一行程の記

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Dec 3, 2007
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カテゴリ: 抜き書き
「現象学入門」竹田青嗣(NHKブックス,1989)



すると世界とは、けっしてあらかじめそれ自身の存在や意味を持つものではないことがわかる。
世界のさまざまな相は、ただ個人の生の意識(=主観)にとってだけの 存在 意味 を持つものにすぎない。
だがまたこの生活世界の実践的な生の意義は、(中略)、文化世界や歴史的世界の「構成」を内在させている。
しかし、重要なのはこれらの「構成」も基本的には〈私〉にとっての意味の形成体であるために、それらもまた自立的に存在する客観物ではありえないということだ。


だから現象学の課題は、まず学の普遍性というものを、世界の 存在
世界の客観存在、因果の客観性、そういったものはもともとそれ 自体としては 存在しないからである。
それゆえ、つぎに、対象を普遍化しようとする学の努力は、むしろ人間の実践的な生の 意味 、そこから導き出される世界の存在の 意味 に向けられるべきである。
なぜなら、 意味 というものは、それ自体実在するものではないが、どんな人間の生にとっても生そのものを構成する本質であり、しかもひとつのはっきりした普遍的構造を持つからである……。


およそこういったことが、フッサールが現象学的考察を推し進めて提出した新しい問題だった。
「世界の 存在 やその中のさまざまな事物はいかに存在しているのか」と問うのではなく、「世界やさまざまな事物は なぜ 人間にとってそのように存在しているのか」と問うこと、さらにここから、「人間にとって生の意味はどのように ある


ヘーゲルの思想では存在と同時に存在意味がともに絶対〈客観〉として前提されている。
フッサールはこの前提を取り払ったところから出発する。
まさしくここに、現象学の問い方がけっして「絶対」や「究極」を超越的なものとして措定しないことの理由がある。


たとえばヘーゲルでは、人間の生の意味は「社会」や「歴史」の存在意味に”還元”されるが、フッサールでは逆に、「社会」や「歴史」の存在意味が個々の人間の生の存在意味に〈還元〉される。
彼の”意味”への問いは、 究極 初源性 への問いなのである。






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Last updated  Dec 3, 2007 02:21:00 AM


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