち東山紀之である。ここで簡単歴史講座(必要ない方は読み飛ばしましょう)「源氏物語」は、藤原道長が紫式部に書かせた(他説もある)平安ラブロマンス小説である。では、どうして、そんな物を書かせたか?時の権力者であった道長は、妻・倫子との間に生まれた長女の彰子を一条天皇の元へ入内させた。入内させるというのは、簡単に言えば嫁に入れる事だが、実際にはそんな簡単な事ではない。何せ、帝のもとには、他にもウヨウヨ御后が入内しているのである。つまりライバルがいっぱいこの時代、娘を入内させて何が欲しいって、男児の誕生です。自分の娘が産んだ親王が次の天皇位に就けば、道長は天皇のお祖父ちゃんである。つまり欲しいのは「最高権力者の地位」これである。しかし、肝心の娘に帝が振り返らず、局に通ってくれなければどうにもならない。そこで、当時の女御たちの後ろ盾は、色々と知恵を絞った。つまり、娘たちは美しいだけではダメだったのである。学をつけたり、会話で楽しませたり、笛で惹きつけたり…大変な努力が必要だったのだ。当時は、当然ゲームもなければテレビもパソコンもない。娯楽といったら、音楽に浸ったり踊りを見たり…そして物語を読んだり。そこで、道長は、文才に溢れているという式部をスカウトした。帝が少しでもいっぱい、少しでも長く娘・彰子の局に留まってくれるように…足しげく通って、娘を身籠らせてくれるように・・・道長の狙いは当たり、式部が書いた「源氏物語」は、朝廷内で大ベストセラーに。皆が「早く続きを読みたい、続きを読みたい」と彰子の元を訪れる。当然、帝も続きが知りたくて彰子の元を訪れる・・・「源氏物語」は、こんな感じで作られ、当時の朝廷で広まっていった。で、映画のストーリーとしては、この式部と道長の関係に重きを置いている。式部の不安定な精神状態が「源氏物語」を作り出しているというわけです。設定としては、なかなか新解釈で面白い。(しかし、私の中の藤原道長イメージとしては有りえない気がする。そこんとこはネタバレ欄で)現実世界の話が、ちょっと丈長で、若干眠気を誘われた・・・もう少し物語世界の方を描いた方が良かったのでは・・・真木よう子は大好きな女優だけど、私の藤壺イメージとはちょっと違うんだよね…だったらこの年代の女優で誰が良いだろうと考えたところ、思いつかなかったんだけど。美しくて女性らしく、理知的で優しさに溢れ、憂いを秘めた・・・う~ん・・・綾瀬はるかとか…それもちょっと違うか…ここで簡単「源氏物語」講座(必要ない方は読み飛ばしましょう)「源氏物語」の主人公・光源氏は、桐壺帝(物語の中の天皇)と、寵愛を受けていた桐壺更衣の間に産まれる。小さいころから愛らしく美しい子であり「光の君」などと言われていた。源氏が3つの頃、母である桐壷が亡くなる。(この映画では産んだ時に亡くなった事になっていた)以降、源氏は母の面影を求めて、あまたの女人を渡り歩くようになる。父は源氏を愛していたが、桐壷は身分の低い出自で後ろ盾がないため、宮廷争いに巻き込むよりもと源氏という姓を与えて臣下とした。それでも、源氏はその美貌と、歌、楽、書と全ての才に恵まれ、また、帝の子なのに臣下の身分という憂いを秘めた趣が朝廷中の女人から注目されて、一大モテ男として君臨していくのだった。しかし、モテるつもりはないんだけど、女の方がほっといてくれないんで~みたいなプレイボーイ(死語か)ぶりを発揮している内に、源氏にあまたの女難が降りかかるようになってくる。源氏はいつになったら理想の女性に巡り合い、幸せになることが出来るのかそんな、平安一大モテ男子女人放浪記。そして永遠に母の面影を女人に追い続ける一大マザコン男の伴侶探し。それが「源氏物語」なのである。俳優陣としては、斗真の源氏は私はもう文句なく素晴らしいと思い・・・意外だったのは「有りえない」と思っていた多部未華子の葵の上が良かったこと。多部ちゃんもそうだけど、田中麗奈も蓮佛美沙子も、声がすごくいい声~?と、思われるかも知れないけれども、薄暗い中で相手を見ていたこの時代、女性の声はヒジョーに重要なのですよ。声、香り、歌(歌といっても音楽ではなくて和歌よ)これがこの時代の「美人の条件」ね。とにかく…、田中麗奈さんの六条御息所は、本当に…本当に素晴らしかったキャスト見た時点ではイメージじゃないと思っていたんだけど、なんだろう、この演技の幅の大きさ。今まで色々な映画で田中麗奈を見てきたけれども、ここまで素晴らしい女優だとは気付かなかった。六条御息所のあまりの哀れさには、涙が出た・・・この映画で唯一の泣き所。調度やお着物含め、映像は素晴らしいので、観るならスクリーンで観ることをお薦めしたい。でも、男性には退屈かも~・・・試写会でも、女性率の高さに驚いたし少なくとも2001年の『千年の恋 ひかる源氏物語』よりは何百倍か良いと思うちなみに、「源氏物語」を楽しみに見に行く方へこの作品で描かれているのは六条御息所まで。紫の上も明石の御方も出てきません。ご注意を。ここまで、長々とお読みくださった方は、まことにありがとうございました。
2011.12.16
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★他視点から見る戦争映画 美しい太平洋の孤島、ガダルカナル。 遠景の山々、広がる草原、丘陵のうねるように滑らかな緑の起伏。そしてなめるように吹き抜ける優しい風。黄緑色の草が風になびいて爽やかな音をたてている…。美しすぎる情景で空気を切り裂く弾丸。一歩足を踏み入れたその場所はやはり戦場でした。 これまでの戦争映画の視点をつき破った異色の戦争映画。 折々にふと映し出される現地の人々、色鮮やかな鳥たち。戦争の地である一方で、やはりそこには現地の人々の生活がありました。 そして、そのひとコマが戦争をしている兵士たちをふと我に返らせるのです。 そんな兵士たちが感じるのは生死の間際で戦っている自分と普通の生活をしていた頃の自分。その落差に悩む兵士が選んだのは部隊からの逃避でした。 部隊に復帰した後、逃走兵として懲罰部隊に配属され、最前線に配置されることが分かっていても、つかの間の休息を求めて逃げ出さずにはいられない兵士たち。 戦争映画に特有の息苦しさや熱気・切迫感ではなく、一歩引いた、醒めた視点で、米軍の兵士ひとりひとりの戦争を内面に迫って描く群衆劇です。 この作品は戦争映画のジャンルに分類されるとはいえ、既成の映画とは異なる視点を提供してくれる戦争映画だと思います。 この映画は、戦争をよりドラマティックに、英雄譚として描く『プライベート・ライアン』(1998)もしくは『バンド・オブ・ブラザーズ』(2001)などと異なり、ただ淡々と、個々の兵士に起きた平凡な戦争の現実を綴っていきます。 これを象徴する場面があります。 上官と対立し、不本意にもアメリカへの送還を告げられた者がそれに抗うことなく去っていくシーン。部下たちが上官に本国送還を思いとどまるように訴えると息巻くのですが、当人は冷静にこう告げます。 「本国に帰って、妻や子供と静かに過ごしたい」と。ここでは、本国送還に徹底して反抗するか、せめて戦地にいられず、残念だという気持ちを表すのがある意味、戦争映画のセオリーになっているはずです。 しかし、彼はそんな「勇気」ある行動をとることはありません。 戦争という究極的な場面で、人間は戦争に飲み込まれ、いつしか視野が狭くなっていきます。そして、戦争という状況下では不本意な本国送還には断固拒否の姿勢をとるべきで、それが英雄的行為であるとみなされるような価値判断がされるようになっていきます。 ガダルカナルという島は、戦場であるけれど、他方では現地の人々の生活があります。同様に、自分にとって戦争は人生の一面にすぎないことにも気がつかない。 そんな中で、絶対に忘れないはずの祖国の記憶も、戦争という極限の状況下で麻痺した意識の下に追いやられていく。生死を賭けて戦う前線では生き残ること以外は考えていられないからです。 そして、気がつかぬうちに、いつの間にか戦争が全ての判断基準になっていくのです。 本国送還になった兵士はその通知を受け取ったことで、忘れかけていた自分を取り戻し、戦争のループから自分を追い出すことに成功したのです。 彼にとっての「勇気」とは生きて祖国に帰ることでした。 大ヒットを狙える作品ではありませんが、「人間」というものの存在を戦争というフィルターを通して表現した作品として、こういった戦争映画もあっていいと思います。
2011.12.13
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あらすじ - 二百三高地十九世紀末。ロシアの南下政策は満州からさらに朝鮮にまで及び、朝鮮半島の支配権を目指す誕生間もない明治維新政府の意図と真っ向から衝突した。開戦か外交による妥協か、国内では激論がうずまいていた。軍事力、…>>『二百三高地』あらすじ全文 ※ストーリーの結末が記載されていることがあります。ご注意ください十九世紀末。ロシアの南下政策は満州からさらに朝鮮にまで及び、朝鮮半島の支配権を目指す誕生間もない明治維新政府の意図と真っ向から衝突した。開戦か外交による妥協か、国内では激論がうずまいていた。軍事力、経済力ともに弱小な日本にとってロシアは敵にするには強大すぎた。しかし、幾度となく開かれる元老閣僚会議で、次第に開戦論がたかまっていくがロシアの強大さを熟知している伊藤博文は戦争回避を主張していた。巷でも、開戦論で民衆を煽動する壮士グループと、戦争反対を叫ぶ平民社とが対立。ある日、開戦論に興奮した民衆が平民社の若い女、佐知に殴りかかろうとしているところを、通りがかった小賀が救った。その頃、伊藤は参謀本部次長の児玉源太郎と会見、対露戦の勝算を問うていた。児玉は早いうちにロシアに打撃を与え、講和に持ち込むしか勝つ道はないと訴えた。明治三十七年二月四日、御前会議で明治天皇は開戦の決議に裁可を下した。ここに日露戦争の幕が切っておとされた。日本軍は陸と海で破竹の進撃を開始した。伊藤は前法相の金子堅太郎をよび、アメリカのルーズベルト大統領に講和の調停役を引き受けるように説得を要請する。そうしたなかでも、神田のニコライ堂ではロシア人司祭によるロシア語の講座が細々と続けられ、出席していた小賀は、そこで偶然にも佐知に出会った。思いがけぬ再会に、二人の間に愛が芽生えた。やがて、金沢の小学校教師である小賀も出征することになり、彼を慕って金沢までやって来た佐知と愛を確かめあう。小賀の小隊には、豆腐屋の九市、ヤクザの牛若、その他梅谷や米川たちがいた。戦況は次第に厳しさを増し、海軍はロシア東洋艦隊に手こずり、陸軍は新たに第三軍を編成、司令官に乃木希典を命じた。旅順の陥落が乃木にかせられた任務だったが、ロシアはここに世界一という大要塞を築いていた。ロシア軍の機関銃の前に、日本軍は屍体の山を築いていく。絶望的な戦いの中で、小賀と部下たちの間に人間的な絆が生まれていった。しかし、戦いで部下を失った小賀の胸には戦争への怒りと、ロシア人への憎しみが燃えあがっていた。十一月二十七日、司令部は二百三高地攻撃を決定した。その日、小賀は捕虜の通訳を命じられたが、「兵には国家も司令官もない、焦熱地獄に焼かれてゆく苦痛があるだけ」と拒否、その言葉は激しく乃木の胸を打った。十二月六日、乃木に代って指揮をとった児玉のもと、二百三高地攻撃が開始された。戦闘は激烈を極め、乃木は鬼と化していた。そして、三一五〇名の戦死者と、六八五〇名の負傷者という尊い犠牲を払い、二百三高地はおちた。しかし、小賀たちの一隊は、ロシアの少年兵との激闘の末、戦死してしまう。一ヵ月後、旅順は陥落、これが翌三十八年三月の奉天大会戦の勝利、さらには日本海大海戦の勝利へとつながった。翌三十九年一月十四日、乃木は天皇はじめ皇族、元老が居ならぶ前で軍状報告を行なったが、復命書を読み進むうちに、小賀や多くの兵のことが心をよぎり、落涙を禁じえなかった。--------------------------------------------------------------------------------
2011.12.12
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これほど世界的な漫画と知らず、観に行きました。スピルバーグはこれから3部連作となるのでしょうが、子供の目の高さの名作となるでしょう。ときどき寝てしまった。ごめん監督12月1日(木)に日本公開されるスティーヴン・スピルバーグ監督の最新作で、監督初の3D映画でもある『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』の最新ビジュアルがこのほど解禁になり、世界をまたにかける壮大な冒険に飛び出す名探偵タンタンの勇姿が公開された。 『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』『タンタンの冒険…』は、全世界で2億冊以上を売り上げているベルギー生まれの同名人気コミックシリーズを原作にした作品。愛らしいルックスの少年記者タンタンと相棒の白いフォックステリアのスノーウィが、17世紀に洋上で姿を消した船“ユニコーン号”の隠された財宝をめぐって大冒険を繰り広げる姿を描く。このほど公開された最新ビジュアルは、“インターナショナル版最新ポスタービジュアル”と命名されたもので、サイドカー付きの二輪車で荒野をかけるタンタン少年と相棒スノーウィの姿が大きくデザインされ、その背後には物語の鍵を握る“ユニコーン号”や、タンタンと行動を共にする大酒のみのハドック船長も登場。タイトルロゴ下部にはスピルバーグ作品初となる“IN 3D”の文字がデザインされている。スピルバーグ監督は原作の大ファンで、コミックのイメージを損なわないように実写することに力を注いだと以前よりコメントしており、先日パリで行われた記者会見でも「本の中のキャラクターの心は、映画の中のキャラクターの心と一緒なんだ。タンタンは粘り強く、若い探検家であり、レポーターであるという基本的なところは変わらないし、本を読むたびに僕は彼の未解明の謎を解くことにかけての情熱に感動を覚えたよ」と振り返り、「タンタンがいつも何もないところから、大酒のみのハドック船長のような想像もできないパートナーたちと素晴らしい関係を築いていくことを賞賛していたんだ。彼ら二人の関係は影と光の関係で、タンタンはとても正確であるのに対し、ハドック船長はつまづきながら一緒に全ての問題を解決していくんだ。原作本と同様に映画の中でもね」とコメント。原作への深い愛情を表明するのと同時に、原作のテイストを残したままの映像化に自信を見せているようだ。『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』
2011.12.02
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1965年高校3年暗い先行きのない世代で金もなかったのか、見なかった。見ても今ほどの老人になって、わかることも、当時わかすぎてわかるまい。確かに日本も経済成長するわけでありまして、私たちもかわりました。概要 [編集]前作『007 ロシアより愛をこめて』のヒットで、シリーズの人気を決定付けたが、この映画でさらに人気を不動のものとしたと言っても過言ではない。ガンバレルから始まるオープニングとボンドの活躍、ボンドが世界各地を飛び回る、Qの研究室に訪れ多種多様な秘密兵器の説明とそれらの兵器を受け取る、ボンドカーの登場など、現在の007シリーズの基礎がこの作品である。また、初めてスペクターが出てこない作品でもある。本作は1964年の世界興行収入で1位の映画となり[3][4]、日本では1964年の外国映画興行成績で第3位[5]、1965年には日本映画も含めた興行成績で第1位[6]となった。ストーリー [編集]メキシコで革命家ラミレスの工場を爆破したジェームズ・ボンドは、襲ってきたラミレスの手下をバスタブで感電させ返り討ちにした。その後ボンドはマイアミへ飛び、ホテルで富豪のオーリック・ゴールドフィンガーが行っていたカードゲーム(ジン・ラミー)のイカサマを妨害して、彼の手伝いをしていたジル・マスターソンと親密になる。だが、ボンドはゴールドフィンガーの部下オッド・ジョブに襲われ気絶し、その間にジルは裏切りの報いで全身に金粉を塗られて殺されてしまった。ボンドはMから、ゴールドフィンガーの金の密輸に関し調査するよう命令され、彼の経営するゴルフ場で旧ナチスの金塊(トプリッツ湖より回収した、その量実に5000ポンドにものぼる1940年エッセン製のもの)を餌に賭けゴルフを行う。ボンドはラフに入ったゴールドフィンガーのボールを足で踏みつけ隠すと、オッド・ジョブが偽ボールを用意してイカサマをしたので、ボールをすり替えてルール違反で負けさせた。ボンドは、ゴールドフィンガーのロールス・ロイスにホーマー(発信器)をつけ、彼が乗ったジュネーブ行き400便を追う。スイス国内をアストンマーチン・DB5で尾行中、フルカ峠で女性がゴールドフィンガーを狙った弾が当たりそうになり、ボンドは彼女の車を追跡して、特殊装備でタイヤをパンクさせる。彼女はティリー・ソームズと偽名を名乗ったが、実はジルの妹ティリー・マスターソンで、ゴールドフィンガーを仇と狙っていたのだ。その夜、ボンドはオーリック社の工場に潜入し、ロールス・ロイスのボディを18金製に替えて密輸したことを知り、「グランド・スラム計画」なる言葉を聞く。一方、ティリーはゴールドフィンガーを再度狙撃しようとし、ボンドはそれを阻止するが、二人は一味に発見され、ティリーはオッド・ジョブに殺されてしまった。捕まったボンドは、レーザー光線で殺されそうになるが、「グランド・スラム計画」を知っているとはったりを言って救われる。ボンドは女性パイロットのプッシー・ガロアが操縦する飛行機で、アメリカのケンタッキー州に連行される。途中、洗面所でマイ・リー乗務員の監視をすり抜け、ホーマーを装着する。プッシー・ガロア空中サーカスがある飛行場に到着後、オーリック牧場の地下に監禁されるが、牢獄を抜け出し、「グランド・スラム計画」の概要を盗み聞きする。「グランド・スラム計画」とは、アメリカで大量に金塊を保有するフォート・ノックス(Fort Knox)上空で、プッシー(報酬でバハマ移住を計画)達がミスター・ミッドナイトより手に入れたデルタ9(殺人ガス)を(「15分で消滅するが24時間失神する神経ガス」と騙され)散布。その後、フォート・ノックスに入り核爆弾で金塊を核汚染(58年間汚染される)。それにより、西側の金の株価は下落。ゴールドフィンガーが保有している金の株価を上昇させる、というものであった。グランド・スラム計画に乗らなかったシンジケートのボスの一人ソーローは、オッド・ジョブに殺され車(リンカーン・コンチネンタル)ごとスクラップにされてしまった。ボンドは、馬小屋でプッシー・ガロアと親密になって彼女を改心させ、CIAに連絡させる一方、散布するガスを詰め替えさせた。ゴールドフィンガーの計画は失敗し、彼はボンド、オッド・ジョブ、キッシュを金庫に閉じこめ逃走した。キッシュは核爆弾を停止しようとするが、オッド・ジョブに1階から地下3階(12m)に落とされて死ぬ。ボンドはオッド・ジョブと格闘して感電死させ、7秒手前で核爆弾を停止させた。ボンドは、アメリカ大統領に招待され飛行機に乗る。だが、ゴールドフィンガーが現れて争い、彼は銃撃で割れた窓から空中に吸い出された。ボンドとプッシーは、パラシュートで脱出し助かるのであった。キャラクターとキャスト [編集]ボンドガールのプッシー・ガロアは、ボンドガール人気投票では『ドクター・ノオ』のハニー・ライダーと常に一・二を争う人気キャラクターとなっている。プッシー役を演じたオナー・ブラックマンは撮影当時37歳で、これは今日に至るまで歴代ボンドガールの中では最高齢記録。プッシー・ガロアの「Pussy」は女性器を意味する語で、このため他国公開にあたってはこのキャラクターの名前をキティー・ガロアに変えたところもあった。オナー・ブラックマンはインタビューでこのことを聞かれると、きまって「ただのジョークなのに。ヘンな意味に捉える方がよっぽどいやらしいわ」と返答していた。しかしやはり、この名前は相当インパクトがあったようで、「名前を口にするとき、これほどひるんでしまうものはない。」と答えている。オッド・ジョブ役を演じたハロルド坂田はロンドンオリンピックで重量挙げの銀メダリストとなった日系人で、本名トシユキ・サカタ。のちトシ・サカタとして悪役プロレスラーとなり、チャンピオン位を獲得したこともある(一時、トシ・トーゴーと名乗り、グレート東郷の弟と称していたこともあった)。ゴールドフィンガーで映画初出演、撮影当時も現役プロレスラーだった。感電死するシーンの撮影中に火傷するが、カットがかかるまで手を離さなかった。なお、後にアメリカでヴィックス・フォーミュラ44(咳止め薬)のCMに出演。オッド・ジョブの格好で咳をするたびに周囲の物を壊し、薬で収まったときには街中が破壊されていたという内容であった。ゴールドフィンガー役を演じたゲルト・フレーベはドイツ人で流暢な英語が話せなかった。映画の中で聞こえるゴールドフィンガーの声はすべてマイケル・コリンズによる吹き替えである。原作ではゴールドフィンガーはソ連特務機関スメルシュの支援を受けていた。映画では過去2作の悪役はスメルシュから犯罪組織スペクターの所属に変えられていたが、本作ではどちらの組織とも無関係な独立した犯罪者となっている。CIAのフェリックス・ライターは映画では2度目の登場となるが、第1作『ドクター・ノオ』のジャック・ロードに替わり、セク・リンダーが演じている。リンダーは、角川映画『復活の日』にも出演(セシル・リンダー名義)。なお、原作でのライターは、小説第2作『死ぬのは奴らだ』で負傷した後、CIAを退職してピンカートン探偵社に就職。本作でも同社の探偵としてボンドに協力する。秘密兵器など [編集] アストンマーチン・DB5初の本格的ボンドカーとしてアストンマーチン・DB5(DP216-1プロトタイプ)が登場。Qブランチの開発で、ボンドがそれまで乗っていたベントレー(前作『ロシアより愛をこめて』に登場)と交換に支給された。以下を装備。 防弾ガラス(フロント、サイド、リア)。回転式可変ナンバープレート。各国に正式登録してある。4711・EA・62(フランス)⇔BMT216A(イギリス)⇔LU・6789(スイス)。発信機ホーマー(後述)の受信機。ダッシュボードに格納。有効距離150マイル(約240km)。ディスプレイに地図(その中心が自分の車の位置)が表示され、発信元の位置が光点として点滅する[7]。劇中ではライター(CIA)の車両にも搭載されており、Q(もしくはイギリス)の開発品とは限らない。タイヤのハブから回転式の刃がせり出し、併走する車のタイヤをパンクさせる。後部より煙幕を張り、追跡する車の視界を妨害。テールランプからオイルを撒き、追跡する車をスリップさせる。防弾板。車体後部にせり上がる。屋根の一部が開き、助手席を上方に射出。シフトレバーのグリップに隠しスイッチがあり、ワンタッチで作動。この他、劇中には登場しなかったものとして、撒きびし(タイヤパンク用・真似されるとの懸念から登場せず)、攻撃用バンパー、自動車電話、運転席下に格納する武器などが用意されていた。DB5は撮影用2台、宣伝用2台が使用された。エリザベス女王の在位40周年記念式典でもお披露目される。使用したタイヤがピレリーとドン・ノットの2種類あることを9歳児に指摘された。なお、DB5はこの後、他の作品にも登場する。このDB5は、ラジオアナウンサーのジェリー・リーが1969年に1万2千ドルで購入し所有していたが、2010年10月27日にロンドンで競売にかけられることになった[8][9]。その結果、アメリカ合衆国のビジネスマンが落札したが、落札額は事前の予想350万ポンドを下回り、290万ポンドであった[10][11]。ホーマー(発信機)。前述の受信機に対応。二種類のサイズがある。小型のものは、携帯用安全剃刀の柄の中に隠してあり、靴のかかとの中にはめ込むことができるようにもなっている。より大型のものは磁石がついていて、追跡したい車に装着が可能。この他、Qの研究室では以下のものを開発中。 ガスを噴出するパーキングメーター。防弾チョッキ。着用した人間にマシンガンを実射するが、Qはボンドにこれは未完成だと述べる。ゴールドフィンガーの自家用機の中で、マイ・リーはボンドのアタッシェケースが検査中に破損したと述べている。劇中に実物の映像は登場しないが、これは前作『ロシアより愛をこめて』で00要員の標準装備になったアタッシェケースのことだと考えられている。縁に刃物を仕込んだ山高帽。オッド・ジョブの武器。投げつけて石像の首を切断したり、人間を殺害したりする。 この山高帽は、様々なところでパロディ・オマージュの対象になっている。日本では『ジョジョの奇妙な冒険』第一部のスピードワゴン、『怪物くん』のドラキュラ(ただし一回だけ)、『破裏拳ポリマー』の私立探偵・車錠など。
2011.11.30
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この手水野晴夫さんの手だって 1964年高校1年生の正月映画か2年生になって観たのかわからないが、オリエンタル急行列車の乱闘ともったいないモーターボウト、ヘリコプタの炎上くらいしかおぼえてない。あらすじ 犯罪組織「スペクター」は、クラブ諸島の領主ノオ博士の秘密基地を破壊し、アメリカ月ロケットの軌道妨害を阻止した英国海外情報局の諜報員007ことジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)への復讐、それもソビエト情報局の美人女性情報員と暗号解読機「レクター」を餌にボンドを「辱めて殺す」事で両国に泥を塗り外交関係を悪化させ、更にその機に乗じて解読機を強奪するという、一石三鳥の計画を立案した。実はスペクターの幹部であるソビエト情報局のクレッブ大佐(ロッテ・レーニャ)は、真相を知らない部下の情報員タチアナ・ロマノヴァ(ダニエラ・ビアンキ)を騙し、暗号解読機を持ってイギリスに亡命する様、また亡命時にはボンドが連行する事が条件だと言う様に命令する。英国海外情報局のトルコ支局長・ケリム(ペドロ・アルメンダリス)からタチアナの亡命要請を受けたボンドは、罠の匂いを感じつつも、トルコのイスタンブルに赴いた。しかし、そこにはスペクターの刺客・グラント(ロバート・ショウ)が待っていた……。概要前作の成功により、さらにアクションを取り入れた活劇大作。屈強な殺し屋との格闘、ヘリコプターによる追跡、ボートでの脱走と、見せ場が次から次に登場する。一方で、前作の後半で見られたSF色の強い展開は、リアリティを意識して抑えられている。ダニエラ・ビアンキは、知性の中に色気とチャーミングさを覗かせ、その後のボンド・ガールの方向性を確立した。ボンドのアクションにおける強敵としてのグラントのキャラクター、支給品の秘密兵器(ここでは決まった手順であけないと催涙ガスが噴き出す仕組みのアタッシェケース)がクライマックスで重要な伏線になること、何よりもオープニング・テーマの前に「プレ・アクション」が入るようになったことなど、後続作品に踏襲されることになるパターンの多くが、本作で形作られた。原作は刊行当時(1956年)の趨勢を反映して、英国秘密情報部対ソ連特務機関スメルシュの図式となっているが、映画では政治問題を避けて前作に続き犯罪組織「スペクター」を主敵としている。しかし、映画作品内といえども当時のソ連にとって好ましくない描写もあったため、同国ではその後007シリーズは御法度とされていたという。主題歌 [編集]ライオネル・バート(Lionel Bart、1930年 - 1999年)が作曲、バラード・シンガーのマット・モンロー(Matt Monro、1932年 - 1985年)が唄う同名タイトルの主題歌が大ヒットした。イギリスの「メロディ・メーカー」誌では、最高位20位を獲得、また、ジョン・バリー・オーケストラの演奏による同主題歌もチャートに登場し、最高位39位を記録している。アメリカではチャート入りは果たしていないが、サウンドトラック・アルバムは、アメリカの「ビルボード」誌アルバム・チャートで最高位27位を獲得している。タイトル 1964年4月の公開当時の邦題の「危機一発」は、髪の毛一本の僅差で生じる危機的状況を意味する「危機一髪」と銃弾「一発」をかけた一種の洒落で、当時ユナイト映画の宣伝部にいた映画評論家の水野晴郎が考案したとされる。その後、「危機一発」という語句は「ドラゴン危機一発」や「黒ひげ危機一発」、映画では「ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!」でも用いられた。これによって、本来の表記も「危機一発」であるとの誤解が広まったともいわれる。原作小説の邦題『ロシアから愛をこめて』を「ロシアより」に変えたのは「ロシア経由で」と「ロシアへの愛(母国愛)以上に」の2つの意味を持たせるためだったという可能性がある(「ロシアから」だと後者の意味が欠ける)。キャラクター、キャストなど [編集] ロッテ・レーニャ(1962年撮影) デスモンド・リュウェリン(1992年撮影)本作は、ケリム・ベイを演じたペドロ・アルメンダリスにとって遺作となる。撮影当時、すでに末期癌に冒されており、彼の出演部分が撮影終了した直後にUCLA病院に入院したが、そこで拳銃自殺を図ってしまった。なお、息子の「二世」が「消されたライセンス」に出演している。レッド・グラントを鍛え上げたスペクター秘密訓練所の責任者・モゼニー役のウォルター・ゴテルは、後に『私を愛したスパイ』~『リビング・デイライツ』でソビエト情報局のゴーゴル将軍を演じた。映画版では本作で初めてスペクターの No.1 ブロフェルドが登場するが、顔も見せなければ名前も明らかにしない。この人物を演じたのは、『ドクター・ノオ』で配下のデントを演じたアンソニー・ドーソン。声はエリック・ポールマンがアフレコをしている。 映画版ブロフェルドのペットはペルシャ猫で、本作以降も毎回膝の上に抱くシーンが登場。その他、本作では水槽に闘魚(Siamese fighting fish)を飼っていた。クロンスティーン(スペクターNo.5)役のヴラディク・シェイバルは、番外編『カジノ・ロワイヤル』にも、ル・シフルの部下として登場。ポーランド出身の俳優で、テレビシリーズ『謎の円盤UFO』のドクター・ジャクソン役などでも知られる。ブースロイド役が、前作のピーター・バートンからデスモンド・リュウェリンに替わる。本作では装備主任(Equipment Officer)と紹介され、ボンドに特殊装備のアタッシェケースを渡す。「Q」と呼ばれるようになるのは、次作の『ゴールドフィンガー』からで、シリーズでもお馴染みとなっているボンドとの掛け合いも次作以降。この後、第8作『死ぬのは奴らだ』を除き、第19作『ワールド・イズ・ノット・イナフ』までのシリーズ全作品に登場することになる。前作『ドクター・ノオ』でボンドとカジノで知り合った、ユーニス・ゲイソン演ずるシルビア・トレンチが再び登場。レギュラー化の計画もあったというが、結局本作が最後の登場となった。原作のエンディングでは、小説第1作『カジノ・ロワイヤル』でボンドに協力したフランス参謀本部2課のルネ・マティスが顔を見せるが、本作では出てこない。このキャラクターは、2006年の『カジノ・ロワイヤル』でモンテネグロの現地部員と設定変更されて、ようやく登場している。秘密兵器など ローライフレックスブリーフ・ケース(英「スウェニー&アドニー」製。後に「スウェニー、アドニー&ブリックス」と社名変更)には、AR-7用銃弾20発、ナイフ、ソブリン金貨50枚(25枚ずつ2本のストラップに収納)が隠されており、赤外線照準器付きアーマライトAR-7が入っている(AR-7にはスコープは付属しないため、収納式ストックは専用に改造されている)。また、タルカム・パウダーの容器に詰めた催涙ガスをセットすると、ケースを普通に開けた際ガスが噴出する。これを避けるには、つまみを水平に回してから開く。Qブランチが開発したもので、ブースロイド少佐から説明を受けた後、Mの命令で携帯させられた(MI6諜報員の標準装備で劇中でボンドの応援にやってきた諜報員も持っていた。ただしこの諜報員はボンドになりすましたグラントに殺された)。盗聴器探知機。電話に仕掛けられた盗聴器を探知。特に他のものに偽装はしていない。ローライフレックス・2眼レフカメラに偽装した小型オープンリール・テープレコーダー。レッド・グラントの腕時計。竜頭を引くとワイヤーが伸び、これを相手の首に巻きつけて絞め殺す。ナイフを仕込んだ靴。スペクターのローザ・クレッブが使用。 原作によると、ナイフに塗られていたのはフグ毒で有名なテトロドトキシン。原作ではこれを刺されたボンドが呼吸困難に陥り「一体どうなるのか!?」というところで終わってしまう。次作『ドクター・ノオ』で、その後人工呼吸によってボンドが一命を取り留めたことが明らかになるが、映画では製作順序が逆になったため、このエピソードは変更されている。特殊装備搭載のボンドカーは、まだ登場しない。本作の序盤で、ボンドはベントレーマークIV・コンバーチブルに乗っている。自動車電話付きで、ポケットベルで呼び出しを受けたボンドは、この電話で本部と連絡を取る。どちらも、当時はまだ珍しいものであった。 原作のボンドは、初め1933年式ベントレー・コンバーチブルに乗っていたが、第3作『ムーンレイカー』で大破してしまい、1953年型の二台目に乗り換えた。その他 イスタンブル地下貯水池 聖ソフィア寺院 シルケジ駅 2005年に本作のゲーム版がPSP、PS2用ソフトとして発売されている。ジェームズ・ボンドの声をショーン・コネリーが担当している。1961年、ライフ誌に載ったケネディ大統領の愛読書10冊の中に、本作の原作が入っていた。ボンドとシルビア・トレンチが河畔でピクニックをしているシーンは、イギリスのバークシャーにあるハーレーでロケされた。ボンドはパンアメリカン航空のボーイング707旅客機で、イスタンブルのイェシルキョイ空港に到着する。なお同機は世界一周便の「PA001」便という設定であった。ケリムはボンドを船に乗せ、地下貯水池をソ連領事館の真下まで案内する。ケリムがボンドを連れて行った村のシーンは、イスタンブルのアジア側郊外にあるペンディク(Pendik)でロケされた。ボンドはボスポラス海峡クルーズ船の上で、タチアナからレクターの情報を聞き出す。ボンドがタチアナの持ち出したソ連領事館の青写真を入手した場所は、聖ソフィア寺院。レクターを奪取したボンドは、タチアナを連れシルケジ駅からオリエント急行に乗車。ストーリー上では、列車はその後ユーゴスラビアのベオグラードとザグレブに停車。ブロフェルドがクレッブとクロンスティーンを責める場面で、ブロフェルドがはめていた指輪が、次のカットになると反対の指にはめられている。グラントと戦いこれを倒したボンドは、タチアナを連れユーゴスラビア国内の踏み切りで下車し、トラックで陸路を逃亡した後、ボートでアドリア海を航行してヴェネツィアへ至る。 原作では、グラントとの戦いはスイス・イタリア国境のシンプロントンネル内で行われ、その後ボンドたちは、フランスのディジョンで途中下車してパリへと到る。トラックがヘリコプターに追われるシーンや、ボートチェイスのシーンは、実際はスコットランドで撮影された。ボンドがヘリを撃墜し、隠れていた岩陰から出てくるシーンで、居るはずのない人影(スタッフ?)が映っている。ボンドとタチアナはヴェネツィアで運河をクルーズし、ため息橋の下を通過する。このシーンではコネリーとビアンキは現地ロケを行っておらず、スタジオでスクリーン・プロセス撮影をしている。ケリムを負傷させたソ連の狙撃者クリレンクの隠れ家は、巨大な映画広告の裏にある。この映画は、ブロッコリとサルツマンのイオン・プロが、本作と同じ1963年に制作した『腰抜けアフリカ博士』である。クリレンクは、看板いっぱいに描かれたヒロインであるアニタ・エクバーグの口の部分に作られた出口から脱出しようとしたところを、ケリムに狙撃され落命する。なお、原作では映画『ナイアガラ』の広告になっていて、マリリン・モンローの口から脱出する。オリエント急行の食堂車で、ボンドたちは舌平目のグリルを食べる。この料理にボンドはテタンジェ・コント・ド・シャンパーニュ・ブラン・ド・ブランを注文。一方グラントは、赤ワインのキャンティを注文し、ボンドの不審を招く。映画での敵役はスペクターだが、原作ではスメルシュとなっている。また原作での黒幕はイワン・シーロフであり、彼は実在した人物である。リバイバル上映時のポスターは、トレードマークのワルサーPPKを持つボンドの適当な写真がなかったため、モデルガンを水野晴郎が持って写真に撮り、ショーン・コネリーの写真にPPKを持つ腕の部分だけ合成して作られた。イギリス版の予告編もアメリカ版の予告編も主要なキャストの名前はあがっているが、一人だけ例外がいる。ショーン・コネリーの名前である。
2011.11.29
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先週末父の追善供養があり、ひさしぶりの関西でした。帰りの1日を秋深まる京都をとおもい。満席のバスで高尾さんにのぼり栂尾、槙の尾ともに、紅葉はまだはやかったが秋をたのしむ。京都駅地下で買った弁当を真ん中の寺で食べ、帰路立命館平和ミュウジアムを通過した。おじと父たちは大正という時代にうまれ戦争に遭遇された世代である。平和というものに反対する者ではないが、あのパネル写真は、日本人の水漬くかばねは痛々しい。中国の戦争記念館とは趣旨がことなるであろうが、日本人に配慮のない、残された遺族はこれをみれば、なんとおもわれるのか。立命館大学の猛省をうながしたくおもいました。平和ミュウジアムは写真をおろしなさい。京都に原爆がおちなかったのは、奇跡であって、戦後いわれた京都は文化都市で原爆からはずしたという根拠のない美談?をも疑うものです。
2011.11.28
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キャラクター、キャストなど [編集] ショーン・コネリー ウルスラ・アンドレス演ずるハニー・ライダーボンド役の候補には、ケーリー・グラントやパトリック・マクグーハン、後に三代目ボンドとなるロジャー・ムーアなどが挙がっていた。ボンドの初登場シーンは、ロンドンのアンバサダー・クラブ(Le Cercle,Les Ambassadeurs London)のカジノである。そして此処でボンドが言う、"Bond, James Bond" は、以後シリーズで恒例の名乗り方となる。ドクターノオは、原作者イアン・フレミングの従兄弟クリストファー・リーを意識して書かれたと言われている。そして、そのクリストファー・リーは、『007 黄金銃を持つ男』で悪役スカラマンガを演じている。その後、ドクター・ノオはパロディ版『カジノ・ロワイヤル』(犯罪組織の首領でル・シッフルの上司、ただし名前はノオではなくノア)、アニメ「JAMES BOND Jr.」(日本未公開)、海外製ゲームソフト「ゴールデンアイ ダーク・エージェント」などに再登場し、それぞれ対決相手として、引退したボンド、ボンドの甥、ボンドの元同僚で悪に転じたスパイと戦っている(部下の殺し屋にはオナトップなどがいるらしい)。ドクター・ノオの部屋に置かれていた絵画を見て、ボンドが驚く。この絵画は、ゴヤの『ウェリントン公爵の肖像』で、実物は1961年(映画公開前年)、ロンドンのナショナルギャラリーから盗まれていた。犯人はドクター・ノオだったというお遊び[7]。実際に盗んだのはケンプトン・バントン[8]という人物で、1965年になってこの絵を返還し、警察に出頭した。このシーンは本映画に冷淡だった批評家にも絶賛された[3]。この出来事のパロディなのか、ウェリントン公爵は第15作『リビング・デイライツ』の終盤ボンドの命を救う事になった。ウルスラ・アンドレス演ずるハニー・ライダーが白いビキニ姿で海から上がってくるシーンは、007シリーズを通しても有名なシーンの一つで、2003年にBBCのチャンネル4が行った投票では、「最もセクシーなシーン」に選ばれた[9]。このときアンドレスが着ていたビキニは、2001年2月にクリスティーズのオークションに出品され[10][11][12]、プラネット・ハリウッドの共同創業者ロバート・アールによって3万5千ポンドで落札された[13]。銃の専門家として、ピーター・バートン演ずるブースロイド少佐が登場する。ブースロイド少佐役は、映画第2作『ロシアより愛をこめて』からデスモンド・リュウェリンに変わり、次の『ゴールドフィンガー』からQと呼ばれるようになる。なお、ブースロイドの名は実在の銃器研究家ジェフリー・ブースロイド[14]から拝借したものである。この人物は、原作者のフレミングに手紙を書いて、「.25口径のベレッタは女性用の銃だ」と意見した。ボンドの銃が.32口径のワルサーPPKに変更されたのは、その意見が反映されたのだという[15]。CIAエージェントのフェリックス・ライターは、原作では第1作『カジノ・ロワイヤル』から登場し、しばしばボンドに協力する盟友であるが、実は『ドクター・ノオ』には登場していない。本作でライターを演じたジャック・ロードは、後にテレビシリーズ『ハワイ5-0』のスティーブ・マクギャレットが当たり役となるアメリカの俳優である。ライターは、映画版でも原作同様しばしば登場することになるが、俳優は毎回異なっており。二度演じたのは『死ぬのは奴らだ』と『消されたライセンス』のデビッド・ヘディスンと、『カジノ・ロワイヤル』と『慰めの報酬』のジェフリー・ライトのみである。原作では第2作の『死ぬのは奴らだ』もジャマイカを舞台にしており、ストラングウェイズやクオレルは、そこで一度登場したキャラクターであった。映画の『死ぬのは奴らだ』は製作順序が後になったうえ、舞台も変更されてしまったが、クオレルの息子クオレル・Jr.が登場する。空港に登場するフォトグラファーを演じているのは、マーゲリット・ルウォーズ。航空会社 BWIA の空港カウンター職員をしているところを、ヤング監督にスカウトされ出演が決まったが、実はミス・ジャマイカでもあった。ボンドを拉致しようとする運転手役のレジー・カーターは、彼女の義兄である。また、ボンドとライターが食事するバックで演奏している楽団は、ジャマイカのバイロン・リー&ドラゴネアズである[16]。リージェンツ・パーク ジャマイカの海岸 ウェリントン公爵の肖像初回上映時の邦題『007は殺しの番号』は、字幕を担当した映画翻訳家の高瀬鎮夫が進言して採用された[17]。ボンドはライターにスーツはどこの仕立てかを聞かれ、サヴィル・ロウ(ロンドンの高級仕立て屋街)と答えているが、実際に仕立てたのは、サヴィル・ロウに近いコンデュイット(コンジット)・ストリートに店を構えていたアンソニー・シンクレアであった。元もとは陸軍将校を顧客にしていたテーラーで、陸軍出身のヤング監督がその常連だったことから、撮影用のコネリーのスーツの仕立てを依頼された。また、コネリー着用のシャツは、ロンドンのジャーミン・ストリートに本店のある、1885年創業のターンブル&アッサー製。元もとはオーダー・メイドのシャツの店で、チャールズ皇太子やウィンストン・チャーチル御用達としても知られる[16]。呼び出しを受けたボンドが赴いたのは、某ビル内にあるユニバーサル貿易(Universal Exports)であった。これは、007シリーズの英国秘密情報部が使っている隠れ蓑の会社で、原作ではリージェンツ・パーク沿いのビルにあることになっている。映画では、ここでMが自分を MI7 (DVDの英語字幕では MI6 に変えられている)の部長だと述べており、実在のMI6ではない架空の組織となっている(映画で所属組織が MI6 となったのは、『ゴールデンアイ』からである)。ボンドはオフィスに入ると、自分の帽子を投げて奥にある帽子掛けに掛ける。これもシリーズ恒例のシーンとなり、帽子をかぶる習慣がすたれてからも、形を変えてしばしば登場した。1960年代中頃には、多くのバラエティ番組などで真似されたり、パロディ化されたりした。Mのオフィスを退出した後、ボンドの自宅のシーンがある。ボンドは、ドクター・ノオに1955年のドン・ペリニヨンを出され、1953年もののほうがいいと述べた(本映画シリーズで恒例となるスノビズムの始まりという指摘がある[3])。ドクター・ノオは、中国の実在の犯罪組織トング(Tong)の元メンバー。原作ではその後独立し、ソ連を商売相手にアメリカの誘導ミサイル実験の妨害を行う。映画では、架空の組織スペクターの幹部。スペクター(SPECTRE)とは、SPecial Executive for Couter-Intelligence, Terrorism, Revenge, and Extrotion (防諜・テロ・報復・恐喝を目的とする特別執行機関)の略。英単語のspectre(幽霊。米語ではspecter)に掛けている(小説でスペクターが登場するのは、『サンダーボール作戦』からである)。ドクター・ノオは、映画ではミサイルだけでなくアメリカの月ロケットの妨害も企む。本作公開前年の1961年にケネディ大統領が、1960年代中に人間を月に着陸させると声明を行い話題になっていた。しかし、劇中に出てくる映像は、前段階の有人宇宙飛行に過ぎないマーキュリー計画のものである。秘密兵器など [編集] ワルサーPPK サンビーム・アルパイン本作では、後の作品のような奇抜な兵器はほとんど登場しない。特殊装備を施したボンドカーも、まだ登場しない。ボンドはレンタルした1961年型サンビーム・アルパインで、カーチェイスを行う。ワルサーPPK(.32口径/7.65mm)。ボンドはベレッタM1919(.25口径/6.35mm)を使用していたが、前回の任務で作動トラブルため失敗を犯し、病院送りとなった。そのため、Mの命令で銃の専門家ブースロイドから、このワルサーを支給される。しかし、劇中でコネリーが使用していた銃はPPKではなく銃身の長いPPである(小道具担当はあまり銃器に詳しくないようで、スミス&ウェッソンがコルトであったり、PPKを持っているはずのボンドがデント教授をブローニングで殺害したりしている)。なお、前回の任務とは、原作では『ロシアより愛をこめて』のことなのだが、映画では製作順が逆になってしまったため、『ロシアより-』の結末は原作とは違っている。ガイガーカウンター。調査に必要となり、ロンドンから送らせた。何か他のものに偽装しているわけではなく、正真正銘のガイガーカウンターである。ドラゴン戦車。ドクター・ノオの島であるクラブ・キーを警備する車両。ドラゴンに偽装し、火炎放射器を装備している。ドクター・ノオは、島にドラゴンがいるという噂を流し、迷信深い漁師が近づかないようにした。デント教授を射殺するシーンで、ボンドの靴下の位置がシーンによって上下する。また、途中でワルサーPPKからFN ブローニングM1910に変化する。
2011.11.28
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Moneyball その2続く低年俸選手 [編集]アスレチックスが獲得する選手は、他球団で評価されない「欠陥品」・「傷物」とされた選手である。この欠陥とは他球団の価値基準においてであり、アスレチックスの基準においては必ずしも問題とはならない。前述の能力を有していれば、これらの欠陥はほとんど問題にされない。 例えば、ボストン・レッドソックスの捕手だったスコット・ハッテバーグは、捕手として致命的な利き腕に怪我を負い、手術したため選手生命は絶望的な評価をされ、年俸が低かった。しかし、高い出塁率を残していたことをアスレチックスに注目され、アスレチックスに内野手として獲得された。その結果、主軸打者として活躍した。選手が競技者として致命的な怪我を負い復帰した直後は、市場価値が急落しているために、交渉しやすいことが利点である。 後述のスカウティング・ドラフトにおいても、代理人(エージェント)の付くスターアマチュア選手は契約金が高くなるため、代理人の付いていない選手を優先した。長期複数年契約 [編集]有望な若手選手とは、年俸調停権やFA権を取得する前の早い時期から複数年契約を結ぶことで年俸を抑制した。特にバリー・ジート(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)、マーク・マルダー(現セントルイス・カージナルス)、ティム・ハドソン(現アトランタ・ブレーブス)の先発投手3名は成績に対しての年俸が低く、コストパフォーマンスが極めて高い。FA権を取得すると年俸が必然的に上がるため、トレードで放出した。詳しくはトレードの項を参照。トレード [編集]また、年俸が高くなると判断した選手は、躊躇無くトレードに出すのも特徴である。その場合獲得するのは原則として、若手で前述の要素を満たしている選手である。前述の要素は他球団では年俸に反映されることがあまり無く、低い移籍金で獲得が可能である。FA権を取得した選手もほとんど引き止めることはない。FA権を用いて選手が他球団へ移籍した場合、MLBの制度ではドラフト指名権が優遇されるため、代替選手の獲得も容易となるためである。逆に、状況を活用して並の選手の数値(セーブポイントなど)を上げ、高い移籍金で売り飛ばす方法で運営資金を獲得した。『マネー・ボール』の中では「がらくたを押しつける」と表現された。 チームの主軸の年俸が上がったために手放した場合でも、その選手の能力を細分化し複数の選手を獲得・運用することでその穴を埋めた。「将来性」といったようなデータで証明できない曖昧な要素は考慮せず即戦力を求める。 選手生命に影響するような怪我をした直後の選手は市場価格が暴落するため、獲得に動くことは常套手段のひとつである。『マネー・ボール』出版以降はビーンの戦略が広く知れ渡ったため、前述の指標を満たす選手の市場価値が一部では上がっている(例えば、高い出塁率を誇る選手は以前ほど安価に獲得できなくなった)。スカウティング・ドラフト [編集]旧来の、スカウトの暗黙知(経験や勘)による選手評価を全否定し、客観的データ主義を徹底した。体格やバッティング・ピッチングフォームなどの外見は考慮しない。あくまで、前述の要素を満たす選手を獲得することに注力した。スカウトの選手を判断する基準が主観的(この選手は伸びる、才能を秘めている、など)であったことや、元選手のスカウトが選手時代の経験に基づいて判断を行っていたため、不確実であることや戦略立てて選手を獲得出来ないという欠点を抱えていた。また、スカウト陣が閉鎖的・前時代的な価値観を捨てられず、ビーンの方針とそぐわなかったため、大半を解雇した。また、選手の身辺調査・素行調査も行い、本人の言動・交友関係・家族の犯罪歴の有無などから将来悪影響を及ぼす可能性があると判断した選手は徹底して獲得候補から排除した。また、不確実性の排除はそのまま高校生選手の獲得の排除に繋がった。プレーオフでの苦戦 [編集]ビーン政権下のアスレチックスはレギュラーシーズンには強さを見せ、毎年のようにプレーオフに進出するものの、ワールドシリーズには進出できていない。この一因は、先述のような出塁率等を重視するチーム編成・戦術は、多くの試合を重ねる中で勝率を高めていくことに主眼を置くものであり、勝率ではなく先に定められた数の勝利を挙げなくてはならない短期決戦には必ずしも向いてはいない点にあるといわれるが、そもそも、最大でも7試合しか行わないプレーオフでは数値に「揺らぎ」が出やすいため、長期のレギュラーシーズンに比べて、チームの戦略や選手の能力よりも運や偶然が結果を左右しやすい。ビーンも「プレーオフまで進出させることが仕事」と現状の分析方法および戦術の短期決戦における限界を認めている。反響 [編集] マネー・ボールが与えた影響 [編集]「マネー・ボール」が発表されてから5年が経過した2008年時点においては、「マネー・ボール」とは単なる著書名に留まらず、「出塁率(特に四球の多さ)を重視する、盗塁と犠打は極力避ける、ドラフトでは高校生よりも大学生を優先指名する」と言った「セイバーメトリクスに基づいた理論・戦略・戦術・作戦・選手評価システム・補強・編成・マネジメント」の総称としても用いられるようになっている[1][2][3]。かつて1910年代以前は極めて長打が出難い状況だったので、どのチームも皆一様にスモール・ボールを基本戦術として採用していたが、20年代に入るとボール反発力が飛躍的にアップ、一躍ホームラン時代の幕が開き、小技・足攻を仕掛けて細かく得点を積み重ねるよりも、腰をすえて一発長打攻勢を狙う方が大量得点を挙げるためにはいたって効果的となった。以後、現在に至るまでの永きにわたってビッグ・ボールがMLB全体の主流となったわけであるが、このようなスタイルを極限まで突き詰めた戦術、それがマネー・ボールである[4]。すなわち、統計学の分析手法に基づいて出塁率と長打率を重んじ、犠打や盗塁は非効率的として極力敬遠する訳だが、このようなマネー・ボール戦法は、実はアスレチックスが先駆者と言う訳ではなく、1960年代末から80年代にかけて4度のリーグ優勝を果たしたボルチモア・オリオールズも取り入れていた。「一点しか取りに行かなかったら、一点しか取れない」と考えるアール・ウィーバー監督は、小技とスピードに依存することを潔しとせず、「投手力と守備力、3ラン・ホームラン」を信条としていたことで広く知られている[4]。「マネー・ボール」が世に出てから5年の月日が流れ、その間日米で大きな反響と議論を呼んだが、歴史のある野球界においてはその主張が余りにも突飛過ぎ、かつ旧来の野球観を揶揄・否定する様な記述が多かったため、一部の人々から反発と反感を買った。彼等は「スモール・ボールこそ至高の戦術――スマート・ボール(スマートな戦い方)」と崇拝し、ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムに代表される機動力野球( + 早打ち[5])に賞賛を惜しまず、逆にアスレチックスのような「不動戦法」を無策・無能として下に見る傾向が強い。彼等がスモール・ボールを礼賛する時、その裏側には対立概念であるマネー・ボールを貶めようとする情念が透けて見える[4]。ビリー・ビーンがアスレチックスで実践している「マネー・ボール」の思想は、「低予算でいかに好チームを作り上げるか」という発想に根ざしている点にある。ビリー・ビーンが出塁率(四球)を重要視したのは、それが理に適っているだけでなく、他チームがそれを軽視していたため、セレクティブ・ヒッター(選球眼が鋭い打者)を安価で獲得することが出来たからである。すなわち、貧乏球団が金満球団と互角に戦うために編み出された苦肉の策であり、言わば「貧者の野球理論」である[3]。セオ・エプスタイン旧主派から非難を受けたマネー・ボールではあるがやはり反響も大きく、次第にマネーボールを模倣する球団が次々に現れるようになった。そのため出版された当時と2010年現在では状況に変化が生じており、マネー・ボールの内容が球界に広く浸透した今となっては、出塁率(四球)に注目することはどのチームにとっても当然のこととなった[2]。特に、セオ・エプスタインGMのボストン・レッドソックスに代表されるように、豊富な資金力を誇る球団までもがこぞってビーンの手法を模倣してセイバーメトリクスを重視するようになると、旧来の指標や主観的な要素によって過小評価されている選手を安価で獲得することが難しくなり、2000年代の後半からアスレチックスの成績も低迷するようになった[6]。そのため、今日では彼の哲学にも若干変化が生じており、近年は守備や走塁にも比重を掛けるようになった[1]。実際、2009年シーズンのアスレチックスはラージャイ・デービスが41盗塁(リーグ4位)を記録。翌年も同選手が50盗塁(リーグ2位)を記録し、クリフ・ペニントンも29盗塁を記録。チーム盗塁数でも19年ぶりに150を越え(リーグ3位)、犠打数は12年ぶりに40を越えるなど、これらのスタイルに変化が生じた[7]。これについて、ビーンは「状況は絶えず変化する」と語っており(変わらないのはアスレチックスの年俸総額ぐらいである)、現在は試行錯誤の時期であることを認めている[8]。批判・論争 [編集]出版から時が経ち、本書において重要な位置を占める2002年のMLBドラフトの成果が定まってくると、その評価に関する論争が盛んになった。アスレチックスがこの年のドラフトで1巡目指名(補完指名を含む)した7選手のうち、メジャーリーグで一定の実績を残したのはニック・スウィッシャー、ジョー・ブラントン、マーク・ティーエンの3名である。これを多いと見るか、少ないと見るかについては意見が分かれているが、ビーンは「成功」だと自負している。アスレチックスのエリック・クボタスカウト部長は、「アマチュア選手の将来を予想するのは極めて難しい。『マネー・ボール』は、それを少しでもうまくやるためのもの」と語っており、当時のアスレチックスでビーンGMの右腕であったポール・デポデスタは、「メジャーに昇格する確率は、1巡目でも50%、2巡目で25%、3巡目だと10%になる。それぐらいギャンブル的なことだ。基本的には、優秀なメジャーリーガーを1人でも発掘できれば、そのドラフトは良しとすべきなんだ」と述べ、『マネー・ボール』で用いられた手法が万能なものではないことを認めている。それでも、本書で特にスポットライトが当てられたジェレミー・ブラウンは、マネー・ボールの象徴的存在としてのプレッシャーと戦わなくてはならなくなった[9]。2008年に、ブラウンがメジャーで芽が出ないまま引退した際には、「マネー・ボールは死んだのか?」という議論が沸き起こった[10]。このドラフトでは、ビーンが指名を避けた高校生投手の中から、コール・ハメルズ、マット・ケイン、スコット・カズミアーなどの一流投手が育ったことも批判の対象となった。しかし、ビーンは後に、高校生選手を完全に否定しているわけではないと述べ、本書の記述にやや誇張があることを示唆した[8]。その他には、主役のビーンを引き立てるために、シカゴ・ホワイトソックスのケニー・ウィリアムズGMなど、ビーンのライバルとなる立場の人物が、まるで無能のように描かれてしまっているということや、スコット・ボラスが代理人を務めていた選手の指名回避など、裏に存在していたであろう事情についての描写が薄いという指摘もある[8]。
2011.11.10
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『マネー・ボール』(原題:Moneyball: The Art of Winning An Unfair Game 「マネーボール:不公平なゲームに勝利する技術」)は、マイケル・ルイスによるアメリカ合衆国のノンフィクション書籍。邦訳版の副題は「奇跡のチームをつくった男」。メジャーリーグの貧乏球団・オークランド・アスレチックスのビリー・ビーンGMが、セイバーメトリクスと呼ばれる独自の手法を用いて、プレーオフ常連の強豪チームを作り上げていく様子を描いた。2003年に米国で発売され、ベストセラーになった。2011年にベネット・ミラー監督、ブラッド・ピット主演で映画化された。目次1 概要2 セイバーメトリクスによるチーム編成 2.1 チーム編成基準 2.1.1 野手 2.1.1.1 重要な要素2.1.1.2 重要視されない要素2.1.2 投手 2.1.2.1 重要な要素2.1.2.2 重要視されない要素2.1.3 補足2.1.4 低年俸選手2.2 長期複数年契約2.3 トレード2.4 スカウティング・ドラフト2.5 プレーオフでの苦戦3 反響 3.1 マネー・ボールが与えた影響3.2 批判・論争4 映画化5 脚注6 関連項目7 外部リンク 概要 [編集] 2002年のMLB球団別年俸総額。アスレチックスは28位だったが、全球団で最高の103勝を記録した。2000年代初頭のメジャーリーグは、財力のある球団とそうでない球団の格差が広がり、良い選手はことごとく金満球団へ引き抜かれる状況が続いていた。貧乏球団のオーナーからは、「もはや野球はスポーツではなく、金銭ゲームになってしまった」という嘆きの声が上がっていた。そんな中、リーグ最低クラスの年俸総額でありながら、黄金時代を築いていたチームがあった。ビリー・ビーンGMが率いるオークランド・アスレチックスである。毎年のようにプレーオフ進出を続け、2002年には年俸総額が1位のニューヨーク・ヤンキースの1/3程度だったにもかかわらず、全球団で最高の勝率を記録したのだ。アスレチックスはなぜ強いのか?多くの野球ファンが感じていた疑問の答えは、セイバーメトリクスを用いたチーム編成だった。原題の直訳は「不公平なゲームに勝つ技術」であるが、これは資金力の差という不公平性の中で勝つためにセイバーメトリクスを駆使した、ということである。アメリカ国内での反響は大きく、絶賛を集めた一方で、保守的な野球観を持つ人々による(極めて的外れなものも含めた)批判も相次いだ。ルイスはペーパーバック版のあとがきで「ベースボール宗教戦争」と表現するほどであった。ビリー・ビーンが定義する勝利するための要素は、旧来の野球の価値観では重要視されず、そのため選手の年俸に反映されていなかった。そのため低い年俸で獲得して戦力を上げることができた。ヤンキースなどの資金力が強いチームに比べ1勝するための金銭的コストがはるかに低い。これは投資効率として考えた場合驚異的である。 セイバーメトリクスによるチーム編成 [編集]ビーンは野球を「27個のアウトを取られるまでは終わらない競技」と定義し、それに基づいて勝率を上げるための要素を分析した(野球を統計学的手法をもって分析することをセイバーメトリクスと呼ぶ)。過去の野球に関する膨大なデータの回帰分析から「得点期待値」というものを設定して、これを上げるための要素を持つ選手を良い選手とした。具体的に述べると、出塁して長打で得点することが最も効率的である。詳細は次項で述べる。 チーム編成基準 [編集]チーム編成、および選手獲得の基準は以下の通りである。状況(運)により変動する数値は判断基準から排除され、本人の能力のみが反映される数値だけに絞り込んで評価することが最大の特徴。 野手 [編集] ニック・スウィッシャー 重要な要素 [編集]出塁率:打率ではなく、四死球や振り逃げ[要出典]も含めた出塁する率。ビーンの定義に基づけば、「アウトにならない確率――打者の投手に対する勝率」である。打率は高いに越したことはないが高打率の選手はコストがかかるため、打率が多少低くても出塁率の高さを優先して選手を獲得した。長打率:塁打数を打数で割った値。ヒット、特に長打を打った数が多い打者ほど数字が大きくなる。これと出塁率を合算したOPSをビーンはチーム編成で最重要視した。通常、OPSは出塁率と長打率は1:1の比率であるが、ビーンは出塁率と長打率の比率が3:1の指標(NOI)も使用し、出塁率により重きを置いている。選球眼:ボールを見極め、四球を選び、出塁率を上げるために必要な要素。投手により多くの投球をさせる能力、言い換えれば「粘る力」は相手投手の疲弊を招き、四球を得る確率の向上に繋がるためである。平均して中継投手は先発投手よりも能力が劣るため、相手投手を疲弊させて投手を交代させれば、さらに出塁率を上げることが出来る。ジェイソン・ジアンビの弟である、ジェレミー・ジアンビは、総合的な打者としての能力は兄とは比較にならないほど低かったが、粘る力においては兄を上回っていたためレギュラーとして起用された。長打率に比べ、加齢によって低下することが少ない能力である。一般的には努力により向上させられると考えられているが、ビーンは、選球眼は天賦の才で決まる、また野球の成功(勝利)に最も直結する能力である、と結論づけている。慎重性:選球眼に併せて重要視され、待球打法を良しとする。ボール・ストライクに関わらず自分の苦手な球に手を出さないこと。ビーンの理論では必ずヒットに出来る保証がない限り、ヒットになる可能性の低い球に手を出す打者は好まれない。また、初球に手を出すことも否定する。選手の気質に依存する部分が大きく、ドミニカ出身の選手は積極的に初球を打ちに行くとした。コーチングにより改善できる部分はごくわずか。 重要視されない要素 [編集]以下の犠打や盗塁を重要視しないスタイルがスモール・ボールとの違いを決定づけていた。バント・犠打:ワンアウトを自ら進呈する、得点確率を下げる行為と定義して、完全否定した。犠打で進塁させることで上がる得点の期待値は、そのまま強攻させるより小さいためである。具体例としては送りバントが挙げられる。無死ランナー一塁の場合、送りバントで走者を進塁させることが、保守的な野球観を持つものにとってはセオリーであると考えられているが、(ビーンらの定義する)得点期待値を下げるだけの行為である。しかし、ビーンの考えが球界全体に浸透してきた近年では、逆に多用させるようになった。盗塁:あまり意味の無い行為と定義した。全ての盗塁の内、成功するのは20~30パーセント。盗塁を試みてアウトになるリスクを冒してもホームベースを踏んだ場合に得られる得点は1点であることに変わりは無い。統計学的見地から見ても、アウトになるリスクを冒すより、塁上に留まって長打を待つ方が得点確率が高い。また、盗塁を狙う選手はごく一部であり、普遍性が無い。同様にヒットエンドランも高いリスクに対し、得点確率向上への影響が乏しくビーンの理論では非効率であるが、近年は犠打と同じく一部選手には多用させるようになった。打点・得点圏打率:打者がヒットを打った際の走者の有無は、その打者自身の能力が導いたのではなく、単なる偶然である。また得点圏打率など「好機に強い」ことも重要ではない。その打者が打った時に偶然走者がいたために「勝負強い」というイメージが刷り込まれただけに過ぎない。得点圏での打席数は全打席より当然ながら少ない。サンプル数が少なくなればなるほど確率は実際の数値より「揺らぎ」が大きくなる(大数の法則:例えば、コイントスを10回程度行っても、表・裏の出る確率がそれぞれ必ず50%になるわけではない)。得点圏打率が通常の打率より高くなったり低くなったりするのは、選手の能力よりも揺らぎの影響のほうがはるかに大きいのである。失策、守備率:失策であるか否かは記録員が判断するため、主観的であるとした。守備範囲が広く積極果敢に打球を取りに行く選手のほうが、守備範囲が狭く打球を追うことに消極的な野手よりもかえって失策が多くなる(つまり、ヒット性の当たりにも追いつけてしまうがための失策があるということ)。数字として存在しても選手の能力を示す数値としては機能していない。守備力は回帰分析するためのデータが蓄積しにくいことや、試合に及ぼす影響が攻撃力よりも少ない。ビーンは、フィールドに数百の座標を設定し、打球の速度・軌跡を調べ、「速度○○、軌道△△を伴い地点××に落下した打球」という風に打球をより厳密に判別する手法を導入した(これはビーンオリジナルの手法ではなく、野球データ分析会社AVMの手法を真似たものである)。それによって打球を処理した野手の守備力の数値化を図ったが、野手の捕球するまでの行動が反映されないなど問題もあるため重要視はしなかった。 投手 [編集] 重要な要素 [編集]野手で重要視された要素を逆に与えないことに重きを置く。得点される可能性を下げ、アウトを稼ぐ能力のみを評価する。与四球:打者の選球眼を最重要視することの裏返し。塁間を移動中にアウトにならないため、与えることが望ましくない。そのため、試合において敬遠は戦術として用いられない。敬遠が相手の得点期待値を低下させることは極めてまれだからである。奪三振:最もシンプル(確実)にアウトに出来る方法。フェアグラウンドに打球が沢山飛べば、その分安打になる確率と、失策によって出塁を許す確率が上がってしまうため。被本塁打:投手に責任がある唯一の安打。被安打数ではない、被安打数については後で述べる。被長打率:投手が対戦した打者の打数の合計で被塁打を割った値。ヒット、特に長打を許した数が少ない投手ほど数字が小さくなる。失点確率を低くするためには長打を打たれないことが重要になるため重視される。打たれた場合の打球がゴロであれば、長打となる率は低くなる。そのため、打たれた打球がゴロになる率も評価基準として取り入れた。 重要視されない要素 [編集]投手に責任があると考えられていた要素の大半は、投手以外の球場や野手といった状況(つまり運)に依存するとした。被安打数フェアグラウンド内に打球が飛んでも、それが安打となるか否かは野手の守備能力や運に依存する部分が大きい。つまり本塁打以外のフェア打球は投手には責任は無い。防御率・自責点:打者の打点と同様に、周囲の状況によって大きく変動する要素のため。勝利数・セーブ:投手自身の能力に依存する数値ではない。采配により作為的にコントロールできる。「クローザー(抑え)は誰でも可能。9回の抑え投手よりも7・8回に優秀な投手を起用した方が勝率が上がる」ともビーンは語っている。球速:必ずしもアウトを取る能力には結び付かない。遅い球しか投げられなくとも、前述の要素を満たしていることを重んじた。 補足 [編集]「重要視されない要素」そのものは、ほとんどは完全否定はされていない。野球の競技を構成する要素であるため、これらの要素(能力)が高いことは勝率上昇には繋がる。ただ、影響が乏しいと判断されたため、「限られた資金の中で、レギュラーシリーズを戦い、高い勝率で終える」という戦略目的において重要度が低いだけである。
2011.11.10
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ビリー・ビーン(William Lamar "Billy" Beane, 1962年3月29日 - )は、元メジャーリーグ選手(外野手)。現在はオークランド・アスレチックスのゼネラルマネージャー。卓越した球団運営で、メジャーリーグの名GMの1人に数えられる。『マネー・ボール』(マイケル・ルイス著)で日本でも知られるようになった。目次1 略歴2 人物像3 マネー・ボール4 参考文献5 外部リンク 略歴 [編集]フロリダ州オーランドで生まれ、カリフォルニア州サンディエゴ近郊で育った。高校時代から高い身体能力を持つ走・攻・守3拍子そろった超高校級選手としてスカウトの間では有名な選手であった。スタンフォード大学からのスカウトも受けていたが、1980年、ニューヨーク・メッツにドラフト1巡目(全体23位)指名で入団(同期入団にはダリル・ストロベリーがいた)。将来を嘱望された選手であったが、短気な性格が災いしてプロの世界になじむことができず、メジャーになかなか定着することができなかった。1984年から1989年にかけてメッツ、ミネソタ・ツインズ、デトロイト・タイガースを控え外野手として渡り歩き、最後にはアスレチックスに移籍し、1989年に現役を引退した(ベンチ要員ではあったが1987年にツインズで、1989年にアスレチックスでワールドシリーズ優勝を経験している)。現役時代の通算成績は、148試合に出場して、打率.219、本塁打3本。スカウトから太鼓判を押され期待された自分が何故活躍できなかったのかという悔しさが、もっと正しく選手の能力を判断するすべがあるのではないかという想いを強くした。また、監督トニー・ラルーサ、一塁手マーク・マグワイア、外野手ホセ・カンセコなど錚々たるメンバーが揃い、黄金時代を迎えていた引退当時のアスレチックスのゼネラルマネージャーサンディ・アルダーソンが後のビーンに大きな影響を与えた。1990年から球団スタッフに転身しスカウトとして活動、1993年にはアルダーソンのアシスタントを務め着実に地位を築いていった。1995年に前オーナーの死去によりアスレチックスの財政状況は大きく変わり、スター軍団は解体を余儀なくされる。このころ、アルダーソンはセイバー・メトリクスの祖、ビル・ジェームズの著書『野球抄』シリーズを参考に出塁率・長打率を重視する旨を記した冊子を作り、マイナー選手に持論を説いていった。この冊子に書かれた理論がビリーの球団運営哲学の礎となった。1997年10月にはアルダーソンの後任としてゼネラルマネージャーに就任。セイバーメトリクスを駆使し、無駄な要素を極力省き低予算でチームを強くすることを実現した。2003年には、前述の「マネーボール」が出版され、ビーンのチームマネジメントが日米で話題となり、日本でもセイバーメトリクスが一般的に知られるきっかけとなった。2007年1月4日、ソフトウェア会社NetSuiteの社外取締役に指名された。ビーンは他にも、アメリカンフットボールのヘルメットを扱うRiddell、スポーツエンターテインメントのPROTRADEの取締役を務めている。2011年公開の映画『マネーボール』では、ブラッド・ピットがビーンを演じた。 人物像 [編集]現役時代から短気な人物として知られる。何か失敗するとそれを一人で抱え込み、手当たり次第に物に当り散らす。そのような自分に妥協ができない性格のため、プロ入り以降は伸び悩み、妻とも離婚してしまう。 GMになってからもその性格は変わらず、チームが負けている時など何か上手くいかないことがあったときは、ロッカールームなどで暴れ、物を投げて壁に穴を開けてしまうこともある。そのため、極力試合をじかに観戦しないようにしている。 試合中は球場内のトレーニングルームで運動して汗を流したり、オフィスにこもる(球場の外に出かけてしまうこともある)。試合経過は常に携帯している小型端末に配信される文字情報で把握している。プロ入り時、契約金の高さに惑わされ大学に行かずにプロとなったことを後悔しており、その苦い経験から自分自身の身の振り方に関しては「金のために決断を下す」ということを恐れている。2002年に、ビーンはボストン・レッドソックスから5年契約1250万ドルという高額のオファーを受けた。ビーンはこのオファーを快諾し、メジャー最高年俸のGMとなるはずだった。しかし、数日後に契約を自ら破棄した。その際、マスコミに「二度と金によって人生を左右されまいと心に決めたから」と理由を語った。 マネー・ボール [編集]詳細は「マネー・ボール」を参照ビーンの知名度を一気に高めたマイケル・ルイス著「マネー・ボール」(原題:Moneyball: The Art of Winning An Unfair Game、ISBN 4270000120)は2003年に米国で出版され、翌年に日本でも出版された。ビーンが1997年10月にGMに就任してから、2007年度シーズン終了時点までの10年間に積み上げた白星は、ヤンキースとレッドソックスに次ぐアメリカン・リーグ三位の901個[1]。この間、チームをプレーオフに5回導いている。現在では、セイバーメトリクスを根幹となすマネー・ボール型チームと見なされているのは、アスレチックスの他にトロント・ブルージェイズ、ボストン・レッドソックス、クリーブランド・インディアンス、サンディエゴ・パドレス、ニューヨーク・ヤンキースなどがあり、彼等は新思考派とも呼ばれている[2][3]。
2011.11.10
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湖の畔にある家に住むノーマン・スペンサー博士(ハリソン・フォード)と妻クレア(ミシェル・ファイファー)。一人娘が大学の寮に入ってからというもの2人仲良く暮らしていた。そんなとき、家の中で奇妙な出来事が起こり始める。私達以外に家に誰かがいる?!幽霊か?...妻クレアは得体の知れない何かに恐れおののくのだった。果たして幽霊の正体は?そして恐ろしい事実が今、明らかになる...。「フォレスト・ガンプ/一期一会」でオスカーを受賞したロバート・ゼメキス監督が放つ本作は「危険な情事」のホラー版といえるサイコ・スリラー。ゴースト、謎、サスペンスとまさに三拍子揃った心くすぐるハリウッド映画として全米でも大ヒットを記録。最新鋭のコンピューター技術を使うことで恐ろしくも美しいゴーストの存在を表現し、観客に静かな恐怖を与える。でも一番、息を飲むのはミシェル・ファイファーの美しさ!恐怖に震えれば震えるほど、その美しさは増していく!彼女が演じるヒロインの精神状態が不安定になっていくにつれ、観客も迷宮のような映画の謎にハマッテしまう。ただし、ハリソン・フォード演じる博士のキャラクターが深く描かれていなかったのが残念。先の読めないストーリーにハラハラドキドキしながら、謎解きにチャレンジしてみてはいかが...??--------------------------------------------------------------------------------
2011.11.09
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衝撃的な映画でした。ジョディフョスターの映画は酷く不自然である。ものが多いがこんな映画評価もあるので、すジョディフォスターの出演作品は引き込まれるものが多く、この作品も同様です。彼女はこの役のために相当の努力を要したと思われる。音声が英語の場合、演技力が伝わりづらくなるが、それを軽く超越した力を感じされる。R指定がかかったのは、映像の残酷なシーンによるものと思ったが、別の意味が隠されていた。法律関係に携わる方からすれば、タブーの映画と言える。刑事役のテレンス・ハワードは、最適な役どころに見えた。人思いなところが顔から伝わり、その部分がこの役にピッタリでしたね。お時間ありましたら、ぜひ観ていただきたい作品だと思います。yahooのGyaoで無料視聴できます。オフィシャルサイト http://wwws.warnerbros.co.jp/thebraveone/index2.html
2011.11.08
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セイバーメトリクス(SABRmetrics, Sabermetrics)とは、野球においてデータを統計学的見地から客観的に分析し、選手の評価や戦略を考える分析手法である。目次1 概要 1.1 セイバーメトリクスの歴史1.2 セイバーメトリクス以前2 関連書籍3 関連項目4 外部リンク 概要 [編集]セイバーメトリクスとは、野球ライターで野球史研究家・野球統計の専門家でもあるビル・ジェームズ(George William “Bill” James, 1949年- )によって1970年代に提唱されたもので、アメリカ野球学会の略称 SABR(Society for American Baseball Research)と測定基準(metrics)を組み合わせた造語である。ジム・アルバート、ジェイ・ベネットが著した『メジャーリーグの数理科学(原題Curve Ball)』はセイバーメトリクスについてわかりやすく解説している。野球には、様々な価値基準・指標が存在するが、セイバーメトリクスではこれらの重要性を数値から客観的に分析した。それによって野球における采配に統計学的根拠を与えようとした。しかし、それは野球を知っているものならば「常識」であるはずのバント・盗塁の効力を否定するなど、しばしば野球の従来の伝統的価値観を覆すものであると同時に、ジェームズ自身が本格的に野球をプレーした経験が無く、無名のライターに過ぎなかったこともあって当初は批判的に扱われた。この理論が一般的に知られるようになった現在でも「野球はデータではなく人間がプレーするもの」という野球哲学を持つ人々からは歓迎されていない風潮がある。一方、メジャーリーグは、公式記録にセイバーメトリクスに基づく指標を複数使用している。その他、アメリカの主要なスポーツメディアが、セイバーメトリクスの各種の指標を選手成績として公表している。(参照) セイバーメトリクスの歴史 [編集]軍隊を退役した後に缶詰工場に警備員として勤務していたジェームズが「夜勤の暇つぶしに」自分の趣味である野球データの分析をしていたことがセイバーメトリクスの始まりである。彼は1977年に『野球抄1977-知られざる18種類のデータ情報』(Baseball Abstract 1977 : Featuring 18 Categories of Statistical Information that You Just Can’t Find Anywhere Else)という68ページの小冊子を自費出版した。この本でジェームズは「エラーという概念が実情にあっていないこと」などいくつかの従来の常識を覆す仮説の提示と分析を行った。この本の購入者はたった75人であったが、同時期のコンピュータの発達とともにデータ分析の自由度が増し、『野球抄』は年を重ねるごとに購読者を増やしていった。読者数の増加とともに野球データの分析を行うファンの数も増えていった。そして、ジェームズはこのデータ分析を”セイバーメトリクス”と名づけた。『野球抄』はスポーツ専門雑誌「スポーツ・イラストレイテッド」のライターの目に留まり、1982年にニューヨークの出版社から販売されベストセラーとなった。1980年代に入るとアメリカでは一般にも広く知られた存在となり、統計の専門家も趣味としてデータの分析に当たるようになった。しかし、保守的な勢力が強いメジャーリーグはこのような動きに対して興味を示そうとしなかった。メジャーのデータを管理していたエライアス・スポーツ・ビューロー社もセイバーメトリクス愛好家(セイバーメトリシャン)にはデータを一切提供しようとしなかった。そのため、ジェームズは知人が設立したデータ分析専門の会社、STATS(スタッツ)社(後述)で独自にデータを集計した。さらに、メジャー球団に集計したデータを提供しようとしたが、これも相手にされなかった。STATS社は方針転換し、集計したデータを野球ファン向けに販売した。これが当たって会社は急成長し、スポーツ専門テレビ局ESPNや全国紙USAトゥデイが顧客となり、野球ファンの貴重な情報源となっていった(その後、1999年にSTATS社は大手テレビ局FOXニュースに吸収合併された)。しかし、セイバーメトリクスはジェームズの本来の目的である実際の球団運営には反映されることはなかった。一部の実業家は実際に球団のオーナーとなりこれを実践しようとしたが、選手・監督・スカウトの理解を得られず挫折していった。ジェームズは一向に変わらない状況に徐々に熱意を失い、12冊目の『野球抄』を発行した後、執筆活動をやめてしまった(後に再開)。1983年にオークランド・アスレチックスのGMとなったサンディ・アルダーソン(英語)は、元は弁護士でプロ選手経験が全く無く、過去の常識に縛られることがあまり無かった。そのため、セイバーメトリクスに興味を持ち、出塁率を徹底重視することをマイナーの選手たちに説いた。1995年にオーナーの交代によってチームの財政状況が厳しくなると、より効率的に資金を運用するためにメジャーチームでも出塁率・長打率を重視して球団運営を行うようになった(これにより、伝統的価値観を重んじる当時の監督トニー・ラルーサとの確執は決定的となり、この年限りでラルーサは監督を辞任することになる)。1990年代後半にはメジャーリーグでもチーム戦略の一環として重視されるようになった(セイバーメトリクスを重視するチームは新思考派と呼ばれる)。特にアルダーソンの後任として1997年にアスレチックスのGMとなったビリー・ビーンの球団運営戦略を紹介したノンフィクション『マネー・ボール』(マイケル・ルイス著)により、日本でも一般的に知られるようになった。しかし、日本の野球界ではまだ伝統的価値観が支配的であり、戦略として積極的にセイバーメトリクスを取り入れるチームは少なく、千葉ロッテマリーンズがデータ解析専門家にポール・プポを招聘している程度である。アメリカでは、セイバーメトリクス専門のシンクタンクがいくつか誕生しており、特にベースボール・プロスペクタス(Baseball Prospectus、通称BP)が有名である。このBPはセイバーメトリクスを駆使して個々の選手の未来の成績を予測するコンピュータ・システムPECOTA(Player Empirical Comparison and Optimization Test Algorithmの略)を開発。2003年から毎年シーズン前に「活躍予報」を発表している。メジャーリーグでは、セイバーメトリクスに基づく指標 (OPS、WHIP、RF: アウト寄与率、P/IP、 GO/AO、K/BB、K/9、BB/9、DER: 守備効率、など) を公式記録に使用している。また、セイバーメトリクスの各種指標によるメジャーリーグの選手成績や記録等を、ESPN、スポーツ・イラストレイテッド、CNN、Baseball-Reference、MSN(マイクロソフト)、三大放送局ネットワークのNBC、CBS、 ABCなどの主要なメディアが公表している。(参照) セイバーメトリクス以前 [編集]野球と統計の関わりはジェームズの研究から始まったものではない。1800年代からすでに野球をデータ化する試みは始まっていた、1845年にはボックス・スコアが発明されていた。そして、野球における最もポピュラーな指標といえる打率も1859年には誕生している。イギリス人ジャーナリストヘンリー・チャドウィックによって生み出されたこの指標は打者の攻撃能力を測る指標だが、チャドウィックが「四球は完全に投手のミスによる産物である」としたために、四球は含まれず安打のみで算出されるものとなった(これにより出塁率は長きに渡って打率に比べ低い扱いを受けることとなる)。チャドウィックは打点という指標も作ったが、打点を打者個人の手柄にしてしまった(塁上に走者がいるか否かは打者側から見れば偶然の要素が大きい。仮に偶然で無いならば寧ろ走者になった選手の貢献が打者より大きいはずである)。このように、正確性を期そうと単純化を図るあまりに当時の指標には現実と乖離したものが多かった。ジェームズと同様の統計的な研究を行うものもいた。製薬会社に勤めていたディック・クレイマーはコンピュータで独自の野球理論の検証を行い、より詳細なデータを集めるために、同様の趣味を持つ軍事企業勤務のピート・パーマーとSTATS社を設立した。なお、クレイマー、パーマーは後にジェームズと共同でOPSを開発したセイバーメトリシャンである。
2011.11.08
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1976年、フィラデルフィアでロッキーがアポロに挑戦していたころ、もう一つのドラマが始まっていた。フィラデルフィア・イーグルスは、1962年から1975年にの間、勝ち越したのはわずか1回しかなかった弱小のアメリカン・フットボールのチーム。そして1976年、チームは大学リーグ(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の監督に迎える。すると翌年の1978年には18年ぶりにポストシーズンゲーム出場を果たし、その後4シーズン連続でプレーオフに進出した。そのときの監督がディック・ヴァーミールであり、その時30歳にしてトライアウトでデビューしたのがヴィンス・パパーリであった。これは実話をもとにした映画なのだ。映画自体は特にヒロイックな盛り上げ方もせず、たんたんと進んでいく。どうやって強くなっていったのか・・というよりも、歴史的事実だけをたんたんとつみかさねて描いてるので、物語的な盛り上がりはない。しかしきわめて高水準の画面をつくっている。そして、かつて『ロッキー』で見たフィラデルフィアの閑散とした街が、再び再現されている。実に哀愁があっていい。ヒロイン役のエリザベス・バンクスも悪くはないが、グレッグ・キニアの奥さんやくのペイジ・コーターがさりげなくいい感じ。ちなみに主演は、どっかで見た顔だなあって思ったら若いときのマーク・ウォールバーグだった。髪のばしてたから分らなかった。<あらすじ>1976年、フィラデルフィア。ここ数年負け越しがつづいているアメリカンフットボールのチーム、フィラデルフィア・イーグルスは、カリフォルニア大学のアメフトチーム監督ディック・ヴァーミール(グレッグ・キニア)を新監督として迎えた。彼は負け慣れしている体質を刺激するために一般募集でトライアウトを行った。全員没かとおもわれたそのトライアウトに一人目を引くプレーヤーがいた。彼の名前はヴィンス・パパーリ(マーク・ウォールバーグ)。かれは下町でバーテンダーをしていた30歳になる、女房に逃げられた男だった。高校でアメフトをやっていた彼は、まだその才能を秘めており、プレシーズンマッチのメンバーにも選ばれた。しかしイーグルスはプレシーズンマッチに全敗。開幕戦でも初戦をおとしてしまう。本拠地でニューヨーク・ジャイアンツを迎える2戦目の前日、パパーリは、高校時代の連中と雨の中アメフトを楽しんだ。その帰り、「明日は俺たちのために勝て」と言い渡される。一方連敗続きのヴァーミール監督の進退もあぶなくなっていた。この試合で負ければクビではないかと新聞にも書かれ始める。そして運命をかけた本拠地開幕戦。ヴァーミール監督は、「誰かのために戦え。地元のために戦え」と激をとばす。その試合でのパパーリの動きは見違えるようにさえ、タックルで相手をつぎつぎとつぶしていく。そして最後はパパーリの指示で作戦を変更、これが功を奏して大逆転のタッチダウンとなる。
2011.11.04
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いまから50年前はじまった大河ドラマ花の生涯 1963年は、高校生13歳であった。英語教師大榎先生は、あまりにも子供だったわれわれに花の生涯みているか、もっと週刊誌読めと言ってくれた。中学生から高校生にいよいよ脱皮青春がはじまる。50年たってしまった。さきに逝ってしまった上野力よ おまえの友情はわすれないぞ。原作は舟橋聖一が1952年 - 1953年に毎日新聞紙上で連載していた歴史小説『花の生涯』。幕末の大老・井伊直弼の生涯を描いた作品。視聴率は全話平均20.2%、最高で32.3%を記録した。松竹の専属俳優だった佐田啓二が初めてテレビドラマに出演した作品である。現在と異なり、基本の放送時間は日曜日の午後8時45分~午後9時30分であった、1961年、NHKの芸能局長に就任した長沢泰治は、当時、技術的にも稚拙で黎明期にあったテレビジョン放送をして映画を凌駕すべきものにするべく、当時、30分枠が主流だったテレビドラマに映画並のクオリティーと大衆の支持を得るべく、大作ドラマの制作を志向した。所謂、大河ドラマの構想は、当時、NHKとRAI(イタリア放送局)が合作で制作した『二つの橋』に参加した演出の合川明、井上博、脚本の北条誠が帰国してから具体化し、脚本の北条誠は『花の生涯』の舞台脚本を書いたことがあったため起用された。当初から大スターを集めてのキャスティングが図られ、映画各社、歌舞伎座などを交渉した結果、松竹演劇部が「歌舞伎を一切休まない」ことを条件に、尾上松緑の出演を認めた。映画俳優では、当時、いわゆる「五社協定」があったため、映画各社の専属俳優はテレビには出演できず、NHKは佐田啓二本人と出演交渉を重ねた。佐田はロサンゼルスの友人に相談して、当時の進んだアメリカのテレビジョン放送の実情を知り、1962年の夏に出演を快諾した。このとき、NHK側が長引く出演交渉に見切りをつけ「もうあきらめます」と告げたところ、佐田は「出るよ」と承諾したというエピソードが残っている。佐田の出演によって「五社協定」が崩れ、同作品に映画俳優の出演が次々と決まることになった。村山たか役の淡島千景は、映画版で同役を演じていたが、原作者・舟橋聖一の希望で出演した。「桜田門外の変」は東映城を借りて行われたが、このときの交渉は、後に大河演出のエースとなる大原誠が受け持った。東映城の屋根を白ペンキで塗って、事件当日の雪模様を再現したという。地面の雪は、トラック4台で運んだ白布を広げ、白砂を撒き、発泡スチロールを飛ばしたと言う。当初、東映との交渉は難航したが、いったん承諾すると東映側は、撮影に非常に協力的になったという。多くの大物俳優が忙しいスケジュールを縫って出演するため、この作品からはじめて各シーンをバラバラ撮りする方法が採用された。それまでは、ストーリーの進行順に従って収録する手法が一般的だった。尾上松緑は、昼は歌舞伎興行があったため、深夜にスタジオで収録にのぞんだという。後年、同タイトルのテレビドラマは日本テレビやテレビ東京でも放送された(『花の生涯』を参照)。映像の現存状況 第1話と桜田門外の変のシーンである第38話の断片が現存している。その他の映像はNHKには現存していないとされる。当時は放送局用ビデオテープ(2インチVTR)が非常に高価で大型だったために、テープは放送終了後に消去されて他の番組に利用されるのが通常だった。テープの経年劣化も考えると、視聴者が録画して現在まで保存している可能性は低く放送回の映像が民間から発見される可能性はほとんどない。そのため、全話の再放送および全話収録の完全版映像ソフトの製作・発売は絶望的だが、大河ドラマ第1作の第1話が残されているのは幸運かつ貴重といえる。現存している第1話「青柳の糸」は『NHK想い出倶楽部2~黎明期の大河ドラマ編~(1)花の生涯』としてDVD販売されている。放送 放送回放送日題第1話1963年4月7日青柳の糸第2話1963年4月14日雲うごく第3話1963年4月21日眉紅き人 第4話1963年4月28日朝のいとま第5話1963年5月5日尾花の別れ第6話1963年5月12日蜘蛛の糸第7話1963年5月19日想う人第8話1963年5月26日うす雪の竹第9話1963年6月2日雪の門出第10話1963年6月9日登城すがた第11話1963年6月16日彦根牛第12話1963年6月23日黒船の章第13話1963年6月30日密出国第14話1963年7月7日おしろい椿第15話1963年7月14日葉桜の章第16話1963年7月21日風濁る第17話1963年7月28日安政小唄第18話1963年8月4日お吉・お福第19話1963年8月11日明烏の章第20話1963年8月18日らしゃめん記第21話1963年8月25日下田港第22話1963年9月1日こん四郎江戸へ行く第23話1963年9月8日江戸の風第24話1963年9月15日加茂川千鳥第25話1963年9月22日春ふたたび第26話1963年9月29日大老職第27話1963年10月6日百本杭の章第28話1963年10月13日五月雨の章第29話1963年10月20日不時登城第30話1963年10月27日妖霊星第31話1963年11月3日奈落の影第32話1963年11月10日大獄の章第33話1963年11月17日江戸送りの章第34話1963年11月24日断罪の章第35話1963年12月1日飛ぶ雪の章第36話1963年12月8日宵節句の章第37話1963年12月15日君消ゆる第38話1963年12月22日狂乱の章最終話
2011.10.30
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特徴 [編集]成虫の前翅長は5 - 6 cmほど。翅の内側が白っぽく、黒い翅脈が走る。この白っぽい部分は厳密には半透明の水色で、鱗粉が少ない。和名にある「浅葱」とは青緑色の古称で、この部分の色に由来する。翅の外側は前翅は黒、後翅は褐色で、ここにも半透明水色の斑点が並ぶ。オスとメスの区別はつけにくいが、オスは腹部先端にフェロモンを分泌するヘアペンシルという器官を持つ。また翅を閉じたときに、尾に当たる部分に濃い褐色斑がある場合があるが、これは性票で雌にはない。これで雌雄の同定が可能である。アゲハチョウ科の様に細かく羽ばたかずにふわふわと楽しそうに滑空し、また、人をあまり恐れずよく目にするため人気が高い。日本昆虫学会による国蝶選定の際に、ナミアゲハやアオスジアゲハ等と共に候補に選ばれたが結局はオオムラサキが選定された。夏から秋にかけてはフジバカマ、ヒヨドリバナ、アザミなどのキク科植物の花によく集まり、吸蜜する姿が見られる。日本の南西諸島から東南アジアにかけて分布するリュウキュウアサギマダラは、「アサギマダラ」の名が付くが、リュウキュウアサギマダラ属に属する別属のチョウである。生活史 [編集] フジバカマを吸蜜するアサギマダラ (2008年7月撮影)幼虫はガガイモ科のキジョラン、カモメヅル、イケマ、フヨウランなどを食草とし、卵も食草の上に産みつけられる。幼虫は黒の地に黄色の斑点が4列に並び、その周囲に白い斑点がたくさんある。また、前胸部と尾部に2本の黒い角をもつ。蛹は垂蛹型で、尾部だけで逆さ吊りになる。蛹は青緑色で、金属光沢のある黒い斑点がある。幼虫の食草となるガガイモ科植物はどれも毒性の強いピロリジジンアルカロイド(PA)を含むえられる[1]。また、成虫がよく吸蜜するヒヨドリバナやフジバカマも、蜜にアルカロイドを含む。アサギマダラはこれらのアルカロイドを取りこむことで毒化し、敵から身を守っている。アサギマダラは幼虫・蛹・成虫とどれも鮮やかな体色をしているが、これは毒を持っていることを敵に知らせる警戒色と考えられている。インド北部から東南アジア、インドネシアにかけて分布するアゲハチョウ科のカバシタアゲハ(Chilasa agestor)は、翅の模様がアサギマダラによく似ている。これは毒を持つアサギマダラに擬態(ベイツ擬態)することで、敵に食べられないよう身を守っているものと考えられる[2]。分布 [編集]日本全土から朝鮮半島、中国、台湾、ヒマラヤ山脈まで広く分布する。分布域の中でいくつかの亜種に分かれていて、このうち日本に分布するのは亜種 P. s. niphonica とされる。標高の高い山地に多く生息する。九州以北で成虫が見られるのは5月から10月くらいまでだが、南西諸島では逆に秋から冬にかけて見られる。移動 [編集]アサギマダラの成虫は1年のうちに、日本本土と南西諸島・台湾の間を往復していることが知られている。ただし北上する個体と南下する個体は子孫の関係で、同じ個体が移動する渡り鳥の移動とは異なる。移動の研究は、捕獲した成虫の翅の半透明部分に捕獲場所・年月日・連絡先などをマジックインキで記入(マーキング)、放蝶するという方法で個体識別を行う。このマーキングされた個体が再び捕獲された場所・日時によって、何日で何 km移動したか、あるいは同所で捕獲した場合何日そこに居たかが分かる。調査のための『アサギマダラネット』[3]のインターネットによる電子ネットワークがあり、その日のうちに移動情報が確認できることもある[4]。研究者達によって、夏に日本本土で発生したアサギマダラは秋になると南西諸島や台湾まで南下、繁殖した子孫が春に北上し、日本本土に再び現れるという行動が明らかになった。中には直線距離で1,500 km以上移動した個体や、1日あたり200 km以上の速さで移動した個体もある。調査のための捕獲手段として、白いタオルの一方をつかんでぐるぐる回すとアサギマダラが寄ってくることが知られる。利き手で網を持ち逆の手でタオルを回すと捕獲しやすい。2009年には、岐阜県下呂市で放蝶した人と兵庫県宝塚市でその個体を捕まえた人が、2年続けて双方とも同じ人物だった。なお、その個体は9月下旬に放蝶され、10月12日に捕まえられた[5][リンク切れ]。
2011.10.26
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2011年3月の某日姪のつれあいとNY正確にはNJの公園あるシネマコンプレックスでSourcecodeをみた。最期の9.11の希望なるものが何であるのかよく聞き取れなかった,本邦公開の今週金曜日を予定した。and 10.28Fre.1110初演で観た。英語ではDeepに聞き取れていなかった。大方はとれってた、だから、大きな間違いはなかった。?かな5回ぐらい?ループ(ワープして)ゆくうちに犯人を突き止めてゆく。これは9.11への鎮魂か。映画でもっと以前のUSAに戻りたかったのだろうが、ブッシュ親子大統領テキサス帝国への怨念?はアラブ世界やアフガニスタンにふつきれない歴史ができてしまった。この物語も歴史ではないが観客を納得させる、恋の成就でエンディングする。救われるアメリカのあしのないせいねん。俺たちを12歳と言寄ったばーかーやーろうの将軍のアメリカ。TPPで援けても、あほな方がた考えてみてはどうか?この次にしましょう。 始まりはヒッチコック調だが、このサスペンスは一筋縄ではいかない。「月に囚われた男」のダンカン・ジョーンズ監督は、見事な手さばきで主人公の置かれた状況を明かしながら、死に向かって疾走する列車に観る者を同乗させる。ここには、すでに列車爆破テロが起きてしまったという前提がある。しかし、死者には絶命直前の8分間の記憶が残存しており、その意識から過去を擬似的に再現できるというSF的な可能性が露わになってくる。ストーリーの主軸は、予告されている第2のテロを未然に防ぐというミッションである。そのために、兵士であるはずの主人公の意識が、死んだ乗客の記憶に基づく世界へと転送される。つまりタイムスリップものではない。他者の身体を借り、限られた時間内に犯人を突き止めるべく、失敗すれば転送は何度も繰り返される。ただ繰り返すのではない。その度ごとに学習し、自分の選択によって周囲の人々の言動も微妙に変化していく。親近感が増す同乗者の運命は毎回悲惨な結末を迎え、自らも肉体的な痛みを伴うことで、主人公の苦悩は深まるのだ。日本でもループものは珍しくはない。それは終わらない日常を象徴し、無為な時間の引き延ばしともいえるものだった。だが、本作の時間感覚は全く異なる。あの同時多発テロのトラウマが横たわっている。自滅しゆくアメリカが9・11以前に立ち戻ることができるならば......という祈りさえ感じられる。絶望を癒す手段--別の可能性があったかもしれないと考える夢想は、テロ犠牲者と報復戦争で傷ついた兵士に対する鎮魂へと向かう。最後の転送の行きつく先は、現実をも覆す希望の世界だ。???(清水節)の評論この"非現実的な部分"が いい フィクションなのは明らかですが、この非現実的な部分と 現実とのリンクの仕方が面白い☆ ちょっとクドいかなぁと思ったりするけれど、実はね...の部分で ショックと、切なさと、"やったぜ!"な気分も盛り込まれていて、この間 観た"恋愛映画"より おすすめです。列車を爆破させた テロリストを捕まえるため、スティーヴンス大尉(ジェイク・ギレンホール)が、ある装置で時空を超えて 過去にさかのぼる。 乗客の一人・ショーンの意識に入り込み、(実際には)爆破されてしまう列車内で 捜査をするのだが テロリストを特定できず、再び爆発の8分まえに戻って。。。という流れ。スティーヴンス大尉&意識の中で ショーンを演じた ジェイク・ギレンホール。 なかなか よい演技をみせてくれました☆ ちょっと強引なストーリーの流れでしたけど、ジェイクの良さも アピールされてたし。 セクシー度をおさえても、泣き顔キュートな ジェイク? ファンの方、必見です!列車の中でショーン(ジェイク)と一緒にいる女性・クリスティーナを演じた ミッシェル・モナハン。 何度もおなじセリフで 疲れたでしょうね、でもショーンとのやりとりが自然で そのギャップが ストーリーを盛り上げていたとも言えます。 『デュー・デート』より 良かったです。スティーヴン大尉をリード(操作)する グッドウィン大尉を演じたベラ・ファーミガ。 見始めは、何で(士官っぽっくない)彼女を 配役?と思ったのですが、後半はなるほど、、と納得。 オスカーノミネートの実力を 見せていただきました、敬礼。ちょっと曲げて見ると 『ア〇ター』な感じもするような...ですが、こちらの方が 現実的...いや、どちらも非現実的ですね(笑) でも、この 非現実的な部分がいい! 大作やシリーズ物を観るときの 休憩として、この作品はお勧めです。P.S. 「頭の体操」にも なりますよ☆ Churaさんの評論
2011.10.22
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クライスラーダッジ・チャージャー 1970年式クライスラーダッジ・チャージャー SRT8 2010年式クライスラーダッジ・チャレンジャー SRT8 2011年式クライスラーダッジ・ポリスチャージャー 201NISSAN GT-R 2010年式日本NISSAN フェアレディ Z 2009年式 米国「370Z]日本NISSAN スカイラインGT-R 1972年式日本SUBARU インプレッサ セダン WRX STi 2011年式すばらしい日本車TOYOTA スープラ 1993年式日本車ポルシェ GT3 1999年式デ・トマソ パンテーラ 1972年式シボレー コルベットグランドスポーツロードスター 1966年式 フォード GT40 1966年式ケーニッグゼグ CCX 2010年式レクサス LFA 2010年式日本車さいごにチラリARMET ARMORED VEHICLES グルカ F5DUCATI STREET FIGHTER S 2010年式バイク上映時間2時間10分制作費180億円もはや黒沢映画並みでした。内容的には はじめ奪走からフィナレ1、2,3回まで車だらけ、世界の我喜怒者の垂涎の名車がでてきました。上記コピーペストした。内容は大人の鑑賞にたえないうすっぺらさを除くと2時間以上の脳内スポーツであった。肯定前作「ワイルド・スピード MAX」の後日談を描くシリーズ第5作。お尋ね者の二人の男が裏社会を牛耳る黒幕から大金を奪う計画を実行する。監督は「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」のジャスティン・リン。出演は「ワイルド・スピード MAX」のヴィン・ディーゼル、ポール・ウォーカー、ジョーダナ・ブリュースター、「ファースター 怒りの銃弾」のドウェイン・ジョンソン。あらすじ前科者のドミニク(ヴィン・ディーゼル)と、彼を脱獄させた元捜査官ブライアン(ポール・ウォーカー)。お尋ね者として追われる身となった彼らは、厳重に張り巡らされた捜査網といくつもの国境を越え、南米の地に...※ストーリーの結末が記載されていることがあります。ご注意ください前科者のドミニク(ヴィン・ディーゼル)と、彼を脱獄させた元捜査官ブライアン(ポール・ウォーカー)。お尋ね者として追われる身となった彼らは、厳重に張り巡らされた捜査網といくつもの国境を越え、南米の地に降り立った。二人はブラジルの裏社会に身を隠しながら、持ち前のドライビング・テクニックを生かし、超高級車の強奪など命がけのヤマをこなしていく。だが彼らは、逃亡生活から抜け出し永遠の自由を得るために、裏社会を牛耳る黒幕から1億ドルを奪うというあまりにも無謀な最後の賭けに出る。難攻不落の厳重なセキュリティを破り大金を盗み出すために、彼らは世界中に散らばる凄腕レーサーを招集。強烈な個性と超絶ドライビング・テクニックが交わるドリーム・チームを結成し、常識を覆す手口の大金強奪ミッションに挑む。しかしそんな彼らの計画の前に、二人を逮捕せよという特命を受けた連邦捜査官・ルーク(ドウェイン・ジョンソン)が立ちはだかる。狙った獲物は絶対に逃がさず、世界中の犯罪者に恐れられるルークは巨大装甲車グルカを駆り、凄まじい執念で彼らを追い詰めていく。果たしてドミニクとブライアンは、激しい追跡の手から逃げ切る事が出来るのか。そして最高難易度の強奪作戦を成功させ、永遠の自由を得ることが出来るのか......。
2011.10.22
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L.A.に住む孤独なシングルウーマンのアンジェラ・ベネット(サンドラ・ブロック)は、フリーのコンピューター・アナリスト。ある日、彼女は得意先のカシードラル社のデイルから、インターネット・プログラムから偶然にも、政府関係の機密データを発見してしまったとの相談を受ける。アンジェラはそのデータをディスクで入手するが、直後、デイルは自家用機の事故で死亡。彼女はショックを受けるが当初の予定どおり、久しぶりのバカンスでメキシコに向かい、そこで魅力的な男性ジャック(ジェレミー・ノーザム)と知り合う。だが、ジャックは彼女を洋上に誘い出し、ディスクと彼女の命を奪おうとした。必死で逃れたアンジェラが帰国してみると、住んでいたアパートが空室にされていたばかりか、彼女の個人情報は別人のものにすり替えられ、見知らぬ女性がアンジェラになりすましているという信じがたい事態が待っていた。行き場を失った彼女は、元恋人で精神科医のアラン(デニス・ミラー)に助けを求めるが、持病の心臓病で入院した彼は、ジャックの手によって医療データを改鼠され、命を落とす。警察に逮捕されたアンジェラにようやく事件の全貌が見えてきた。デイルがつかんだ機密データとは、カシードラル社が開発し、政府が導入を決めていた《ゲイトキーパー》なるハッカー防止プログラムを悪用することで国家をも脅やかそうという何者かの陰謀の一端だったのだ。アンジェラはこの陰謀の要となるプログラムの存在を知ったために狙われたのだ。FBIと名乗る男の手引きで釈放された彼女は、男が一味の者だと気づいて逃走。カシードラル社に潜入し、贋のアンジェラのコンピューターを使い、黒幕がプレトリアンと名乗る者であることを知った彼女は、コンピューター見本市の会場からロス市警に、事件の全貌とプログラムのデータを電子メールで送信する。彼女の個人情報も復元された。そこへジャックと贋のアンジェラが迫るが、彼女は必死の抵抗で彼らを倒した。アンジェラの働きで、自らハッカー事件を起こして政府に《ゲイトキーパー》の導入を勧め、陰謀を巡らせたプレトリアン=カシードラル社の社長は逮捕され、事件は解決した。
2011.10.18
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あらすじ - デジタルリマスター欽也が島勇作と逢ったのは、春の陽差しの強い網走の海岸であった。欽也は自分の車で、北海道の広い道をカッコイイ女の子を乗せて、ドライブするのが高校時代からの夢で、嫌な仕事も無理をして勤め、金をためて新車…>>『幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター』あらすじ全文 ※ストーリーの結末が記載されていることがあります。ご注意ください欽也が島勇作と逢ったのは、春の陽差しの強い網走の海岸であった。欽也は自分の車で、北海道の広い道をカッコイイ女の子を乗せて、ドライブするのが高校時代からの夢で、嫌な仕事も無理をして勤め、金をためて新車を買い求めた。東京からフェリーで釧路港へ、そして、あざやかな緑の根釧原野を欽也の赤い車は、ラジオの軽快なリズムに合わせて、ひた走った。欽也は網走の駅前で、一人でふらりと旅に出た朱実と知り合う。朱実は列車食堂の売り子で、同僚から誤解を受けて、やけくそになって旅に出たのだった。朱実は欽也の車に乗せてもらったものの、海岸で不意に欽也からキスを求められて、車から飛び出した。逃げ出した朱実をかばい、鋭い目付で欽也を睨んだ男、それが島勇作であった。欽也から見た勇作は、なんともいえない、いい男だった。しかし、欽也は啖呵を切った行きがかり上、勇作に挑むが、軽くあしらわれてしまう。そんなことがきっかけで、三人の旅は始まった。欽也が勇作に行く先を尋ねると、彼は暫らく考え、「夕張」と答えるだけだった。その夜、三人で泊まった宿で、欽也は、勇作が眠ったのを見定め、朱実の寝床に忍び込む。朱実は必死に抵抗し、大声で泣き出したため、目をさました勇作に、欽也は一喝を喰わされてしまった。翌日、欽也は毛ガニを買いこみ、一人で二匹もたいらげたことから、腹をこわしてしまう。車を運転していても、便所のあるところを見つけてはかけこむ始末である。そんなことで、十勝平野の美しい風景も欽也には共感が湧いてこなかった。大雪山が見える狩勝峠で、強盗犯人が逃亡したことから一斉検問が行なわれていた。欽也は免許証を見せるだけで済んだが、警官は勇作を不審に思い質問すると、一昨日刑期を終え、網走刑務所を出所したと彼は答えた。朱実と欽也は驚きのあまり、語る言葉もなかった。三人はパトカーで連行されるが、勇作が六年前、傷害事件をおこした際立合った温厚な渡辺課長の取りはからいで、何もなく富良野署から釈放される。走る車の中で勇作は重い口を開いて、朱実と欽也に過去を語り出した。 --勇作は若い頃、九州に住んでいたが、三十歳を過ぎて考えを変え、夕張の炭抗で働らき始めた。その頃、町のスーパー・マーケットで働いていた光枝と恋をして結婚した。それから数年は幸福な日が続いた。そして光枝は妊娠するが、折角出来た赤ちゃんを流産してしまった。その夜、勇作は飲み屋で酔っぱらったチンピラに因縁をつけられる。あまりのしつこさに勇作は腹をたて、相手を殴ると、チンピラはそのまま死んでしまう。勇作は六年間、刑務所で過すが、光枝の面影は、勇作の心から離れなかった。刑期を終える直前、勇作は光枝に手紙を書いた。「俺は、お前が良い男と再婚して、幸せになっていることを望んでいる。この手紙がつく頃、俺は夕張に行くが、もしも、お前が今でも独りで暮しているなら、庭先の鯉のぼりの竿の先に黄色いハンカチをつけておいてくれ。そのハンカチを見たら俺は家に帰る。でもハンカチがなかったら、俺はそのまま夕張を去っていく」と。--その話を聞いた朱実と欽也は声をふるわせて泣いた。車は赤平、歌志内、砂川を過ぎて一直線に夕張に向かう。朱実と欽也の祈りをこめて、車は夕張の町に近づいた。しかし、勇作は引返そうと言い出す。陸橋を越え、車は大きくカーブを描き、街の坂を登っていった。その時、欽也と朱実の眼に映ったものは、角の家の狭い庭先に、不釣合いな高い旗竿の上から下まで並んだ何十枚もの黄色いハンカチであった。欽也と朱実は手と手を固く握りしめる。黄色いハンカチのなびく家から、光枝は出てきた。語りきれない愛の言葉を胸に秘め、静かで温かな勇作の眼は、じっと光枝を見つめている。六年の歳月も、二人を離すことはできなかったのだった。--------------------------------------------------------------------------------
2011.10.11
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猿の惑星原作本をよんでない人たちには全く違うイメージを与えるかな。映画の進化CGもここまで来たかと楽しめます。源作は日本兵に捕獲された白人でなかったですか。我々日本人は背も低く鼻もたかくない猿が戦艦武蔵をつくって1940年代を白人優位を覆そうとした。最近読んだ本で、かなり面白かったものに 1おいの才覚曽野綾子740えん105万部?2ベストセラー炎上西部邁、佐高信対談かなり痛快かつ晒されてる本にも目くじら立てずよめば刮目のものいい1400えん3上機嫌にさせる徳田辺聖子1400えんあうとすたんぢんぐ自分を上機嫌にさせるい上に老人を機嫌よくさせよう。孔子いらいの良書物。いいすぎ?1より秀逸 サンフランシスコの製薬会社研究所に勤める神経化学者ウィル(ジェームズ・フランコ)が実験用に観察していた一匹のチンパンジーに驚くべき知能が示された。そのチンパンジーには開発中のアルツハイマー病の新薬が投与されていたが、突如暴れ出し、警備員に射殺されてしまう。だがそのチンパンジーは妊娠しており、ウィルは生まれたばかりの赤ん坊猿を自宅に連れ帰り"シーザー"と名付けて育てることにする。3年後、ウィルのもとですくすくと育ったシーザーは、家の中を縦横無尽に駆け回るようになった。ウィルとシーザーとの間には強い絆が生まれており、同時に母親のチンパンジーの特殊な遺伝子を受け継いだ彼は、類いまれな"知性"を発揮し始めていく。新薬が脳を活性化させる効果を確信したウィルは、研究所から持ち出したその薬をアルツハイマー病の父・チャールズに投与、すると翌朝、彼はそれまで悪化していた病状が嘘のように生気を取り戻す。5年後。ウィルは動物園の獣医キャロライン(フリーダ・ピント)と相思相愛の仲になり、体長5フィートにもなったシーザーは、より複雑で多様な感情を表すようになっていた。そんな折、チャールズが再び病状悪化の兆候を示し、隣人とのトラブルを引き起こす。その様子を屋根裏部屋から目撃したシーザーは、チャ-ルズを助けようとしてその隣人を傷つけてしまい、霊長類保護施設に入れられる。檻に閉ざされた施設で、シーザーを待ち受けていたのは飼育長の陰湿な虐待だった。その一方で、なかなか施設内の猿のコミュニティに溶け込めずにいたシーザーは、チンパンジーの群れを率いるボスとの争いに勝利を収め、全ての猿たちをひとつのグループにまとめ上げていく。その頃、ウィルはより強力に改良した新薬の実験を行うが、猿への投与中に薬を浴びたウィルの同僚が原因不明の体調不良を訴えた後、夥しく出血、謎の死をとげる。ウィルは施設を訪れるが、シーザーはウィルが差しのべる手を拒絶。知性に目覚め、人間の愚かさに失望し、ウィルさえも想像できない驚異的な進化を遂げたシーザーは、このときすでにある決意を固めていた。やがて高い知能を駆使し施設から脱出したシーザーは、今や固い絆で結ばれた仲間のチンパンジーらと共に、人類との壮大な全面戦争へとなだれ込んでいく......。
2011.10.09
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NHK長江2回目を観た。後でグぅグールマップで中国の上空から長江を探し観た。
2011.10.04
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45年も昔々電車通学途中となりの見ず知らずの学生から話しかけられた。田舎からでてきてこの沿線の下宿からの途上、孤独、寂寥からの花仕掛けであった。『阪急電車 片道15分の奇跡』(はんきゅうでんしゃ かたみちじゅうごふんのきせき)は、ローカル電車を舞台としたハートフル群像劇映画。監督は今作が劇場用映画デビューの三宅喜重。出演は『ゼロの焦点』の中谷美紀ほか。2011年4月6日より、阪急電鉄の一部車両に映画公開をPRするヘッドマークが掲出されている。キャッチコピーは「その出会いは偶然なんかじゃ……ない」「『終着駅は、きっと笑顔。』」。2011年3月30日に行われた試写会では、宝塚大劇場(映画の舞台である阪急今津線宝塚駅の近くにある宝塚歌劇の専用劇場)が上映会場となった。本劇場で映画イベントが開かれるのは、劇場創設以来初めてだった。[5]2011年4月29日からTOHOシネマズ日劇3ほか日本全国の東宝系劇場で公開されたが、関西では4月23日から先行上映された。関西地区23スクリーン先行上映ながら、2011年4月23、24日の初日2日間で興収5,815万4,800円、動員4万4,166人になり映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第7位となっている[6]。全国80スクリーンに拡大公開された第2週には第6位にランクインしている[7]。キャスト [編集]高瀬 翔子 - 中谷美紀森岡 ミサ - 戸田恵梨香(兵庫県神戸市出身)伊藤 康江 - 南果歩(兵庫県尼崎市出身)権田原 美帆 - 谷村美月(大阪府出身)門田 悦子 - 有村架純(兵庫県伊丹市出身)萩原 亜美 - 芦田愛菜(兵庫県西宮市出身)小坂 圭一 - 勝地涼カツヤ - 小柳友マユミ - 相武紗季(友情出演)(兵庫県宝塚市出身)羽田 健介 - 鈴木亮平(友情出演)(兵庫県西宮市出身)披露宴の会場係 - 大杉漣(特別出演)小峰 比奈子 - 安めぐみ小林駅の駅員 - 菊池均也門田 悦子の友達 - 森田涼花(京都府出身)樋口 翔子 - 高須瑠香(大阪府出身)健吾 - 高橋努遠山 竜太 - 玉山鉄二(京都府出身)萩原 時江 - 宮本信子(若い頃の時江 - 黒川芽以)スタッフ [編集]脚本 - 岡田惠和監督 - 三宅喜重(関西テレビ)音楽 - 吉俣良製作 - 福井澄郎、松下康、見城徹、角和夫、桐畑敏春、中村仁、越智常雄チーフプロデューサー - 重松圭一(関西テレビ)プロデューサー - 沖貴子(関西テレビ)、田村勇気(電通)ラインプロデューサー - 岩本勤撮影 - 池田英孝照明 - 原田洋明録音 - 郡弘道美術 - 松本知恵装飾 - 藤田徹VE - 吉岡辰沖衣装 - 会田昌子ヘアメイク - 清水惇子記録 - 木村晃子編集 - 普嶋信一製作 - 「阪急電車」製作委員会(関西テレビ、電通、幻冬舎、阪急電鉄、ポニーキャニオン、読売新聞社、読売テレビ)製作プロダクション - コクーン配給 - 東宝主題歌 [編集]aiko(大阪府出身)「ホーム」(ポニーキャニオン)
2011.09.28
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だれが書いた映画評か、あとでゆっくりそのブログを鑑賞させていただきます。<異色の作品「デルス・ウザーラ」> 「デルス・ウザーラ」は、彼の作品群の中でも特に異色の作品と言えるでしょう。 先ずこの作品は、海外資本100%、それもソ連出資で、オールソ連ロケによる100%ソ連映画なのです。当然、スタッフのほとんどはロシア人で、黒澤映画の常連俳優たちは一人も出演していません。唯一三船敏郎には、主役のデルス役としてオファーがありましたが、2年に渡る長期ロケはスケジュール的に困難ということで、地元ロシアの俳優に白羽の矢が立てられました。(結局この選択は正解でした) さらに、この作品は彼の作品中唯一「自然と人間」をテーマに取り上げたものです。というより、シベリアの大自然こそが主役の映画といってもいいでしょう。デルスという人間は、シベリアの大自然の一部であり、その精霊といってよい存在なのです。常に「人間」を描き続けた黒澤監督にとって、これは実に珍しいことです。 さらにこの作品は、黒澤作品中唯一実在のモデルをもとにした伝記映画でもあります。 もしかすると、こうして日本的な情緒を初めから排除していたからこそ、この映画はアカデミー賞を受賞できたのかもしれません。世界中の観客がこの作品については、平等の視点で見ることができたということでしょうか。 ついでながら、この映画アカデミー賞を獲っているにも関わらず、黒澤作品の中で最も知名度が低いものかもしれません。しかし、僕個人としてはこの作品黒澤作品中のベスト3に入るのでは?と思っています。特にアウトドア派のひとには絶対にお薦めの一本です。<黒澤明、長年の夢> 「デルス・ウザーラ」は、巨匠黒澤監督が通算25本目の作品として製作し、1975年に公開されました。彼はこの映画の原作「デルス・ウザーラ」(ウラジミール・アルセニエフ著)をまだ彼が監督になる前、助監督時代に読んで以来ずっと映画化したいと考えていました。 なんと一度はその映画化が具体化し、場所を北海道に変えることで脚本も書かれたのだそうです。しかし、「デルス・ウザーラ」の主役でもあるシベリアの大自然にまさる風景が北海道では得られず、結局企画は中止になってしまいました。<ソ連映画としての復活> 1971年、「どですかでん」をモスクワ映画祭に出品するためモスクワを訪れた彼は、このことをソ連の映画関係者に話しました。すると、日ソ交流の先駆けとして共同で映画化しないかという提案が出されました。元々この原作本はソ連において国民文学のひとつとも言える存在でした。それにこの本にはイデオロギー的な色合いがほとんどないため、ソ連の体制が変わっても抹殺されることはなく、当然映画化についてもまったく問題がありませんでした。 その後本格的に交渉が行われ、最終的には100%ソ連出資で、作品の内容については100%黒澤に自由が与えられるという決定がなされました。こうして、黒澤とユーリー・ナギービンによる共同脚本が完成。いよいよ撮影が始まりました。<厳しい自然の中での撮影> 撮影場所はもちろん原作どおりシベリアの奥地です。夏は高温多湿で蚊に悩まされ、冬は零下37度にまで達する中、撮影が行われました。そんな厳しい自然条件の中でも、完璧主義者黒澤はけっして撮影中妥協せず、自然の厳しさ以上に監督の指示はスタッフにとって驚異だったようです。 特に映画の中でも重要なシーン。ハンカ湖近くの湿地帯で主役の二人が吹雪の中、野営用の仮小屋を作ろうと必死で草を刈るシーンには10日間もの日数がかけられました。わずか15分のシーンのために二人の両手は血だらけになり、撮影後はその場に倒れ込んでしまいました。(映画では、その倒れ込んだシーンがそのまま使われています)<デルスという男> 物語は、1902年シベリアの奥地を地誌や測量調査のために探検していたソ連の軍人アルセーニエフがそこで偶然デルス・ウザーラという猟師と出会うところから始まります。 家族もなく、家も持たない彼は、まるで森とともに生きているかのように、その土地の生き物や自然を知り尽くしていました。 そのうえ彼は、けっして人を騙したりせず、猛吹雪からアルセーニエフの命を救ってもその代償を要求することもありません。すっかり彼の人間的な魅力に魅せられてしまったアルセーニエフは、この土地を調査探検する時は必ず彼をガイドとして雇うようになります。虎や熊のような猛獣や猛吹雪や寒さ、飢餓との闘いなどあらゆる危険を乗り越える小さくて心優しいスーパー・アウトドア・ヒーロー、デルス・ウザーラ。 彼はまるで「指輪物語」の中のホビット族を思わせるキャラクターですが、実在の人物です。しかし、そんな伝説的ヒーローにも勝つことのできない敵がいました。それは「老い」でした。50歳を過ぎ急激に視力が衰えたデルスはしかたなくアルセーニエフの誘いに応じ、ハバロフスクの彼の家に同居することを承諾しました。しかし、都会は彼にとって住むべき場所ではありませんでした。都会人たちのおかしな生活ぶりに彼はしだいに精神を蝕まれてゆきます。結局、デルスは森に帰ることを決意し、アルセーニエフもそれを引き留めることはできませんでした。こうして物語は悲劇的なラストへと向かうわけです。<マキシム・ムンズク> 主人公デルスを演じる地元ソ連のアジア系俳優マキシム・ムンズクの演技もまたシベリアの美しい大自然に匹敵する実に自然な名演技です。まるで「森の妖精」デルスが本から抜け出してきたかのような存在感ですが、実際本物のデルスの写真とそっくりなのには驚かされます。実は彼は地元の優秀な芝居の俳優で、そのため撮影当初は演技が過剰すぎ何度も監督に駄目だしされたのだそうです。その後、もうひとりの主演俳優であり、当時のソ連におけるナンバー1俳優でもあったユーリー・サローミンがマキシムにじっくりと説明し、やっと演技がスムーズに出るようになったのだそうです。 デルスが叫ぶ「カピターン!」とアルセーニエフを呼ぶ声は、この映画を見終わると当分耳から離れないことでしょう。<大自然のドキュメンタリー> この作品は黒澤作品中、最もドキュメンタリー的な作品でもあります。厳しいシベリアの大自然の元での撮影のため、ライトやアングルなどに凝るわけには行かず、もちろんセットのように画面の構成をいじるわけにも行きません。これは、いつもは自由に器材を用いることができる黒澤監督にとって、厳しい条件であると同時に、新たな挑戦でもありました。 こうしてできたシンプルな映像、シンプルな演技、シンプルな物語のこの作品は、元々仲代達也とか三船敏郎の大げさな演技が正直言って許せない僕にとっては、なかなか新鮮で魅力的な作品でした。<思い出の映画> この映画が公開された時、僕は高校生で受験勉強まっさかりでした。そのうえ、公開期間がちょうど期末試験にぶつかっていて、どうしても見られませんでした。それまで黒澤映画をリバイバルでしか見ていなかった僕としては、なんとかして「生」で見たかったので、試験の最終日、最終回に間に合うよう友達とタクシーに飛び乗り映画館に直行したのでした。しかし、そうまでして見たのですから、青春時代に見た映画が心に残るのは当然なのかもしれません。 現実を忘れさせてくれ夢の世界に連れていってくれる映画も良いのですが、たまには心に残る映画を見たいものです。そして、そんな心に残る映画は、きっとあなたの中の何かを変えてくれるはずだと思います。「デルス・ウザーラ Derus Uzala」 1975年(製作) ニコライ・シゾフ Nikolai Sizov、松江陽一 Yoichi Matsue(監督) 黒澤明 Akira Kurosawa(脚本) 黒澤明、ユーリー・ナギービン Yuri Nagibin(撮影) 中井朝一 Asakazu Nakai、ユーリー・ガントマン Yuri Gantoman フョードル・ドブロヌラボフ Fiodor Dobronravov(美術) ユーリー・ラクシヤ Yuri Raksha(音楽) イサク・シュワルツ Isac Schwalz(出演) ユーリー・サローミン Yuri Salomin マキシム・ムンズク Maxim Munzuk
2011.09.28
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光速より速い実験結果 [編集]2011年9月23日CERNで特殊相対性理論に反し光速より速いという実験結果が発表された[4][5]。「国際研究実験OPERA[6] 」[7][8][9]のチームが、人工ニュートリノ1万6000個を、ジュネーブのCERNから約730km離れたイタリアのグランサッソ国立研究所に飛ばしたところ、2.43ミリ秒後に到着し、光速より60ナノ秒(1億分の6秒、ナノは10億分の1)速いことが計測された。1万5000回の実験ほとんどで同じ結果が示された[10]。これは環境の影響や考え得る測定誤差[11]をはるかに超える値である。鈴木洋一郎東大教授は、「1987年小柴昌俊先生が観測したときは光とほぼ同時に観測したので、その結果と矛盾する」という[12][13]。未知の性質の発見を表しているかどうか注目されている。2007年に米国で同様の結果が発表されているが、誤差が多かったという。OPERAチームは声明の中で「この結果が科学全般に与える潜在的な衝撃の大きさから、拙速な結論や物理的解釈をするべきではない」とし、検証を呼びかけた[14]。また、日本がスーパーカミオカンデで人工ニュートリノ飛行実験をしていることから、日本の実験結果も注目されている。
2011.09.25
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映画僕たちは世界をかえることができない の封切日23日に見た。向井理,松坂桃李エトセトラ皆好演だった。4,5年前になるでしょうか。「チェンジメーカー」「社会起業家」というワードと同時に「世界を変える」「世の中を変える」「社会に変革をもたらす」…そんなワードを掲げながら、各々の活動に打ち込む若者たちに各メディアからスポットが当たりました。国内でそのアクションの先頭を走っていたリーダーたちは、今では行政と連携したり、そこで意見したり、当時と比べれば、皆さんそれはもう目まぐるしい活躍をされています。更に、当時「ビジネスリソース」などという呼ばれ方をしていた今で言うところの「プロボノ」の人たちにも注目が集まり、これはもしかしたら一過性のブームではなく、プロボノってのは息の長いワードになるのではないか?という期待を抱かせてくれます。とは言うものの、そんな4,5年前と比べ、実際に世の中は「変わった」のか、そして社会も「変わった」のか…残念ながら、大きな変革は「無かった」とするのが、個人的な見解です。これはNPOだけじゃなく、国内外含め、大きなシステム(国、経済etc.)全般に対して…です。そりゃNPOでも、細かいところで見れば、NPOの寄付税制の話、ファンドレイズの手法としてソーシャルメディアが注目されている話、当時と比べて改善され、可能性が出てきた要素は幾らでもあるでしょう。しかしながら、僕の立っている国内の”現在地”から周りを見渡すと…毎年資金繰りやスタッフの募集に頭を抱えるNGO・NPO、団体の後継者が育たず潰れていく小さな組織、依然としてJICAなどにぶら下がらないと一定の資金力の確保がし難いNGOの現状、海外に本部のある大組織の支部ではなく”日本発”のNGOが未だに少ないという事実…注目度も含め、多少は広がってきてはいますが、やはりまだ「NPO」も「社会貢献」一部の人のモノでしかないんだよなぁと。震災の後だって、3ヶ月経った今もそう感じています。3.11をキッカケに、人生の方向性そのものが変わり、今でも現地で支援活動をしている仲間、友人が僕にもいます。それでも僕は、彼らの善意が「世界を、日本を変えていける」とは思っていません。きっと彼らはそんな事すら考えてもいなくて、何とかしたい一心で、ひたすらこれからも活動し続けるでしょう。それによって助かる命もあれば、他人の人生に大きな影響や可能性を与える事が出きるかもしれない。現に僕はそういう(世界規模から見た場合の)”小さな奇跡”みたいなのは一般的な人よりは、このNPO・NGOに関わる生活の中で見てきました。ただ、何度も言いますがそれはあくまで「小さな奇跡」であって、「世界を変えること」ではありません。貧困・差別・紛争・宗教・病気・権利・環境…名目上「世界」という単位で、国連という大きなシステムも含め我々人間が取り組んできたそれらが、果たしてどのくらい「世界を変える」ことが、良くすることが出来たのでしょうか。こたえは明らかだと思います。だから、僕自身は「世界を変えること」と「自分の命において、その周りに小さな奇跡や可能性を示すこと」は別に考えたい。そう思っています。世界の規模から考えたら本当に小さな取り組みだけど、確実に小さな社会を変えてきたNPOが日本には幾つかあるし(例えば島根県の海士町だったり…)、これらかもNPO・NGO団体においてそういう事例が出てくるとは思う。だからこそ、それらのアクションと人類にとっての大きなアクションは別に考えたいな。と。仮に日本を変革できるようなインパクトを起こせるとして、それは全人類にとっての何%になるのか、それは多くの命が生きる地球上での何%にインパクトを与えられるか。人生をかけて自分が何かに取り組んだとして、そこで仮に10%でも多くの人の人生に影響を与える事が出来たとしたら(←この時点で既にジョブズみたいなレベルですが…)その人はそこで満足できる?それともあと何%変革を起こせれば満足する??…みたいな話になってくるのです。これがまた。だから、イノベーションていう言葉が好きだったり、世界を変える!ていう意気込みを持っている人ほど、(「変えたい!」って願っている時点で、その人自身は本当の意味で「変えた事がない」人だと思うので)肩の力を抜いて、自分の周りをよーく見渡してみて欲しいです。そして自分が歩いてきた道を、振り返ってみて欲しいなぁ。…何が見えますかね!?僕の場合は、こんな感じでした。大切な家族と、仲間と、お世話になった方々と…自分が「ありがとう」を言いたい人たちの存在です。今の自分はその人たちにちゃんと向き合えているだろうか、今まで向き合えて、大切にしてこれただろうか。これからその人たちと共にどんな命を生きてゆきたいか。自分がもし死んでしまったら、その人たちの中にはどんな”自分”が残るのだろうか。僕が、チェ・ゲバラと同じくらい大好きで、尊敬している人物がランディ・パウシュです。彼はカーネギー・メロン大学の卒業式のスピーチでこう言いました。(パウシュについてはコチラを→http://purupuru-n.com/column/archives/2011/01/06173544.php)「尊敬や栄誉を得るのは勿論良いことですが、仲間うちで心から敬意を持ってもらえる程度で充分ではありませんか。そして自分が尊敬する人から認められることも、すごく栄誉な事だと思います。」僅かな余命を宣告された彼の、卒業生へ向けた(残される者へ向けた)メッセージの一部です。人はきっと「生きること」を考えたり、「生まれた意味」を考えはじめたとき、きっと「誰かの役に立ちたい」とか「自分の命を意味あるものにしたい」と思うのかもしれません。ある哲学者の先生に「命や人生に意味なんてない」などと、一蹴されたこともありますがw僕もその「意味」を考えまています。更には、自分の命だけでなく、他人の、日本の、世界の人々の命に思いが向いたとき、多くの若者たちは我々含め民主主義や過去の歴史が作り上げてきた「大きなシステム」と対峙することになります。更にその延長線上で、自分たちの身の回りのシステムに対しても矛盾、不正、差別…様々な問題と向き合うことになります。ここまできて「何かを変えたい」「変革を起こしたい」と立ち上がる勇気は素晴らしいのですが、既に書いたように、勇気や思いでは、この巨大なシステムの1%も変えることはできません。やはり、現実的には1人の人間が変えられる範囲は決まっており、それは決して世界を変える規模ではない。という事なのですよね。でも逆に言えば、自分の周り、ごく小さな範囲を見渡せばどうでしょう?もしかしたら、自分が普通に生きているだけで、周りに影響を与えているかもしれないですよね(この地球で自分が生きていると言うだけで)。だからこそ、ドンキホーテの話のように、いつしか絶望して帰ってくるのではなく、すぐそこにいてくれる家族や仲間や恩人たちに感謝し、共に笑顔で生きていけるような…そこからはじめるべきだと思うのです。それで十分じゃないですかね?僕の大好きなチェ・ゲバラですら世界は変えられなかった。到底自分の命では完結できないであろう”帝国主義”という目に見えない巨大なシステムに立ち向かい、そして志半ばでその生涯を終えてしまったのです。彼の思いは共に戦った仲間、家族、キューバ、アルゼンチンをはじめとした中南米の国の人々、多くの「命」によって伝えられ、今も尚継承されていますが、結局は世界は変わらなかった。だから、何度も言うけど、世界を変える!などという意気込みをもって無駄な時間をすごすのではなく、自分の身の回りにいる人、すぐそこにいる大切な存在を大切にしましょう。不特定多数へ向けた変革よりも、まずは自分と繋がりがある環境で小さな変化を起こせるかどうか。すぐ横にいる誰かを大切に出来ない人に、海の向こうの人たちの痛みなんか感じることが出来るわけないのですから。今自分は強く、そう思っています。だからこそ僕は「世界を変える!」なんて絶対に言わない。でも、「何かの為に生きる」のなら、すごく良いと思う。その「想い」は伝わるし、それこそ世界へ向けて伝播しゆくものだと思うから。※まぁこの類の話は「頑張れ!」って言っちゃだめとか、「死」という言葉を簡単に使うな的な話と近いものがあるのかもしれませんね。…と書き終えてふと思ったり。
2011.09.23
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「100万人避難」即決断 名古屋市「東海豪雨」の教訓 2011.9.21 23:57 (1/2ページ) 河川の増水が激しかった名古屋市では20日から21日にかけて、市人口の約半数にあたる100万人超に及ぶ住民に、異例の避難指示・勧告を出した。決断の背景には平成12年に死傷者51人を出し、対策が後手に回った「東海豪雨」の教訓があった。市は被害を最小限に食い止めた「早めの対応」を肯定的にとらえる。一方で、実際の避難者は5千人弱にとどまっており、広報体制や避難先の確保などで課題も残った。 名古屋市が最初に避難勧告を出したのは20日午前11時20分。市内を流れる天白川が警戒水域に達したため、流域住民ら約20万人を対象とした。さらに同55分には庄内川でも氾(はん)濫(らん)の兆候がみられたため、勧告対象地域を一気に拡大。午後3時にはさらに約7万9千人に避難を指示。20日夜には避難勧告・指示を合わせると、対象者は108万人超に上った。 名古屋市の人口は約227万人。わずか約4時間の間に半数近くの住民らに避難を促した形だ。 市災害対策本部の担当者は「これだけ多くの住民に避難を呼びかけたのは記憶にない。極めて異例の対応だったが『東海豪雨』の経験があったので、ためらいはなかった」と話す。 東海豪雨は12年9月11日深夜に発生。今回と同様、市内の庄内川などが氾濫した。市は段階的に約37万人に避難勧告を出した。しかし、時間を要したことや、より強い情報である避難指示を出さなかったことから、51人の死傷者を出し、浸水被害も拡大した経緯がある。その反省から河川事務所が氾濫警戒情報を出した際、速やかに避難勧告を出す方針を決めたことが、今回の判断につながった。 一方で、新たな課題も浮き彫りとなった。
2011.09.22
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第1部 基礎理論 第1部の基礎編では、「パスカルの3角形」で2項定理と数列の面白さを、「方程式と関数」では2次方程式の解と虚数の登場と関数の性質を知るためのグラフの活用を、微分積分の定義と基礎公式を概説する。2,3の初歩的事項をあくまで丁寧に分るように具体的に説明する。これでは本のページ数が多くなるのはやむをえない。専門書のような、理解できない人には大きな壁を感じるような冷たさは無い。素数を求める「エラトステネスの篩」という方法を知った。連続という概念、循環小数を分数で表す方法は面白かった。これはもうビンゴゲームを超えるパズルといってもよい面白さがある。(a+b)のn乗を展開する2項定理の係数が、相異なるn個のものからr個をとる順列組み合わせから求められる。上の二つの項の和であるパスカルの3角形の数列と前の2つの項の和で決まるフィボナッチの数列が、同じ数表の斜め読みでつながっていたのは、確かに当然である。数列が収束する条件と、等比級数、等差級数の和の公式はまさに天才技(奇想天外)である。2次方程式の解法で初めて虚数が登場する。関数とグラフ、微分積分は普通の高校の教科書と同じなので割愛する。又計算機で数値的に方程式の解をもとめるニュートンラプソン方は随分お世話になったので、その重要性はいうまでも無い。そしてこれが√の開法にもなっていたのだ。 第2部 関数の定義 第2部はオイラーの公式の三大構成要素である、テイラー級数展開と指数関数(対数関数)、3角関数の基礎を述べる。級数の和を求めることの逆で、ひとつの式を級数に展開できないだろうかn次高次代数方程式の微分を行なうと、ひとつづつ次数が減じていくことを利用してテイラー展開が可能となった。2項定理も改めてテイラー展開に含められた。指数関数は実に簡素化された性質を持つ。その最大の性質は微分をしても関数の形を変えないことである。そしてe0=1と定義するので(eはネイピア数という無理数)、そのテイラー展開はより簡素化されたxのベキ級数で表される。対数という関数は指数関数の逆関係にあり、微分すると1/xとなるという便利な形式をもつ。3角関数は円と切り離せないほどの関係があり、円の関数といってもよい。小川洋子さんが不思議がる必要もなく、πは角度θとみればオイラーの公式のひとつの特殊形であった。πも無理数である。本書によるピタゴラスの内接n正多角形によるπの漸次計算法は、連√形式ではあるが、ぺートル・ベックマン著「πの歴史」の説明よりずっと整理されていて分りやすい。周期関数である3角関数の諸定理は高校の教科書と同じであるので省略する。(cosx)2+(sinx)2=1の解として、A=cosx+isinx B=cosx-isinxとおけば、A,Bは指数関数と同じ性質をもつので、ド・モアブルの定理(cosx±isinx)n=cosnx±isinnxが得られて、3角関数、虚数、指数関数の間に密接な関係が見られ、オイラーの公式の準備が整った。3角関数もテイラー展開が出来ることはいうまでも無い。 第3部 オイラーの公式とその応用 A=cosx+isinxを級数展開すると、指数をテイラー展開した形とおなじであり、xをiθに置き換えると、eiθ=cosiθ+isiniθというオイラーの公式がえられる。ここでそれぞれ独立して定義された関数、単調関数である指数関数と周期関数である3角関数が虚数を取り込むことによって結びついている。そしてこの公式は調和振動子という物理学に直結するのである。θ=π(180度)とおけば、eiπ=-1となり円周率とも手を結ぶのである。sinθ=1/2i(eiθ-e-iθ),cosθ=1/2i(eiθ+e-iθ),tanθ=(eiθ-e-iθ)/i(eiθ+e-iθ)と書き換えれば、3角関数の理論は複素平面(ガウス平面)上の指数関数に移され、指数関数の簡素な法則(微積分によって関数形を変えない)を利用して見通しのいい関係が出来る。オイラーの公式は複素数の幾何学(解析幾何学)そして極座標からベクトルへと応用される。オイラーは剛体の力学に回転の極座標を導入したことで有名である。ベクトルの代数表現として行列があるが、本書の行列についても大学1年で学習する行列と行列式の範囲を出るものではないので割愛する。単位行列と虚数行列(直交行列)を定義してオイラーの公式の行列表現ができる。そして微分方程式の行列解法になくてはならないケイリー・ハミルトンの固有方程式が2行2列の行列に関して導かれた。 第4部 発展的話題 第1部から第3部の解説において、煩雑を恐れて話題としなかった事項について、基礎をひととおり理解した段階でさらに高度な内容へ進むのがこのアドバンス・コースである。内容は多岐にわたり、22の事項が解説されている。整数論では最大公約数を求めるユークリッドの互除法という割り算の漸次アルゴリズムをBASICという言語でプログラムすることが述べられている。本文ではN=1または2の場合のみ詳しく解説して、Nの一般式を誘導しているが本当はその証明がなかった。これを証明するのが数学的帰納法である。これも高校で習ったところだ。素数が無限大に存在することを、数学的帰謬法で証明している。順列組み合わせの一般項の公式も高校で学習したことである。無理数、ネイピア数e、円周率π、黄金数を連分数で計算することを通じて、パスカルの3角形からフィボナッチ数列へ、フィボナッチ数列から黄金数へ、黄金数から円周率、ネイピア数へ、そしてオイラーの公式を通じて虚数へとひとつの橋が架けられた。数学的に重要な定数はお互いに暗渠で通じ合っていたとしか言いようの無い見事さであった。(これら定数はどうしても有理数にできない超越数という) 話題として3次以上のピタゴラスの定理をみたす自然数は存在しないというフェルマーの最終定理や、5次以上の代数方程式の一般的代数解法は無いことにこだわり続けた人々(ガウスはn次代数方程式は複素数の範囲にn個の根を持つことを証明したが、解法は知らないという)から、ガロア群論がうまれた契機となった。この第4部で4次代数方程式の一般的解法の解説に力を入れているようだ。三次のタルタニアーカルダノ解法、4次のフェラーリの解法とその演習である。行列による微分方程式の解法に随分ページを割いている。1階線形微分方程式の一般的解の公式を導いて、2階線形微分方程式を解くという手法である。例題として、物理学的に重要な問題、自由落下の方程式、強制調和振動子、減衰調和振動子の解法を説いている。そしてスカラー3重積から重要な性質を導き、三次の正方行列と行列式を解説している。これも大学1年で学んだ事項である。微分方程式の演算子法解法で、微分積分を考察する変数を複素数に拡張することによって、単なる代数計算に置き換えることができる。F(s)=∫e-st・f(t)dt これをラプラース変換という。定数、一次変数t、指数関数、1階導関数、2階導関数のラプラ-ス変換などが出来るが、何でも出来るわけでなく、初期値問題では意外に応用が広い。 --------------------------------------------------------------------------------
2011.09.15
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物理学者ファイマン(「ご冗談でしょう ファイマン先生!」の著書で知られている)がこういっている。"We summarize with this,the most remarkable fomula in mathmatics: this is our jewel"数学、特に複素解析におけるオイラーの公式とは、に示される指数関数と三角関数を虚数が媒介して成り立つ等式をいう。 θ = π のとき、eiπ = -1 というオイラーの等式と呼ばれる式が得られる。この公式は複素解析をはじめとする純粋数学の様々な分野や、電気工学・物理学などであらわれる微分方程式の解析において重要な役割を演じる。物理学者のリチャード・ファインマンはこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい,そして驚くべき「方法」」だと述べている。私はこの本を題名だけで判断して、恐らく科学読み物か数学史くらいに考えて本屋に注文した。そして入手した本をぱらぱら見て驚いた。本格的な数学の専門本ではないかと疑った。ただし本格的な専門書は、この本のように内容的に間口はひろくないし、装丁も紙の質ももっと上質であるが。第1部でオイラーの公式を導くための数学の基礎全般を概説し、数論、級数、代数方程式、関数論、微分、積分を概説する。準備が整ったところで、第2部ではオイラーの公式の骨格をなすテイラー展開、指数関数と三角関数の特徴を概説する。そして第3部でオイラーの公式を導き、ベクトルと行列に応用して物理学への展開を述べる。付録としてアドバンスコースを設け、オイラーの公式の利用のすごさを実感してもらう過程となっている。今の数学教育ではお目にかかれない連分数や、√2、π、eが無理数である事の証明やフェルマーの最終定理など数論の基礎的話題は魅力に満ちている。4次までの代数方程式は何とか解けることの実習にかなりのページを割いている。行列形式による微分方程式の解法はベクトル形式を利用して物理学への重要な意味付けを扱っている。3行正法行列の行列式の計算とラプラ-ス変換による微分方程式の解法は有意義な勉強であった。本書はオイラーの式が持つ意味を理解するための総合的な数学入門であり、従来の分野別数学書ではない。私たちが大学の始めに習った名著高木貞治著「解析概論」のような格調の高さは無いが、紙と鉛筆、そして卓上電卓を座右において実践する数学として抜群の面白さがある。若い高校生が読めば、きっと数学が好きになるだろう。私のような高齢者が数学概論を勉強して何になるのかという疑問はあるが、いくつになっても面白いものはあるのだ。本の余白を数式の展開の鉛筆書きで満たす作業は、何物にも替え難い満足感を得た。まだまだ自分の脳は使えるのではないか?「博士の愛した数式」(小川洋子著、新潮社、2003年)の中で出て来た博士の愛した数式とは、オイラーの公式と呼ばれるものです。eのπi乗に1を足すと0になるというものです。 このオイラーの公式を著者の小川さんは、以下のように表現しています。 「果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手をする。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する」と。 吉田武氏の著書「虚数の情緒」に、オイラーの公式の三次元化が述べられている。一寸面白いオイラーの公式の視覚化なので紹介する。yz平面においては,パラメータを使った円の表現がなされており(半径1の円である)、xy平面にcosθのグラフ,zx平面にsinθのグラフが同時に描かれている。それをx軸方向に引き伸ばして,あたかもばねの様に立体化させたものがこの図である。 レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler 1707 - 1783年)は18世紀最大の数学者・物理学者である。スイスのバーゼルに生まれ、ロシアのサンクトペテルブルクにて死去した。本書が紹介するオイラーの生涯を見て行こう。バーゼル大学でベルヌーイ(流体の運動方程式で有名)の講義に魅せられて、神学から数学へ転進した。19歳でパリ科学院のアカデミー賞に輝いたオイラーは勧められて、1727年ロシアのペテルスブルグに移った。女帝エカテリーナ1世の死去に伴う政情不安の中で、過度の勉強で右目を失明した。1741年ドイツのフリードリッヒ大王の招きでベルリン科学アカデミーに移り、素晴らしい研究成果を発表した。「無限解析入門」 と「微分学教程』」という数学書を出版した。1766年ロシアのエカテリーナ2世の要請で再びペテルスブルグに戻った。熱心な研究を続けたが、1773年白内障の手術を受けたものの、視力を失った。1783年天王星の軌道について議論中に逝ったといわれる。文学や社交には興味を示さず、数学と物理に専念した。オイラーは虚数iのみならず、πやeについて山ほどの公式を発見し、その普及には大きな功績があった。オイラーは数値計算に関しては、πの仕事を全て終らせたといわれる。ぺートル・ベックマン著「πの歴史」にオイラーのπの研究の業績が書かれているので紹介する。オイラーの業績を見ると、まず解析学(無限小解析)においては膨大な業績があり、微分積分の創始以来もっともこの分野の技法的な完成に寄与した。級数や連分数、母関数の方法、補間法や近似計算、特殊関数や微分方程式、多重積分や偏微分法などなど、古典的な解析学のあらゆる部分に、基本的なものから応用にいたるまでの業績があった。私が大学に入ってからの5月病の原因であった高木貞治著「解析概論」の初めにはオイラーの業績が紹介されている。オイラーの名前は、指数関数と三角関数の間の関係を与えるオイラーの公式、オイラー=マクローリンの和公式、オイラーの微分方程式、オイラーの定数などに残っている。フェルマー以降ラグランジュの出現までは進展がなかった整数論において、ほとんど一人で研究し続け、広大な結果を残した。数論的関数の一つであるオイラー関数に彼の名前が残っている。彼はゼータ関数と素数の関係を表すオイラー積の公式を発見、素数の逆数の和が発散するという新しい結果を得た。解析幾何学では一筆書きのできるグラフはオイラーグラフと呼ばれる。これはグラフ理論の起源となった。物理学では、ニュートン力学の幾何学的表現を解析学的に修正して、流体力学の基礎方程式(オイラーの連続方程式と運動方程式)を導いて体系化し、さらに剛体の力学を論じ、剛体に固定した運動座標系(オイラー角)を導入してオイラーの運動方程式を得た。 著者吉田武氏のプロフィールを紹介する。といっても吉田武氏に関する記事はなかなか見つからない。本書の末尾には「京都大学工学博士(数理工学)」」と書いてあるだけで、わかっていることは著者は京都大学教授であることだけである。経歴や業績の詮索はやめて、著書だけを紹介したい。稀に見る分厚い本を好んで書くユニークな先生で、本の読者は中学生を対象とすることが多いのが特徴である。しかしこんな難しい数学の本を並の中学生が理解できるとは思えないので、中学生でも理解できるように書いたという著者の試みは良しとしておこう。そして私の頭も中学生並みである事を白状しておこう。著者はかって「専門書の文庫化」ということを試みられたそうである。私は見たことが無いので、あまり普及しなかったようだが。1999年 「ケプラーー天空の旋律」 (共立出版)2000年 「マックスウエルー場と粒子の舞踏」 (共立出版)2000年 「虚数の情緒ー中学生からの全方位独学法」 (東海大学出版会)2002年 「はじめまして数学1、2、3」 (幻冬社)2002年 「あの無限、この無限、どの無限?」 (日本経済新聞社)2003年 「ノーベル物理学劇場ー仁科から小柴までー中学生の素粒子の世界」 (東海大出版会)2005年 「私の速水御舟ー中学生からの日本画鑑賞」 (東海大出版会)2006年 「はやぶさー不死身の探査機と宇宙研の物語」 (幻冬社)2010年 「オイラーの贈り物ー人類の至宝eiπ=1を学ぶ」 (東海大出版会)である。「虚数の情緒」については松岡正剛氏の「千夜千冊」に評論が出ているの、参考までに挙げる。 第1部 基礎理論
2011.09.15
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NYに往くAAA機上で観た、映画が近くのちはら台シネマックスで再上映、こんどは字幕しっかり見ておきました。日輪の遺産もはしごしたので、浅田文学少し変なたのしみでしたが。暑い午後避難先として、弁当付好日でした。--------------------------------------------------------------------------------1925年、大英帝国博覧会閉会式で、ヨーク公アルバート王子はエリザベス妃に見守られ、父王ジョージ5世の代理として演説を行った。しかし、吃音症のためにさんざんな結果に終わり、聴衆も明らかに王子の演説に落胆してしまった。アルバート王子は「専門家」による治療を試すものの、結果は思わしくなかった。1934年、エリザベス妃は言語聴覚士であるオーストラリア出身のライオネル・ローグを紹介され、アルバート王子は仮名を使って、その療法を受けるため、ローグのみすぼらしいオフィスを訪問した。第一次世界大戦によって戦闘神経症に苦しむ元兵士たちを治療してきたローグは、当時、本流とはいえない療法をもって成功していたが、アルバート王子に対しても、愛称(バーティーとライオネル)を使い合うことを承知させ、くだけた環境を作り出して療法を始めようと提案する。これに対してアルバート王子は反発し、治療法そのものに納得しない。ローグは最新の録音機を使い、王子に大音量の音楽が流れるヘッドホンをつけることで自身の声を聞けない状態にしてシェイクスピアの『ハムレット』の台詞を朗読させ、その声をレコードに録音させた。王子はひどい録音になったと思い込み、また治療の見込みがなさそうなことに腹を立てて帰ろうとする。それならと、ローグは録音したばかりのレコードを王子に持って帰らせる。ジョージ5世のクリスマスのためのラジオ中継が行われた後、国王は王太子デイヴィッド王子とアルバート王子の将来について心配していることを告げる。国王はデイヴィッド王子について次期国王として不適格だと考えているようであり、弟であるアルバート王子が王族の責務をこなせるようにならねばならないことを強調し、きつく接する。帰邸後、落ち込んだアルバート王子は、いら立ちとともにローグから受け取ったレコードを聴く。だがそこには、吃音の症候はまったくない『ハムレット』の台詞が録音されていた。王子はエリザベス妃ともども、自分の声を聞いて驚く。そして、王子はローグの治療を受け続けることにして、口の筋肉をリラックスさせる練習や、呼吸の訓練、発音の練習などを繰り返し行う。1936年1月、ジョージ5世が崩御し、デイヴィッド王子が「エドワード8世」として国王に即位した。しかし、新しい国王はアメリカ人で離婚歴があり、まだ2番目の夫と婚姻関係にあるウォリス・シンプソン夫人と結婚することを望んでいたので、王室に大きな問題が起こるのは明白だった。このような状況下、アルバート王子は、吃音症の治療により一層真剣になり、またローグは問題の原因となっていると思われる、王子の幼少期の体験による心理的問題、肉体的問題による背景を知り、より適切な解決を図ろうと試みる。その年のクリスマス、ヨーク公夫妻はバルモラル城で行われたパーティで、国王とシンプソン夫人の下品な姿を目の当たりにする。見かねたアルバート王子が兄王に、離婚歴のある女性との結婚はできないことを指摘すると、王は吃音症治療は王位がほしいからなのかと責め、兄弟の関係は険悪になる。さらに、アルバート王子が即位することを望むローグとの意見対立から、王子は治療を中断してローグの元から去ってしまう。結局、エドワード8世は、即位して1年も満たぬうちに退位[2]し、アルバート王子が国王として即位することを余儀なくされた。それまで、海軍軍人としてのみ公職を持っていたアルバート王子は、この負担に大きな苦しみを感じることとなる。しかしヨーロッパにおいては、ナチス・ドイツやイタリアのファシズム、ソ連の共産主義が台頭し、一触即発の機運となっていた。英国は王家の継続性を保ち、国民の奮起をうながすため、立派な国王を必要としていた。英国王として即位したアルバート王子は、父親の跡を継ぐという意思表示をも含めて「ジョージ6世」を名乗ることになった。しかし、新国王の吃音症は依然として深刻な問題だった。同年12月12日の王位継承評議会での宣誓は散々なものとなった。ジョージ6世は再びローグを訪ね、指導を仰ぐこととした。1937年5月、ジョージ6世は戴冠式でローグが近くに臨席することを望んだが、カンタベリー大主教コスモ・ラングをはじめとする政府の要人は、ローグは満足な公の資格を持たない療法者にすぎないので、他の専門家による治療を受けるようにと要求し、ローグを国王から遠ざけようと試みる。しかしジョージ6世は、それまでにローグとの間に築き合ってきた信頼関係を第一とし、また彼自身が吃音症を克服しつつあることを自覚して、ローグを手放すことをせず、彼の治療方法を信頼することにするのだった。戴冠式での宣誓はスムースに進行し、ジョージ6世はその様子をニュース映画で家族とともに観る。さらに、そのニュース映画の一部として、アドルフ・ヒトラーが見事な演説によってドイツ国民を魅了している姿に強い印象を受ける。チェンバレン首相の宥和政策は失敗し、1939年9月3日、イギリスはドイツのポーランド侵攻を受けてドイツに宣戦布告、第二次世界大戦が始まった。そして同日、ジョージ6世は大英帝国全土に向けて国民を鼓舞する演説を、緊急にラジオの生放送で行うこととなる。--------------------------------------------------------------------------------以上で物語・作品・登場人物に関する核心部分の記述は終わりです。--------------------------------------------------------------------------------歴史的な正確性 [編集]BBCによるライオネル・ローグの孫へのインタビューによると、撮影の約9週間前に製作スタッフは彼に接近し、ヨーク公の治療に関する資料を手に入れた[3]。製作陣はその資料を基にして脚本の手直しにかかった[4]。フーパーは、映画の重要な台詞のいくつかがローグのメモの直接的な引用であると述べている[5]。しかし、いくらかの出来事に関しては、芸術的、またドラマ上の理由のために脚色、変更がされた。キャシー・シュルツは、映画では史実の出来事を数年に圧縮していると指摘した。ヨーク公アルバート王子とローグが初めて会ったのは、史実では1920年代で、1927年にはオーストラリア連邦議会での演説を成功させているが、映画では1934年に設定されている[6]。歴史家のアンドリュー・ロバーツは、ジョージ6世の吃音のひどさは実際より誇張され、またエドワード8世、ウォリス・シンプソン、ジョージ5世の人物像は、ドラマ的な効果を増すために史実よりもより敵対的にされていると主張している[7]。クリストファー・ヒッチェンズとアイザック・チョティナーは、退位危機のときのウィンストン・チャーチルの描写に疑問を呈した[8][9]。史実では、チャーチルはエドワード8世に退位させる圧力に抵抗するよう奨めたとされているが、映画ではアルバートを支え、退位に反対していないように描かれている。ヒッチェンズは、このような処置はチャーチルの遺産を囲んでいる「カルト」のものであると考えた[8]。療法の詳細は、脚本のデヴィッド・サイドラー(吃音症治療の経験がある)による創作である。
2011.09.14
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