信仰者とは恋する者


同じ事を逆から言うと、「恋する者は信仰者である。」

信じることは恋愛感情に限りなく近い。あるノンクリスチャンの友人は、キリスト教に対する疑問や批判を繰り返していた時、ある先生に「君は恋をしたことがないだろう。」と言われ、何も言い返せなくなった。との話を聞いたことがある。

 クリスチャンと話していて、「理屈ではなく、信仰だ。」という表現の仕方がしばしば聞かれるが、この言い方は好きではない。と言うか、的を射ていない(罪とは的外れのこと)。信仰は理屈と比較されるようなものではなく、むしろ、信仰は理屈の土台だからだ。信仰なくして、理屈はない。しかも、誰がなんと言おうと、キリスト教はとても理屈っぽい。なぜなら、聖書が理屈っぽいからだ。世界一の理屈の宗教だ。言葉は神であるのだ。

では、「信仰者が恋する者」とはいかなることか。やっぱり理屈でないことが言いたいのではないか?しかし、恋愛が理屈でないと思っているのは、若くて恋愛感情の複雑さを知らない間だけだ。この期間は3~6ヶ月が健常ではないかと思う。恋愛には色々な理屈が必要になってくる。

 つまり、恋愛の延長線上には愛があり、肉欲があり、嫉妬があり、喧嘩があり、夢があり、希望があり、結婚があり、出産があり、お互いの分身である子供との関係があり、死別があり、別の女性に気を向ける男の性があり、男を過剰に独占したいと願う女の性がある。お互いの両親や親戚との葛藤があり、・・・。と、複雑極まりない関係を作っていくことになる。その場その場では何とか理屈をこねなくてはならないこともしばしばある。しかし、いちいち全てを計算していたら間違いなく、きりがない。そんなこと全部をひっくるめて、恋をするから、恋は信仰に結び付けられるのだ。

だからキリスト教は理屈っぽい。
それは、喧嘩をした夫婦が自分の「知力や精神力や力を尽くして」自分の正当性を主張するのと同じである。その時の知恵絞り方といったら、もう血の汗を流さんばかりの場合もある。どうしても相手に敗北するわけにはいかないのだ。しかし、(どこかの漫才師ではないが)それでも「愛し合った二人」なことに変わりはない。理屈っぽくはあっても、信仰はその土台にあるのだ。信仰を何とか表現する為、理屈が産まれる。旧約のホセア夫妻の関係修復にはとびきりの理屈が使われている。「妻が裏切るゆえ、私はこれを口説く。」(ホセア2:14)


神と人との関係は、人間側からの通信手段のない遠距離恋愛だ。それでも、人は神にたいして、一つだけすることができる。「待ち望む」ことだ。「会いたいと言って欲しい」と思って、「会いたい」と彼氏に言うと、彼氏に「じゃあ会おう」とそっけなくいわれて、興ざめする。恋愛感情にはそんな一面もある。信仰生活もなんでも思い通りに進むのではなく、自分の思いを超えているから、やりがいがあるのだろう。こっちの言うとおりにする神様なんて、願い下げですよ。ほんとに。

人間も神に対して、ただ、いつか連絡をくれることを期待する恋人でありたい。

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