できるところから一つずつ

できるところから一つずつ

吉野の筆(2013年)



十階の窓に見はらす七月の夜明けの空はあはき紫

朝顔の〈天上の青(ヘブンリー・ブルー)〉ほつかりとまだ明けきらぬうす闇に咲く

楽しみに自分の歌を墨書する早く目覚めてしまひたる日は

すつきりと覚めたる朝に書く文字は夜書く字とは線が異なる

暖かく少しとぼけて味のある歌を詠みたし 字にも書きたし

をととしの一時帰国に求め来し谷(たに)氏の筆がわがパートナー

吉野線吉野口駅改札に迎へくれましき筆師谷さん

明るくて世間話の好きさうな筆師さんなり 少しく意外

あれあれと思ふスタートダッシュかけマツダが狭き山道をゆく

崖縁のガードレールに護らるる筆工房の駐車スペース

「修験者の道のやうで」と案内(あない)され折りたたみ杖リュックより出す

工房へ続く急坂一歩づつ足場を定めゆつくり降りる

山道をいつもジョギングすると聞く「座業で運動不足ですから」

山腹に吸ひ着くやうな吉野建てに山と家とが一体になる

まだ皮のつきたるままのいたちの毛玄関脇の台に干される

工房の窓に眺める山間(やまあひ)のところどころに紅梅が咲く

工程を説明しつつ谷さんは手を休めずに筆穂を作る

いくたびも灰を揉み込み獣毛の油を抜きて筆の毛とする

油分(あぶらぶん)抜きし羊の毛を揃へ梳きて揃へて切りて揃へて

大、中、小、鋒の長短とりまぜて筆のサンプル座卓に並ぶ

試し書き試し書きして出合ひたりこのまま別れがたき二本に

羊毛の長鋒二号おほらかな線を書かせてくれさうな筆

混毛の四号筆はしなやかで穂の先にまで心が届く

しみじみと筆師は言へり良き筆を初心者にこそ使はせたいと

「初心者が私(わたし)の筆を使ったらきつと習字が好きになります」

後継者を育ててゆけぬ寂しさを初老の筆師さらりと話す

蔵王堂も吉水神社も見ぬままに吉野を辞せり 筆二本得て 

いつしかに二年の過ぎて吉野筆わが手に馴染み少し古びぬ

つやつやと大き硯に磨りあがる筆にやさしき奈良油煙墨

歌一首を二行に書かむ ひと呼吸おきて広げる条幅の紙


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「三十篇推薦」に終わったが、たしかに、これという迫力がなかったのと、自分が書道の中に入り過ぎて歌ったので、読者に訴える力がなかったのを感じる。

しかし、この筆工房を訪ねたのは、私にとって一生、記憶に残ることだと思うし、詠んでおいてよかった。

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