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入賞・入選をするとインタビューなどで、何かと質問を受けたり感想を求められます。よくとれば権威ある戦いに勝った証として、お披露目のような意味合いに受け取れます。しかし、それは勝った時に有効であって、負けた場合はその限りではありません。”これまでこの戦いに向けて備えてきた。しかし、思いどおりの結果を出せず悔しい。支えてきていただいた人に感謝している。”8割くらいの人は皆同じ答をします。ここにある問題はインタビューをする側で、敗者に聞く場合はより具体的に、特定の場面や駆使した事などを聞くべきです。因みにテレビのベテランアナウンサーは、気持ちを汲んだ配慮をしていると思います。どんな気持ちで臨んだかを聞いたところで、懸命に臨んだが負けた不甲斐なさや、力不足を認めざるをえないことになり、挫折感をより追い込むことになります。答に寄り添った質問ならまだしも、さらにまた同じような答になる質問をし、敗者をさらに追い込みます。結果として、涙してしまったり動揺します。個人的にそんな姿を見たいとは思いません。意外な姿を公共に晒して視聴率をとる、記者の人間性、配慮のなさが誹謗中傷を煽り、敗者をさらに追い込むことになると思います。そのような質問にうまく答えられるのは、日常的にメディアから注目された人だけです。自分の知人や友人が敗れた時に、追い込むような質問を普通はできません。指導者や審判でない限り、敗者に反省を促すような質問はできません。それが報道や言論の自由だとするならば、そのルールを変えるべきだと思います。
2024.08.02
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日本発祥の「柔道」は、世界でも日本人指導者が広めていて、日本人を倒すことが生き甲斐くらい、加熱していることと思います。中でもフランスは柔道人口が日本の4倍、ラテン系の国は特に日本とは文化が対極で、正統的な日本の柔道よりも、正統的よりも個性的な柔道を好み、角田夏実、阿部一二三、永瀬貴規のように、一途で端正な柔道家の圧倒的な強さに、憧れや嫉妬の意識を持っているでしょう。審判は日々不可解な判定を連発し、選手村の食事でも物議を醸してします。寡黙で謙虚で受けて立つ精神は、ラテン系では好まれず狙われます。その印象を持たれてしまうと、判定でも不利益なジャッジを受けます。その最たる競技が柔道だと思います。できる限りオーバーなパフォーマンスや、策略や意志を表すことが必須です。結果的に印象で判定されてしまい、本人はその気がない「指導」を受けたり、結果を出しても認められないことがあり、特に敗戦した選手には顕著に見られます。村尾三四郎選手の決勝でも、技ありだと見られた内股が認められず、金メダルを獲れたところ銀メダルでした。相手選手も負けたと思っていた筈です。この件で鈴木桂治監督は、「これがポイントになることはない」と、言いますがそれは言い過ぎだと思います。技ありでいいし、監督なら抗議すべきで、自分の意見より日本を代表すべきです。この件で小野卓司コーチは不満を表し、背中がついたかどうかであれば、ビデオ判定があるべきと言っています。いずれにせよ皆が技ありと見た筈です。阿部詩選手に初戦で敗れた、女子52kg級の出口ケリー選手と、57g級で優勝した出口クリスタ選手は、長野県塩尻市に生まれた日本育ちで、ずっと日本で育った姉妹柔道家です。阿部詩選手との対戦ではケリー選手を、塩尻のパブリックビューイングで、地元の人々が応援したとのことです。また優勝したクリスタ選手のSNSに、誹謗中傷が集まったとのことですが、メディアでもっと賞賛されるべきです。女子70kg級2回戦で新添左季選手を破った、アイ・ツノダ・ロウスタント選手は、東海大学に在籍し柔道を教わっています。3位決定戦まで上がりましたが敗れました。この時投げられた際にブリッジをして、背中をつけないように身を保ちましたが、認められませんでした。「憧れるのはやめましょう」が思い出され、まさに日本の選手はオリンピックに臆せず、自分を出し強い闘志を持つべきです。それだけで状況が好転すると思います。
2024.08.01
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そろそろ誰かオリンピック委員会に、言わないのかな?現地にいる日本人や報道関係者は、皆気づいている人いるはず。せっかく金メダルを取った表彰式なのに、「君が代」の最初の2音が切れています。柔道だけではなく、スケートボードも同じようでした。柔道初日の角田選手の時は、いい演奏だと思って聴いたので、大丈夫だったかもしれません。その後はおそらく再生上の問題で、冒頭がありません。元の演奏から音がないとは考えにくく、きちんと説明すればすぐに直せそうです。今の状態でいいとは誰も考えませんから、IOCの人に早く指摘したほうがいいです。会場にいる日本人は皆思っている筈ですが、クレームを言える人はいないかもしれません。しかし、金メダルを取るたびにこれじゃあ…。また、指摘が遅れるとそれはそれで変です。自分の経験から言うとフランス人は逆に、「どうしてもっと早く言わないの?」と、言うと思います。皆が気付いていても言わないのが日本人的。このことが日本開催で他国の国歌で起きれば、結構大きな問題に波及するかもしれません。むしろその時は海外選手からすぐに指摘され、すぐに修正して無難に終わるかもしれません。日本人は音楽に対して、あれば何でもいいくらいの意識しかないのか、海外には何も言えずに身内には厳しいのか、まぁこんなもんだと妙に納得できたりします。
2024.07.31
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日本人はまだまだ保守的です。それは伝統や理由なき自負があるからです。しかし、世界的にはもはや国は関係なく、個人でも研究を重ねることができます。どうすれば勝てるのか?AIがその答を出してくれるかもしれません。にわかにそれを実践できないにしても、頭の中に入れておけば役に立ちます。五輪柔道52kg級で阿部詩選手が負けました。なぜ負けたのか?と疑問が呈されます。誰もが優勝すると思っていたからです。一瞬の隙をつかれたのは確かです。では誰もが優勝するだろうと思ったのは、何を根拠にそう思ったのでしょうか?それは実力を知っていることもありますが、皆が優勝だと囃し立てたからです。今回の負けた理由を問う必要はありません。しかし敢えて言うと慢心があったからでは?なんといいことを言うの?と思われても、実力があるのに負けた理由はこれです。世界中が阿部詩選手の戦法を研究し、倒しにかかっていると考えれば、同様に研究しなければ負けかねません。それを怠っていたというわけでなくても、相手が一枚上だったと思えます。対戦相手を研究をすることも、実力のうちだと考えるならば、ウズベキスタンの選手は素晴らしいです。ディヨラ・ケルディヨロワ選手は、とても賢く研究熱心な人だと思います。データ戦がうまくいけば予定どおりです。阿部詩選手に勝った時もしてやったりで、喜びを顔にまったく表しませんでした。対戦相手によって戦法を考えたと思います。それに対して阿部詩選手が負けた時に、号泣するのは感情的にとても理解できますが、負けたことに納得できないからです。ケルディヨロワ選手は強かったです。だから彼女は優勝できました。過去の実績からとても強いと考えられても、だから次も勝てる理由にはなりません。日本では実績=結果と考えすぎで、周りも囃し立て過ぎだと思います。もっと論理的に1回1回検証するべきです。精神論や感情論で何となくやり過ごして、日本はいつも出し抜かれている気がします。日本が負けるのはとても悔しいです。しかし「よく頑張った」と励ますよりも、ケルディヨロワ選手の強さを認めるべきです。日本人の独りよがりは気持ち悪いです。
2024.07.29
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世界を見た時に個人競技と開催国の、相性が関係する人としない人がいます。五輪開催のパリは文化や習慣で、日本と対極の部分があるかもしれません。とは言え昔とはぜんぜん違う部分もあり、ペースを保ったり影響をプラスに変えたり、既にさまざまな国で経験を積んでいたりと、選手の気持ちの切替えが早いと思います。柔道は日本発祥の競技として日本的です。しかしルールがしょっちゅう変えられ、日本発祥の慣習が国際化されていきます。今回は観客の応援が日本の野球のように、鳴物入りで大歓声だったことが新鮮です。そんな中で初日から日本選手に関わる、2回の誤審と言われる判定がありました。男子・永山選手の”待て”の後の締めは、審判が止めなかったことが問題で、女子・角田選手の相手の反則負けは、説明が足りないためわかりません。審判に抗議するのは柔道精神に反し、よくないとされていましたが、今はより客観性が求められる時代、抗議する権利はあって当然でしょう。この件の報道ではメディアは両極端です。例えば日本人は永山選手に同情しますが、スペインでは非難されています。また、判定に疑問を呈した、角田選手の対戦相手は日本の記事に、”ブチギレ””審判を睨みつけた態度には、”海外記者から苦言”と書かれていますが、内容を読むと海外記者が言っているのは、”泥をかぶった(他人の責任を自分が負う)”と言うわけでむしろ審判を非難しています。五輪の試合でもこれだけ揉めるわけですから、日常的にルールに関する揉め事はもっとあり、人々の良識やわかりやすさが問われます。本当に素晴らしかったのは角田夏実選手です。立居振る舞いの全てが柔道本来の精神です。どこにいてもどんな環境でも平常心を保ち、得意技・独自の巴投げと関節技に徹して、相手がそれに備えていても拘り続けました。柔道スタイルの一貫性と技の冴えは個性的で、芸術の域に達していると思いました。彼女の特徴や印象はすぐに焼き付きます。日本の柔道を世界に示していると思います。ルールをやたら主張する世の中になりました。例えばキャッシュレス化で各店でルールが違い、結局はお客がセルフ決済するのを見張るような、嫌な感じのする店員もよく見かけます。ルールと言ってもそこ限りのルールであって、そのルールは少しずつ異なります。何度も行かなければ覚えられませんから、主張するのであれば親切に言ってもらいたい。多くのルールはあくまで規範であって、世の中の絶対ではないからです。
2024.07.28
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これは文化の祭典?と思わせる開会式。さまざまな人の意見を採り入れると、決まっているすべての出演者、決まっている場所やモニュメント、それらをどういう順番で採り入れるか?その中でどうコンセプトを表現するか?緻密さや精巧さなど誇り度肝を抜きたい。そう考えると答はたくさんない中での、無理は承知で詰め込んでいく演出。情報量が多く纏まりきらない多様式。そう思いながら観ました。NHKのライヴ放映は実に冴えない解説。フランスからのレジュメが大雑把なのか、秘密主義なのか到着が遅かったのか?観ているだけではわかりにくい情報量。音楽も最初から原曲とアレンジが混在し、クラシック曲メドレーになった時もあり、ラヴェルの弦楽四重奏曲は少し意外でした。ピアノの演奏風景が映りましたが、大雨の中であの演奏だとすればお気の毒。ピアノも雨に濡れて再起不能?SDGsではなく文字どおり「水の戯れ」。雨の中のダンスや激走もたいへんです。各国報道の機材も気になります。カメラのレンズに水滴が着いたり、雨かクモりかで不鮮明な箇所もありました。新しいことはフランスだから成せる技。国の威信がかかっている開会式ですから、全てがポジティヴに捉えられます。しかし、午前中の民放再放送分では、雨の影響について本音も窺えました。日本が同様の開会式を川でやったなら、どれだけの批判があったでしょうか?競技者は長時間の待機と雨に打たれます。観衆も含めて日本人には向きません。競技が近い人は出なかったでしょう。あえて言うなら、気候変動に打ち勝つメッセージ性です。高い放映権料を支払っているテレビ局は、一斉に大人対応。肯定あるのみです。そう考えると日本はさまざまな考え方や、文化の多様性を考えず、拘るべきことに拘らず、揚げ足取りのための批判ばかりで、優しさのない世の中をつくっています。この機会に見直すべきだと思います。演出家はエッフェル塔での聖火点灯、人々が集まる前のシャンドマルス辺りで、気球を上げたかったのではないか?当初はそう考えたのではないでしょうか。時間の使い方やルート選択は疑問です。聖火ランナー出演者が多過ぎました。それにしてもこの大雨は誤算でした。本来のメッセージに水を注しました笑。
2024.07.27
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テレビを見て「売れればいい」のか「いいものを売る」目的の違いはすぐわかります。将棋の藤井聡太五冠が凄いことは皆がわかって人気も高いと思われます。ただ、何がどう凄いのか具体的にわかる人は何%いるでしょうか。藤井五冠の孤高の境地はわかろうとしても難しい所にあります。ルールを知っただけでは全く着いてはいけませんが、オリンピックの競技、カーリングはやや異なります。ハウス内の石を見て、即座に次の一手を編み出します。しかも、次の次の手のことも考えています。奥が深いためにわからない部分が多いにも関わらずとても感情移入できます。次の一投が思ったとおりにいかなかった時の落胆、また大きな挑戦がうまくいった時の爽快感は他の競技にはない魅力です。ゴルフに似たところがありますが、一手毎に状況が一転するのはまさにスリルです。このような共感はテーブルゲームの将棋や囲碁、オセロにもないものです。努力によってできるようになる他の競技とは異なるカーリングの魅力は、その日のアイスの状況や相手の出方によって運命が変わり、旅に例えられます。先攻・後攻によっても大きく状況が異なるために我慢も強いられます。さまざまな要因が影響してうまくいくこともいかないこともある、まさに人生です。フィギュアスケートやスノーボードは信じられない凄い技で魅了されますが、どういうステップであったか、何回まわったかなどは何度見ても難しいです。技の名前も意味がわかっていないこともありますが、それでも見入ってしまいます。わからなくても見続けられる競技と、そうでもない競技は人によって変わります。これは知的好奇心を引き出せるかどうかがまず大きなポイントだと考えます。見せる、教える、演技などは見ている側の知的好奇心を引き出せるかです。誰でもわかるように優しく教える、可能性を潰さないように褒めて育てたとしても、受けている側に知的好奇心が芽生えなければ自力を伸ばすことはできません。つまり知的好奇心を持ち自ら研究する習慣が身に付かなければ、どんなに優秀な先生が優しく教えても力が伸びないと言うことです。ルールを知る、習得すれば達成感を得る、どうすればさらに伸ばせるかを考える、この行程を習慣になるようにやらされるのではなく、自ら考えることが必要です。しかし、SNSやテレビで見ることはどうも底辺を広げて賛同だけを得ようという感じの、初心者や子供対象の目線で、本来の良さを薄っぺらくしてしまっています。例えば、藤井五冠がどのように強いのか、カーリングの戦法はどうなっているのか、それらが知りたくなる報道がよくて、もぐもぐタイムで何を食べたかではないはずです。生徒思いであるとか優しいとか怖いとか、先生の印象は教える術のひとつであって、生徒の知的好奇心が上がれば成功で、先生のキャラクターは関係ありません。例えば五輪のように、実力以上の能力を引き出してメダルを取るための練習は、厳しいに決まっているのであって、それを選手がどう受け止めているかです。厳しい練習=怖い先生なのか、生徒思いの優しい先生かは生徒の主観です。フィギュアスケートのロシア・ワリエワ選手のドーピング問題について、ワリエワ選手への同情の声が多いようですが、うっかり飲むなんてことは考えにくく、今は15歳でも先生に対して簡単にNoと言えますから、本人の責任はあると思います。ワリエワ選手を15歳だから考慮するということはないと感じるのです。周りの大人がけしかけたり強要したとしても、目的は勝ちたかったからです。今回のスポーツ仲裁裁判所の条件付き出場は配慮が行き届いていて正しいと思います。ワリエワが誤解を受けていると言うであれば、しっかり演技をすればが良かったのです。そこで動揺してしまったかのように演技が受け止められたのでは、コーチのエテリ氏が演技直後にワリエワに問いただすのも仕方がないとも思えます。このような推測も可能なのであって、コーチが冷徹だと一概に言い切れないと。バッハ会長の「ワリエワに投与した人が悪い」と決めつけるのは尚早な気がします。知的好奇心、音楽で例えるとピアノや作曲をしたい人はいても一流になろうとすれば、指を鍛えるメトードや和声学や対位法など作曲理論を勉強することになります。しかし、それは好きになれない人がいてやりたくないと言う人が増えています。そこでこそ必要な教師のスキルは、生徒に如何に知的好奇心を持たせるかなのです。知的好奇心を促すことが上手い人が世の中に進出する時代になりました。伝統的に今までの文化が構築されてきたにも関わらず、それを否定する勢いです。日本には芸術や文化という美学が公に平等に評価される機構がありません。それは日本という独自のアイデンティティが確立されないことを意味しています。
2022.02.19
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結果論になりますが、新型コロナ感染症を2類から5類にするタイミング、昨年末にしておくべきだったと思います。見立てでは菅元総理はやはり素晴らしかったですよ。岸田総理に英断を求めても無理かなと。ときどきNoは言いますね。この状況で5類にできないようでは永久に無理な気がします。今後現れる変異種が弱毒化するかどうかわからないとか、その変異種に今のワクチンや薬が有効かどうかわからないとか、病床使用率が云々とツッコミどころ満載で、この話にいとまはありません。メディア、特にテレビは煽動支配できる手応えを感じていることでしょう。どのようにトピックするか、それをコメンテーターが肯定化して拡散する過程、同じ論調で複数のチャンネルがから発信されるさまはまさに人々を洗脳していき、それがあたかも民意であったかのようにすり替えられていきます。ヨーロッパで規制解除しているのは、民意が自由を取り戻そうとしているからです。「感染拡大→命に関わる」はずでしたが、一部の人が大きな規制をかけられ続け、その自由を奪われている人々の声が大きくなったと言えます。しかし、日本では自由を求める声が取り上げられていないと感じます。さて、北京五輪の開会式を観ました。嘗ての日本の良さがあるようでとても良かったと思いました。先進的な技術はありますが、中国を前面に出すのではなく上品でクセがなく、何よりも他国への配慮や絆を感じさせる愛に満ちた演出でした。夏の東京五輪と比べても演出の国際的意識が中国のほうが上でした。演出家の個人的な自国趣味より他国への配慮が強く音楽にも表れていました。クラシックを編曲した音楽が入場行進で使われましたが、編曲は良かったです。米国、日本、アジアからの選曲はありませんが、終盤でイマジンが流れました。多様化と持続可能な開発目標などのテーマが強かった東京五輪よりも、伝統や文化を重んじた絆の尊重を描いた開会式にはずっと温かさが感じられました。とても寒い中、体調を気にしながら、参加した選手は本当に嬉しいはずです。参加しなかった選手を責めるわけではありませんが、日本の入場はあっけなかったです。中国のバブル(感染対策)が厳しいという話を聞きます。東京五輪のバブルがそれほど厳しくなかったのは日本式の配慮もあり、北京五輪のバブルが厳しかったのは感染を広めない責任感の表れです。日本の論調では感染対策が緩ければ緩いで責めるはずで、それは寄り添いません。五輪は五輪として開催国をリスペクトすべきことは多々あるはずです。平気で批判ばかりしていると、そういうものだと感じた子供や若者は真似をしますよ。心から感謝する気持ちが日本人から失われつつないでしょうか。上っ面の感謝や絆という言葉だけが聞かれることが増えている気がします。「忖度」という言葉は悪い意味でよく例えられるようになりました。「他人の気持をおしはかること」をしないで、自分の意見をはっきりすることが善だと。若者は忖度しないとも言われますが、「忖度」と「思いやり」はほぼ同じ意味です。ただ、絆をつくるなら「他人のために気遣ったり同情したりする気持ち」は必要ですよ。
2022.02.05
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五輪パラリンピックが終わりました。競技については感動が詰まっていてとても素晴らしかったです。反面、開閉会式の演出についてはどれもがっかりしました。ボランティアをクローズアップする部分は日本的で今風でよかったと思います。しかし、フランスからの映像はわかりやすさとメッセージ力が違いました。日本はカラフルですが、ナレーションが入ってもわかりにくい部分があり、無観客やフラットな空間での群舞は一部のみが抜かれたカメラワークで、全体として見えないことが多く、映らなかったパフォーマーも多かったでしょう。フランスからの映像は、皮肉にも日本では取りやめたパブリックビューイングのある広場に、日本であれば確実に非難される密集状態でとても多くの人が集まり、よく考えられたコンテを基にした映像は、言葉がなくてもよくわかりました。それに比べて日本のパフォーマンスは芸術性に乏しいダンスのお芝居に見えました。音楽についても個人芸に頼っていて演出の一部には感じられませんでした。何よりも日本人としてのアイデンティティが全く感じられない、つまり、どこの国の五輪パラリンピックだったのか分からない演出でした。伝えたいことはあるにしても表現が拙い演出、それは今の日本の象徴です。日本のメディアは感染拡大を人の責任にして、日常を取り戻させようとしません。フランスはワクチン接種が進んではいるものの、感染者や死者数は日本より多く、マスクやソーシャルディスタンスも義務化されてはいますが日本ほどではありません。しかし、国民の未来を築くパワーや絆は日本を遥かに上回っていないでしょうか。日本の首相や知事が日本人によって批判されるの仕方ないにしても、少なくとも選挙で支持した人を応援すべきだし、それでも嫌だと思うのであれば、誰か別の人を立てるか自分が立候補して国政を司どればいいのです。海外に比べて首相がよく変わるのは単に国内の問題です。
2021.09.06
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少人数であっても組織ができればルールが存在します。しかし、ルールがあっても守らない人、基本的なルールやマナーを無視する人、なぜそのようなルールがあるのか考えない人が増えてきたと感じています。「守っても意味がない」と安易に感じることが大きな要因です。例えば、「日本はなぜロックダウンできないのか」と漠然と考えていたり、基本的な自由を奪うことを容易く言えることはすでに毒されていると思います。遅刻をすれば弁解することよりも、まずは待たせた相手に謝ること、約束したことがそのとおりいかないとわかったら直ちに連絡するのがモラルです。このようなモラルはある程度の年齢と経験を重ねることで身につくこともありますが、 高齢者の運転をはじめとして良識のズレで糾弾されている現状があります。しかし、その老害がはっきしている代表はテレビに昔からよく出ているタレントで、それとは別に今の時流に乗っているお年寄りはもっと他にたくさんいます。東京五輪は素晴らしいものだったと思います。そこに垣間見られたのはこれまでのルールとVRによる確認との闘いでもありました。今後の世の中で人がAIに取って変わられるとすれば審判は早いと思われます。また同時に昔のルールをどのようにより良くしていくかもたいへん重要な課題です。「柔道」は、これまでのルールを新たに変えたことにより注目されました。通常の審判とは正面から別の審判団が主審に物言いをつける厳格さが印象的でした。また、主審がVR判定を求めたり、怪しい判定は審判団がVRで確認していました。主審の判定が結構覆りますが、これは過去に誤審がいかに多かったかを表しています。「バレーボール」は、ワンタッチとタッチネットというネット側の反則について、もはや動体視力では判断がつきかねるにも関わらず今まで審判が判断してきました。五輪では審判に対する抗議として”チャレンジ”ができVR判定で確認できますが、その回数は限りがあり柔道よりも審判のジャッジが優先されます。今までは選手は反則をしたとしても自分やチームに不利になる申告はせず、審判が気づかなければ自分たちの有利になる判定に従っていたと言えます。この習慣は子供の頃から知恵として、モラルの形成に大きく影響したことでしょう。しかし、今ではVR判定によって黙っていても暴かれてしまうのです。米大リーグや日本の「高校野球」はすぐにVRが映し出されても審判が絶対で、例え判定が間違っていても審判の判断は絶対だと教え込まれるわけです。また、今回の五輪から採用された「空手」はまず技の有効か無効かが分かりにくく、中継解説者の解説が拙いために判定の尺度が視聴者に伝わりませんでした。「フィギュアスケート」「アーティスティックスイミング」は技の難易度で採点されますが、音楽の質やチョイスが幅広く、音楽との同調性や芸術的表現をどのように採点するのか?「バレエ」「ダンス」のような音楽との同調性は全く期待されていないと感じます。だから採点基準の明確さが必要で、技の難易度とその確かさで評価されてしまいます。では、音楽ではどうなのか?コンクールで感じることは、審査員がよくわかる選曲が好まれるのです。音楽的であっても半音でのぶつかりが多かったり斬新な表現があると、楽譜どおりなのかミスしたのか審査員がわからないので好まれないのです。規定の演奏時間にはまるように曲が当然のようにカットされたりもしますが、それは採点の対象には入っておらず、あくまで響かせ方やピッチなど演奏技術が対象です。しかし、芸術性の評価が伴わないのであればカラオケの採点と同じでAIのほうが正確です。審査員や審判は芸術性を問わないのであれば、人が行わないほうが公正なのです。
2021.08.26
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オリンピックの選手たちを見て日々感動に浸っています。この日にかけてきたものが言葉からも伝わります。また「開催していただきありがたい」という言葉がよく聞かれます。人生をかけてここまで準備してきたことですから気迫も伝わります。また、選手らは感染対策にはことのほか注力してきたはずです。個人であっても国の代表ですからもし感染してしまったら、惜しくも代表選手に選ばれなかった選手に対して顔向けできなくなります。以前にも書きましたが、意識が高ければ感染は防ぐことができると思います。意識や免疫力が高い選手や指導陣、審判が感染することはほぼないはずですが、PCR検査の気弱性によって陽性が出ることがあるかもしれません。しかし、それでも著名な選手が感染したために出場できなくなったとか、五輪が原因で東京に感染が広まるなどということは当初から考えにくいです。スポーツでは密集や接触、人の距離を保てないことはしばしば見て取れます。五輪が特別ということではなく、他の全ての競技で同様のことが起こっているでしょう。感染に最大限の配慮を行い、全ての人が自分の目標に向かっているのです。このような生き甲斐を誰がやめろと言えるのか、まったく疑問でしかありません。五輪開催を反対した蓮舫氏、枝野幸男氏、メディアの人たち、今は選手の勇姿にエールを送っています。これはおかしいと鈴木宗男氏は息巻きます。「平和の祭典オリンピックは、国民の安心、安全を考えた上でスタートしたわけですから、日本の底力として成功させる。」各所の人流について増えているという報道が増えています。各放送局やメディア関係者は数万人規模でもっとも移動をしている職種です。五輪開催に反対していた人が始まった途端に五輪を取材することもあるでしょう。しかし、仕事だから移動は仕方ないということ理屈は通らないと思えます。現在、首都圏では第5波と言われる嘗てない感染者が出ていますが、これは五輪を行ったからでしょうか?緊急事態宣言の発出が遅かったからでしょうか?ワクチン接種が遅れているからでしょうか?人流が増えたからでしょうか?路上呑みが増えたからでしょうか? どれも違います。答えは感染に対する意識が薄れタガが外れてしまった状態となったからです。嘗て学生がそれほど積極的には取り組まない理論系の授業をやっていた時の話です。30人程度の授業を行い注意事項を説明する場合、10人程度が真面目に言うことを聞き、10人程度は周りの様子を窺っていて、あとの5人は関係なくマイペースです。では、残りの5人はどうしたのでしょうか。そこにいないのです。実はいちばん話を聞かせたい相手に話が伝わらないのです。結局、真面目にやっている学生は問題ありませんが、様子を窺っていた学生は、その日の経過と共に注意を守らなくても何とかなると考えるようになります。新型コロナウイルスに感染しないようにすることが人生目標という人は極めて少なく、基礎疾患のあるお年寄り、または感染すると立場を脅かされる職種の人です。若者は別の目標がある中で周りの言うことを窺いながら行動を決めていて、いくら注意を守っても成果や褒められることがなく批判に晒されています。それでも真面目な人は何があっても真面目なので感染することはほぼありません。15%くらいの人は感染対策を優先して生きることはないとも言えます。この状況で皆に感染を抑えていくために誰かの批判をしても仕方ありません。成績の優れない人に追い討ちをかけてもこちらを向いてはくれません。対策としては、皆が良い意味で感染しないような意識を高めていくことが全てです。これまでの十数年、子供や若者の夢や目標を上げ持ち上げてきたのはメディアです。その結果、この10年で多くの若者がてっぺんばかりを見るようになってきました。しかしコロナ禍での報道は、必死に夢を追う若者の梯子を外したように思えるのです。
2021.08.02
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報道されている事柄でおかしいと思うことはたくさんあるのですが、最近はオリンピックのマラソン開催についてです。なぜ今になって東京から北海道に場所を移すのか?コースの整備など準備のことを考えるとかなり遅いですよね。ドーハのマラソンで気温や湿度が高く棄権者が続出したからかもしれません。しかし、以前にも書いたことがありますが、自然のことは仕方がないのです。、東京から北海道に移してもその日の気温や天候はわからないのですから。今後の温暖化がますます世界的な問題になることは確かです。今そのことに本当に対応するのであれば、距離を短くするなどルールを変えるか、時期を冬に開催することのほうが妥当と思います。オリンピックが開催される国を毎回変えることの良さは、幅広くさまざまな条件や環境を受け入れて行うことです。時差や気候も含めてさまざまなのは必然のはずです。結局その条件や環境に合わせてどう走るかを考え、強い選手になるしかありません。ドーハのマラソンで気温や湿度が高かったため有力者の棄権が続出したとしても、その悪条件の中で走りきった選手がいたはずです。記録としてどうであれ、その条件を克服した選手こそがもっと評価されていいはずです。メディアはそこを取り上げないで、有力者の棄権を大きく取り上げています。東京は世界でいちばん気温や湿度が高い都市なのでしょうか?ドーハよりは下のようです。だからこそ東京より高い国や地域から参加する選手にとっては、東京での開催が絶好のチャンスと言えるはずです。そうでなければ、今回で日本でのオリンピックの開催はほとんど最後になってしまうでしょう。日本はオリンピックを見据えて巨額の予算をつけて備えてきました。キャッシュレス化や外国人労働者・観光客の受け入れ、消費税アップ、そして都市や観光地の整備、外国人向けサービスの充実、都内の身近なところでもやたら綺麗に整備されてきています。また、都はマラソンだけにでも300億円を使って整備してきました。それにも関わらず他の都市に変わりましたなんて都民としては受け入れられません。民間企業であれば、こんなにお金を使って実現できなかったら大問題です。ですから、都知事は最後まで移転開催を反対しなければなりません。
2019.10.31
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