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抗がん剤投与は1週間に一度。それを4回、つまり4週間で1クールです。これを何クールか繰り返す、というもので、3週目の投与後の状況によっては退院して4週目は通院で受けることもできるという予定でした。心配していた副作用もほとんどなく2週目の投与まで順調でした。3週目を目の前にしたある晩、夜中に一人でトイレに行こうとして24時間休みなしに続く点滴のスタンドに足が引っ掛かったらしく転倒して頭を強打したようでした。その時すぐにナースコールをすれば良かったのですがあまりの痛みで起き上がるのもつらく我慢しているうちに痛みがひいてきたから、とベッドに戻って朝を待ったようですがそれでも朝一番に連絡したのは看護師さんではなく、家にいる父でした。それほど心細かったのでしょう。病院へは父から連絡し急遽、頭部MRIを撮ることに。家族はみな口をそろえてなんで朝までナースコールしなかったの!と言いましたがよくよく考えてみると看護師さんも朝まで一度も見回りしていなかった、ということなんですね。検査の結果、思いがけず、脳梗塞が見つかりました。母は後に自分の姉や友人に「転んで頭を打ったから脳梗塞になっちゃった」と抗がん剤が中断された理由を話したようでしたがこの脳梗塞もガンによるものでした。ガン患者は血栓ができやすいのだそうでその血栓が脳に無数に見られるとのことでした。実は入院する前からその様子は現れていたのです。「最近ちょっと言うことがおかしいんだ」と、父が母を心配するようになっていました。ガスを消し忘れたり、言ったことを言っていないと言い張ったり、ちょっとボケてきたみたいだ、と老化による痴呆の心配でした。そして入院してからもなんだか最近、右手に力が入らないんだよ、と言っていた矢先の転倒でした。なので転倒したのも右手がうまく使えず点滴スタンドを動かしにくかったことともしかしたら足にも軽い麻痺があって動きが悪かったのかもしれませんが本人はあくまでも転ばなければ抗がん剤が続けられたのに、と自分のうっかりを悔やんでおりました。脳梗塞があると抗がん剤投与はできないそうでまずは、脳梗塞がこれ以上進行しないようにすることが優先になり、血栓を溶かす点滴を1週間以上続けて様子を見ることになりました。その間は特に右手の軽い麻痺以外には何の症状もなくこんな退屈なら帰りたい、この点滴が終わったら帰れるよね、としきりに帰りたがっていました。点滴と同時進行で麻痺へのリハビリも始まりました。でもこの病院でのリハビリはあくまでも入院患者さん対象で仮に通院での抗がん剤投与となった場合には他の病院でリハビリを続けてください、と言われましたが特に紹介も提携もなく自分で病院を決めてきた後に市民病院から紹介状を書く、ということでした。当時真剣に、どこが通いやすいかと思いを巡らせていたことが今となってはとても空しいです。脳梗塞診断から10日ほど経ってようやく点滴が終わりました。入院から約6週間が経っていました。今後の予定を説明に来た担当医が「一度、帰りたいよねぇ。入院長くなっちゃったもんね」。母の顔がパッと明るくなりました。ただ心配なのは食事。食欲ないし、病院の食事はおいしくない、と言ってほとんど食べていなかったため栄養を点滴に頼っていたのです。これが外されて家で食事が摂れるのかどうか家族みんなが心配でした。本人はいたって平気。今の自分の状態が家でも続くと信じていたからでしょう。そして10月7日、退院。久しぶりに家に帰って本当にうれしいと喜んでいましたが翌日から急速に体力が落ちていきました。家で美味しいお米が食べたい、と魚沼産の高級米を買って食べたのはほんの一口。お味噌汁が作りたいから、と豆腐を頼まれて買っていったものの開封することはなかったです。家にいってもほとんど横になっていて目を開けているだけ。寝てばかりも腰が痛いからとたまに起きてきてもソファに深く座ってボーっとしているうちにずるっと倒れこんでしまう。テレビの前にいても観ているわけではなく読書が大好きだったのに本にも新聞にも手を出さない。話しかけても気の無い返事が返ってくるだけでただただ「居る」だけでした。日に日に弱っていく上に浮腫と黄疸がひどくなりついに起き上がることもできなくなってしまったのでちょうど仕事が休みだった兄が病院に連れて行き、そのまま再入院となりました。10月11日。退院からわずか4日目でした。初めの入院と違って心の準備もなく楽しみにしていたはずのわが家での日常から突然切り離されたまま二度と帰れなかったことはとても無念だったと思います。再入院した時の母の真っ黄色の顔と、当初入った大部屋で自分の向かい側の患者さんの枕元に『絶飲食』と書いた札がかけられているのを見た母の「あの人、可哀相にねぇ」という一言が忘れられません。
2013.11.11
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母が亡くなって2週間が経ちました。二(ふた)七日も終えました。お悔やみをいただいた皆さんにはご心配、ご迷惑をおかけして本当にすみませんでした。皆さんのおかげで心が折れずに頑張れました。2週間が経ってもまだあの葬儀が母のものだったとは思えません。むしろ、時が経てば経つほど他人事のような気がします。なので、きちんと母のことを記録しておきたいのと自分の気持ちを吐き出したくて書き残すことにしました。末期ガンと診断されたのは8月。なんとなくお腹が張ってドーンとする、とかだるくて動きたくない、とかあんまり食欲がない、など普段ほとんど不調を口にしない母がそんなことを言うようになって父は病院へ行くように再三言っていたようですがなにしろ健康が取り柄の母ですからそのうちお腹も治る、だるさも食欲不振も、夏バテしてるだけだ、とまったく病院に行く気がなく。悪いことに母は今年の2月に鼠径ヘルニアの手術を受けたところでお腹にはネットを入れていました。その担当医から「異物がお腹に入ったので、違和感は残ると思います」と言われていたのでお腹の張りもそれだと思い込んでいたのです。でもさすがに2週間ほどその状態が続いて父が強く言ったのでハイハイ、という軽い気持ちで受診したのですがいくら混んでいる市民病院で予約が無かったとはいえ、朝行って、お昼ごろに「CTを撮ると言われてもう少しかかる」と電話があったきり、午後3時を回っても帰ってこないのがおかしい、と父から私に電話がありました。ちょうどその電話の最中に両親と同居する長兄が帰宅、そのまま病院へ走ってくれました。兄が病院へ行った時にはMRIを撮る順番を待っているところだったそうで予約もなく受診してその日のうちにCTやMRIを撮るということがどういうことか、さすがに本人にも分かるので不安でいっぱいだったと思います。そしてちょうど兄も一緒だったということで医師から告げられたのは「肝臓ガンの、ステージ4です。すい臓からの転移のようです」兄からそう電話をもらってもは?!と言ったきり声が出ませんでした。その時の説明ではステージ4となると抗がん剤を投与しても治療効果は期待できない、しかも母のように高齢では抗がん剤によるリスクの方が高く、あまりお勧めできない、とのこと。そんなこと言ったらそれはつまり何もせず“その時”を待つしかない、ということ?その説明に納得がいかず愛知県がんセンターでセカンドオピニオンを受けました。そちらの先生はこちらの病院での検査結果と、母の状態を見て抗がん剤投与は十分できる、との見解を示しました。そして一日でも早い方がいいのでこちらへ移ってでも投与を始めてはどうかと言ってくれました。親子3人、目の前がパーっと明るくなった瞬間でした。家からは遠いけど助けてくれるのなら、と転院を決めました。その結果を持って市民病院へ両親を連れて行った兄から「入院して抗がん剤をやることになった」と電話があったものの、その入院先ががんセンターではなく市民病院と聞いてまたびっくり。できないと言ったんじゃなかったの?!市民病院の先生はがんセンターで診てくれた先生がガン治療の権威でありその先生ができると言ったのであればこちらでもやります、と。なんだそれは!と、不信感は生まれたものの、どうせなら、近い病院で入院できる方が助かるし母もよく慣れた病院の方が安心だ、ということでお願いすることになりました。そして8月26日、入院。入院の日に改めて先生から説明がありました。私はその先生と会うのは初めてでした。病名としては、すい臓ガン。すい臓もすでに末期の状態でそのすい臓ガンが血液を通して肝臓へ転移、肝臓にも無数にガンができていてステージ4にあたる。すい臓ガンは治らない。肝臓は、すべての血液が通る臓器なのでどのガンからも転移しやすい。ガンの治療には、手術と抗がん剤投与があるが手術は、ガンをすべて取り除ける場合にしかできない。今の、無数に散らばっている状況では肝臓を丸ごと取り除かなければならず、肝臓なくしては人は生きられないので手術という選択肢はない。抗がん剤は高齢者にはリスクが高いので内服薬という方法もあるが抗がん剤ほどの効果はない。抗がん剤というものは、増殖の早い細胞をやっつけるものなのでガン細胞だけでなく髪や血液の細胞にも作用してしまう。そのために、髪が抜けたり、血液のバランスが崩れてしまう。白血球が減ると免疫力が低下し、赤血球が減ると酸素が送られなくなり貧血になり、血小板が減ると止血しにくくなる。白血球は減っても増やす薬があるが赤血球、血小板には薬はないので、輸血しかない。輸血にもリスクがないわけではない。それらをすべて理解、納得の上であくまでもご本人の意思によっての抗がん剤投与となります、と。そして、「今の状況での抗がん剤投与は、治療ではありません、延命です」。胸を突かれるひとことでした。先生は淡々と説明していましたが母にとっては辛すぎる話だったでしょう。終始黙って聞いていました。父はまるで自分が受けるかのように「お願いします」と即答でしたがお母さんのことなんだよ、と母に意思を確認すると「入院すると決めた時に覚悟はしてきたよ」。そして抗がん剤投与が始まりました。
2013.11.07
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