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人間の愚かさや賢さ、そして人の世のはかなさを、吉田兼好は飾らぬ言葉で私たちに語りかけてきます。
第六十段から第百二段までには、目をこらさなければ見逃してしまうような鋭い真実が隠されています。
そこに宿る知恵と皮肉を、現代に照らして掘り下げていきます。
第六十段で語られる盛親僧都の在り方は、現代の知識人像をも照らします。
彼は「やんごとなき智者」と称されながらも、多くを語らず、行いによって人を導きました。
智慧を持つ者ほど、言葉に頼らず、行動の端々に品格を宿すということを、我々は忘れてはならないのです。
第七十段では、権勢を振るう者の遊宴の席に招かれた玄上が、それを潔しとせずに辞退する姿が描かれています。名誉や誘いに飛びつかず、己の節を守ることが、いかに尊いかを物語っています。
第七十三段に「世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや」とあり、民衆の語り継ぐ話の多くが真実ではないことが示されています。歴史や伝承、ニュース、SNS──すべてに共通するこの構造は、今こそ再考が必要です。
第七十一段では、噂で聞いた人の顔を想像し、いざ会うとまるで違うことの驚きが語られます。この感覚は、現代のSNSのプロフィール写真や肩書きに対する幻想と重なります。
第七十九段では「何事も入らぬさましたるぞよき」と記され、知識や経験を鼻にかけぬ慎みが美徳とされています。一方で、現代では自己アピールが求められる時代です。
第七十五段では「つれづれわぶる人」について述べられ、孤独の中で何も手につかず、物思いに沈む姿が描かれます。現代人もまた、孤独に耐えられず、SNSや買い物で心を埋めようとします。
第八十一段では、屏風や障子の絵や文字に人の趣味や人格が映し出されることが語られています。美意識は、持ち主の精神の深さを映す鏡であり、それは服や所作にも通じます。
第七十八段にて、流行する「今様」の珍しさをもてはやす風潮に対し、深い疑問が投げかけられています。「古りたるまで知らぬ人は、心にくし」という言葉には、伝統に目を向けぬ者への批判が滲みます。
第八十九段には「猫また」が人を食うという噂が登場し、第九十三段では牛を売る話が淡々と語られます。一見ばかばかしいような話のなかにも、慎重さや人間の疑い深さ、信頼の難しさが浮かび上がります。
第九十七段では、「その物に付きて、その物を損ふ物、数を知らずあり」と述べられます。つまり、役に立つものほど、時にその役割によって不具合や不幸を招くという逆説が語られています。
徒然草の第六十段から第百二段までは、表面的には些細な事象の羅列に見えるかもしれません。しかし、その奥には人間の本質、社会の矛盾、そして生きる上での美意識と慎みがしっかりと描かれています。
現代の混迷した社会にこそ、吉田兼好の視点は価値を増してきます。
表層の情報に振り回されるのではなく、一度立ち止まって、深く、静かに、自分と社会を見つめ直す。
それが徒然草の教えではないでしょうか。
物語や寓話に耳を澄まし、自分の内側を磨き続ける姿勢を、これからも大切にしていきたいと思います。
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