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彼女の指示で、トラックに乗り込んだ私は無言で助手席に座っていた。私が人生の中で見たトラックで一番大きなトラックは、カナダの渓谷ぞいの細い道を猛スピードでくぐりぬけていく。私は、心の中で「あ。曲がりきれないで落ちちゃうよ・・。」と何度もつぶやいた。彼女はそんな私の想いとは裏腹にガンガンスピードを上げ、時折私の方を見つめていた。どれぐらい時間が経った時だろう、休憩場所のパーキングにトラックが到着した。二人は、コーヒーをたのみ話し始めた。「アラスカに何しに行くの?」、「オーロラがみたくて、アラスカなら見れるかな・・って思っているんだ。」、「そう、オーロラね。」彼女は、のんきに一人旅をしている私をみつめた。私は、車に乗せてもらえた事に改めてお礼をいった。「後、何時間かかるのかな?」、「未だ、順調にいっても半日はかかるよ。」、「そうか・・。」、「眠くなったら後ろのベッドでな寝ていいから。」私は、そう彼女から言われたがやせ我慢して大丈夫だと告げた。しかし、長旅の疲れは確実に私の中にたまっていた。何度も意識を失いながら相槌を打っている私を見かねて彼女が言った。「後ろで寝なよ。」、私は、「わかった。休ませてもらうよ。」と言った。運転席の後ろにある彼女の仮眠用ベットは女の子らしい壁紙や匂いがした。俺より大きな体つきだけど、やっぱり女の子なんだな・・と実感した瞬間だった。何時間私は寝ていたのだろう。彼女が、「到着したよ」と私をゆすり起こした。カナダとアラスカの国境の町に到着していた。私は、彼女にお礼をいい、入国の手続きを済ませに向かった。ところが、私の思惑とは違い簡単にアラスカには入国できず、オーロラどころではない事を気づかされるのだ・・。「これから、どうしよう・・。」、そんな私の前に見慣れたトラックが止まっていた。「あ、彼女のトラックだ。」彼女は、この街で荷物を下ろし、この街からの荷物をバンクーバーに届ける予定であった。とぼとぼと彼女のトラックに近づいた。トラックには、彼女はいなく、近くのレストランに入っていくと彼女が座ったいた。もじもじしながら彼女に近づくと、私は申し訳なさそうに彼女に話しかけた。「アラスカに行けなくなっちゃった。」、彼女は、やっぱりねという表情をしていた。「また、ご厄介になってもいいかな?」、彼女は笑いながら「勿論、いいですよ。」私と彼女の旅はまた続く事となく・・・。
Jan 31, 2005
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卒業後の進路が全く見えないまま私は卒業式を迎えた。私の学校は、卒業式に総理大臣がきて、卒業式風景もテレビでながれる。ある意味で有名校(?)である。高校を卒業して就職先が決まっている(特別職国家公務員になっている)訳だからそのまま公務員として勤めるのが一般的だ。大学受験が終わるまでずっと獣医になると思っていた私にとって将来の方向性は、まったく見えない状態だった。(高校三年間、綿密に計画だった私の行動は全く無駄に終わった。)そんな折、大学4年の夏に行った旅行先のカナダで知り合った老夫婦(ニュージーランドで牧場を経営していて、息子さんはオーストラリアで警察官をしていた。)から卒業後、私が本気なら自分達の家に来てもらってもいいよと言われた。彼らは、豪華客船で世界中を旅していてた。またま私がバンクーバーに立ち寄った時、船が港に停泊していた。宿泊中の船に何故私が入れたかというとバンクーバーで知り合った独身のお金持ちの男性(スイスから移民)が私をランチに連れて行ったくれた。(この男性との体験は後にお話するが・・・。)船内で、彼と別行動していた私は、年配の集団に出くわした。その中に、ニュージーランドの夫婦がいた。「こんにちは、随分若いのにこの船に乗っているの??」私はそう話しかけられた。「いえいえ、たまたまランチに来ただけですよ。」、「そうなの?で、何を食べるの?」、私は冗談のつもりで「ジャックダニエル」と答えた。「え、お酒じゃない??」、「そうなんですよ。お酒が大好きでお酒さえあれば他に何もいらないんです。」、そういうと集団の中のおじさんが「じゃあ俺がジャックダニエル奢ってやるよ。」と言い出した。「え、本当ですか?」、「本当、本当。今から買いに行こう。」私は内心とんでもない事を言っちゃったな・・と思った。みんなの見ている前で、1リットルのジャックダニエルを飲み干すはめになるとは知らずに・・。そんな事件があって、この団体と親しくなり、卒業後の進路が全く定まらない状態の私はニュージーランドで羊飼いをするという目標を定めた。私が二年間、世界80ヶ国の旅に出発するきっかけはこんな話で始める事になるのである。
Jan 30, 2005
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私達は、帰巣本能に従いユースを目指した。多分、立ち止まって車を待つという行為に二人は耐え切れないでいたからかもしれない。彼がつぶやいた。「このまま、ヒッチできないのかな・・。やっぱり帰りの足を確保しておくんだったね・・。」、私は意味のない確信を持って「大丈夫、俺達なら必ず車を捕まえられるよ。」。とぼとぼ先頭を歩く私の30メートル後を彼が元気なくついてくる。あれから何時間経ったんだろう。彼がまたつぶやいた「全然車の通らないし、たまに通っても俺達を無視だ。後、何時間かかるんだろう。」辺りはすっかり日が落ちて日本の真冬の気温になっていた。私自身も半分諦めた時、私の数メートルに一台の白いバンが止まった。私は思わず「やった・・ついにゲットしたぞ!!」彼は、意識が朦朧として私が何かを叫んでいる事に無関心であった。私はもう一度彼に向かって「おい、やったよ。ついに車が止まってくれたんだよ。わかっているか・・。」やっとの思いでユースについた私達は、部屋の暖かさに感動した。生きているんだな・・。さっきまで生死の狭間にいたんだな・・。次の日、私はアラスカに向けて旅立った。ユースで知り合った人に長距離トラックのターミナルまで送ってもらう事になった。パーキングの食堂で下ろしてもらい、店のマスターに自分がこれからアラスカに行きたい旨を伝えた。マスターは、「今日、調度アラスカ方面に向かうトラックのドライバーが来るから・・。」私は、大変な思いの後にはラッキーな事があるんだな・・と感じた。1時間ぐらい待った頃だろうか、マスターが「来たよ」と声をかけてくれた。外に出ると離れたところに何台かトレーラーは止まっていたが格段にデカイ一台をマスターは指差して「あれだよ。」、次の瞬間私は目を疑った、そのトレーラーから降りて来たのは、女性だった。私よりがたいがいいがまぎれもない女性がこっちに近づいて来た。マスターは、彼女に事情を説明すると、彼女は「一杯コーヒーを飲んでから出発するよ。」と話しかけてきた。いくら体が大きいとはいえ、男女二人の旅でいいんか??
Jan 29, 2005
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無事、レークルイズに到着した私は早速ホテルの地下に行ってみた。そこには、朝キャンプ場で聞いた話の通り、従業員食堂があった。私は、恐る恐る1ドル札を出すとレジのおばさんがビュッフェスタイルだから自分で勝手にとるんだよと合図した。満腹になった私は、本日の宿であるユースホテルを目指した。30分ぐらい歩くと商店街にたどり着いた。私が目指すユースはこの辺りだな。そう思って、空き地で腰を下ろすと空から何やら降ってきた。「雪??」おいおい、今は真夏だぞ。日向では、Tシャツ一枚でも平気な気候なのに、日陰は、日本の秋の様で、日が沈むと真冬としか思えない。厳しい気温の変化だな・・。真夏の北半球で雪という貴重な体験をした私は、無事にユースにたどり着いた。手続きを済ませた私に一人の日本人が話しかけてきた。「やあ、キミ。日本人?」、「うん、そうだよ。」彼の話によると随分前から大学を休学してカナダに来ているらしい。バイトした先の中国人が人使いが荒かったとか、別のバイトでお金をもらえなかったとか・・かなり困難を切り抜けて来た雰囲気をかもし出していた。彼とは、お互い直ぐに同じ匂いを感じた私達は、それぞれの体験を話した。私が、「ここには何でよったの?」と聞くと彼は「特別目的はないんだ・・」と答えた。「そうなんだ・・俺は、氷河を見に行きたくてここによったんだ。」と彼に告げた。「氷河?そうなんだ・・。俺も見に行こうかな?」、「一緒に行こうよ。」、「でも、どうやって行くのよ?」、私は車で旅をしている人に氷河の近くまで連れて行って欲しいと話かけた。何人かに相談した中の一人(二人の女性で旅行している人)が乗っけて行くだけならいいよと言ってくれた。私は、直ぐに「それで充分だよ。帰りは、ヒッチハイクで帰って来るから。」、「早速、出発だ。」そもそも氷河を私が見に行きたいと思ったのは昔、ウイスキーのCMで氷河を砕いた氷をグラスに入れて飲むのがありいつかは自分も真似してみたいという単純な理由だった。(私が子供頃の記憶なので定かでなく氷河の氷だったか南極の氷だったかは??)女性二人と男性二人の楽しいドライブ、私達二人にその後生死の境に直面する体験が待っていたとはこの時まったく考えもしていなかった。ただ、異国の地での楽しい体験しか想像してない自分の甘さを・・。目的地には、車で一時間以上かかった。流石に氷河は人の住む近くにはない。二人の女の子に別れを告げ私達は氷河を目指した。私達以外にも観光バスで氷河見学に来ている団体は多く意外と寂しい場所じゃないんだな・・などと感じていた。団体客は、手前の氷河の淵しか行かないが私達、無謀な二人の若者は、ドンドン奥まで進んで目的の氷(ウイスキーに入れても平気そうな・・どんな氷だよ。)を砕いた。二人してひと時その場で過ごした私達は、そろそろ冷えてきたので帰るかと重い腰を上げた。あまりに奥まで来てしまった私は、帰る途中、足を滑らせ、谷底に転がり落ちていった・・。やっと転がるのが止まって冷たい地面を感じ、「昨日は、熊に食われるんじゃないかと心配していた私が、今日は崖から落ちてこのまま何年も誰にも発見されず、氷漬けの私として発見されるのかな・・。それとも春になったら俺から花が咲いたりするのかな・・。」意識が遠のく中、彼の声が聞こえた来る。「おおおーい。大丈夫か?」、「そうだ、彼がいた。」、「大丈夫かわからない・・。大分体をうったので体中痛いけど・・。」、私は、偶然無傷で済んでいた。(日頃、厳しい訓練をしていてよかった。)やっとの思いで、崖をよじ登ると彼が心配そうな顔で私を見つめた。「酔っぱらっていたのかな??そんなに飲んでないのに・・。」、彼は「おいおい、こんなところで死なれたら困るよ。救助を呼びに行こうかと思ったよ。」、「すまん、すまん、心配かけて。日が落ちる前にユースに帰ろう。」、「そうだね。ここ、日が落ちると急に寒くなるから・。」私達は道路まで戻り、帰りの車をヒッチハイクしだした。30分が経ち1時間が経った。車一台とおらない。二人は、この計画の無謀さを肌で感じ出していた。鼻が凍り、体中の感覚がなくなっていく・・。
Jan 28, 2005
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長い夜が明けた。私は、自分が無事に朝を迎えられた事に感謝した。テントを出て辺りを見回すと私と同じように小さいテントを張っている人がいた。「おはようございます。」、「おはよう。」、「一人旅なんですか?」、「ええ。」私は、彼と暫く雑談をした。彼から「朝ごはんはどうするの?」と聞かれた。私は、「今日はレークルイズまで移動したいので朝はぬき。少しでも早くヒッチハイクして明るい内に移動したいから」と言った。すると彼から、レークルイズに行くならいい事、教えたあげるよ。彼の話によるとホテルの地下にある従業員食堂なら1カナダドルで食べ放題だという。「え、たった1ドル?」私は耳を疑った。「ありがとう、とっても嬉しい情報だ。」私は彼にそういい残すとテントをたたみ、ハイウェイを目指した。二日目のヒッチハイクは、前日の失敗をふまえて工夫した甲斐があったのか意外にあっさり出来た。小さいトラックのおじさんがレークルイズまで乗せて行ってくれた。車の中でおじさんは、私に話しかけてきた。「日本人かい?」、「はい、そうです。」おじさんは、突然私にいい金儲け話があると言い出した。私は、内心、「今日は随分あっさり車に乗せてもらえたが、このおじさん実は俺を騙そうと・・。」そう思っている私におじさんは「俺は、ここいら辺でマツタケを採っているんだよ。もし、お前がよければ日本に輸入しないか?」私は、おじさんとのたわいない話の中で自分の実家が代々八百屋をしていて今はスーパーだと話していた。どうやら、せっかく何かの縁で知り合ったんだからお互いのメリットがあると思って親切に提案してくれたみたいだった。(私は、この当時マツタケがカナダで採れるとは全く知らなく、このおじさんが詐欺話を私に言ってきたと思っていた。後に、実家でカナダ産のマツタケを見たのは帰国後何年も経ったあとであった。私は大きな金儲けのチャンスを逃したのかもしれない・・。)丁重に、おじさんの提案を断り。湖が見えて来た。おじさんにお礼を告げて湖の畔を散歩していると日本語が聞こえてきた。ああ、ここも有名なホテルには日本からの観光客で溢れているんだな・・。日本人のカップルや家族ずれ、団体客。全ての部屋が日本人で埋め尽くされているかの如く感じた。一組の日本人家族が楽しげに花壇の前で写真撮影をしていた。私は、家族旅行でカナダか・・微笑ましいな・・。そう思いながら眺めていると突然その家族のお父さんが「○○部長!!」と叫んだ。どうやら旅先で偶然会社の上司に出くわしたみたいだ。その上司が「△△くん、きみもカナダに来ていたんだ。偶然だね。」上司の部長は、挨拶だけして立ち去ろうとするとそのお父さんは家族と旅行に来ているのを忘れたかのごとく、「部長、お写真をとりましょうか??」私はこの風景を目の当たりにして日本のサラリーマンは、家族で旅行に来ていても会社の人(特に上司)に出会うとこんな反応をするんだ・・となんともいえない感情に襲われた。急に日本人の行動だけが気になりだして辺りを見回すと立ち入り禁止の札を無視して写真撮影している団体が・・。同じ様な思いを後に(旧)ユーゴスラビアのヌーディストビーチでも感じる事になるとは・・。
Jan 27, 2005
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テントを張った私は、キャンプ場を散策した。辺りは薄暗く私以外は大型のキャンピングカーしか止まっていなかった。私のテントの一番近くで焚き火をしている家族から夕食を誘われた。親切な人達だな・・。食事の最中にご主人が私に質問してきた。「あんなテントで寝るの?」、「はい、なにか?」私は当時買ったばかりの一人用テントを自慢したい気分であった。「ここのキャンプ場で熊に襲われた家族がいるのは知っているよね?」、「熊に襲われた家族・・・。」、「受付した時、管理事務所で事件の事を書いた紙もらったでしょ?」、「・・・。」カナダは、英語とフランス語が公用語で私はその紙がクマの絵とわけのわからんフランス語で書かれていたので全く気がつかなかった。そういうわけでこんなにごっついキャンピングカーの人しかこのキャンプ場にいないんだ。親切な家族との団欒なひと時はあっという間に終わり。一人テントに帰った私は、先程もらった紙を裏返した。後ろには英語で熊に襲われた家族の事件が書かれていた。私は、自分のテントから離れた場所に食料を置き、それから続く長い夜をクマのことばかり考えて過ごすことになった。外から物音がする度に、熊ではないだろうか・・と思う私。多分、リスかなんかだったかもしれない。どうしてもトイレに行きたくなった私は勇気を振り絞ってロッジ風のトイレまで走った。このまま、このトイレで朝まで時間を過ごそうかな・・。やっとの思いで、トイレを飛び出した私の前に、巨大な生物が・・。死んだふりした方がいいのか・・。何も出来ずにその場にたたずんだ私の前を、ゆったりした動きで巨大なエルクが通り過ぎた。「鹿か・・。びっくりさせるなよ・・。」巨大な動物の前では肉食でないとわかっていても人はおびえるものなんだな。。
Jan 26, 2005
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真夜中にカルガリー入りした私はやっとの想いで宿を探しだした。安堵から眠りに落ちた私が、目覚めたのは、とうに昼を過ぎた時間だった。流石にオリンピック開催地らしく街のメインストリートには多くのおみやげ物屋さんが並んでいた。「さあ、憧れのカナディアンロッキーを目指すぞ!」商店街を端から端まで一往復してその中で一番大きいお店に入った。私が、入るや否や従業員が近づいて来た。「日本からの観光ですか?」、「はい。」、「何かお探しですか?」、「いえいえ、これからカナディアンロッキーの街、バンフを目指すんで・・。お土産はちょっと・・。」、「バンフに行くんだ。」、「はい、ヒッチハイクで行こうと思っています。」私がこう答えるとその従業員は真剣な表情で「ヒッチハイク!!やめておきな。殺されちゃうよ。」、「え、???」ここは、カナダでしょ?アメリカでもあるまいし・・。当時、私にとって世界でももっとも治安のよい国の1、2を争うイメージの国がカナダだった。現に、多くの日本人観光客や留学生が街には溢れ返り、とても治安が悪い?殺人事件が起こるとは想像できなかった。お店のおばさんによると、メインのハイウェーはいいけど、それ以外に連れて行かれたら殺されても誰も見つけ出してもらえないから見ず知らずの車にのるもんじゃないんだよという事らしい。そんな忠告を貧乏な私は、無視してハイウェーにとぼとぼ歩き出した。先程の店で、ダンボールをもらい、ハイウェーにたどり着いた私は、目的地「バンフまで乗せて行って!!」と書いた。ハイウェー沿いには私同様の人が何人か既にいた。私は、他の人との場所取り次第で車に乗せてもらいやすい事を一時間ぐらい経った時に気づいた。始めたのヒッチハイクはけして順調とは言えなかった。目的地まで一気に乗せてもらおうと考えていた私は、このままでは、日没になりこの道沿いで夜を過ごす事になりかねないと判断した。地図を見ながら、欲張らず、細かく目的地を書く作戦に変更した。この作戦が、効いたのかわからないがその直後に親切なトラックが私の前を通過して少しの場所に停車した。「やった・・。記念すべきヒッチハイク第一号。」、この経験を機に次々、ヒッチハイクに成功して目的地バンフスプリングホテルの敷地に到着した。最後に乗せてもらった車の家族は、このホテルに宿泊予定の人だった。別れ際に、彼らが私もこのホテルの滞在予定者と思ったらしく後程、ロビーで会いましょうと言い残して立ち去っていった。私は心の中で、「俺が止まるのは、ここの麓にあるキャンプ場なんだけどな・・。」とつぶやいていた。このホテルには、日本からの団体客が大勢宿泊していてロビーのいたるところで日本語が飛び交っていた。「さあ、今来た坂道を下ってキャンプ場を目指すか・・。」私は、再びこのホテルに戻るとはこの時思わずに日が落ちた道をひたすら下っていった。30分近く歩いた時、キャンプ場の看板が目に入った。「やっと、到着。さあ、受付を済ませて夕飯の準備をしよう。」私は、キャンプ場の管理小屋で宿泊の手続きをして手渡しされた地図とパンフレットを持って指定された場所にテントを張った。この時、渡されたパンフレットに熊の絵が描いてあり、私はてっきりこのキャンプ場のシンボルマークが熊なんだな。。と思っていた。この勘違いが、後に一睡も出来ない夜の始まりとは私が気づくはずもなかった。
Jan 25, 2005
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キーウエストに別れを告げて、一路マイアミに戻った私達は、元の宿に数日間滞在してそれぞれの目的地を目指した。この宿で知り合った二人の日本人は、私の今までの体験を聞いて一人旅人生を始める事となる。一人は、京都のOL、一人は東京の大学生の男の子。二人がその後に付き合いだすとは・・。男と女の事には鈍感である私には想像もつかなかった。しかし、既にマイアミで知り合ったときから二人は運命を感じていたのかもしれない。朝一の飛行機だったので夜のうちに空港まで移動して、ベンチの下で寝袋で寝た。朝、早速カウンターでチケットを出すと、どうやら予約が取れていないらしい・・昨日の夜、空港に着いた時、予約を確認したにもかかわらず・・。(こういう事はよくある事で、その後私は慣れっこになったが。)私は、なんとしてもカルガリーに移動したかった。昨夜も確認したんだぞ!と日本語で叫びまくっていると上司らしい人物が現れた。(困った時は、自信を持って日本語で交渉するべきであるとこの時感じた)何とか、カルガリー行きの予約を取りましたと言われた説明を受けると、なんと!!2回も乗り換えが必要だった。まして、シカゴでは半日以上の待ち時間・・。シカゴ美術館を見学したり大きな街だったので時間はつぶせた。朝一番でマイアミを出発した私がカルガリーに着いたのは言うまでもなく真夜中。Tシャツ、短パンの格好で空港に降り立った私は完全なマヌケだった。後から知った事だがカナダの気候は、一日で日本の四季全部を体験できるほど変化が激しい。真夏の北半球で雪を見た始めての体験をしたのがここカナダである。これからどうしよう・・。カナディアンロッキーの街、バンフを目指し。オリンピックの開催地、カルガリーの真夜中の街を宿探しに彷徨った。
Jan 24, 2005
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「マイアミ」私の中では何か怪しい雰囲気の喫茶店のイメージと青空の下のパラダイス。開放感に満ちたビーチリゾート。しかし、現実は、怪しい組織が蠢く顔を持っている街。私は到着した次の日先ず、暢気にビーチは訪れた。浜辺には、トップレスの女性が恥ずかしげもなく日光浴をしていて、「あ・・マイアミに着いたんだな・・」と実感した。そんな気分をよそに数日後、覚せい剤の注射器等が浜辺に打ち上げられ遊泳禁止になるとは全く思っていなかった。この街にきた目的の一つ、ヘミングウェーの家がある島、キーウエストに行ってみたかった。テレビのCMで海の上に延々と続く道。その先に、ある島がキーウエストである。宿の掲示板には、色んなメッセージが貼ってあった。その中の一つに目が止まった「レンタカーを借りてキーウエストに行きませんか?」私は早速、そのメッセージを書いた人物を探して交渉した。話は、簡単にまとまり、ドライバーの彼と私と同じようにメッセージを見た女性の三人での旅となった。三人ともキーウエストでサンセットを見たりヘミングウェーの家に見学する事を確認した旅に出た。海の上に無限に続くかの如く伸びる道、まるで海の上を走っているようだった。のんびりしたドライブで、夕方に島に着いた私達は先ず荷物を下ろし、サンセットをみれる場所に向かった。私達は、よっぽど運がないのか・・その後、何日も通ったが結局、サンセットはみる事が出来なかった。地平線の間際に雲がありもう少しという事は何度もあったが・・・。キーウエストでの滞在期間は、非常に楽しく、いろんな知り合いを作る事が出来、私には珍しい平穏な海外旅行の体験が出来た数少ない時間であった。
Jan 23, 2005
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無事に飛行機に乗り込んだ私は、早速いつものようにお酒を注文した。二杯目を頼んだ時に、トイレにたった私は自分がまっすぐに歩けないのを感じた。「あれ??何か変だぞ・・。」ふらつきながらトイレに入ると自分のろれつがまわっていない事にも気がつく。「おいおいどうしちゃったんだ?俺」、その後、私は飛行機が着陸するまでトイレから出られなかったのは言うまでもない。前の日に飲んだジャックダニエル一リットルは未だ体内で分解されていなかったのである・・。飛行機が着陸するとさっきまで酔いでもがいていた事が嘘のように元気になっていた。憧れのマイアミビーチ、どんな楽しみが私を待っているのだろう。早速、市バスでビーチを目指す。この時、私は暢気なリゾートとしてのマイアミしかイメージしていなかった。当時、日本では「マイアミバイス」という番組が放送されていて(私自身は殆ど見たことはなかったが題名ぐらいは知っていた)その撮影現場とかにも遭遇したが私が無関心だったので・・テレビか映画の撮影しているんだ・・ぐらいであった。私が乗ったバスは、走るにしたがって黒人ばかり乗って来た。横須賀の基地で日頃から黒人兵を見慣れていた私だが一番奥の席で座っているうちに次々に乗り込んでくる人が皆黒人である事に不安を感じていた。(正直、私以外全員黒人という雰囲気に差別的なコメントだが大丈夫かな・・?世界中で差別や偏見が実在しているなか当時の私の素直な思いであった。)辺りは真っ暗闇、やっとの思いで目的地でバスを降り、事前に調べていた安宿にたどり着いた。
Jan 22, 2005
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シアトルに着いた私は、現地時間で夜の11時近い事を知った。到着初日の宿ぐらい日本を出る前に予約しておけばよかったと後悔している私の前に二人の日本人が空港の地図を眺めながら何やら話していた。私は、彼らに近づき話しかけた。「これから何処に行くの?」こんな時間に何処に行くのもないだろう・・。彼らは自分達が予約したホテルの場所を探しているに決まっていた。私は、海外旅行一回目の彼らに「なんなら俺がホテルまで案内してあげようか?で、もしよければ床でいいから泊めてくれない?」(自分も二回目の上、初めての街なのに・・。「おいおい、案内なんてお前できないだろ・・」私の心の天使が囁いた。心の悪魔も度々囁くが・・。)彼らはあっさり私の提案をのんだ。彼らが予約したホテルは案外簡単に場所がわかり、部屋に案内された私達は、安堵感からお腹が減っているのに気がついた。「お腹すいたね・・。」皆で口々にそうつぶやいた。彼らの一人が「俺、買出し行って来ますよ。」、「え、知らない土地でこんな真夜中で歩くのは危険だよ。」私は、自分の経験からそう彼に言った。まして、ここはアメリカ。いくらアメリカの中で比較的治安のいいシアトルという街でも・・。彼は、「大丈夫ですよ。フロントで近場のスーパー聞いて買い物してきますから・。」、「そうか・・じゃあ、酒も買ってきて」(私の悪魔が囁いた。どうせ買出しいくなら酒もついでに買ってきてもらおうっと・・。)「何がいいですか?酒。」、「そうだな・・ジャックダニエル。」、当時私はよく飲んでいた酒の名前を彼につげた。「わかりました。」彼が買い出しに出かけている間私はもう一人の日本人と話した。彼の話によると二人は明治学院大学の学生で、かなりのボンボンであった。暫くすると買出しの彼が無事に戻ってきた。「お待ち同様・・。はい、ジャックダニエル」、私達は、一人一リットルずつ朝まで色々な話をしながら飲み干した。殆ど睡眠をとらず私は彼らに別れを告げ、今回の最初の目的地、マイアミを目指した。空港に着いた私は、予約済みのチケットをカウンターに提示した。大分時間がかかるな・・。この時、自分に訪れる最悪の二日酔いに苦しめられるとは全く思いもしていなかった。
Jan 21, 2005
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大学3年の時に、初めて海外一人旅をしてから調度一年が経った。今回は、アメリカ、カリブ海、カナダの北米を旅しよう。二回目の私は、二匹目のドジョウ(?)(また、海外で美味しい事があるんじゃないか・・とスケベ心を膨らませていた。)最初に、入った場所はシアトル。今回の経路は、シアトル→マイアミ→バハマ→カルガリー→カナディアンロッキーの街(バンフ、レークルイズ)→アラスカ→バンクーバー→日本であった。旅全体には予定通りの場所を巡れたので良しと言っていいのかもしれないが、私の運命なのか、今回もさまざまな事件が勃発する。ダイジェストでこの旅で遭遇した事件を書いておこう。「怖いもの知らずは命取り」、「上空一万メートルの二日酔い」、「何で機内食を4度も食べるはめに・・」、「悪の巣窟と高級リゾート」、「ヘミングウェーに憧れて」、「Tシャツ短パンのカナダ」、「貧乏ものが高級ホテルを利用」、「トラックの荷台で懐メロを叫ぶ」、「氷河でオンザロック」、「オーロラを夢見て」、「長距離トラックの二人旅」、「甘い話には、罠がある」、「人生の岐路」、「豪華客船の住人達」などなど・・。
Jan 20, 2005
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生まれた初めて女性だらけの空間に一週間取り残された私は、さまざまな体験をすることになる。そもそものきっかけは、二日目の朝、シャワーを浴びた後、近所の海岸に出たところから始まった。私が、海岸に出てみるとそこは見渡す限りの砂浜で誰もいない完全な貸切状態であった。これから一週間、女性だらけの場所でどうやって暮らそう・・。女性校に転校した気分てこんななのかな・・とか思いながらビーチで寝そべっていると一人の女性が現れた。最初、彼女は遠慮がちに少し離れたところに腰をかけ、お互い気にはなっていたが海を見ながら沈黙していた。暫く経った時、私は勇気をもって彼女に話しかけた。彼女は、フランスから来ていた。お互いあまり英語が上手くなく、それでも英語以外会話が成り立たない二人はまるで幼稚園児みたいな会話だったのを覚えている。少し沖の方に砂で出来た無人島があり、そこまで二人で泳いで行ったり半日二人だけで遊んだ。二人そろってペンションに帰ると数人のメンバーが庭で酒を飲みながら話をしていた。そういえば、ここでの食事はどうするんだ?私は彼女らに尋ねると、徒歩で30分ぐらいする場所に一軒の雑貨屋さんがあってそこで食べ物や飲み物を売っているとの事だ。今から行っても店は閉まっているし、もう食べ物も売り切れかもよ・。「明日買出しに行こう。」食べ物も酒も持っていない私に皆が分けてくれた。夜も深まり段々、他のメンバーとも親しくなる内に積極的な一人の女性が私に抱きついてきた。「え、これは何??」海外の女性は随分積極的なんだな・・。と思う間もなく別の女性が私に襲い掛かってきた。(男の私が女性に襲われるという表現は正しくない様に思われるが・・あの時の状況は、「飢えたライオンの檻に飛び込んだ」と喩えるのがぴったりであった。)それからは、昼、夜問わず覚えていない程の数の女性と激しい体験をした。こんな経験を最初の海外旅行で大変してしまった私は、その後休みの度に、成田から出国したのは言うまでもない。
Jan 19, 2005
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クックタウンで老人と色々な話をした後、ツアー本来の目的地に向けて私は出発した。凸凹道の揺れが心地よくいつの間にか私は深い眠りについていた。運転手さんが、「目的地に着きましたよと・・」。真っ暗闇に忽然とリゾートホテルが聳え立っていた。到着早々、私は自分の部屋で寛ぎたいと思いロビーに行くとどうやら私の部屋がないらしい。こんな他に宿もない場所で部屋がない・・。あたふたしているスタッフを見て急に不安におそわれた。暫く待たされると少し離れた場所にもう一軒、宿泊施設があると言い出した。「え、そんな場所こんなところにあるんか??」不安な私をホテルのワゴン車が暗闇の道を進む。5分ぐらい走ったところで車は停まった。既に夜もふけり真っ暗闇の中にたつペンション風の宿に案内され、運転手は何も言わず私を置き去りにしようとしていた。「どの部屋なんですか?」やっとのおもいで、帰ろうとしている運転手に質問した私に彼は「どの部屋でもいいよ・・。」、「おいおい、そんないい加減な・・。」、仕方なしに暗い建物に入るとそこにはいくつかの部屋があり、その中の一つに入ってみると二段ベッドが二つ置いてあった。暗闇で誰か寝ている場所を避け、私は疲れた体を滑り込ませた。今日は、大変な目にあったな・・。俺がさっきまで見ていたリゾートホテルはなんだったんだよ。こことは全く別世界じゃないか・・。リゾートでのバカンスというより学校の夏合宿イメージ。疲れきって眠りについた私が次の朝目を覚ますとそこは・・。ガヤガヤ騒がしい話し声に起こされて目を覚ますと同じ部屋に女の子が寝ていた。昨日は暗くてよくわからなかったけどここは、女性部屋だったんだ・・。下着姿で寝ている人もいる・・。やばい、大事になる前に別の部屋に移動しなくっちゃ。焦って自分の荷物をもって別の部屋に移動しようとした私に一人の女の子が話しかけてきた。「おはよう、よろしくね!」。え、見ず知らずの男が同じ部屋に寝ていて変じゃないの??私は、男性だけの全寮をしていた身。相手が平気な感じなので私も別に男女混合部屋なんだと勝手に理解した。気持ちの動転が治まった私は、シャワーを浴びに出かけた。そこで、何気なくシャワーを浴びているのも全部女性。おいおい、ここはどうなっているんだよ。後から知った事だが私が泊まったペンションには、女性しか住んでいなくて、その数、20人以上。これから始める一週間、どうなるんだろう・・・。
Jan 18, 2005
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同じ文章はもう一度書けない・・。文字化けして何も表示できなかった(涙)少しずつ思い出して再度書いてみよう。今から10年前、私は阪神大震災前の神戸三宮にいた。15日から現地に入って、リゾート会社時代の先輩や学生時代の先輩に会いに行っていた。15日の夜に二軒の店でボトルを入れ、16日の夜も夕方から飲んだくれていた。せっかく来た神戸、一泊では惜しいと思い。会社の上司に電話を入れる。「○○さんですか?明日のミーティング休みたいんですが・・。」、「明日は、絶対に来い。本社から本部長が来るから。」、「え、マジですか・・。じゃあ、仕方ない。」、「最終の新幹線に乗って必ず帰ってこいよ。」私は、しぶしぶ新幹線に乗った。翌朝、寝ぼけ眼でテレビをつけると、関西で地震があったというニュースが流れていた。私は、シャワーを浴びて、会社に向かった。8時頃会社に着くと既にマネージャーは来ていた。「おはようございます。本部長が来るって言うんで昨日の最終で帰ってきましたよ。」、ぶつぶつ文句を言いながら話しかける私に上司は、「お前、運がいいよ。テレビみたか?あのまま三宮にいたら死んでいたかもしれないぞ!!」、「え、死んでいた?また、大げさな・・。」、「大げさでもなんでもないよ。今日予定していた本部長会議は中止で急遽神戸支社の救援対策で皆大慌てだよ。」、「・・・。何の為に帰ってきたんだ・・。自分が命拾いする為か・・。」あのまま、後一泊して飲んだくれていたら瓦礫の下敷きだったかもしれない。この時ばかりは、本部長様様だった。私は、世界中を放浪して80ヶ国以上廻った来たが一度も危険な目にあったことがない。元来、臆病な性格だからかもしれないが駅のホームや、トラックの荷台、飛行場などで寝袋一つでねたりしているのだから危険な目にあってもおかしくはない。私とは、逆に次々に不幸に襲われる人もいる。そんな一人が、私がパリからマドリッド行きの夜行電車に乗った時であった一人の日本人男性だ。彼は、親友の連帯保証人になり多額の借金を背負った。(彼の家が資産家だったので親が借金は清算してくれたが・。)気分一新、ヨーロッパ一人旅に着たばかりであった。同じ日本人、夜な夜な酒を酌み交わしそれぞれの部屋に戻った。朝方、私が目を覚ますと車内は大騒ぎ。寝台料金がない私は、普通車両の網棚に寝ていたが、寝台車に寝ていた旅行者の荷物が全て盗まれていたのである。そう、彼も被害者の一人。悪い事は重なる、日本と違いスペインの電車はよくストライキを行なう。車内で乗客が物を盗まれようがストライキ。せめてパスポートだけでも再発行してもらわないと旅を続けられない彼をマドリッドの日本大使館まで連れて行かないと・・。(最初に書いて文章と大分変わってしまった)
Jan 17, 2005
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念願のグレートバリアリーフでのダイビング。ダイビングをする多くの人の憧れの地であり、テレビや雑誌で誰もが一度はみた事がある「コッドホール」。餌付けされたハタ(コッド)が2,3匹いてそこに潜って自分で餌をやるのに私は当時憧れていていた。このポイントには他にも日本ではお目にかかれない巨大な魚達がたくさんいた。サメとかでなくても海の中で自分とたいして大きさが違わない魚に遭遇するのは正直、少し怖い。オーストラリアにきたかった目的の一つを果たして大満足な私は、リゾートの風を満喫していた。別の日は、他の島に行ってのんびりランチ。そうこうしている内に偶然予約したクック半島の旅に出る日が来た。早朝まで薄暗いうちに予約したショップの近くに集合しジープに乗り込んだ。私以外のお客は、カップルが一組と私と年があまり変わらない女性の二人連れ。何時間も似たような風景を土ぼこりをあげながら走り、途中で小休憩と軽い軽食を取りながら最初の目的地、クックタウンを目指す。ケアンズもけして大きな町ではないが、到着したクックタウンは、その昔、キャプテン、クックが休憩に寄ったかなんかでその名がついただけの寂れた街であった。この街は、見学だけで本来は目的地のリゾートに夜までに連れて行ったもらうのを急遽私は、この寂れた田舎町で降ろしてもらうことにした。店、唯一のバーに入るとめったに見ないアジア人の私にお客の視線が集まる。無視して、XXXX(フォーエックス)ビールを注文した。オーストラリアの代表的なビール(4種類ぐらいある中の一つ)。皆、誰も話しかけてこない、何かおかしい??他のオーストラリアの町では誰彼かまわず話しかけられたに・・。店の一番奥の席に陣取る老齢な一人の男性が私に話しかけてきた。「お前は、中国人か?」世界中にいるアジア人の中で中国人である確率は一番高いのでよくそういう質問はされる。「いいや、日本人です。」、「日本人・・・・。」暫く沈黙が流れた。その時、私は日本とオーストラリアの間に過去どのような歴史があったかを全く知らないままこの地を訪れた事を思い知らせらる事となった。その老人は私に、「岬の先にある錆びた砲台を見たか?」と質問してきた。そういえば、ガイドのオヤジとこの町についた時、皆でぞろぞろ見学に行ったな・・。私は、自分勝手にプラプラしていて皆から少し距離をとりながら後をついていったのでガイドの説明は何も聞いていなかった。「あの砲台がどうしたって・・?」ただでさえ訛りが酷く何を言っているのかわからない爺さんの言葉だが口調が力強く、私に訴えかけているのは肌で感じた。(その後、世界中を旅してわかった事は、言葉自体はわからなくても「嬉しい」とか「悲しい」とか「怒っている」とかは表情で何処でも伝わるものであると実感した。)その老人は、私が自分の言葉をよく理解していないのを感じ取りゆっくりと話し始めた。「この国を過去に唯一攻めてきた国は、日本。お前の国なんだよ・・。」、「え、日本がオーストラリアを攻めたの・・。」私はあまりに無知であった。その後、その老人は古い記憶をゆっくりと紐解きながら私に二つの国の間にあった歴史を語りだした。
Jan 16, 2005
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当初の目的地、オーストラリアのケアンズに到着した。日本を離れて予想外に時間が経っていたことに私は焦っていた。グレートバリアリーフでダイビングもしたいし、エアーズロックにも行ってみたい。日本を発つ前に考えたいた計画は、シンガポールでの思わぬハプニングで全部は叶えなくなっていた。当時、私の身分は特別職国家公務員。(全寮制の学生と同じような生活はしていたが・・。)普通の学生と違い休みは短い。まして、帰国予定日を自分の都合で延ばせる訳もない。さあ、何を選んで何を諦めようか・・。最初に諦めたのは西の端にあるパースという街へ行く事だった。飛行機を利用してもかなりの距離で、ましてやのんびり電車の旅をしようと考えていたので金銭的にも時間的にもアウト。その次に諦めたのは、「せかちゅー」で有名になったエアーズロック周辺だ。結局残したには、ケアンズから行ける島でのダイビングとコアラを抱けるブリスベンの動物園。それに、クック半島のリゾート一週間ツアーの三つだった。この三箇所は、ある程度近場にあり(といっても日本列島がそのまますっぽり入る範囲)、私が昔から好きな自然&動物&未開の地というテーマをかろうじて満たしていた。ケアンズについて先ず最初に予約したのはダイビングツアーだった。当時、私は国内の海で休みの度に、スキューバーダイビングをしていたので一度は海外の海でも潜ってみたいという思いが強かった。それにお金をあまり持っていない私には、ダイビングはかなりの出費で後回しにしていると残金不足で出来ないかもと言う状況だった。シンガポールに着いた時は、夜だったがケアンズには昼間に到着したので宿を確保してダイビングの予約をしても未だ時間が余っていた。日帰りで出来る遊びはないのか街をぶらぶらしていると一軒の旅行代理店が目に飛び込んできた。「未開に地、クック半島で一週間のバカンスを如何?」確かこんな内容だったと思う。後から知った事だがオーストラリアは、海岸沿い以外は乾燥した大地が延々と広がる大陸でレンタカーも利用していい範囲が決められているらしい。クック半島は、レンタカーで行けないエリアでオフロード用の車で送迎してもらわないと自家用車以外では行けないらしい。私は、偶然目に留まったポスターに書いてあるツアーに申し込みをした。同じ代理店で、簡単に今から楽しめる物はありませんかと尋ねると「ラフティング」はどうですか?と勧められた。「ラフティング??ナンジャそれ?」私がどんなものか理解していなそうな顔をしていたのだろう、写真入のパンフレットを差し出された。大きなゴムボートに救命胴衣を付けて川下りをしている人達の写真だった。「ああ、川下りの事ね!」値段も手頃で夜まで何もすることがない私は、ラフティングに参加した。ラフティングは、単なる川下りといえばそれまでだが意外と童心にかえる事ができる単純に楽しいものだった。夕飯はそこで知り合った仲間と済ませてよいよ明日は念願のダイビング、ぐっすり寝て明日に備えよう。
Jan 15, 2005
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私の事を気に入った彼は、ディスコから帰って直ぐにプレゼントをくれた。私は、家に泊めてくれた上になんて親切な人なんだろうと純粋に思っていた。この考えは、渡されたプレゼントを見た瞬間に、「え、このプレゼントはどんな意味??」という感情に変わった。彼が私にくれたプレゼントとは、超・超ビキニのブリーフ。おいおい、こんな小さい女性用みたいな下着じゃあ俺の小ぶりのナニでも納まらないだろ・・・。思わず、「この国では皆、こんなのを履いているんか?」と彼に問いただすと即答で「そうだよ、この国の人は皆そんな感じのを履いているよ。」と答えた。「そうなんだ・・。」彼なりに俺へのプレゼントなんだから実際履く履かないは別にしてありがたくもらっておくか。そう、私が心の中でつぶやいたと同時に彼は、「似合うかどうか、今履いて見せてよ・。」、「え、今なんて言った??履いて見せろ・・。」、彼の表情は真剣で彼氏を見る恋する乙女かの如く目が輝いていた・・。どうなっちゃうんだ、俺・・・。私は、彼の熱望を断り朝まで踊りつかれたから寝ようと提案した。でも彼は中々諦めてくれない。やっとのおもいで諦めてくれたが、今度は一緒に寝ようとか襲われちゃうかも・・という感情が芽生えた来た。心配でたまらなくなった私だったが、彼から襲われる事はなかった。どうやら彼の心の中は、男性である私に恋する乙女のイメージみたいで自分から男の私を襲うという事までは実行しなかったみたいだ。そんなこんなで数日間を彼と過ごし彼がフライトでシンガポールを離れなくてはならない日がきた。空港で素泊まりしてオーストラリアに行こうと思っていた私にはとんだハプニングであったがこれで私もオーストラリアに向かえると思った。しかし、親切な彼は、私の都合などおかまいなしに友人の美容師に留守中の私の面倒を頼み、引き続きシンガポールで過ごす羽目になる。その後も色んな人の家を渡り歩く形でシンガポールに滞在した私が無事にオーストラリアに迎えたのは始めてこの地を踏んでから数日間が過ぎていた。(余談であるが、彼から紹介された人々は皆美形の女性で私としては異国の地でロマンスの一つぐらい・・と思っていた。しかし、彼がしっかりと自分の彼氏に手を出さないでねと釘を刺してフライトに向かった事を随分後に知る事ととなる。)
Jan 14, 2005
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自分が乗った飛行機のクルー達と市バスに乗り、日本を出る前にメモしていた紙を彼女らに見せた。彼女らは、口々に「そんな場所にホテルなんてないよ・・。」、「え、マジで・・。」心配になった私の表情を見てほおっておけないと思われたのか彼女らは一緒にバスを降りてくれた。住所にしたがって歩いていくと廃墟としか思えないビルがいくつか建っている場所にたどり着いた。恐る恐る中に入ると一人のおじさんがいた。「ここホテルですよね?」、「そうだよ。」私は、一緒に付き添ったくれたクルー達に「ありがとう」と言って別れ様とした時、クルーのメンバーの男性が「こんな場所に泊まるなら俺の家にきなよ」、と声をかけてきた。後から知った事だが彼は私の事が気に入って・・。昔から何故だか男性に惚れられる。自分では女性大好きな男と思っているが、男性に好かれるフェロモンを出しているのだろうか??高校時代も東北一人旅の電車を待つ上野駅で深夜おかまのお兄さん達に誘われたし、おいおいお話しするがその後、海外放浪する度に世界中の男性から誘いを受けた。無事に(?)彼の部屋にたどり着いた私に彼は、「シャワーを浴びて寝なよ」と言った。時差があって、疲れているとはいえその時の時間は確か7時前後であった。私は内心いくらなんでも寝るには早すぎだろ・・と思った。そんな私の心の内を見透かしたかのように彼は、「一旦、今から寝て夜中に遊びに行くんだよ。」と言った。どうやら、お昼寝感覚で仮眠して夜中から朝まで遊ぶのが当時のシンガポールの若者のライフスタイルだったみたいだ。夜中に起こされた私は、タクシーで野球スタジアムの様な場所の近くで下ろされた。彼の案内に従い一軒のお店に入るとそこはディスコだった。彼は、地元ではかなり有名な人らしく彼が登場すると店全体がいっせいに彼のくるのを待望んでいたかのように盛り上がった。彼は、知り合い達に次々私を紹介していった。(後からわかった事だが、彼は知り合い達に新しい彼氏だよと言って廻っていたらしい・・。)
Jan 13, 2005
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はじめての海外一人旅の行き先は、英語が通じるオーストラリアにしようと決めた私は、如何に安くチケットを買うか色々な雑誌を読み漁った。私が大学3年当時(1987)は、未だインターネットよりエービーロードの時代だった。大手旅行代理店は避け、無名な会社に片っぱしに電話しオーストラリアまでの往復キップをもとめた。最終的に私が選んだ会社はマンションのワンルームで、数人でしている会社だった。正直、お金を払っても正式なチケットを渡してもらえるかすら疑わしい会社に思えた。「シンガポール経由、ケアンズ行き往復」。それが私が始めた手にした一人旅のチケットだった。自然大好きな私は、皆が当然訪れるシドニーには寄らないでグレートバリアリーフの玄関口ケアンズを目指した。約一ヶ月の一人旅が始まった。当初の私の計画では、シンガポールは、空港で寝て少しでも長くオーストラリアを廻る予定だった。しかし、・・。始めて降り立ったチャンギ国際空港。市バスに乗って一泊300円の安宿にするか、そのまま空港に寝るかウロウロしている私の前を先程愛想うよくお酒を振舞ってくれたクルーのメンバーが通り過ぎた。お酒飲み放題で何度も注文した私は、かなり迷惑なお客で、クルーのメンバーに覚えられていた。メンバーの中の一人(私が座っていた列の担当の人)が話しかけた来た。「こんなところで何をしているんですか?」「荷物とかなくなってしまいましたか?」飛行機を降りた後も親切に心配してもらった私だが、お金がないから空港で寝ようと思っているとは恥ずかしくて言えず、「安宿に向かう市バスの乗り場を探している」と咄嗟に答えた。この一言が長くて激しいシンガポールという国との出会いであった・・。
Jan 12, 2005
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今日は、仕事の話からずれて私が海外放浪をしようと思ったきっかけの事について話そう。私が子供の頃、「兼高かおる世界の旅」、「野生の王国」という番組があった。この二つを毎週見て育った私は、いつか世界中を旅してみたい、アフリカとかで野生動物の保護官になってみたいと思っていた。その後、野生動物の保護官への夢は獣医に変わっていた。そんな夢も叶わぬまま私は、高校を卒業と同時に文部省管轄外大学校の寮で4年間暮らす事になる。ここでも生活は、獣医を目指してのんびり暮らしていた高校生の私には、とても厳しく上級生になるまでの2年間は生きてこの門を出る事だけを夢見て暮らしていた。待ちに待った、二年の歳月は流れ私には今後の人生を考える時間だけが大量に出来た。「さて、これからどう生きよう。子供の頃から夢見た獣医の道は、・・・。」時は、バブル真っ盛り世間は、浮かれきっていた。どうせなら、日本を離れて子供の頃からのもう一つの夢にチャレンジしてみようか・・。先ずは、手始めに海外一人旅でもしてみよう。最初だから、英語ぐらい通じる太平洋に面した国だな。自然もいっぱいあるオーストラリアにしよう!!
Jan 11, 2005
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さて、今日は、電話なり紹介なりで候補者に会ってからの事を話そう。まあ、多くの場合、初回は「怪しい人から呼び出された。」または、「何で自分に声をかけてきたんだ・・?それだけは知りたい・・・。」て感じの人が多い。中には、スカウトなれしている人もいるが。初回で、一番肝心なのは帰るまでに自分自身に信頼を寄せてもらえるかの一点である。いくら依頼人の美味しい話をぶら下げても信頼感のないうちは何も始まらない。私は、世界中を放浪してその土地どちで地域にもぐりこんでいた経験が今の仕事に役に経っていると思っている。また、金持ちから裏社会の人まで幅広く接してきた事も今の仕事に役に経っていると思う。世の中には、色んな人がいる。目の前に、見ず知らずの人が座った瞬間に全てをいち早く感じ、信頼を勝ち得る事こそこの仕事の醍醐味の一つであろう。最近の傾向は、精神的な病気を抱えているエリートも多いという事だろうか。
Jan 10, 2005
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今日は、電話かけについて話そう。前回も言ったようになんだかんだいってこの商売は「電話=命」な商売だ。ある意味、電話さえあればよいのだから準備は簡単とも言える。しかし、電話をかける先の番号をどう入手するかが肝心であり、招かざる電話(初回は特にそう)を受けて親切に対応される時ばかりでは・・・。まず一番多いのが、名前だけしかわからない人たちへの電話かけ。104で同姓同名の人の電話を調べる(最近は、ネットで検索できる有料のサービスがあるのでそれを利用する)。当然、この番号は同姓同名というだけで本人とは限らない。な訳で、一日200本ぐらい電話しても本人につながるのは10本あるかないか。最近は、留守番電話も多いし、番号表示でかけなおしてくれとかも多い。明らかな間違い電話を日に何本も繰り返していると正直げんなりする。優しく間違っていますよと言ってもらえることは稀で大概「ガチャ切り」や説教されるのが多く。自分の番号を表示している行きがかり上、後からクレームにならないように電話も切らないといけない。この一見、誰にでも簡単に出来そうな電話かけをひたすら繰り返し初回面談のアポイントにつなげる訳だ。次に多い電話かけは、会社名とフルネームがわかる場合だ。これは、代表番号から本人の所在の部門までつないでもらわなくてはならない。最近は、正確な部門名やフルネームをいえないと大概本人につないでもらえないからそこにもいくつものテクニックが必要だ。限りなく、少ない相手の情報からある時は探偵の如くある時は考古学者の如く、あきらめずに相手に接近して面談に持っていく。ヘッドハンティングとは、なんだかスマートな世界に思われる人もいるが実体はこんな作業の繰る返しなのである。
Jan 9, 2005
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全てをスムーズにするのは案外難しい。他の業界でも同様の事だろうが同業者がいるとその行動パターンでよくわかる。また、イベントしている会社側からしても招かざるお客である事は確かだ。この3つの作業を新人の頃はよくしていた。この作業は、業界ではリサーチャーと呼ばれるもので一般的なヘッドハンターはこんな事はしないよという反論が聞こえてくるのは承知の上である。しかし、どんな名門のスカウト会社(エグゼクティブサーチ)でも、花形のヘッドハンターが候補者に面談するまでの過程には私が新人時代日々行なっていた泥臭い作業をしているものである。(一般に、有名で、名門である程、自分達の手を汚さないのは、他業界同様である。な訳で、最初から名門や有名な大手に入社した人からすれば私がした作業を一切経験していない人もこの業界には多い。)
Jan 8, 2005
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私が、この業界の新人時代、日々行っていた事は表のビジネスと裏のビジネスの境界線であった。今日は、懐かしい新人時代の体験を思い出してみよう。一つ目は、何処から集めたかわからない名簿(今年の4月から国の規制が厳しくなるので益々水面下で入手する事になるんだろう)に片っ端から電話して実際に会って話をしませんかと誘う仕事だ。振込み詐欺(旧オレオレ詐欺)全盛の時代に、突然見ず知らずの電話を受けて「貴方をスカウトしたい会社がある」と言われても誰が信じるのだろう。しかし、世の中にはこんな電話が突然かかってきても応じる人種がいるもんである。それは、どんなタイプの人なのだろう。タイプ別に分類するといくつかのグループに分かれる。「調度、転職したくてたまらなかったところに電話がかかってきたタイプ。」、「勧められると断れないタイプ。」、「日頃からスカウトされるのに慣れているタイプ。」、「好奇心旺盛なタイプ。」実際、ビジネスになるのは勿論、日頃からスカウトされなれているタイプだが、タイミングが合えば好奇心旺盛なタイプでも転職したくてたまらないタイプでもビジネスになる。一般的には、転職したくてたまらないタイプが一番簡単に商売になると思われがちであるが、私の商売は、依頼社の企業サイドがお金を出しても欲しいと思う人材でなければ成立しない。声をかけられた本人がその気でも・・。二つ目は、張込。ターゲットの候補者がハッキリしていて、その上、電話番号がわからない時。その人が勤めている会社や工場で候補者が出勤したり外出したりするタイミングを待つ。メール全盛の時代だが、この商売の基本は電話で、その電話番号がわからない、もしくは、わかっても研究所等で直通以外取り次いでもらえない時。ドラマの刑事や探偵でもないのに張込を行う事がある。これは、あくまで非常事態の手段だが、依頼人に週一度は仕事の進捗状況をレポートする契約を会社が結んでいたので一週間なんの変化もないままでは報告ができなかったので実施した。このケースは、他にもターゲットがいわくつきな会社の人物の時も実施した。消費者金融大手のやり手支部長を引き抜いて欲しいとの依頼を受け、当時この会社が大々的にマスコミに叩かれていて中々本人にアプローチできなかった時に、何日もその人物が通うビルで張込んでいた思い出がある。まあ、この人物をスカウトして欲しいと依頼する会社も当然それなりの悪名高い会社である事は態々申し上げる必要もないだろう。※金さえもらえれば依頼主の依頼に基づいてどんな人材でもスカウトするかは、スカウト会社とスカウトマンのモラルの問題でこの事に関しては別の機会にコメントしたい。※3つ目は、展示会やイベント会場で直接スカウトだ。ターゲットにしている会社に直接の知り合いがいなくてもその会社が行なうイベントに直接赴けばじかに対象者にあえる。人物の立ち振る舞いや他のお客さんとの話し振り、海外の人と英語での会話いくらでもその人物の客観的な情報が入手できる。大勢の人ごみの中から候補者となりえる基本条件をクリアーした人物のみ名刺交換し、自分の身分を明らかにして、改めて別の機会に時間をもらいたいという旨を伝えるまでが仕事だ。全てがスムー
Jan 7, 2005
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私が、この業界に入った8年前(1997年)人材業界はバブルであった。世間的には、バブル崩壊から10年近く経とうとしていて新卒の就職難が定着し、有名な企業の倒産が現実的になっていた時代だ。当時、人材紹介業界(スカウト業界も含む)は隠居前のお爺さんが大変を占める、まるで老人ホームの様な業界だった。30歳を前にこの業界に入って私は、業界の集まりに参加しても誰かのアシスタント(代役)としか思われない時代だった。業界全体を見回しても新卒を採用していたのは、リクルート人材センター(現在のリクルートエイブリック)かリクルートコスモスを経て独立したインテリジェンスぐらいで、他の会社は大概、長年人事を経験した年配の男性が占めていた。2005年の現在は、逆に自分が8歳年をとった事を抜きにしても20代、30代の人が業界の過半数を上回る威勢である。これにはいくつかの原因があると思っている。一つには、今から5年ぐらい前に国が行った規制緩和。簡単に紹介業の免許を国が発行する様になった事、そして企業からもらう手数料の上限が大幅に認められる様になった事が大きい。もう一つは、紹介業が元手がかからない上、簡単に儲けられると多くの人から思われている事だ。当時、私が入った会社自体、国の免許も取らず10年以上営業していた。(私が入社した翌年に、免許を申請して取得したが)では実際ここ数年、倍倍で増えている人材紹介業界はそんなに簡単に儲けられているのだろうか?答えは、NOである。数ある業界の会社(一人の個人商店から数百人の会社まで)で紹介業単独で儲けをだせている会社は簡単に数えられる程である。しかし、私が業界に入った頃は、大手から中小零細会社、個人商店までそれぞれがそこそこ儲けられていたのも事実だ。それ故に、今から思えば当時は業界全体がバブルだったのだと今では思っている。
Jan 6, 2005
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最近の気候は、なまった体にはしんどい。春の様な気候から冬の寒さに逆戻り。この繰り返しが、今の私には耐えられない。昔の話をする年ではないが、真冬でも上半身裸で乾布摩擦をしていた自分も、世界中の路上で寝袋で寝ていても平気だった自分もとても同一人物とは、思えない。どの国に急に行く事になっても順応していた生命力豊かな自分は何処に・・。学校が、全寮制で挙句の果てに校内にいるのがヤブ医者だと売店で買う市販の薬だけが頼り。最初の頃は、恐ろしく効きのよかった薬も段々なれて来ると効きが悪くなる。今では、殆ど市販の薬が効かない体になってしまった。こんな事では、益々治安の悪くなるこの日本ですら生き残れない。2005年をスタートするにあたって生き残れる生命力の復活をテーマに頑張ろうと思う今日この頃だ。
Jan 5, 2005
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今年は、暦の並び順で年末年始の休みが短く。4日は、それでも普段より電車が空いていた。学生がお休みだからかもしれないが・・。年末から引き続けている風邪が中々治らず2005年をスタートするには、けして絶好調とはいえない。例年の事だが、年末年始は酒びたりの怠惰な生活がすっかり定着してしまったし・・・。一日が、しんどい新年のスタートとなった。初夢も例年、見たのか見ていないのかはっきりしない私の仕事初めである。
Jan 4, 2005
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私が、育った地域は東京には珍しく野球よりサッカーが盛んな地域だった。今でこそ、Jリーグができてワールドカップも開催される国になったが私が子供の頃は、王・長嶋の巨人軍がV9の時代で小学生は殆どが巨人軍の野球帽をかぶっていた。(ちなみに、天邪鬼の私は当時、阪急ブレーブスの帽子をかぶっていた。)そんな時代に、幼稚園の同級生達の部屋には、ブラジルのペレやドイツのベッケンバウワーのポスターが貼ってあり、指導する先生達もオランダとかのヨーロッパサッカーをモデルに指導していた。今から考えればかなり進んだ考えの地域で、これがサッカーどころの静岡や浦和なら当時から当たり前のことなのかもしれないが・・。この時代、サッカーで一番人気があったのは、高校サッカーだった。私が、高校時代は帝京高校サッカー部の黄金時代で後に私の母校が神奈川代表の常連になるまで神奈川県はサッカーで名をはせる事ができない県であった。(昔は、慶応とかが強かったみたいだけど・・。)子供時代の経験からか、その後も私は野球よりサッカーに引かれこの経験が役に立つのはその後15年の月日が経った世界放浪時代である。世界中を放浪して一番最初に実感した事は、世界中何処に行ってもサッカーは人気で(北アメリカ以外)サッカーの話題でどの国に言っても直ぐに溶け込めた。平成元年頃でも、エジプト辺りでは、日本代表とベルディー川崎の違いがわからない有様だったが・・。(当時のベルディーは、日本代表といってもおかしくなかったかもしれないけど。)
Jan 3, 2005
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私が育った店は、2日から営業。と言っても昔は、店こそ明けていたが家族そろって箱根駅伝を観戦して過ごすというものだ。叔父さんが、陸上大好きで自分自身も中央大学の陸上部に入りたかった組で(叔父さんが、学生の頃は、中大の陸上部は、皆の憧れだったらしい・・。最近、また復活の基調がある。)箱根駅伝の話題で一日が終わる家だった。私は、小学校にあがるまではお店で暮らしていたが、小学校入学と同時に店から5キロ離れた両親の住む家で暮らし始めた。私が、生まれた時、電気技師であった父親の勤める会社はオイルショックの影響で倒産し、腕に職をつければなんとかなると強気で生きていた父親はその後、超保守的な考えに転換し地元の役所にもぐりこんだ。私はと言えば、店が実家の感覚で暮らしていたところから実の両親とは言え妹と両親の3人暮らしの家に居候している気分で毎日学校が終わると片道5キロの道のりを歩いて店に通った。こんな暮らしぶりを中学卒業まで続け高校は、店からの方が通いやすかったので再び両親と離れて暮らしだす。私にとって世界で一番会話がぎこちないのが両親との会話なのである。日々、見ず知らずの世界中の人々と会話している自分が、実の両親と話す事が一番苦手なのは何とも皮肉な事ではないだろうか・・。
Jan 2, 2005
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私は、初日の出を見れない人だ。晴れていても地平線に雲があったりして・・。大分、高くなったお日様しかみれた事がない。高校時代から何年も、31日の夜に渋谷で友人と集まり、初日の出を江ノ島に見に行くのを繰り返していたが一度もみれた事がない。大概は、初日の出も見れずに友人宅にそのまま移動して3日ぐらいまで飲んだ暮れて過ごすという何とも怠惰な年末年始を繰り返していた。私が通った高校には、有名人や金持ちの息子が多く三日三晩高校生が飲んだ暮れられる隠れ家は、一人暮らしをしている友人の豪邸だった。この高校にあがるまでは、私が育った家は特別金持ちでも貧乏でもないな・・と思っていたがこの考えが明らかに間違っている事を想い知らせれる事になった。とてつもない金持ちは、日本にも存在して、特権階級と呼ぶに相応しい人々もいるんだな。。と実感する体験だった。高校生の私と彼らは、金銭感覚が二桁は違い。年代にも渡り特権階級の子供たちは明らかに育ちが違っていた。成金の息子達が使う金額は、大人になった今でもあいつらお金持っていたな・・と思える。中学の先輩は、無免で運転すれば直ぐに警察に捕まるのに高校の同級生達は、親父に泣きつけば無罪放免・・。法も元に平等なんて、どこかの教師が寝ぼけた私に教えていた事は、奇麗事でしかないのを実感した日々であった。こんな体験もただでさえ天邪鬼な私の性格を歪めていったのだろう。
Jan 1, 2005
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