2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
全7件 (7件中 1-7件目)
1
■近日連載日記の矢先!■突然なる作品を頂き真に心善く紹介させて頂きます!御本人からは匿名希望という事での公開希望として掲載と相成り 以下同文にて、虹の写真ではないのですが 参考になれば、、との事です!また身延山そして武田家の菩提寺 恵林寺の史跡を巡っていた事の矢先にまさに波動が今回も御縁がありました!新田義貞 織田信長そして日蓮上人の歴史のルーツに触れた連載日記以下の内容からの掲載依頼を経て一枚の貴重な作品として本日掲載させて頂きました。タイトルは「龍神の天誅なる竜の口の法難後光」とさせて頂きます!貴重な御協力に感謝と合掌!■「過去参考日記記載事項」から2004-05-22 ☆新田義貞の鎌倉幕府討伐、黄金の剣の推測☆Yoshisada Nitta's Kamakura shogunate subjugation, the guess of a golden sword 4 - 2004-05-21 ☆日蓮上人奇跡の竜の口の法難の推測☆The guess of 法難 of the mouth of the dragon of the Nichiren saint miracle 2 - 2004-05-19 ☆織田信長が桶狭間で奇跡の奇襲作戦勝利の解釈☆Nobunaga Oda is interpretation [ of a surprise attack strategy victory of a miracle ] * in Okehazama. 4 1 ・font??????????????????????????? HOME 楽天HP NEW虹の彼方
2004.05.29
コメント(33)
■紀元1333年元弘三年五月二十二日 本日!2004:5/22土先勝鎌倉幕府が滅亡!前日の日記の日蓮上人奇跡から其の後の北条執権の存続は?果たして以下に、時は1333年(元弘3年)新田義貞は、鎌倉幕府後継執権北条討伐に旗揚げをしいざ鎌倉まで攻め上りました、源頼朝が幕府を鎌倉周辺に置いたのも地形的な意味合いから三方が山に囲まれて海が堀として外部から容易に侵略できない要塞に囲まれ鎌倉を攻め入るに戦略的に至難を要する。しかし義貞は、稲村ヶ崎付近に到着し行く手を阻む戦勝に祈る思いで遥か光る海の潮騒を見つめ拝んでいました、竜神に向かって「仰ぎ願はくは、内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑑みて、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に開かしめ給へ」と真心を込めて祈念し、黄金の太刀を抜いて、海に投げ入れました。すると不思議な事に義貞の祈願を天神や竜神達がその夜の月の入り潮時、急に干潮が引き初め稲村ヶ崎が一帯の二十余町あまりの干あがり初め義貞率いる六万余騎余り軍勢は好機を一心に其の砂浜を駆け抜けて敵中北条高時の鎌倉の中に攻め入りる事が出来ました「太平記巻第十 新田義貞鎌倉中に攻め入ること、関東氏族ならび、、」まさにこれもまた幕府後継職時の北条家が嘗て、日蓮上人を捕え処刑連行を企てし、天誅異変に恐れおののき、仏に使える日蓮を佐渡に流刑にした者の祟り、其の後は免罪とされた日蓮は復活し本土鎌倉や身延山にて法華経の念仏を唱え元寇の役の国家存亡の次期にも救世を唱え、北条執権が呪われた化の様に日蓮聖人が61歳に極楽浄土に召され其の後は天界神事の霊により義貞率いる武運忠義に勝利を齎す天命により義貞の由緒ある金洸の剣の光に満ちた仏神が味方したとのであろうという推測にも類意しており、しかし現代自然科学に措いては極めて当時の合戦時間が逆算しても満ち潮が引く可能性としては考え難い現象なのですが、作者はその太平記などの神話にも触れ楠正成伝説や源平合戦、壇ノ浦にも平家一門の平時子と安徳天皇、生前七歳と入水し謎の日本武尊の栄誉三種の神祇の一つ草薙の剣神刀の行方が瀬戸内海にも眠ってしまい、また義貞の海に投げ入れた黄金の剣も未だに稲村ヶ崎付近の海底に沈んでいる推測などから、そのルーツ或るロマンにも触れて見ました、また平家物語にも浄瑠璃の歌にも語り継がれて有名な 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす 驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し 猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の 塵に同じ。■新田義貞■鎌倉幕府の衰亡&攻防戦■稲村ヶ崎公園海浜公園■鎌倉市観光協会 HOME 楽天HP NEW虹の彼方
2004.05.22
コメント(5)
■文永8年(1271)9月10日時は鎌倉幕府の後継職である北条氏支配下において日蓮は釈迦仏とその法華経を唱え修行者として自らその教え「立正安国論」を伝教していたのですが 時の権力幕府には動じないとされ竜の口の法難(たつのくちのほうなん)にて史上的に有名であると事から、 文永8年(1271年)9月12日深夜、日蓮大聖人が、鎌倉幕府の実力者・平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)によって、鎌倉・竜の口の刑場で斬首(ざんしゅ)されようとした事件。発端(ほったん)は、大聖人との祈雨(きう)の勝負に敗れた極楽寺良観(ごくらくじりょうかん)が怨嫉(おんしつ)し、幕府に大聖人の誹謗(ひぼう)・中傷を重ねて、迫害を謀(はか)った。平左衛門尉が数百人の兵を指揮して松葉ケ谷(まつばがやつ)の草庵(そうあん)を襲い、大聖人を逮捕。竜の口の刑場へ連行した。 刑場で、まさに大聖人が斬首されようとしたその瞬間、天空に光り物が現れて太刀取りは目がくらんで、処刑はできなかった。その後、大聖人は佐渡流罪となった。 大聖人は翌年2月、佐渡で著した「開目抄(かいもくしょう)」の中で竜の口の法難で、「発迹顕本(ほっしゃくけんぽん」にて以前鎌倉などの見物に行った印象からもその場所とされる龍口寺付近は清々しい光景でありました!過去を遡りまた日蓮上人が処刑に遇うまでのその法華経を唱えていた姿もまさに劇的瞬間ともいうべきか その背後に介錯人の白刃が振りかざそうとする瞬間に 雷が落ちて不可能とされる説そして幕府関連の漸うな物々しさと観客も其の時徒ばかり日蓮にも合掌をしていた状況からも 天気概況もあまり良くなくどちらかと言えば、どんよりとした雲模様などとお見受けし記述からは、昼過ぎとされ天雨雲においては雷や雷雨と稲妻などの専門的気象状況からも虹の遭遇にも類意しておりまさしく刑場周辺にはかなりの法身光明な波動と物凄い未知なる光として竜の口の字の如く竜神の出る由来やその古代の鎌倉の神事にも日蓮が安房小湊に生まれ、1253年(32歳)で鎌倉に入り、松葉が谷(現在の大町)に庵を結んでおり生誕や処刑不可能な恥ずの恩顧の光の魂としても相当な状況に役人達も恐れを感じる程の奇跡の天地天誅の奇跡と言うべきかその膨大な修行魂における御守護そして先駆者としてまるで憧れた釈迦の様の慈悲深い当時の救世万物の史上人物としても、「鎌倉竜ノ口の法難」という有名な事件の事実の推測として不思議極まる怪奇現象で遇ったのです!あのゴルゴタの丘のイエスの処刑と虹の関連性にも歴史的な類似点も多く方位や地形や陰暦にも謎にも思案!また日蓮は、貴賎を問わず、法華信仰の志ざしによって「世間の悪人」『題目・弥陀名号勝劣事、万人が救済されると説いた。(51) (52) (宝殊院日行) 1 日蓮上人曰く 仏法を学せん人知恩報恩なかるべしや、 仏弟子は四恩をほうずべし■日蓮関連日蓮・生誕伝承論 ―鎌倉新仏教における人権思想の萌芽■菊人形日蓮の着せ替え■蓮着寺日蓮ゆかりの寺■身延山久遠寺 HOME 楽天HP NEW虹の彼方
2004.05.21
コメント(2)
■日本史上に於ける桶狭間の合戦1560(永禄3)年5月19日 本日尾張桶狭間(愛知郡豊明町)において織田信長と今川義元の合戦がありました!義元は駿遠三ヵ国の大軍を率いて上洛し始め信長方の前衛拠点を次々と攻略し、桶狭間北方1.5キロの田楽狭間に進出したところを不意に信長の奇襲に遭遇し義元を討ち奇跡の勝利をしたいう歴史上の伝説からも まさかの其の時に歴史が動いてしまった事実として色々な推測もされております!織田方の情報は武田方に内通したスパイとの的確な判断として信長の戦略的アイデンティーの実行力が齎す危機感を諦めず目標に向かっての柔軟な志向性と異端的な風雲児としてターゲットへの鋭い観察力は 当時としては前日が雨で別働隊をおとりに使いその合間を潜り短時間にして悪天候の天気概況を認知しての今川本陣への最短ルートを経て部下にも士気感との共有した天才的武運の素質を備え 科学的にもあの戦国最強軍団武田騎馬隊を長篠にて破る近代西洋の騎兵戦と鉄砲連射戦に映画「影武者」などに観られる鋭い野望の持ち主である 同じ地理的地形の谷間に置いても 源義経などの源平合戦ひよどり越えにも類意し 部下後秀吉も農民出身の土木的な戦略構築にも恵まれて優秀スタッフの組織陣営の構築にも優れていたのですまたあの真珠湾攻撃の奇襲作戦としても応用されたのですがではなぜ? 勝利の女神が微笑んでしまったのかとこれまた作者の虹伝説の話になりますが、或る詳しい方からお聞きした話の中で 「奇襲までの悪天候にもめげず信長は雲の谷間に見た 虹の後光にアーメンと合掌し本番本日本陣、敵本陣の当時の地元の農民の挨拶を交していた敵将義元もまた不覚な疑いもかけず?籠の中での安易な思案に戦意を休め、周りの状況から一瞬の不意打ちに慌てふためき名門今川家のを終えてしまうとは 想いも寄らなかったはずです!また桶狭間戦後、松平元康「徳川家康」が今川家配下から離脱している理由やあの関が原の勝負所にも小早川の寝返りにもそれがあり、秀吉そして家康の天下統一の時代に変貌して行き、後の光明として推測できるのです!勝負は時の運とも申しますがあのホトトギスの名句にも 其の性格と歌う信長は「鳴かぬなら 殺してしまえホトトギス」単なる末梢的な感情の中にも素晴らしい洞察力として伺え指導者としての歴史を変える人物に相応しかったのでしょう■桶狭間の古戦場伝説地■桶狭間の戦い HOME 楽天HP NEW虹の彼方
2004.05.19
コメント(4)
本日も素晴らしい作品を(アラキさん)から頂きましたので!まず! 上アンダーラインをクリックして下さい! ページ「太陽の虹の和 ポートランド」から 御覧下さいませ! ハイパーリンクから御本人HPへ アラキHPさんhttp://plaza.rakuten.co.jp/arakiai5/ 当HPでは皆様からの虹に関する作品や情報なども募集しておりますので御一報下さいませ YHOME 楽天HP NEW虹の彼方
2004.05.16
コメント(5)
本日も素晴らしい作品を(アラキさん)から頂きましたので!まず! 上アンダーラインをクリックして下さい! ページ「太陽の虹の和 ポートランド」から 御覧くださいませ! ハイパーリンクから御本人HPへ アラキHPさんhttp://plaza.rakuten.co.jp/arakiai5/HOME 楽天HP NEW虹の彼方 .
2004.05.13
コメント(6)
母の日は古代ギリシア時代 神々の母リーアに感謝するための春祭りから発祥したといわれます。 母の日も本日なのですが 人間は誰しもが神の子であり あのイエスキリストをあの聖なる地の馬小屋生んだ 聖母マリアは現代の我々の時代のように医療施設の整った 出産をしたようには想えなく おそらく聖書などの後期に 伝えられた神がかり伝説の中から 数々の星空の輝く最中 遠い彼方天空から流れ星やあの銀河からの守護波動の 感じられる苦痛から母マリアはイエスは出産したのであり 作者が北海道の旅行中に競走馬育成の牧場の生産者から お聞きしたそのヒントとなる推測からも母なる名馬も その子を産み落とす瞬間もやはり広大な原野の星空の輝く 最中にあの名馬達の競演として劇的な瞬間なのでしょう! 命ある者すべてが母なる母体の中には小宇宙としてその命 を宿る魂は遥か遠い旅を経てあらゆる偶然性を経て今我々がこの地球に存在を果たしては他界して逝く者です! 現生の旅を其々の修行からある者は また大宇宙に帰り ある者は地階の中に閉じ込められる想念として封じ込め 我々のような高等動物への転生はかなり時間が係る様だと も考えられます! 星座運勢や古代から幅広く言い伝えられた人生の運命とは 如何に哲学や自然科学からも考えられますが? その努力と修行の魂への転生を果たす為に 聖書や仏教の 経典書物も我々人類の作り上げた神でもあります! しかし その我々の命の魂を宿った日本一いや世界中に 只一つだけの掛替えのない存在しない母親に、、、、 その腹中の痛みと想い出 そして命は地球より重いはずです! その愛に心の感謝を送る日として気持ちを伝えたいです! 「おかあさん ありがとう、、、、、、!」作者より 感謝と合掌!紀元2004 5月9日 HOME 楽天HP NEW虹の彼方
2004.05.09
コメント(11)
全7件 (7件中 1-7件目)
1